其の一 『喫茶ブルーメン』
ある日、私が家を出ると、暦荘の前に和服を来た女の子がしゃがみ込んでいた。
腰ほどまで垂れ下がった艶のある黒髪に、キメの整った色白の肌。それら黒と白の対比は、どこまでも純粋であって、一見するととんでもないお嬢様みたいに見える。けれど一見を超えて一口喋らせてしまうと、途端に評価はガラリと変わってしまうんだけど。
自称陰陽師と名乗る彼女は、名を凛葉雪菜と言う。
私に背を向けて、地面にある何かを観察しているらしい。時折手が撫でるように動いて、そこにある何かを擽る。
「雪菜、そんなところで何してるの?」
気になって話しかけたが、彼女は特に反応を示さなかった。
ひょいっと覗き込む。すると雪菜の足元には、白い子猫がとても気持ちよさそうに眠っていた。
「うわぁ、猫だね。どうしたの、その子」
「別にどうした、と言うほどのことではありません。近所に住んでいる野良猫ですよ。この辺りには心優しい人が多いですからね。だから野良猫さんも、思いの他人懐こいというか」
「ふーん。……ねえねえ、私も撫でてみていいかな?」
「食べないと約束するのであれば構いませんよ」
「ちょっとちょっとっ、人を何だと思ってるのよ! 私、そんな可哀想なことしないもんっ!」
「……ふう」
「え、何そのコイツ仕方ないなぁみたいな顔」
「いえいえ、お気になさらず。それよりもしこの子に触れるのであれば、せめて起こさないように優しく撫でてあげてください」
雪菜はそう言って、少しだけ横に移動する。丁度良く空いたスペースは、私が腰を下ろすのにピッタリだった。
なんとなく忍び足になってゆっくりとしゃがむ。そして恐る恐るに、子猫を撫でてみた。
「……うわぁ、ねえねえ雪菜雪菜っ。すっごく可愛いよ、可愛いよね、ほらほらっ」
私たちの話す声は自然と小さなものになる。
「せめてもう少しだけボキャブラリー豊かに表現してください。吸血鬼さんは少々マイルド過ぎます。私がお手本を見せましょうか。うわーこの子猫、明媚で婉美ですねー。泥中之蓮というか、まさしくこういう子を八面玲瓏と言うんでしょうねー」
「いやいや、何を言ってるか全然分からないんだけど」
「でしょうね。はい、そうでしょうね」
「むー、わ、私だってやれば出来るんだからっ」
「ふむ。ではどうぞ」
雪菜は、はいと子猫を指して促す。
私はここが正念場だと思い、そろそろこの自称陰陽師に本気を見せてあげることにした。
「……えーと。う、うーん……この子猫ってすっごく……あっ、――美味しそうだよねっ!」
「…………」
「今のナシっ! 誰にだって間違いはあるよね、ねっ!?」
「今まですいませんでした、吸血鬼さん。貴女って、本当はとても素晴らしい方だったんですね」
「そういう反応が一番辛いと分かってて言ってるでしょ!」
「ヒューヒュヒュヒューヒュー」
「そんな吹けてもしない下手な口笛で誤魔化されないからね」
「失敬な、別に下手などではありません。私の口笛が無ければ、今の日本音楽界は三十年は遅れていたと言われるほどです」
「あの口笛で三十年も進むなら、この国はそろそろ終わると思うよ」
「はい? 何を仰っているのか分かりませんね。口笛で三十年とか、寝言を言うのも大概にしてください」
「――えっ、私のせいっ?」
「そもそも吸血鬼さんは、もっと落ち着きというものを持つべきです。幸いなことに、この暦荘には師匠と呼んでも過言ではないほどの、とてつもない淑女がいるでしょう?」
「あぁ、確かに。淑女かどうか分からないけど」
大家さんを思い浮かべる。どこか抜けているところもあるけれど、まるで包み込むような慈愛を持った人。一緒にいるだけで心を落ち着かせる大家さんは、間違いなく大人の女性だと思う。
ふと見ると、隣で雪菜が黒髪をわざとらしく整えていた。まるで自分が淑女ですよーとでも言いたげに。
「ねえ雪菜、何してるの?」
「…………こほん、別になんでもありません。時に吸血鬼さんは、今誰を思い浮かべたんですか?」
「えっと、大家さんだけど」
「……で、ですよねー。私も当然、大家さんを思い浮かべましたよー。いやーあの方はもう天性の淑女ですよ。世界初の歩くアロマテラピー、もしくは二酸化炭素の変わりにマイナスイオンを吐き出す女性と呼んでも間違いではないぐらいですよねー」
「う、うーん。そうかなぁ? ていうかアロマテラピーってなに?」
「……ふう」
「だからその顔止めようよっ! すっごく気になるんだけど」
「いえ本当に気にしないでください。……とまあ、少し声のボリュームを落としましょう」
「あっ――」
ふと見ると、白い子猫はややむずがゆそうにしている。
このまま私たちが口論を続けていたら、きっとこの子は眼を覚ましていたと思う。
雪菜はそれから何を言わずに、黙って子猫を撫でていた。そうしている最中の雪菜は本当に穏やかな顔をしていて、同性の私ですら、思わずドキッとしてしてしまうぐらいに綺麗だ。
きっと、彼女は本当に猫が好きなんだろう。
「……猫、好きなんだね」
「そうなんでしょうか。自分ではよく分かりません」
「きっとそうだよ。だって今の雪菜、すっごく可愛いもん」
言われて雪菜は少し驚いたような顔をした。
しかしすぐに顔を曇らせて、自嘲するような笑みを浮かべる。
「まあ――ある意味、贖罪……みたいなもの、なのかもしれませんね」
「え? それってどういう――あ」
私が言いかけた途端、白い野良猫は愛らしい声で鳴いて覚醒した。
そしてキョロキョロと周囲を見渡したあと、雪菜に向けて小さく「にゃっ」と鳴いて、どこかに走り去って行ってしまった。邪推だろうけど、私にはその最後の鳴き声が、雪菜に対してお礼を言っているような気がしてならなかった。
「行ってしまいましたね」
雪菜が立ち上がる。
「うん。でも雪菜、さっきのって一体どういう意味なの?」
「……いえ、何でもありませんよ。ただ意味深なことを呟くちょっとミステリアスな女性というものを、昨日テレビで見たので真似てみただけです」
「…………」
「あ、やっぱり今の無しでお願いします」
「どっちなのよ、一体っ!」
それからも雪菜は相変わらずの胡散臭さを発揮し続け、やがて自分の部屋へと戻って行ってしまった。
一人になった後も、雪菜のあの顔が忘れられない。
――ある意味、贖罪……みたいなもの、なのかもしれませんね。
「……食材、か。――あ、贖罪だよ? 私は何も間違ってないからねっ?」
ヒューと冷たい風が吹く。
誰にも聞かれていないことを何故か言い訳をする自分が少し寂しかった。
やがて落ち着いた私は、ふと思った。
「あれ、私何しようとしてたんだっけ」
考えることは、まだまだありそうだった。
翌日、目覚めは快適だった。
それなりに可愛らしくなったのではないかと思う部屋で、私は気分良く眼を覚ました。
必要最低限な調度品や生活用品が揃った部屋は、そろそろ人を上げても恥ずかしくない程度には整っただろう。きっと士狼が十人いたら、九人の士狼が「いいんじゃないか」と言うはずだ。
顔を洗って、髪を梳かして、買い置きのパンとインスタントのコーヒーで腹をこしらえて、準備を進める。
部屋の隅には大家さんから譲ってもらった古い小さなテレビがあって、今は美人で利発そうなお姉さんが朝の占いを発表していた。私は人間社会で言うと、乙女座というやつらしいので、それの順位が知らされるまで気になって家を出ることができない。
鏡を見ながら唇でゴムを咥えて、腰ほどまで伸びた金色の髪を束ねる。髪を後ろで一つに結い、首周りが開放的になったところで、私は小さな化粧台の小さな引き出しから、とあるネックレスを取り出した。
子犬をあしらった、とても高価だとは言えないデザイン。でも可愛らしさだけを競わせたら、きっと世界でも一番だと思う。この子犬のクリクリっとした目が、私に何かを訴えかけようとしているように感じてならない。
それに――これは士狼から初めて貰った、本当に大切なモノなんだ。
鏡に映る私の顔は、恥ずかしいぐらいに口元が緩んでいた。他人には決してではないけれど見せられない顔だ。最近気付いたが、私はどうもこのネックレスを前にするとこんな締まりのない顔をしてしまうらしい。それは一昨日の朝ぐらいに、こうやって鏡の前でネックレスを取り出したときに発見した事実。
チェーンを首に通し、うなじ辺りでパチっと留める。鏡の中の私は、とても満足げな顔だった。胸元には思わず抱きしめたくなるような子犬が、しっぽを振るかのように揺れている。
ネックレスをつけるのと同時に、占いのお姉さんが乙女座の順位を発表した。
一位だった。
ラッキーカラーは赤、ラッキーアイテムは――なんとネックレスだった。思わず「やったー!」と飛び上がってしまう。
ネックレスの色は残念ながら赤ではないけれど、まあ私の瞳がちょうどソレなんで許してもらおう。……コホン、とにかく私の中では、今日の運勢はとてつもなく絶好調ということになった。
小躍りしたくなるのをガマンしながら部屋を出る。外は相変わらず寒いけれど、私の心はポカポカだった。
今日はちょっと特別な日だ。でもドキドキというよりは、ワクワクという気持ちが強い。なんだかとても楽しくなりそうな予感がする。
「よーし、すっごく頑張っちゃおっ!」
太陽に向かって大きく伸びをして、足を踏み鳴らす。
今日は吸血鬼である私ことシャルロットの、初めてのお仕事の日であった――
****
「宗谷さーん、ちょっとお仕事頼みたいんですけどいいですか? いいですよね、やっぱりですか、さすがですねぇ。あらあら、大丈夫ですよ。話を聞くと、なんだそんなことかと思うわず牛乳を飲んでしまいたくなるぐらい簡単なことですから。近々私の知り合いが近所に、趣味と実益を兼ねた本格的な喫茶店を開くんですよ~わーパチパチー。それでですね、宗谷さんにはオープンスタッフとして、店のアルバイトさん達が落ち着くまでのお手伝いをしてほしいんです。あ、ちなみにメンバーはシャルロットちゃん、雪菜ちゃん、千鶴ちゃんの三人ですから気楽ですよね? じゃあ、お願いしますね~」
これが一週間ほど前に、俺が突然大家さんに言われたことだった。
「え、はあ? ちょっと待ってくださいって、一体何を言って」
「ですからお仕事ですよ~。宗谷さんは何でも屋なんですから、何でも屋なんですよね?」
「なんで二回言ったか分からないけど、まあそうですね。ところでツッコミをいくつか我慢してるんですけど、言っていいですかね」
「はい? 聞きたいことがあるんでしたら、どうぞ」
「まず俺ってまだ受けるとも言ってないですよね? 牛乳を飲んでしまうぐらいって例えられても余計分かんないですよね? なんで俺がオープンスタッフなんですかね? ていうかどうしてメンバーがよりにもよってアイツらなんですかね? ……て、なんか冷静にツッコむと面白くねえな。俺が味わった意味不明さが薄れているような気がする」
「頑張ってください、ファイトですよっ、宗谷さん」
「え、メッチャ他人事みたいじゃないですか!?」
「うふふ、冗談ですよ。まあ経緯を話すとですねぇ。シャルロットちゃんにもう少し世界の広さってヤツを体験させてあげたいじゃないですか。暦荘の中だけで生きていくには、勿体無いぐらいにいい子ですよ。それにシャルロットちゃんならきっと、店の目玉商品間違いなしですよ~」
「いやいや、目玉商品って売っちゃダメでしょ! ちょっといい話だと思った矢先に落としてきましたね」
「とにかくシャルロットちゃんにこの話をしたら、それはそれは喜んでくれて。おまけにそこにいた雪菜ちゃんと千鶴ちゃんをダメ元で誘ってみると、これまた快く承諾してくれて。やや千鶴ちゃんの顔が青ざめていたのが気になりますけど」
なんとなく光景が頭に浮かぶ。
きっとシャルロットは例の人懐っこい笑みを浮かべて、本当に喜んでいたのだと思う。そして雪菜は多分、姫神のヤツの反応を見て楽しめるとでも考えたんだろう。姫神は恐らく、雪菜に頼まれて(脅されて)渋々承諾したに違いない。
「まあ雪菜ちゃんと千鶴ちゃんは正規スタッフというよりも、ヘルプみたいな側面が強いですけどね。あの子たちには学校もありますから、主に混雑が予想される開店直後と、休日などに手が足りない場合に手伝う助っ人……みたいな感じになるでしょうねえ」
「はあ、なるほど。なんとなく全容が把握できた気がする」
「それはよかった、じゃあ宗谷さん。あの子たちをよろしくお願いしますね~」
「え、ちょっと大家さん!? 大家さーん!」
――みたいなことが、現実にあった。
つまり事の始まりはと聞かれると、あの大家さんの一言だとハッキリ答えることができる。
大晦日が過ぎ去ってから三週間辺りが立った今日というこの日は、俺こと宗谷士狼にとってとんでもない苦労の始まりになるのであった――
喫茶店ブルーメン。
暦荘から歩いて十五分かからない程度の近距離に、その店はあった。
立地的には考えていたよりも悪くなく、周囲に営業のライバルになりそうな大型店もないところを見ると、近々開店するらしいその喫茶店は恵まれたスタートを切れそうだと言えた。
外装は憎たらしくない程度にオシャレで、上のほうにキレイな赤い色でブルーメンと書かれている。
新装開店しますよと、その小奇麗な有様だけで通り行く人にアピールできるだろう。俺だってお茶を飲んでくつろぐ趣味があったら、一度ぐらい試しに行ってみようかと考える程度には魅力がある。
俺は大家さんからすでに連絡がいっているという話を信じて、喫茶ブルーメンの中に入った。
店内もこれまたオシャレであった。冬の寒い空気とは対照的に、思わず眠ってしまいたくなるような温かい室内。恐らくジャズとかその辺りのゆったりとした音楽が流れ、店の好感度アップに一足買っている。
席数は多くないけれど、商売の行く末が心配になるほど少なくもない。気のいい常連客がカウンターに座って、学校帰りのカップルとかがボックス席に座る光景が思い浮かぶようである。
別に他意とか贔屓目とかじゃないが、この店はきっと上手くいくと思わせた。
「やあ、こんにちわ」
遠慮もなくじろじろと店内を観察していた俺に声がかけられる。
カウンターの奥、まさしく喫茶店の主が定位置としていそうなその場所に、一人の男が立っていた。
「はあ、こんにちわ。あぁ俺、宗谷士狼って言うんですけど聞いてます?」
「もちろん聞いてるよ。なんでも一人で百人分の働きをするとか。いやーこれで我が店も安泰だね」
「……クソっ、大家さんめ。無いこと無いこと吹き込みやがって。しかも憎めないのが余計に腹立つぜ」
男は、柔らかく笑う初老の男性だった。年齢はちょうど四十歳ぐらいだろう。大家さんの知り合いというには、少々年が離れているなというのが第一印象だった。髪をきちんと櫛で撫でつけ、清潔感のある身なりを心得ている。俺が見てきた色々な人間の中でも、善意がある方の人間だと感じた。
趣味と実益を兼ねて開くというからには、そこそこ冒険をしそうな人かと思ったがどうもそう見えない。どちらかといえば、会社から独立して起業とかならイメージに合う。少なくとも、わざわざ就職した会社を辞めてまで、喫茶店を開こうとする人とは思えない。
――とまあ要するにだ。喫茶店という道楽みたいな店を開くんだから、よほど紅茶とか珈琲を給仕することに夢があったのだろう。
「いやー、ははは。高梨さんには此度も大変お世話になってね。僕がこの店を持てるようになったのは、彼女の協力が大きいね。それに今回の開店に際しても、こうやって百人力の宗谷くんを紹介してくれて。はっはー、参ったね。あ、それから僕の名前は中原って言うんだ、マスターと呼んでくれればいいよ。よろしくね」
「ああ、よろしくお願いします。ていうか俺は別に百人力どころか、きっと半人前もないですよ。喫茶店で働いたどころか、客として入ったことも片手の指で数えるぐらいしかないかですから」
「ほっほー、さすがだねぇ宗谷くん。その常人とは違った経歴に、君の秘めた可能性を感じるよ。これはますます期待を寄せざるを得ないようだね。やるねっ」
「なるほど。やっぱり大家さんに友人と言われるだけあるな。天然だ」
「いやぁ、それほどでもないけどね。ところで宗谷くん、高梨さんが言っていた三人はまだかな? そろそろ約束していた時刻を過ぎるんだが」
銀色の腕時計をチラリと見た中原さん――もといマスター。
喫茶ブルーメンの本格的な開店はまだ日程的にもう少し先だ。だから今日は開店前の研修として、三人の女子の特訓の日となっている。
一人、金髪赤眼の吸血鬼であるシャルロット。
一人、自称陰陽師である凛葉雪菜。
一人、融通の利かない格闘娘の姫神千鶴。
……うーむ、挙げてみれば不安しかないメンバーである。どいつもマジメに戦力になりそうだし、逆にいろんな問題が発生して仕事にならなさそうな気もする。
「あの三人ならもうすぐ来ますよ。――ほら、ちょうど来たみたいです」
キィと扉の蝶番が軋む音。
俺とマスターが同時に顔を向けた先には、三人の女の子が立っていた。
「――ちょっとちょっとー! それどういう意味よー!」
「そのままの意味です。吸血鬼さんには、到底お茶の良し悪しなど分からないと言っているんですよ。聞こえませんでしたか? いやですねー」
「まあまあ二人とも、ケンカはその辺にしておけ。ほら、もう着いてる」
店に足を踏み入れると同時にキャーキャー言い争いをしていたシャルロットと雪菜が、ん? と顔を見合わせたあとこちらに顔を向ける。
やがて二人は顔を赤くして、気まずそうに俯いたあとに、気を取り直して笑みを作った。
「始めまして、これからお世話になります。私、シャルロットって言います」
それは入店直後の失敗さえなければ、きっと見惚れてしまうぐらいに美しい笑顔だった。