其の三 『襲撃』
影絵のように昏く沈んだ夜の街を、幽鬼のごとく進む影があった。
足音は合わせて二つ。夜に溶け込む黒のスーツを着込んだ男が二人、そこにいた。一定のリズムで進めるその足に迷いはない。
「おいおい、どこまで歩けば気が済むんだよ。もうあんまり時間ねえぞ」
二人のうち、坊主頭の男がポケットに手を突っ込んだまま、気だるそうに言った。
鍛え抜かれて筋骨隆々とした体。力強く前方のみを見据える瞳。顔には幾重の筋が刻まれており、それが何らかの刃物によって付けられたものだということは容易に想像がついた。
「もうすぐです。ですから黙って付いてきてください」
返す声がある。
ややカールかかった銀髪の美丈夫。背筋を伸ばし、スラリとした姿勢からは、何らかの武道に精通していることを伺わせる。
二人共に高い身長と鍛え抜かれた体躯をしており、仕事帰りのサラリーマンでないことは火を見るより明らかだった。
「おいおい、その言葉何度目だよ。しかも何回か同じ道歩いてるぞ。迷ってるとかじゃないよな、カイン」
「失敬な、迷ってなどいません。ただ私たちを振り回すかのように移動している。いや、移動していました。ですがその動きも、二時間ほど前から止まっています。ですから次こそは当たりです。そろそろ私たちも用心しておくに越したことはないでしょう、ロイ」
坊主頭の男――名をロイ。人間である。
銀髪の男――名をカイン。吸血鬼である。
彼らの仕事は、この誰もいない夜にこそ行われる。
「ようやくかよ……。正直、もう寒いし帰って寝たいぐらいだ」
「私もです。ですがもう少し我慢してください。ようやく見つけましたから。……ああ、あそこに見えるホテルに居るようですね。部屋まではさすがに特定できませんが」
「へえ……て、なんか色っぽい場所に居やがるな。お前の計算じゃあ、あいつもう金持ってねえんだろ。昨日のほら、ニンニクラーメンでとどめ刺されたんじゃなかったっけか」
「誰かから金銭を巻き上げたのか、男を誘惑したのか、それとも協力者でも出来たのか。なんにせよ――見つけましたよ」
「ま、何でもいいや。それよりお仕事お仕事、と」
二人の手には武器が握られている。サイレンサーを装着した拳銃に、スーツに紛れるようにして持っていた黒い鞘の日本刀。彼らのいう仕事が、デスクワークではないことだけは誰が見ても理解できるだろう。
――吸血鬼狩りが始まる。
ホテルの電力が絶たれ、闇に包まれるのはそれからもう少しだけ後のことだった。
「……来ないな」
シャルロットと背中合わせ。
見えざる闇の奥に意識の大部分を割いたまま、宗谷士狼は呟いた。
「だね。あぁ……うん、多分私たちの正確な位置が掴めてないんじゃないかな」
「おいおい。なのに電気を落としたのかよ。絶対に騒ぎになるほうが早いじゃねえか。行き当たりばったり過ぎるだろ」
「そうだね。吸血鬼狩りってきっとバカなんだよ、バカ。ほんと呆れちゃうよね。なんでか知らないけど、いっつもこんななの」
「いつもだと? ――いつも、か」
薄っすらとした疑問があった。
話を聞くところによると、吸血鬼狩りというのは一種のプロフェッショナルとの認識で間違いない。それなのにも関わらず、毎度このような先を考えない行動をしているというのか。それではバカというよりも、ただただ愚かだ。
――だからこの場合。
吸血鬼狩りが士狼たちの位置も把握せずに、ホテルの電気を落としたことに対する見解として。それで正しかったのではないか、という線はどうだろう。
つまりわざわざ危険を察知させたこと自体が、吸血鬼狩りの狙いなのでは?
……だとすると再び疑問が浮上してくる。なぜって士狼たちに危険を察知させる理由がまるで無いからだ。
思考を続けても正解は見つからない。それも当然である。彼はまだ、答を導き出すべき問題の全容さえ知らないのだから。
「……いま考えることじゃないか」
一旦緊張を解き、士狼は後ろにいたシャルロットを一瞥する。その横顔は本当に呆れているように見えたので、もしかするとシャルロットは自分がバカなのだと理解していないのか――そう士狼は思った。
この時点における士狼の評価として。
とりあえずシャルロットは、本当にバカということになっていた。
「はあ……。まあそれは置いておくとして。一つ確認しておきたいんだが、お前の話じゃあ、夜の内にしかその吸血鬼狩りってのは活動できないって話だったな」
シャルロットはやや悩ましく息を吐き、同時に緊張を解く。
暗闇に慣れた目で、二人は向かい合った。
「うん、そうだね。吸血鬼狩りってのは、ただ吸血鬼を殺したりすることだけが目的じゃないんだよ。元々は、人間社会において無闇な情報を流さないようにするのが仕事だしね。警察……みたいなものかな? まあ調子の乗っちゃった吸血鬼は問答無用で殺されたりするんだけどね。ともかくあいつらは情報を秘匿する観点からか、基本的には夜のうちにしかアクションを起こさないの」
「なるほどな。つまり今夜逃げ切ったら、とりあえず次の夜までは大丈夫ってわけか。まあお前をどうするかは、朝になったら考えるとして。……よし、ならとっととここ出るぞ」
時間制限があるのなら、暗い密室で迎え撃つよりも、場所によっては人通りもある街中で逃げ回ったほうが得策だと士狼は判断した。
「そうだね、そうしようか。何だか騒がしくなってきたみたいだし」
扉の向こうからの喧騒は、防犯の行き届いたこの部屋にさえ届いてきた。しばらく待っても電気が復旧しないので、ホテルの従業員に事情を問いただそうとする人間もいるようだ。
「よし、んじゃ行くぞ」
士狼は素早く扉に駆け寄ってノブを回す。
そうして彼が廊下に出ると、シャルロットが後ろに続いた。
暗闇に目が慣れた士狼と、夜目の利くシャルロットが見たものは予想していたとおりであった。つまり眼前に展開していたのは、部屋から飛び出した人間が暗闇の恐怖を吹き飛ばすように起こしていた騒動だった。
「おいおい、なんか喧嘩とかもしてんぞ」
「うわ、ほんとだ。……ふんふん。どうもこの暗い中でぶつかったりとかが原因らしいね」
よくよく観察してみると何人かの従業員が目についた。喧嘩の仲裁に入ろうとする者や、停電の事情を説明して回っている者だ。
現状に対する弁解などは、部屋に備え付けられた電話で済ませばいいのではと士狼は思ったが、なるほど、こうも皆が部屋を飛び出してはそれも適わないだろう。それとも電話自体も機能していないのか。
士狼がこれからどう動くかを考えている間にシャルロットは、別に見たくもないのだけれどまあそこまで言うなら見てもいいかな、という表現がピッタリな顔でチラチラと喧嘩を見ていた。
「……おい、そこの野次馬。お前のことだバカ吸血鬼。人が悩んでる間に、なにしてやがる」
「いやぁ、ごめんごめん。人間同士の喧嘩って、あまり見たことなかったから」
えへへと頬を掻きながら笑うシャルロットを促し、士狼は素早く人込みを駆け抜けて、ホテルに入る際に記憶していた非常階段の方へ向かう。
これからどうしようかと相談する者や、喧嘩を見守ったり従業員と話す者、そしてもう部屋に戻ろうかと相思相愛な様を見せ付けるように腕を組み合った男女の脇を、二人はすり抜けて行く。
人気が少なくなり、喧騒も途絶えた頃――目当ての物が見えてきた。
非常時の際にも決して消えることがない緑の光。不安と不満に満ちた暗闇を照らす、その唯一の救いのようなランプを士狼が捉えた。
盛大なオマケもついてきたが。
「……ちょっとそこのお兄さん方、退いてくれないか? 俺らもう帰るんだけど」
迷いのなかった士狼の足が静止する。続いてシャルロットも彼の背後で止まって、同時にあちゃーと声を漏らした。
「おや、日本人は冷たいですね。人を探しているので、どうぞ協力していただきたいのですが。特徴は――そう。貴方の後ろにいるような、ね」
非常口の頑丈そうな扉の目前。
まるで士狼とシャルロットの行く手を遮るかのように、二人、黒いスーツを着た男が立っていた。
一人は剃髪に日本刀を持った男。そして銀髪に拳銃を持った美形の男。警察に目撃されれば一切の言い訳が効かないような完全なる武装だ。
殺傷性を持つ武器を意図して誇示する――それはつまり殺意の顕現である。
「もう、ほんとしつこいなぁ。わたし別に悪いことしてないんだし、いちいち追いかけてこないでよ、バカ! アホ!」
緊張感など皆無の悪態をつくシャルロット。それを受けて、剃髪の男があからさまに溜息をついた。
「だれがバカでアホだ、コラ。元はといえばだな――」
「貴方は黙っていてください、ロイ。話が長くなります」
「てめ、カイン」
ロイと呼ばれた男の反駁は、銀髪の男――カインによって止められた。相棒を信頼している為か、はたまた自分が会話に参入することは話を長引かせることと理解しているのか、ロイは舌打ちをして、しぶしぶといった体で引いた。
「さて、とりあえずは挨拶を。お久しぶりですね、シャルロット」
「……半月ぶりぐらいかな?」
「正確には十三日振りですね」
「できればもう二度と会いたくなかったよ。ほんとわたしのこと好きだよね。もしかしてストーカー?」
シャルロットにしては珍しく剣呑な物言いである。カインは動じた様子もなく、さて、と大仰に前置きした。
「――それで、早速本題ですがシャルロット。貴女が取るべき選択は二つあります。私たちが貴女を追っていたのも、それを伝えるためなのですから」
「取るべき選択? なによ、いったい。この間とか、その前とか、そんなの言ってなかったじゃない」
「言うも何も、お前が聞く耳持たずで逃げ回ってたんじゃないか」
ついに我慢できなくなったのか、カインの背後で燻っていたロイが忌々しげに言った。
「え……あ、まあ、それは――あはは。早く言ってくれればいいのに。ほんとバカだなぁ。
――ていうかさ、なんで私を追いかけてくるの? 他にもっと悪い吸血鬼なんていっぱいいるよね。私は誰かを殺したり、人に迷惑かけたりしてないんだし」
シャルロットは、やだなぁもうと例の人懐っこそうな笑みを浮かべた。
「はあ? お前が日本各地で見境もなく人から血を吸いまくるもんだから、俺らが来たんだろうが!」
「ちょっとちょっと! 人を危ない犯罪者みたいに言わないでよ! 私はちゃんと血の気の多そうで、あと人目のつかないところで、ついでになるべくAB型っぽい人を選んで吸ってるもん!」
「……バカばっかりだな」
最早突っ込む気も起きない士狼だった。
「でさ、銀髪のアンタ。確か、カインだっけ? 安っぽいモブにありそうな名前だけど、これで合ってるか?」
「コードネームです」
士狼の挑発にもまるで動じることなく、カインは鷹揚とした笑みで頷いた。
「じゃあそのカインさんよ。このバカ吸血鬼になんか用? 話があるなら俺が聞いてやるけど」
話が進まないと思った士狼は、不毛な口論を続けるシャルロットとロイを捨ておいて、もっとも話が通じそうであるカインに向き直った。
「ええ、用はあります。私たちはシャルロットが人間社会に様々な機密を漏洩する恐れがあると考え、無力化しに来ました。私たちとしても目に付いた吸血鬼を全て対処している訳ではありません。なぜなら、人間に混じり社会に貢献しようとする者も少なからず存在するからです。故に彼女のような、広範囲に吸血鬼としての活動の痕跡を残した者は、ただで見過ごす訳にはいかないのです」
「穏やかじゃねえな。もっと気楽に行こうよ兄さん。それで、さっき言ってた取るべき選択ってなに?」
ふむ、と頷いたカインは人差し指を立てた。
「一つ。私たちと共に日本を離れトランシルヴァニアまで来ていただきます。都合によっては共に吸血鬼を狩ってもらうか、その一生を軟禁という形で過ごさせます」
「……一つ目からすでに平和じゃねえなオイ。それで、もう一つはどんなの? 期待してねえけど聞いてやるよ」
続いて、カインが中指を立てる。
「二つ。摘むべき命の一つとみなし、シャルロットを殺します」
カインの瞳がすぅと細められる。浴びせるように空間を侵食する威圧は、人間が放つそれの比ではない。
つまり。
殺気である。
「チ……やる気満々だな」
士狼が身構える。
それに反し、カインは微動だにせず、ただ問うた。
「貴方は――彼女、シャルロットがどういう存在なのか知っているのですか?」
「ああ? まあ微妙になら。バカで泣き虫で、ついでにひとりぼっちな野郎だってことぐらいなら知ってるぜ。家も無いしな。それがどうかしたのかよ」
「ちょっとちょっと! なんか言葉に悪意が篭ってなかった? ……うぅ、士狼まで私をバカにするんだー!」
自分の悪評を耳聡く聞きつけたシャルロットが、士狼の背中をポカポカと叩いた。まさに機嫌を損ねた子供のようであった。その様子を、なぜかカインは瞳を細めて、じっと見つめていた。
「貴方――士狼、という名前でよろしいですか」
「気安く呼ばれたくないが、まあよろしいぜ。……てか、痛えよ。落ち着けバカ吸血鬼」
シャルロットが機嫌を損ねたかのように頬を膨らませたのを、また面倒を増やしたと自嘲する士狼だったが、とりあえずこれで話しやすくなったと前向きに考えることにした。
ていうか、うん、緊張感ないな――士狼は思った。
「ありがとうございます。吸血鬼についてはシャルロットに聞きましたか?」
「ああ、大体のところはな。それがどうしたよ」
「吸血鬼にとって、寿命がその吸血鬼の能力や位の高さを表す、一種のステータスだということは?」
「……いや、それは初耳だ」
そういえば、と士狼は思う。
伝承の吸血鬼のこと。人間では決して敵わない圧倒的な能力を持つかわりに、人間よりも数多くの弱点を併せ持つ存在。そして人間の血を吸うことにより、半不老不死の体を保つことができる、人の血を吸う鬼。
さきほどシャルロットから大体の事情や事実を聞いた。要するに現代に実在する吸血鬼は、伝承のそれとは全く実態が異なるということ。
しかし寿命に関する話は聞いていなかった。確か吸血鬼は己のチカラを維持するために血を吸い、それが生き延びる力となるから、結果的に血を吸わなければ生きていけない――はずだ。
それは逆に言えば、もし自らが危険に晒されることなく生きることができる環境があるのなら、血を吸わなくても暮らしていける、ということになる。
つまり……どういうことだ?
これは士狼の直感だが――知らない秘密がまだあるような気がした。
「一般的な吸血鬼の寿命として三百年。個体差はありますが、五百年を生きる吸血鬼になると稀です。ここまでの歳月を重ねれば、各国の伝承や歴史に何らかの形で名を遺している者も少なくない。恐らく名を挙げれば、貴方でさえ聞いたことのあるような吸血鬼もいるでしょう。また千年を生きる吸血鬼も現在、世界に七例のみ確認されています。俗に《ミレニアム・セブン》と呼ばれる、それぞれが天災にも匹敵する夜の眷属の頂点に立つ者たちです」
「千年って……個体差ありすぎだろ。亀もびっくりだな」
「本題はここからです。吸血鬼の存在は二千年前に始めて確認されたそうです。そしてその確認された吸血鬼は、なんと驚くべきことに近代まで生き延びていました。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”。吸血鬼どころか、吸血鬼狩りやその他多くのハンター達でさえ一定以上の敬意を払ったといいます。私たちの世界においては一種の神話です」
「一人で歴史積み重ねすぎだろ、そいつ……」
「そして――」
カインは呆れ顔の士狼――の後ろにいるシャルロットを指差した。
「通称”悠久の時を生きた吸血鬼”。二千年という果てしない生涯の中で、従者も眷属も作らなかった彼がただ一人だけ血縁者として生み出し、名を与えた娘がいます」
「……なるほど、それが」
「そう、シャルロット。吸血鬼は鳶が鷹を産んだり、その逆もありえません。蛙の子は蛙、吸血鬼の娘は吸血鬼。吸血鬼にとって血とは命そのものに等しい。ですからそれを分け与えられたシャルロットは、現存する吸血鬼の中でもっとも特別な存在なのです」
カインが指した指の先――そこには顔を俯かせたシャルロットがいた。
似合わない――そう士狼は思い、奥歯を噛んだ。こいつにはきっと、バカみたいな笑顔の方が百倍映えるのに、と。
「だからコイツを手元に置いておきたがったり、もしくは利用――それが無理なら殺してしまおうってわけか?」
「ええ。シャルロットの力はまだ不安定過ぎるのです。そんな彼女が好き勝手に血を吸うことで、どんな影響が及ぶか分かりません。だから選ぶ必要があります。私たちと共に来るか、それとも消えてしまうか。もちろん私たちとしては無闇に彼女を殺したくはありません。彼女はきっとこれより先、文字通り悠久の時を生きる吸血鬼ですから」
消えてしまう、という言葉が出た瞬間、シャルロットの体がびくんと震える。
「……俺からも一つ確認しておきたいんだが、いいか?」
「なんでしょう? 私たちが知る範囲のことでしたら、何なりとお答えしますが」
紳士的な態度でカインは応えた。
ここで一つ、前提を述べよう。
これまでの会話や雰囲気からして、吸血鬼狩りは暴力で全て解決してしまおうとするような、そんな粗暴な連中でないことを士狼は感じ取っていた。
しかし、聞いておかなければならないことがある。
「カインとロイっていったか。いいか、お前ら。こいつ――シャルロットはな。びっくりするぐらいにバカで、泣き虫で、泣き上戸で、飯を美味そうに食って、ちょっと奢ってやった俺みたいなヤツにも人懐っこく笑う――そんな吸血鬼なんだよ。知ってたか?」
途端に吸血鬼狩りの二人は困惑したような表情を浮かべた。否、事実理解し得なかったのだろう。
しかし士狼が誰かを想って紡いだその言葉は――とある吸血鬼には、しっかりと届いていた。
「……すいませんが、貴方が何を仰りたいのかが分かりません。それなりに長い時、シャルロットを見てはきましたが、貴方が言った特徴の何一つとして私たちは知りえません」
「――へえ、まあそうだろうな。これで分かったぜ。お前らみたいなのと一緒にいたら、シャルロットは駄目になっちまうってことが」
士狼の腹は決まった。
やはりあの二人は、シャルロットをただの凄い可能性を持った吸血鬼としてしか見ていない。そんな連中などと一緒にいては、きっとシャルロットは死んでしまう。生物学的な死ではない。心とか、そういった物が死んでしまうのだ。
士狼は彼女にただ吸血鬼として生きるのではなく、バカで、泣き虫で、泣き上戸で、飯を美味しそうに食べて、人懐っこそうに笑う――そんな、そんなただの吸血鬼Aでいて欲しかったのだ。
会ってまだ一日も経っていない女のために、なぜ微妙に命賭けてるんだろうと士狼は思った。
彼女が言ったひとりぼっちという言葉を意識してしまっているのか。それとも間違って引き受けたような雰囲気になった仕事のためか。
……そういえば報酬は後で貰えたりするのだろうか。
どうでもいいか――士狼は苦笑した。
「お前らさぁ……邪魔だな」
指をくいくい、と動かし挑発する。
カインはどこか残念そうに、対してロイは憤怒に顔を赤く染めた。
「――この白髪野郎がっ! 何も知らねえくせに! カインはよぉ!」
「まあ待ってくださいロイ」
繰り返される光景。憤ったロイを涼やかなカインが阻止する。ここでもまた違和感。ロイの激昂は、ただ士狼の挑発を受けただけのものにしては、いさかか激しすぎるように思えた。
次の瞬間、カインは銀色の髪を揺らし、士狼に問う。
「どうしても?」
「しつけぇよ、バカが」
合図があるとするならば、それはきっとこの問答。
両者の距離は十メートルほど。影が動く。士狼が先か、カインが先か。
――否、それは同時だった。
「カイン待て、そいつは俺がぶっ殺すって決めたんだよっ!」
更にロイも駆け出す。ただシャルロットだけが場の空気を読めておらず、乗り遅れたようにあわあわと右往左往していた。
せめて銃があったらな――そう心の中で愚痴る。しかし嘆いていても始まらない。それに士狼のすることは決まっていた。
右か左か――両方だ。前者からはロイが、後者からはカインが、得物を持って士狼に迫り来る。
この場で直接殺してしまうつもりはないのか。ロイは日本刀を鞘に収めたままそれを振りかぶり、カインは発砲せずに銃身での打撃。
きっとこの場で殺すことは得策ではないと判断したのだろう。とりあえずは昏睡させて運び出し、人目のつかない場所で拘束、場合によっては殺害する。その方が賢い選択であるからだ。
が。
それが油断だった。
「なっ――」
「――んだと!」
ロイの日本刀を足の裏で止め、カインの銃身を左手で掴み取り、士狼は静止していた。
「どけぇっ――!」
裂帛した叫び声があった。
日本刀ごとロイを蹴り飛ばし、その反動を利用して、驚愕によって次の動作に遅れたカインに向けて拳打を放って後退させる。
士狼は彼らに致命傷どころか、ダメージというものを一切与えていない。ただ距離を開けさせただけだ。
しかしそれで十分だった。
「クソッ、なんだアイツ!?」
「彼は……ロイッ!」
体勢を立て直そうとする二人だったが、それよりも先。
士狼が目的の物にたどり着くほうが早かった。
「シャルロット、行くぞっ!」
「え……? ――ちょっと、もうっ! 早いよぉ、士狼!」
体勢を崩したロイとカインの間をシャルロットが駆けていく。
それを二人が食い止めようとした瞬間――視界が白く染め上げられた。
「うおっ、なんだこれ!」
「消火器――」
強烈な勢いで噴射する白煙は、凍てつく冬のブリザードを連想させた。
もちろん消火器で荒事のプロを倒すことなどできはしない。しかし一瞬の混乱は必ず生まれる。その時間にして数秒にも満たない僅かな間は、士狼とシャルロットが逃走を謀るには十分だった。
いずこからか冷たい空気が進入し、ついでカンカンと鉄を叩くような音。士狼とシャルロットが非常口から外に出て、階段を下りているのだ。
「追いますよ、ロイ」
「――ぶえっくしょいぃっ! ごほっごほっ、お、おう!」
白煙立ち込める中を吸血鬼狩りが駆ける。その最中、微かな違和感を覚えてカインは思考していた。
あの男、何者だ。一般人とはとても思えない身体能力、とっさの機転、刃物や拳銃を前にしても一抹の怯みも見せない度胸。素人ではない。明らかに場数を踏んだ人間だ。
白い頭髪の男、士狼……しろう?
「……ロイ、止まりなさい」
「おえっ、な、なんだよっ?」
吸血鬼であるカインには平気だが、人間であるロイにこの白煙は辛いものがあるらしい。咳を繰り返し、一刻も早く外に出たそうであった。
やがて――少しずつだが、消火器が撒き散らした白煙が薄れてきた。
「なんだってんだよカイン。とっとと追わねえと見失っちまうぞ、やるんだろ?」
「……ええ。交渉は決裂です。しかし、あの白髪の男……」
「あの白髪野郎がどうかしたってのか? 俺らが油断しなけりゃあ、今頃アイツはここでお寝んねしてただろ」
ロイの言葉に答えず、カインが非常口を開け、外に出る。
非常階段から見渡すかぎり、逃げた二人を見つけることはできない。吸血鬼であるカインならばシャルロットを追えるが、そもそも時間切れだ。日が昇る。
黒いだけだった空は、現在青みがかったものへと変わっていた。
「数年前……千年の時を生きた吸血鬼が、男と女に殺されたという話を知っていますか?」
「あ? ああ、そりゃあ知ってるだろ。《ミレニアム・セブン》から一つ欠けたんだからな。しかもその吸血鬼は一国の王に成りすまして、戦争起こしまくってたらしいからな。どうせまた姐さんあたりが出張って速攻で片つけたんじゃねえのか?」
「いえ……違います。吸血鬼狩りの中でくだんの件に関係している者は、私が知りえる限りではいません」
「じゃあ誰だ? フリーで活動してるどっかの物好きか? それか人狼の、ヘルシングの一族の末裔か?」
「白い髪をした傭兵の話を聞いたことがあります。戦場のオカルトとも、白い狼とも呼ばれていた男です。数年前以来、姿を見なくなったそうですが」
「まさか、アイツが? そんな偶然ってあるのか?」
「分かりません。直感でしかありませんから。白い髪の傭兵と、栗色の長髪をした女。女が誰かは分かりませんが、男はきっと恐らく――」
続く言葉をカインは飲み込んだ。
一般の人間が訓練を積んだところで、限界は高が知れている。殺しが日常と化している戦地ならともかく、戦力の放棄を誓って久しいこの国で、このような極東のさほど大きくもない街で、彼らを退けるだけの力を持った人間がいるわけがない――はずだった。
しかし現実には居たのだ。
更にその特徴が、噂で伝え聞いた傭兵と一致するのだから始末が悪い。
「どうも、一筋縄じゃあ……おっ?」
ロイが声を上げる。眼前、見下ろす景色の先。遥か遠い地平線の向こうに太陽が見えたからだ。
それが、夜の終わりだった。