其の三 『その者の名は』
ロイは達人である。
仮に純粋な剣の腕前だけで競うならば、彼はこの裏社会で指折りと言っていい。
自身の限界近くまで鍛え上げた身体能力に、こうして多国を駆け回る仕事に就いてなお、日々の修練を疎かにすることなく研ぎ澄ました剣術。また様々な相手と戦ってきた豊富な経験により、例え吸血鬼相手であっても互角以上に渡り合うことができる。
抜刀術を織り交ぜた独特のスタイルは、数多くの流派の中でも類を見ない最速の剣術だ。その分だけ攻撃が直線的となってしまう欠点はあるが、相手にそれを見切る眼と能力がない限り、ロイは大多数の敵に対して優勢に立ち回ることができるだろう。
しかし残念なことに、今回の相手にだけは後手に回らざるを得なかった。
日本刀を鞘に収めたロイは、暗い路地の中で耳を、いや神経を研ぎ澄ませた。カベや地面を強く蹴りつけるような音を、鼓膜が性懲りも無く捉える。
――それはつまり。
ロイにはニノの動きなど、欠片も見ることができないという事実。
速いという言葉でさえ、この女には侮辱とさえ思えるような動き。もはや動物に許された速度の限界を超えていると言ってもいい。単純な身体能力だけならば獣はおろか、吸血鬼でさえも遥かに凌ぐだろう。
けれど勝機が決して無いわけではない。高速の動きの代償か、ニノは直線的な軌道を描くことしかできない。つまり眼で見ることはできないが、心とか、そういった曖昧なところで読むことはできる。
それは勘と呼ばれるものだったが、バカにしてはいけない。勘とは今までの人生で培った経験などから予測される第六感だ。多くの死線を潜り抜けてきたロイならば、自らの死をギリギリでも回避することぐらいならばできる。
その証拠に、さきほどからロイは体を引き裂かれようとも致命傷だけは食らっていない。相手のクセ、敵が跳躍する場所と距離、タイミング、果ては風の流れなどからも情報を得ることができる。
それだけあれば、しぶとく生き長らえながら反撃のチャンスを待つことぐらい可能だ。
「あっははははは!」
笑い声がしたと思った場所にニノが立っているかと見れば、そこには誰もいない。
「すごいすごぉい!」
今度は別の方角から賞賛するような声がしたかと思い振り返れば、そこにも誰もいない。
「アンタって本当に人間なの?」
次に自分に質問が投げかけられたかと見上げれば、近くの建物の屋根の上に、ようやく赤い長髪が見えた。
「……クソ、ちょこまかと逃げ回りやがって。俺はどこからどうみても人間だろうが」
「へえ、アンタみたいな人間もいるのね。うん、とっても楽しいわ、こんなにドキドキするのなんて久しぶりよ」
抜刀術の構えを取ったまま静止するロイを見ながら、ニノは人懐っこい笑みを浮かべた。その様子からは純粋な歓喜しか伝わってこない。良くも悪くも裏表のない性格なのだろう。
逆に言えばロイがもう少しでも無様に相手をしていれば、ニノは今頃興味を失っていたに違いない。
無邪気に手を叩きながらロイを褒めるのを見て、彼は少し前に見た一人の吸血鬼を思い出していた。戦闘中に眼を回して気絶するような、そんなバカらしい金髪赤眼の吸血鬼のことだ。目の前にいる赤い髪をした人狼の少女は、どこか例の彼女と似ている気がする。
やがて、どうでもいいとロイは首を振る。どちらにしろ殺し合いの最中に考え込むようなことではない。
「お前らの目的はなんだ」
問うと、ニノは髪を弄びながら言った。
「そうねぇ、観光……とかかしらね」
「ふざけてんじゃねえよ。観光ついでに吸血鬼を片っ端からブチ殺されたら商売上がったりなんだよ。必死こいて人間に混じり汗水垂らして働くような吸血鬼すらも、ご丁寧に殺して回りやがって。どこまで見境ないんだよ」
「相変わらずつまらないこと言うのね、吸血鬼狩りさん。アンタたちの理論、行動、指針、対処といったあらゆるものが本当につまらない。罪のある吸血鬼は罰として殺すくせに、罰のない吸血鬼には何の罪も問わない。偽善という言葉でさえ生ぬるいほどの、ただの子供のヒーローごっこよ、アンタたちがしていることは」
「何とでも言えよ。お前らみたいな殺人狂よりは遥かにマシだと思うがね。正義? ヒーローごっこ? 別に結構じゃねえか。偽善? ああ、最高だと思うぜ。俺らみたいな堂々と表を歩けないような連中は、それぐらいバカでちょうどいいんじゃねえか。ガキみたいなことを全力でやる大人ってのは、カッコイイもんだと思うがね俺は」
「ふーん、意見の相違ね」
「元から何も合ってなんてない、バカが。頭悪そうに笑ってんじゃねえぞ」
ギリと歯をかみ締める気配。
ニノから笑みが消えて、明確な殺意が伝わってくる。
「なんだよ、こんなことでキレたのか。はっはー、お前のほうがよっぽど子供みたいだなぁ。お家に帰って寝んねしたほうがいいんじゃないかぁ、ニノちゃん?」
「――黙りなさい。人間如きが」
言葉と同時にニノの姿が掻き消えた。否、もはや初動さえも視認できないほどの疾走。風よりも速く、雷よりも鋭い。疾風迅雷という言葉ですら、彼女には比喩として用いることが許されないらしい。
しかし速いことと、避けられないことは決して同意ではない。ただ速度が上がればその分だけ、避けることが難しくなるだけの話。ロイは自身の能力を上回る速度分を、ニノの感情を読み取ることによって埋めた。
ニノがどこか精神的な幼さを残していることは、これまでの会話や様子から分かっていた。だから敢えて怒らせるようなことを言って挑発してみた。結果的に、その狙いは成功だった。
怒りに身を任せた攻撃は、先のものよりも数段に速かった。けれど動きはさらに直線的になり、おまけに怒気を孕ませた攻撃はロイに『感情』という要素を与えてくれ、動きを先読みする上での最大の武器になった。
殴り合いや斬り合いの中だけが、戦いではないということをロイは知っていた。
「チ、ちょこまかと――! 逃げ回ることしかできない虫のくせに、とっとと死になさいよ!」
言動すら子供みたいである。
まるでロイを台風の目として、ニノは吹き荒れる嵐のようだった。カマイタチのようでもある。
斬撃のついた風こそが今のニノだった。
「ふん、虫すら潰せないガキが、なーに粋がってるんだ? ニノちゃん」
「このっ、ニノちゃんって呼ぶな!」
その瞬間ロイの視界の中に、赤い髪が見えた。
鋭い爪が繰り出され、彼の腕を掠めていく。血が噴き出して、神経が灼熱を訴える。勢い良く切り裂かれたせいで、痛みはなく、ただ『熱い』とだけ脳が解釈する。
同時にそれはチャンスだった。
ロイが今まで鞘に収めていた日本刀を抜き放つ。月光を反射する刀身は、鏡のように磨き上げられていた。
「――死ね、ガキがっ!」
その一閃は吸血鬼の身体能力を遥かに凌駕するニノを持ってしてさえ、完全に避けることが不可能だった。
人狼の少女が息を呑む。触れるモノを悉く切り裂く刃の餌食となる者は、例え人狼であったとしても例外ではない。
――眼前に迫る刃を寸前で見切り、ニノは自慢の赤い髪の先端を切らせることを代償として、死の危険を回避した。
と、思ったニノの腹に強烈な衝撃があった。ロイが攻撃を避けられたと思考した直後、すぐさま体重を乗せた前蹴りを放ったからだ。その蹴りは子供なら即死、鍛え上げていない大人なら内臓破裂、鍛えた人間でさえ軽く意識を持っていかれるような一撃であった。
日本刀の刃を回避して、体勢が崩れた今のニノに蹴りを避けるほどの余裕はなかった。
元々体重の軽い少女の身体は、ピンボールのように転がって近くの壁に激突した。
「どんなもんだ、ニノちゃん。あんまり大人を舐めんじゃねえぞ」
抜き差しの刀を鞘に収めて、一息つく。
ニノはカベに背中を預けたまま動かない。気絶してるとは思わないが、すぐさま動けもしないだろう。
ロイはいつでも刀を振りぬけるように警戒したまま、ゆっくりとニノに近づいていった。
――人狼。
超人的な能力を持つ吸血鬼。その唯一の天敵とされる彼らは、しかし吸血鬼と比べて特異な異能をほぼ持たない。
個体数も多い訳ではなく、寿命だってそう長くはない。さらに『吸血鬼狩り』のようなある種の組織もない。だがそれでも、やはり人狼は吸血鬼にとっての天敵だった。
不可思議な力もなく、統制されていることもなく、世紀をいくつも跨いで生きるわけでもない。
ならば人狼が、吸血鬼に対して誇れるものとはなんだ。あらゆる分野において差を付けられようと、それでいて吸血鬼を上回る一点とはなんだ。
――答えは簡単。
それは世界に存在するあらゆる生物の中で、最も優れた身体能力である。
腕力、脚力、瞬発力、視力、聴力、触覚、知覚、反射神経――要は、戦闘に必要なありとあらゆる身体的要素を彼らは持っていた。それ故のハンターだ。
物を投げれば誰よりも遠くまで飛ばせるし、人を殴ればその衝撃だけで人体を破壊できる。腕を振るえば吸血鬼であろうと切断できるし、どれほど速く動く生物だって視認して捕まえることができる。
そして当然だが。
たかが人間に蹴られた程度で、強いダメージを負う人狼などいない。
「あーあ、服が汚れちゃったわね」
服についた埃を叩き落としながら、ニノは何事もなかったかのように立ち上がった。
「――チ、マジかよ……」
信じられないと首を振る。あまりのことに笑みさえ浮かぶ。
全力で蹴りを入れたのだ。剣術だけでなく、素手でだって吸血鬼と渡り合ってみせる――そう自負する男が、必殺のつもりで蹴りを入れた……そのはずなのに。
「いやぁ、さすがにウチもビックリしたわ。人間だと思って侮ってたみたい。うん、アンタのような人間なら嫌いじゃないわ。ん? どうしたの? ああ、さっきの蹴り? 安心して、すっごく痛かったから」
「そんな慰めはいらねえよ。クソっ、バケモノが」
「酷いわね、こんな美人を捕まえて。――まあ、でもそろそろオイタの時間は終わりかな。人間さんがくれた一撃のおかげで頭が冷えたし。これからはもう油断しない。全力を持ってアンタを殺す」
ここにきて初めてニノは、眼前にいる男を敵だと認めた。
「ああ、分かった分かった。とことんやってやろうじゃねえかっ! かかって来いや、ニノちゃんよぉ!」
「オッケー。んー、今改めて聞くと、ニノちゃんって結構可愛いわね」
日本刀を鞘に収めたまま、ロイは油断なく見据える。
「ケっ、言ってろ。ネーミングセンス褒められたって嬉しくねえよ」
「ふーん、残念ね」
「――っ!?」
紡いだ言葉さえも置き去りにし、紅い少女が疾走する。
不意を衝くように――いや、戦場では敵の隙を狙うのが常套だ。故にニノの行動はむしろ賞賛されるべきもの。
頭では反応した。危機を察知した脳が、体に向けて一つの命令を出す。それはただ一言――『動け』と。しかし指先一つ満足に動かしきれない僅かな時間の中を、ニノが駆ける。
――けれど体が追いつかない。幾ら死線を潜り抜けてきたとしても、『人間』という種族の身体的な限界を超えることはできない。脳の処理速度が増し、スローモーションがかけられた視界の中で、ロイは自らに振り払われるニノの手を見ていた。
風が舞った。
体が浮いた。
刀が飛んだ。
あまりに瞬間過ぎて、何が起こったのかすら上手く理解できない。
気が付けばニノがカベに垂直に立っている。……いや、違う。ニノがおかしいのではなく、ただロイの体が地面に寝ていた。それ故にニノを、カベに立っていると錯覚してしまったのだ。
愛刀が遠く、手を伸ばしてもまるで届かない位置に転がっている。何故、と自問して自答する。
――本当は分かっている。自分がニノという少女の攻撃をマトモに受け、こうして指一本動かせずに倒れているということを。むしろ体が引き千切れることもなく残っていることを褒め称えるべきだ。恐らく無意識の内に、体を後ろに跳ばすなり捻ったり等をして、衝撃を軽減したのだろう。
ただ認めたくなかった。今の状況を見た人間が、勝者は誰で敗者は誰だと選ぶのなんて決まっているから。
「……強えな、クソ」
なんとか最後の力を振り絞って、横向けだった体を仰向けにした。
「悪くなかったわよ、人間さん。でもちょっとノロすぎる。もしも生まれ変わるとしたら、次は吸血鬼になって生まれてきてね。そうしたらもう一度殺してあげるから」
ニノが無邪気な笑顔で、ロイを見下ろす。
このときばかりは、さすがのロイも死を覚悟した。
吸血鬼狩りなんて物騒な仕事をしているのだから、当然いつかはこんな日が来るかもしれないと考えたことはある。……しかしまさか、本当に訪れるとは。自分より強い存在と戦うことのみを至上とし、打ち勝ってきたが、今度ばかりはどうも無理らしい。
――すまねえ、カイン。これが最期みたいだわ。
どこかにいる相棒に向けて、心の中で呟く。遺言のつもりでもあった。
「さようなら、人間さん」
ニノが振りかぶる。鋭い爪が光って、ああアレが自分の喉を掻っ捌くんだなぁと、ロイは悠長に未来を想像した。
――その瞬間だった。
「世話が焼けるのう、お主ら。ワシの手を煩わせるようでは、ご先祖様に顔向けできんぞ」
鈴のような少女の声を、ロイは聞いた。