其の二 『吸血鬼と人間と――』
『吸血鬼狩り』と呼ばれる組織がある。
種族、思想、実力、人種など関係ない。ただ必要なのは覚悟――命を秤にかけることができる者のみで構成された、吸血鬼を相手とする専門家集団である。
元々『吸血鬼狩り』とは、数百年前に一人の吸血鬼によって設立された。
初期は吸血鬼を殺すためだけに作られた組織であったが、その在り方は時を経るごとに変わっていった。
それまで世界の裏で蔓延っていた吸血鬼という種族は、『吸血鬼狩り』に畏怖した。世界に七例のみ確認される、千年を生きた吸血鬼の一人を首領とし、その思想に賛同した多くの権力者で組織は構成されていたからだ。
裏社会に生きていた吸血鬼は、やがて本性を隠して生きる道を選んだ。
つまり人に成りすましたのだ。自らの牙を見せることなく、自分たちが餌とする人間という種族に混じって彼らは生活し始めた。それまで吸血鬼にとって血を吸うとは、イコールで人間を殺すということだった。それすらも危険だと考え、吸血鬼は必要な時にのみ、人間から必要な分だけの血を吸うことにした。
――すると今度は、人間社会に貢献する吸血鬼を、簡単に殺すわけにはいかなくなった。
人間と比べると高い能力を持つ吸血鬼は、望まざるとも高い地位に着くことが多くなった。そんな吸血鬼を殺してしまっては、社会的な損失と共に隠蔽することも難しくなる。やがて『吸血鬼狩り』 は、尚も裏社会に生きる者のみを狩ることとなったのだ。
罪のある吸血鬼のみを、罰として処刑する。
――それが、『吸血鬼狩り』。
トランシルヴァニアを発端とし、拠点とする、吸血鬼における専門家集団であった。
深い夜に落ちた街を、歩く影があった。
不気味に静まり返った景観はどこか影絵のようでもある。のっぺらとしていて、ねっとりとしている。不快感を覚えずにはいられない。
明らかに異常だった。歩けど歩けど、人っ子一人見当たらない。それどこか猫や犬といった動物さえも見受けられないのだ。
「……妙ですね」
解せない、と呟く声。
銀髪の美丈夫であり、吸血鬼狩りに属するその男――名をカインという。
漆黒のスーツの下に隠された体は、柳のようにしなやかな筋肉で作られている。白くきめ細かな肌と、精巧に整った顔立ち。やや切れ長に伸びたサファイヤを思わせる蒼眼に、筆で墨を一筋引いたような秀麗な眉。白銀の髪は先端がゆるくカールしており、何処か古い貴族のような気品を感じさせる。
常に周囲に対し気を遣る彼は、およそ人間に見受けられる『隙』というモノがない。
それも当然。
彼は人間ではなく、夜を支配し生血を啜る、吸血鬼と恐れられた種族なのだから。
「確かにな」
カインに対し、返す声があった。
刈り込まれた坊主頭に覇気ある声、吸血鬼狩りに属するその男――名をロイという。
夜に溶け込む黒いスーツは、筋骨隆々とした体によって盛り上がり、何処か窮屈な印象を受ける。顔に微かに刻まれた切り傷は、幾多の死線を乗り越えてきた証だ。威圧するような力強い眼差しは時折、彼自慢の業物である日本刀に注がれている。
カインが吸血鬼故の優れた能力によって、『隙』を無くしているのならば。
ロイという男は、生まれ持った才能と、愚直なまでの修練によって自身を高みに置いている。
人間を狩る吸血鬼。それとは全くの正反対であるのが彼だ。つまり、吸血鬼を狩る人間――それがロイという男だった。
「こりゃあ何かしらの力が働いてやがるな。誘惑か、催眠か――とにかくここら一帯に、強力な暗示がかけられてる」
「ええ、その考察は恐らく正しい。……ただ理由が分からない。これほど大規模に暗示をかける必要性など全く見られないはずなのに」
報告を受けて吸血鬼を探しに来たカインとロイが、この東北の隅にある街にやってきたのは三日ほど前だ。
行方不明者や、意識が混濁した状態で保護される人間が、実に二十を超えていた。故に聞く耳を持たず、ただ抹殺のために街を訪れた二人であったが――どうも、様子がおかしい。
それなりに尻尾は掴んだはずだった。街の全容を調べ、被害を知り、手口を予測し、着実に追い詰めていたはずだった。わざわざ夜まで待って、こうして目当ての吸血鬼を探し出そうとしていた。
けれど、何故か。
このように街が不気味に静まり返ったことなど、一度として無かったはずだ。それに吸血鬼がただ血を吸うだけなら、街を眠らせる必要はない。これでは無駄手間というよりも、異変を撒き散らすという意味では自殺行為に近い。事実、こうして吸血鬼狩りが現れている。
故に現在の状況を作り出した者を推して知るならば、それは吸血鬼ではなく――
「まさか、”アイツ”らか?」
ロイが忌々しげに言って、舌を打った。
「恐らくそうでしょうね。”彼ら”は吸血鬼殺しの専門家ですから。目に付いた存在が吸血鬼というだけで、”彼ら”にとっては十分すぎるほどの動機です」
イヤな予感と想像が浮かんだが、外れていてほしいと願った。
「血の匂いが近いですね。吸血鬼の気配を感じます。……しかし、これはどういうことだ。あまりにも弱すぎる」
「弱すぎる? どういうことだ?」
「分かりません。ただ意識せずとも感じられた吸血鬼の存在が、今は集中してみてようやく分かる程度の微弱だ。これではまるで」
今にも死にそうではないか――と。
カインは秀麗な眉を歪めて呟いた。
「チ、面倒な気がするな。急ごうぜ、カイン」
「ええ、此方です。遅れないよう付いてきてくださいよ、ロイ」
「はっ、誰に言ってんだよ」
「そうでしたね、すみません」
やがて頭で考えるのは非生産的だと悟った彼らは、足早に目的地へと向かった。
別になにがあろうと驚きはしないし、恐怖もしない。たとえ微弱に感じていた吸血鬼の気配が、追いかける中で途切れたとしても、二人は足を止めなかった。
ただ、願うばかりである。
その現場に、獣の耳を――いや、狼の耳を生やした存在がいないように、と。
カインとロイが辿り着いた裏路地の先に見たものは、尋常ではない量の血液だった。
バケツに入ったペンキをぶちまけたかのようであった。微かな月光が路地に届き、照らされた血はもはや芸術染みている。ここまで凄惨な光景は、そうあって良いものではない。
飛散した血液に反して、およそ生物の死体と呼んでいいものはどこにもなかった。しかしカインとロイは瞬時に理解した。吸血鬼は死を迎えると、体は灰燼となって消滅する。その際に残るものは、生前に漏らした命の雫――つまり血だけだ。
要するに、時間にして恐らく十分にも満たないほど以前に、ここでは一人の吸血鬼が死んだのだ。
「――へえ、もう一匹吸血鬼がいるかと思えば」
そして海のように広がる血液の絨毯の上。
血よりも赤い長髪を伸ばした女と、夜よりも黒いスーツと帽子を被った男が立っていた。
「なるほど、吸血鬼狩りだったのね。さっきのを追いかけていたのって。でも残念ね、銀髪のお兄さん。アンタが遅いからガマンできずに殺しちゃったわよ」
女が無邪気に哂うのと同時に、頭についた獣の耳が連動するように動いた。
カインとロイの想像が、確信へと変わる。
「――人狼。まさか貴方たちがこのような極東の島国にいるとは」
「あはは、ちょっと用事があってね。人探しのついでに吸血鬼を見つけたものだから、ついつい踏み潰しちゃった。――あ、そうだ。挨拶しておこうか。ウチの名前はニノっていうのよ。憶えておいてね、カインさん」
どこか人懐っこそうなニノの笑顔は、一人の吸血鬼を思い起こさせる。
「私の名を知っているのですか?」
「そりゃあ知ってますよ、カインさん。かのキルヒアイゼンの嫡子でしょう? 吸血鬼狩りを”千年公”が設立した最初期に、その思想に賛同した吸血鬼の血を持つ五つの貴族。その中でも辺境伯の爵位を持つキルヒアイゼンと言えば、吸血鬼を狩る吸血鬼の代名詞として、この世界で知らない者はいませんよ。――あー、そうそう。連れに倣って自己紹介しておきましょう。ボクの名はミカヤ。以後、お見知りおきを」
男――ミカヤは帽子を取って、紳士のように頭を垂れた。
裏路地の影が顔を隠して、瞳だけがどうしても確認できない。
「それで、カインさんはお一人で何を? やっぱりさっきの吸血鬼を追っていたんですか? なら安心してください、もうボクたちが踏み潰しておきましたから。いやーでもおかげで楽できてよかったでしょう?」
ミカヤが帽子を頭に戻す。今度は広いつばがうっすらと影を落として、やはり瞳は見えなかった。
「オイ、ちょっと待てよお前ら」
怒気を孕んだ声。
手に持った日本刀が音を鳴らす。
「お一人で、だと? てめえら人狼はよほど頭が悪いのか、それとも俺をナメてるつもりか? さっきから聞いてりゃあ、俺を無視して話を進めやがって。この場でぶっ殺してやってもいいんだぜ」
きょとん、と呆けた顔。
ニノとミカヤはその言葉を聴いて、ゲラゲラと声に出して高らかに笑った。
「――何が可笑しいっ! ああ!?」
鞘に納まった日本刀の先端を地面に叩きつけて、ロイは射殺すほどに人狼を睨んだ。
「ふふ、あははははっ! ……えーと、ふふふ、ごめんなさいね、人間さん」
「ククク、いやぁこれは驚きましたよ、人間さん」
言い終えると同時に笑いが引いていく。
そして、やはり同時に、哂った。
「ああ、いたんだ、人間さん」
発声が重なる。
ニノとミカヤは見下すようでも故意的な風でもなく、本当に失念していたと口を歪めてそう言った。
「っ、んだとてめえら……!」
「いやぁお気になさらないで下さい。こればっかりはボクたちのほうが悪いですから。うーん、ダメですねぇ歳かなぁ? 小さいモノが見えづらくなっているようだ」
「あ、それ分かる分かる。人間って注意深く見ないと分からないもんだから、ついつい気付かず踏み潰したりしちゃうのよね。――ゴメンね、人間さん。でも良かったわ。うっかり潰しちゃう前に気付けて」
ケタケタと。
それは。
何処までも本心から出る。
嘲笑。
「ロイ、真に受けては思うツボです。抑えて」
「……ああ、分かってる。分かってんよ、そんなことは。けどよぉ」
日本刀を余りにも強く握り締め過ぎたせいか、指先が白くなっていた。
そんなロイを横目に見ながらも、人狼の血族は止まらない。
「でもウチ、人間ってあんまり得意じゃないのよねぇ。だってミカヤ、アイツらって脆いじゃない? 何処まで殺っていいか歯止めが利かないの」
「なるほど。確かにそれは深刻な悩みですね。んー、まあでも仕方ないんじゃないですか? 所詮、吸血鬼にすら劣るミジンコみたいなもんなんですから」
高らかに嘲笑する人狼を前に。
ロイは憤怒に震える足を一歩、前に進めた。
「――ダメだ、カイン。俺もう十分にガマンしたよな。コイツら殺してもいいよな」
問われて、カインは思考する。
目の前の人狼という存在を野放しにする危険性と、今ここで命を賭けて殺し合うリスクを。その二つを天秤に賭け、どうしようかと考える彼の脳裏に、一人の少女の姿がよぎった。
そうだ、ここでこの二人を野放しにするということは、日本という国に猛獣を放つのとなんら変わらない。見つけた存在が吸血鬼というだけで殺しの力を振るう彼らだ。もしも”彼女”が目に付いたのだとすれば、間違いなく最優先で狙われる。
ならば答えは決まっている。
カインは懐から拳銃を取り出して、頷いた。
「ええ、構いません」
同時に発砲する。人の身においては視認さえ許されない弾丸を、ニノとミカヤは当然の如く避けた。
瞬時に互いの相手を見切って、散っていく。
ロイは赤い長髪の少女ニノに切りかかり。
カインは帽子を被った謎の男ミカヤに接近した。
こうして静寂に彩られた街の片隅で、誰にも知られることなく、二つの殺し合いが始まった。