其の一 『月に吼える』
その男は吸血鬼だった。
人の血を吸いそれを糧にして生きるような、人間ではない人外の怪物。吸血鬼として生まれついたのだから、自分がするべきことは分かっていたし、それが間違っているなどとは思わなかった。
彼は本能の赴くままに人間を襲った。その結果として全人口数十億のうちの一人が死のうとも、男には何の関係もなかった。
今まで多くの人間を殺してきた。もちろん人間社会でいう警察とやらにバレたこともあった。しかし所詮、警察は人間を取り締まるための組織であり、吸血鬼を縛る抑止力にはなりえない。
トランシルヴァニアを発端とし、強大な勢力を誇るあの吸血鬼狩りも、極東に位置するこの国までは細かに目を張り巡らせていない。世界事情で言えば、吸血鬼がもっとも多く存在すると言われているのが欧州だ。故に吸血鬼における専門家集団であるヤツらは、必ず日本で起こった事件には対応が遅い。
端的に言えば、男が人の血を吸い続けてきたことには、これといった障害がなかった。
そう。
障害など無かった――と、今宵までは思っていた。
今まで数え切れないほどの人間から血を吸って、その中で気に入ったモノは時間をかけて殺した。美しい女の肉はどこまでも白くて、柔らかくて、四肢を裂くのが哂ってしまうぐらい楽しかった。鍛え上げられた男の体は引き千切り甲斐があって、体が震えるぐらいに気持ちよかった。
首筋から上品に吸血するのも悪くないが、宙空に噴き出す鮮血を浴びるのもまた一興。男は人間ではなく吸血鬼なのだ。ならば体を洗うシャワーは熱い湯ではなく、生暖かい体液が相応しい。
恐怖して逃げ惑う人間を追うのも面白かった。吸血鬼である彼ならば、相手がこちらを認識するよりも早くに獲物の活動を停止させることができる。しかしそれではダメだ。やはりじわじわと弄ぶように恐慌させて、諦念を抱いたころに生き血を奪う。
それが吸血鬼たる男の美学であった。
――しかし。
今まで捕食者として生きてきた彼は、この夜に限っては嬲られるだけの獲物に過ぎなかった。
走った。逃げた。走った。逃げた。
何故と問われると、何故と問い返すしかない。明確に説明できるだけの理由はなく、あるのは本能からの小さな訴えだけ。
暗く夜に沈んだ街を駆けた。人間とは比べものにならない脚力で風すら追い抜いた。けれど得られたものは安寧ではなく、むしろ変わらない状況に対する困惑だけ。
誰もいない街を行く当てもなく彷徨い、時折不様に足をもつれさせながらも男は走り続けた。
ある時、夜を迎えて閉店となった店の前を通りかかった。鏡のように磨き上げられたショーウィンドウ。そこに映っているのはいつもの光景。――男に追い詰められながらも逃げ惑う、恐怖に怯えた人間のような、……そんな自分の姿だった。
圧倒的な無念が押し寄せる。果てしなく惨めであった。
やがて追いかけてくる”何か”を振り切るため、男は入り組んだ構造の裏路地に忍び込んだ。
大通りよりも薄暗く、月光すら届かないその場所は、まさに逃走のためだけに用意されたような通路だ。なるべく歪曲的な道を選んで、吸血鬼である男は走り続けた。途中、何度も後ろを振り返ったが、そこには追跡者どころか生物の影すらなかった。
……振り切った、か?
ようやく足を止めて額を拭う。運動による発汗ではなく、ある種の恐怖による冷や汗で体が濡れていた。
男は右腕の袖で何度も額を擦る。いくら拭いても顔は濡れたままで気持ちが悪かったからだ。
拭う。拭う。拭う。痛い。拭う。拭う。痛い。拭う。拭う。拭う。拭う。――痛い。
おかしい。何かがおかしい。原因は分からないけれど確実におかしい。
麻痺した思考の中で、男はとてつもない見落としをしているかのような違和感を覚えた。その最中にも額の汗を拭い続けて、やがて雨が降っていることに気が付いた。顔にポツリと雫が落ちた感覚があったからだ。
顔を上げる。……雨など降っていなかった。
――そこで初めて気が付いた。
路地へと微かに降り注ぐ月明かり。男が額を拭おうと、振り上げた腕の袖が鮮明に映される。これほど汗を拭いたのだから、さぞ黒く湿っているのだろうと思って――
赤い。
紅い。
朱い。
アレ、と首を傾げる。痛い。なぜ赤いんだろうと思考を巡らせる。痛い。いたい。痛い。考えても考えても答えは分からない。イタイ。だから自然、腕を組もうとして――左手がないことに、男はようやく気が付いた。
意識した瞬間に、脳は圧倒的な痛覚によって埋め尽くされた。あらゆる行動が中断。呼吸することさえも忘れ、男はただ『痛い』に耐えるためだけに蹲った。
噴き出す鮮血がまるで雨のようになって降り注ぐ。濡れていた顔は汗でもなんでもなく、単なる血液だった。
それは。
ほんのすぐソコにまで迫った死を、認めたくないがための自我逃避。
「あっはははは、すんごいバカみたい顔してるよ、お兄さん」
反響するように響く声があった。
男は霞む視界の中に、血によく似た何かを見つける。それが風に靡く赤い長髪だと認識した直後、自分が見たのは人影だったと理解した。
「うっわぁ、とても痛そうね。うん、可哀想だ、吸血鬼のお兄さん」
無邪気な声であって、邪気ある一言。
路地の影になった、更に向こう。そこに男を観察するようにして一人の女が立っている。
腰ほどまで伸びた赤い長髪と、精巧に描かれた絵画のように整った顔立ち。どこか見る者を惹きつける容姿をした年若い女だった。仮に男が街中で彼女とすれ違ったのだとすれば、間違いなく突発的な吸血衝動に襲われている。
――もしも、その女の頭に獣の耳がなければ。
「ねえ、あとどのぐらいで死ぬの? それだけ血を流しているんだから、あんまり持っちゃ面白くないわよね。五分? 十分? それとももう少し持つ?」
「そうですねぇ。んー、やっぱりあと五分ぐらいじゃないですかー? 吸血鬼にとって血は力の源です。それをあれだけ滝のように失っちゃあ、さすがの彼らも堪りませんよ」
独り言のように呟かれた声に、返された声があった。
赤い長髪の女のとなりに、黒いスーツを着た男が立っている。佇まいを見るかぎりは品のありそうな男だ。つばの大きな帽子を被っており、それが顔に影を落として瞳が見えない。
「じゃあ賭ける? ウチは、そうね。あと五分で死ぬと思うわ」
「いいですよ。じゃあボクは……うーん。まあ十分ぐらいじゃないですかねえ? 吸血鬼って意外と生命力強いから」
「あはは、なにそれ。ゴキブリみたいね」
「ん? それはそうでしょう? ボクは何か間違えましたっけ」
「ううん、何も間違ってないわ」
確実に生命活動が弱まっていく男の前で、その男女はそんな話を繰り広げていた。
男にしてみれば、まるで現実味がない。死へと向けて歩いていく自分の目の前で、これっぽっちも緊張感のない口調で会話がなされているのだ。夢だと疑いたくもなるが、そう甘えるたびに強い痛みが彼を現実に引き戻した。
このままではジリ貧だと思い、男は”彼ら”に交渉してみることにした。
もしも今すぐ安全な場所に帰り、治療することができるのならまだ間に合う。血を吸い、吸血鬼としての力を増して命を繋ぐことも可能だろう。そのためにはまず”彼ら”に見逃してもらう必要があった。
――男はきっと、言い訳染みたことを言ったと思う。自分よりも残酷であくどい吸血鬼など山のようにいる。だから自分を狙うぐらいなら、より他に殺すべき対象がいるのではないか。……恐らく纏めると、そんなところだ。
しかし赤い長髪の女と、つばの広い帽子を被った男は何も反論しない。ただ帽子の男が腕時計を見ながらカウントダウンをして、時間を計っているだけだ。
焦燥にかられながらも、男はもう一度だけ口を開こうとして、
「四分五十秒、五十一秒、五十二秒――」
淡々と発声されるだけの数字の羅列に、思わず言葉を飲み込んだ。
言い知れない恐怖。訪れる恐慌。”彼ら”に感じる畏怖。吸血鬼としての優れた第六感が、自分の凄惨な未来を垣間見た。
「五十五秒、五十六秒、五十七秒――」
「……ふん、面白くないわね」
赤い髪をした女が、頭部についた獣耳をピクリと動かせた。
強烈な悪寒が体を支配する。殺気でもなんでもなく、ただ害虫を駆除する人間が抱くかのような汚らわしい感情が女から伝わってきた。
「五十九秒。はい、五分です――」
宣言と全くの同時。
恐らくコンマの差もなかった。
吸血鬼の男は、遺す言葉も、吐き出す無念もなく、死んだ。
「これで五分ピッタリ。ウチの勝ちね、ミカヤ」
無邪気な笑みで少女で腕を払う。指に付着していた真っ赤な血が飛散する。
ついで上空からボールのようなモノが落下してきた。……否、ボールではない。生え揃った髪が、驚愕に見開かれた双眸が、高い鼻が、やや厚い唇が、そして不自然に伸びた牙があった。
吸血鬼の男の、首だった。
「イヤイヤ、それはないでしょうニノ。世間一般じゃあそういうのをイカサマっていうんですよ?」
「ゴメンゴメン、つい我慢できなくなっちゃった。それにしても吸血鬼ってやっぱり脆いわね。こんな簡単に首が飛ぶなんて」
ただの手刀。何の仕掛けもない、ただの手刀だった。しかし吸血鬼の強靭な体を切断するには、十分すぎるほどの鋭い一撃。
吸血鬼狩りとはまるで違う、吸血鬼殺しの専門家。それが”彼ら”の正体であって、種族でもあった。
転がった吸血鬼の首を、帽子を被った男が踏みつける。
「ケッ、吸血鬼風情が手間ぁ取らせやがる。オレ様に処理されることをありがたく思えや、じゃあなー」
ぐちゃり、という音。頭部を踏み潰された瞬間に、吸血鬼の体は灰となって風にさらわれていく。
つばの大きな帽子が落とした影が消え、隠されていた男の瞳が晒された。どす黒く悪意のみに満ちた、禍々しい金色の瞳。まるで他者を殺すことだけを生き甲斐とするような、殺戮に飢えた眼だ。
「アンタ、地出てるわよ」
呆れたように赤い髪の女はかぶりを振った。
男は帽子を深く被りなおした。
「あらら、申し訳ない。ついつい虫を踏み潰すときって、ガマンできなくなっちゃうんですよねボクは」
再び影が落ちて瞳が隠れる。それと同時に、垣間見えた狂気はナリを潜め、粗暴な口調と態度は、品のあるそれへと変わった。
――ここに一つの生が終わった。
吸血鬼狩りのカインとロイがこの場にやって来るのは、もう少しだけ先の未来のことだった。