其の八 『緋愛』
食事を終えて、買い物を済ませた私たちは、まだまだ時間があるので街をぶらつくことにした。
買ったばかりの洋服や小物は手荷物となるので、駅前のコインロッカーに預けておいた。
そのあと美味しそうなクレープの店を見つけては買って食べ歩いたり、大きな花屋さんの色とりどりの花に惹かれては見て回ったりした。千鶴が驚くほど花に詳しかったのはちょっと意外だった。雪菜曰く、千鶴は生け花がものすごく上手らしい。ところで生け花ってなんだろう。
それから私たちは急遽、映画を見に行くことになった。駅前のロータリー近くにある大きな建物の上階にシネマはあった。
私はテレビで映画を見たことはあったが、実際の劇場でスクリーンを通してというのは初めてだった。なので凄くドキドキしていて、シネマの中全てが新鮮だった。
キョロキョロと視線を絶えず動かしていると、それを見ていた雪菜がため息をついた。
「……はあ、田舎者ですか貴女は。ただでさえ吸血鬼さんは人目を引くのですから、これ以上目立つ行動は避けてください」
「なになに、それって私が可愛いってことかな」
「やれやれです。どこまで自意識過剰なクソ吸血鬼――じゃなくて、吸血鬼さんなんでしょうか。ねえ千鶴ちゃん」
「私に振るのかっ? ……まあともかくシャルロット。雪菜ちゃんが言っているのは、その髪や眼の色のことだと思うぞ。容姿だけならシャルロットは日本人離れしているからな。もしかしなくとも、生まれは他国だったりするのか?」
「そうだね。一応ドイツで生まれたし、元々はあっちに住んでたよ。だから当然、ドイツ語も話せるっていうか、むしろ日本語のほうが後から覚えたんだから」
すると千鶴は感心したような、そしてなぜか雪菜は胡散臭そうな顔をした。
「色々と大変だったんだな。日本語は結構、難しいと聞くぞ。生粋の日本人である私たちでさえ、地域によっては聞き取れない方言もあるし」
「らしいね。だから私はいわゆる標準語しか覚えてないよ。エセっぽくていいなら、大阪の言葉ぐらいなら話せるけどね。一度、大阪にも行ったことあるし」
「お二方。今はそんな話よりも、先に見るものを決めてしまいましょう」
雪菜の言葉に同意した私たちは、現在公開されている映画のリストを見た。
「なるほど。大別するとアクションと恋愛、そしてSFというところでしょうか。千鶴ちゃんと吸血鬼さんは、特に見たいものがおありですか?」
「そうだねー。私はこの『呪殺』っていうホラー映画が見たいかなぁ」
「――千鶴ちゃんはなにが見たいですか?」
「私もシャルロットと同じで、このホラー映画に興味があるな。学校の友人が見に行ったそうだが、何でも泣いてしまうぐらいに怖かったとか。そこまで言われれば逆に見てみたい気にもなるよ」
「そうですか、分かりました。二人とも、このアクション映画を見たいということでよろしいですか?」
雪菜は私たちから目を逸らしながら、こほんと咳払いした。その様子に首を傾げた私と千鶴は、二人して顔を見合わせた。
「雪菜ちゃん、だから私たちはこのホラー映画が見たいって言ってるんだが」
「ええ、ですからこのアクション映画が見たいのでしょう?」
「…………」
再び二人して顔を見合わせる。私たちの耳がおかしいのか、それとも雪菜の耳がおかしいのか。何か色々と噛み合っていないような気がする。
私は少し考えてみた。するとすぐに閃くものがあった。あれは雪菜と初めて会ったときのことだ。彼女は確か、強い霊感の持ち主で、自称陰陽師とか訳の分からないことを言う割には――幽霊というものが怖いのではなかったっけ。
「ねえねえ雪菜。私思ったんだけどさ」
「なんでしょう。早くこのアクション映画のチケットでも買いに行きたいのですか? まったく、仕様のない吸血鬼さんですね、このー」
「もしかして雪菜って、このホラー映画を見るのが凄く怖いんじゃないの?」
肘でこのこのーと私を突っついていた雪菜の動きがピタリと止まる。さっきまで微妙にテンションがおかしかったのに、今は凍りつくという表現がピッタリなほどに固まっている。
彼女は和服の袖で口元を隠しながらそっぽを向いた。
「い、いやですね。全く持って怖くなどありません。千鶴ちゃんのご友人が泣いてしまったとか聞きましたが、それはさすがに大げさじゃないですか。私は、えーと、ああそうだ、幽霊大好きなんですよこれが」
「…………」
三度目の正直で、私と千鶴は再び顔を見合わせた。
「へえ。じゃあ雪菜ちゃん、幽霊が大好きならこのホラー映画でもいいんだろ? 早速チケットを」
「待ってください。とりあえず落ち着きましょう。本当にいいんですか? やり直しは利かないんですよ? 考え直すなら今のうちですよ? 少なからずお金を払うからには面白くなかったでは済まされないんですよ? あなたはこの映画で後悔しないと誓えるのですか? もしこれから大人になって、結婚して、子供を生んで、ふとした拍子にあのときアクション映画を見ていればどうなっていただろう――そんなことを考えないと、千鶴ちゃんは断言できるというのですねっ?」
「い、いやそこまで言われると自信ないけど」
身を乗り出してまくしたてる雪菜は、普段とは違って少し余裕がなさそうに見える。いつもは落ち着いた口調だから、余計に動揺が分かりやすいというものだ。
私はあえて挑発的な態度を取ることにした。
「でも雪菜がそこまで幽霊大好きなんだったらさ、別にホラー映画見てもいいんじゃないかな。もしかして雪菜って、幽霊が怖いとかあったりして」
ギクっという擬音が聞こえてきそうなほどに雪菜が跳ねた。そのまま不自然に微笑んだ顔で、私のほうを向く。
「な、何のことですか。私は別に幽霊など怖くありません。あんなの友達というかもう、将来を誓い合った仲と言っても過言ではないぐらいです」
「そうなんだ、じゃあ大丈夫だね。千鶴、チケット買いに行こうよ」
「そうしようか。雪菜ちゃんはホラー物はなんともないそうだから、映画の怖い場面とかでは頼りになりそうだ」
私はともかく、雪菜の真実に気付いていない千鶴の素の言葉は、意識していないからこそ説得力があった。
今さら実は幽霊が苦手だとか、他の映画を見てみようとは言えない雰囲気が形成されていく。やがて私と千鶴の顔を交互に見た雪菜は、諦めたように肩を落とした。
そして三人してチケットを買って、上映時間まで適当にカフェで時間を潰した。私は他の女の子と遊びに出かけるのは初めてだったけど、映画じゃなくとも、こういう待ち時間に他愛もない話をして過ごすのも楽しいもんなんだなと思った。
指定時間になったので、私たちは再びシネマを訪れた。大きな会場に迷いながらも、ようやく指定の席を見つけた私たちは腰を下ろした。ちょうど位置は中央の真ん中あたりで、席順は左から私、雪菜、千鶴という感じになっていた。
しばらくして照明が落ちて、人の喧騒が消えていく。私は踊りだしそうなぐらいにワクワクしながら、手を握り締めようとして――何か右腕の袖あたりに、違和感を感じた。ちょっと重いというか、動きにくいというか。
なんだろうと思って視線をスクリーンから下に向ける。するとそこには煌びやかな和服があって、気のせいかもしれないが、私の袖を雪菜が握り締めているような。それを呆然と眺めていると、右から動く気配。雪菜が私に振り向いた。
互いに沈黙しながらも、やがて雪菜が私から眼を逸らしながら呟いた。
「いやーどうかしたんですかー? もしかして吸血鬼さん、怖いとか言い出しませんよねー?」
「まだ見てもないのに分からないよ。だからひょっとすると、凄く怖がっちゃうかもしれないね。もしそうなって泣いちゃったりしたらごめんね」
「……し、仕方ありませんねー。私はこんなのちっとも怖くないんですよ。あーあ、幽霊早く出ないかなー。あの存在しているかしていないのか分からない、あやふやさがたまりませんよね」
「そうなんだ。ていうか、なんで私の服を掴んで」
「あれ、おかしいですね。耳の調子が急に悪くなってきました。はっ、まさかこれも幽霊の仕業ですか。大変ですよ吸血鬼さん」
「…………」
「大変ですよ、吸血鬼さん」
「いや、聞こえてるけど。まあいいや」
それからしばらくは他の映画の予告みたいなのが流れていた。私からするとそういうのも凄く面白かったのだが、千鶴たちからするとやや退屈らしい。人によって感性が違うのだろう。私は吸血鬼だけど。
やがて証明が更に落ちて、静けさが増す。とうとう例の映画が始まるのだ。私はニヤけてしまう口元を頑張って押さえながら、上映されるのを待った。
「怖くない怖くない怖くない怖くない幽霊なんて怖くない怖くない怖くない」
隣の席からぶつぶつと声が聞こえる。雪菜がまるで自己暗示をかけるかのように、瞼を閉じてそんなことを呟いていた。ちなみにまだ彼女の白い指先は、私の服を掴んだまま離されることはなかった。よく見れば雪菜は千鶴の服も掴んでいる。それを確認する際に千鶴と眼の合った私は、雪菜がなんというか微笑ましくて、そして可愛らしくて、揃って苦笑した。
映画は、私が百年間という人生の中で見てきた物のなかでも一番怖かった。テレビで見るのとは全く違う臨場感が、恐怖やら驚きを際立たせる。時々本当に泣いてしまいそうになりながらも、私は映画が面白くて仕方ないと思っていた。もう全てを見た気になっていたのに、世の中にはまだ私が知らないことが沢山あるんだと認識させられた。ちなみに雪菜の指は、結局ついぞ私たちから離れることはなかった。
会場を出た私たちは、それまでは暗くて分からなかったけれど、雪菜の眼が少し赤いことに気がついた。鏡で見る私の瞳とはまた違う、充血したような赤さだ。それを見た私と千鶴の視線に気付いた雪菜は、和服の袖で口元を隠し「ふあ~、夜更かしはするものではありませんね。眠くて仕方なかったですよ」とわざとらしく欠伸をしながら呟いた。私と千鶴はあえてそれに触れることなく、雪菜に見えない位置で顔を合わせて笑った。
シネマを出たころにはもう日は傾いていて、街は夕日によって赤く染められていた。その景観はとても神秘的で綺麗だが、どこか言い知れない寂しさのようなものを感じさせる。
きっともうすぐこの楽しい時間が終わってしまうのを、私は認めたくないんだ。
「じゃあ、そろそろ時間ですし帰りましょうか」
雪菜が駅前の時計を見ながら言った。
「そうしようか。今日は久しぶりに羽根を伸ばしたからな。朝も早かったし、帰るにしても丁度いいだろう」
ついで千鶴が、大きく伸びをしながら同意した。
私もそうだねと言えればよかった。けれど口からはどうしても言葉が紡げない。別に帰るのがイヤなわけじゃなかった。ただ、この時間を終わらせてしまうのが勿体無いような気がしたのだ。
反応のない私を訝しんだ雪菜と千鶴は、二人して顔を覗き込んできた。
「どうしました、吸血鬼さん」
「いや……別になんでもないけど」
「そうか。ならそろそろ帰ろう。この季節は日が落ちるの早いんだ。あっという間に夜になってしまうぞ」
歩き出そうとする二人の後を、私は追いかけることができなかった。
なんて言えばいいんだろう、上手く言葉にして言い表すことができない。私の今の気持ちが、テレパシーみたいに伝わってくれればいいのに。
そんな私の耳に、二人の声が聞こえた。
「帰りますよ、吸血鬼さん。全く今日は、楽しいホラー映画を見させてくれました。今度はあの予告で見たSF映画なんか見てみたいですね」
「そうか? 私はどちらかと言えば、あのアクション映画のほうが見てみたいんだが。次に行くとしたら、絶対にアレにしようよ」
「そうですね。とりあえずこのままでは平行線ですから、仕方なく吸血鬼さんの意見も聞くとしましょうか。とにかく次はお二方が可哀想ですから、ホラー映画だけは止めておきましょう」
俯いた私に向けられた言葉があった。
そして顔を上げた私を本当に子供でも見るみたいな目で見つめる、雪菜と千鶴の姿があった。
私のほうがずっとずっとお姉さんなのに、今だけは二人のほうがきっともっとお姉さんみたいで。
聞こえてきた言葉は、本当に意図のない自然なものだ。今度はとか、次にとか、そんな当たり前のように話されるのが泣きそうなぐらい嬉しくて。私の楽しい時間は今日で終わりなんじゃなく、ただそのうちの一つが終わっただけに過ぎなくて。
これからも楽しくて仕方のない日々が、私を待っている。だからこんなところで歩みを止めている場合じゃない。
「――うんっ! 帰ろうか、雪菜、千鶴!」
不思議と身体が軽くなったような気がした。それはきっと錯覚だろうけど、その気の迷いが今はただただ愛おしかった。
二人の間に割って入るように追いついて、そのままの勢いで彼女らの腕に抱きついた。左手には雪菜の腕があって、右手には千鶴の腕がある。冬の寒さなんか目じゃないぐらいの、人の温もりを感じる。
雪菜と千鶴はそんな私を呆れたような、同時に仕方なさそうな目で見て苦笑した。
帰路につく私たちを夕日が照らし、その影が細長く伸びている。三人で並んで歩くその影は、まるで仲のいい親子のようにピッタリとくっついていて、それがまた嬉しかった。
今日が終わっても明日がある。明日が終わっても、明後日がある。
一日が終わるということは、また一日が始まるということだ。だから寂しがっているヒマなんてないんだ。なぜって、また私たちはいつでも出かけることができるのだから。
「ねえ、また来ようね」
ポツリと呟く。
雪菜はバカにしたようにかぶりを振って言う。
「もう次のことって、貴女どんだけですか。元気さだけが取り柄の女は、今時流行らないですよ」
続いて千鶴が、わがままを言う妹をたしなめる姉のような顔をした。
「分かった分かった、また来よう。今度は遠出してみるのも、面白いかもしれないな」
それは三者三様だったが、でもみんな例外なく笑っていた。呆れたように笑うのも、仕方なさそうに笑うのも、そしてバカみたいに笑うのも。相手をどこか幸せにすることができるのなら、それだけできっと笑顔と呼べるだろう。
こうして私の始めての買い物兼お遊びは終わった。
例え、これから気の遠くなるような時間を生きたとして、そしてその中で今日よりも楽しい一日があったとして。
――それでも私は、きっとこの日のことだけは忘れないと思う。
今日は私だけの小さな記念日になった。
雪菜や千鶴は知らないだろうけど、私にとっては大事な日になったんだ。
なぜなら今日は。
私にとって初めて出来た『女友達』と、楽しく出かけた日になったんだから――