其の二 『投合』
あれから何が起こったかを話そう。
金色の髪と深紅の瞳をした少女は、自らを胸を張って吸血鬼と名乗った。そこまで良いとしよう。不覚にも見惚れてしまうような優雅な笑みを浮かべ、凛とした態度で俺と向き合ったところまでは良いとしよう。
しかしそれからが最悪だった。
彼女の白い顔が、さらに白くなっていくかと思うと今度は青くなり、えずいた挙句にうずくまって、道端に戻してしまったのだ。
困惑する俺を他所に、酔っ払ったとしか思えない呂律の回らない口調で「気持ち悪い」を連呼するものだから、呆れも怒りも通り越して、最早泣きたくなる有様だった。
一難はまるで類が友を呼ぶかのように次の一難を呼ぶものだ。そういう人に見られたくないときに限って第三者と遭遇してしまう。
……サラリーマン数人だ。恐らく仕事帰りに同僚と飲みに行っていたのだろう。とにかくそんな彼らが俺と、蹲って気持ち悪そうにする少女とを明らかに不審そうな目で見るものだから、誤魔化す意味もあり、とりあえず介抱しなければならない雰囲気になってしまったのだ。
やがて俺たちは、一番身近にあった休憩できそうな場所にチェックインした。そう、チェックインするのが多分一番良かったんだ、と思いたい。
そんな語るも涙、聞くも涙の果てに俺たちがいるのが――ラブなホテルというわけだ。
真面目な話、こういうホテルは身分証明書の提示が要らない為に、こういった事態には最適なのだ。ビジネスホテル等と違って面倒な手続きはいらない上に、例え夜間だって滑り込みでチェックインできる。シャワーもあるしベッドもあるし、食料もある。多少装飾過多なところを除けば、十分過ぎるほど急造のアジトになると思う。
それに――あの女を放っておくことはできない。誰彼構わず襲い掛かるような存在を野放しにすると、大家さんや雪菜たちにも被害が及びかねない。雪菜はともかく、大家さんには世話になっていることだし、こんな事で恩返しをしようというつもりではないが、危険な芽は少しでも摘んでおいたほうがいいだろう。
何より血を問答無用で吸われた俺自身がこのまま、はいさようならと何事も無かったかのように済ませたくない。
問題のあの少女Aだが、現在はシャワーを浴びている。マトモな生活をしていなかったのか薄汚れていたし、なぜか酒気を帯びた口調で泣きながら俺を責めてくるものだから、鬱陶しくてシャワー室に叩き込んだのだ。大家さんの絡み酒の次は、なぜか泣き上戸。
全くもってツイてない。せっかくいい感じで酔っていたのに、これでは興ざめだ。
「はあ……マジですいませんでした」
何か悪いことでもしたのかと思い、とりあえず神だか悪魔だか願いを叶えてくれそうな何かに謝ってみた。
「いいよ、許してあげる。それにしてもあなたって案外いい人なんだね」
答えが返ってくるはずのない謝罪は、なぜかホクホクと気分の良さそうな例の少女Aに許された。シャワーを浴びて機嫌が直ると共に酔いも覚めたのか。バスローブを着て、おまけに手にはコーラを持っていた。もちろん金を払うのは俺である。
「ああ? ……っ、てめえ! なに勝手にドリンク飲んでんだよ、それ有料なんだぞ! 俺も我慢してんだよ。ていうか誰もお前に謝ってなんかないんだよ、バカが」
「まあまあ、固いこと言いっこなしだよ。それにほら、こんな綺麗なお姉さんの色っぽい姿を見れたんだから、役得でしょ?」
謎の少女Aはえへへと笑いながら、くるりと一周してみせる。
バスロープの裾がふわりと浮いて、引き締まった白い太ももが見えた。まったく、故意的なサービスシーンであることこの上ない。
まだ乾ききっていない金色の髪は、結われることなくストレートのまま下ろされていた。
「とりあえずコーラ持ってる時点で色気半減。あとお姉さんってお前、明らかにまだ成人してないだろ。微妙に幼さを醸し出すそのツラでよく言えたもんだな」
「口が悪いなぁ。それに私ってさ、こう見えても百年は生きてるんだよ。へへーん、どうかな? 私のほうがお姉さんだね」
そこそこでしかない胸を逸らして、可能なら鼻を伸ばしていそうに威張る。
どうツッコンでいいやらと思考していると、少女Aは手に持っていたコーラの瓶をぐびりと傾けた。さらにぐびりぐびりと。……なるほど。とりあえずこの女にお姉さんと言われることは不快だな。
「へえ、割と年増なんだな泣き上戸。酔っ払ってんじゃねえぞ、このバカ。俺と会う直前はひとりで晩酌でもしてたのかよ」
「――え」
瓶を傾けたまま少女Aの動きが止まる。けれど中身はそのまま彼女の口へと吸い込まれ、空になる。
コーラの瓶がただのガラスの塊になった瞬間――ピシっと危なっかしい音がした。瓶に幾筋かの亀裂が走ったのだ。
うわ、凄い握力――とか言うと更に怒りそうな予感がして面白そうだったが、これ以上面倒ごとを増やしても仕方ないと思い踏みとどまった。
「……あなたはいま、私が嫌いな三つの言葉のうち、偶然にも二つを言い当てたよ。その恐らく誰にも見破られないであろう、私の弱点を見抜いたあなたの洞察力には素直に感服するよ。でもね……知ってる? 殺人を犯した人間の大半はこういうそうだよ、カッとなってやりましたって」
ヒビの入った瓶をテーブルに置く。
少女Aはなにやら俯いたまま、まるで呪詛でも唱えるかのように呟く。その体が震えているのは何故だろうか。俺には分からない。
「ふーん。んで、何が言いたいわけ?」
「カッとなってやりました」
「いやまだ殺されてねえよっ!」
思わずツッコンでしまった。
ていうかレベルの低いやり取りだな、おい。
「だってだってー! まさかあなたがお酒飲んでるなんて思わなかったんだもん! アルコール摂取した人の血を吸うと、私も酔っちゃうんだよ、悪い!? それに夜道を一人バカみたいに夜空見上げて歩いてたら、襲ってくださいってアピールされてるって思うじゃない! この、えっと、白髪頭っ!」
子供のように足をジタバタさせながら喚く少女A。
とりあえずこの少女のことで分かったことがある。
一つ――頭が悪いというか、精神年齢が気持ち低いということ。
二つ――ややお年を召していること。
三つ――とにかく泣き上戸であるらしいということ。
……最早警戒しているのもバカらしくなって、違う意味で頭を抱えたくなってきた。
「寝言は寝てから言えよ。さっきまでの俺は、誰がどう見ても気持ち良さそうに酔っていた――つもりらしいぞ」
「ウソだよ。素面の人よりも素面だった」
「まあ確かに、表情や態度には出ないと言われたことはある。が、何はともあれお前が俺を襲っていい理由なんてねえぞ。自称吸血鬼さんよ」
「やっぱり他の人にもお酒飲んでるようには見えないじゃないっ! ――ていうか、ちょっとちょっとっ! 人をそんな吸血鬼に憧れる危なそうな人みたいに言わないでよ。私は吸血鬼だってば」
「ふーん。吸血鬼なんだ。ああ、じゃあそれは分かった」
話が一向に進まないので、とりあえず適当に相槌を打ちながら備え付けの冷蔵庫を開ける。なんとなくだが、俺もコーラが飲みたくなったからだ。
反応が無いと思って振り返ると、少女Aはきょとんとした表情を浮かべて「わ、分かったならいいんだよ」と張り合いなさそうに呟いた。
「……私が言うのもなんなんだけど、どうしてそんな簡単に信じてくれるの?」
「どうしても何も、会ったことがあるからだ。吸血鬼に」
人生生きていれば色々とあるものだ。
事実は小説よりも奇なり。この言葉は本当に言い得て妙だと思う。
「そうなんだ。どうりであんまり驚かないと思った」
「お前こそ、俺がこんな簡単に信じて驚かないんだな」
「吸血鬼って意外と多いからね。吸血鬼に会ったことある、なんて言う人は一杯いるし。ただ吸血鬼の存在を見て、信じる人はいても、その話を聞いた周囲の人間が信じていないだけ。だからきっと吸血鬼は伝承の存在に留まっているんだろうね。とまあ、すんなりとあなたが信じてくれて余計な手間が省けるよ。――で、今度は私が聞きたいんだけど、いいかな」
蓋を開けて、キンキンに冷えたコーラの瓶をあおる。強烈な炭酸に少しだけ涙が出た。
「あなた……なんなの?」
空気が凍ってしまったのではと錯覚する。それほど冷たい敵意の発露。
少女Aの体勢も、俺の態度も、何一つとして変わってはいない。ただ俺に向けられた彼女の赤い双眸が、何か危険なものを注視するかのように細められていた。
「……人間だよ。もっとも、昔は捨て子だったのを養子として拾われたもんなんで、お前とは違い胸を張って自分はなんだとは言えないけどな。まあ多少、戦場にいたことがあったんで、普通の人間よりは争い慣れしてることは認めるよ」
「戦場?」
「傭兵だよ。元傭兵……っておい、なんだそのツラは」
「ぷっ、だって傭兵って……ぷぷぷ」
「吸血鬼だと聞かされて笑わなかった俺を前にしてよくそんな反応できんな、おまえ?」
傭兵って言えば格好良く聞こえるが、実のところ民間軍事会社の派遣社員的な扱いだった。やってることはぜんぜん違うが、形態的には日本のサラリーマンと大差ない。ただ海の向こうでは、ペンと紙を使った商談よりも、銃と爆弾を使った殺し合いのほうが需要があったというだけの話。
「まあ笑われても仕方ないような、ただの雑兵だったけどよ。でもなんつーの、世界中、どこかで人は人と殺し合ってるわけじゃん。正義も悪もない。ただ利益のためだけにな。国のお偉いさんの思惑のためだったり、どこぞの武器商人とかがぼろ儲けするために。でもそんな腐った戦地でしか食い扶持を稼げないやつってのも必ずいるもんだ」
言ってコーラを再び口に含む。
今度はすぐに飲み込まず、頬を膨らますぐらい口内に貯めてみた。炭酸が弾ける音が口の中から聞こえてくるのが面白い。しゅわしゅわって感じ。でも歯が溶けたら嫌なので少ししてから嚥下した。
少女Aはしんみりとした顔をして、目線を泳がせていたが、しばらくして遠慮するような口調で言った。
「……そうなんだ。人間社会のことはよく分からないけど。でもあなたを拾ってくれた人もいたんでしょう? なんで傭兵? いや雑兵? まあどっちでもいいや。その雑兵になったの?」
「……俺は別に傭兵に誇りなんぞないが、とりあえず傭兵と雑兵の二つのうち、雑兵を採用するのだけは止めろ。――まあ、簡単な話だ。……死んだんだよ、みんな。それなりに裕福で、優しくて、気のいい人たちばかりだった。でも死んだんだ。んで、ひとりぼっちに逆戻りさ。その挙句にきっかけがあって、傭兵なんてのを格好つけてやってた。思えば、いつ死んだっていいって思ってたんだろう。まあ簡単に死ねなかったから、今ここにいるんだけどな」
そこまで言って、なぜ俺はこんな今日会ったばかりの少女A――もとい吸血鬼Aに、大家さんや雪菜たちにさえ教えていない事を口走っているのかと自問した。
この場の雰囲気?
相手が人間ではないから?
――よく分からない。
「へえ、傭兵? をやってんだよね。でも元ってことは、今はなにしてるの? ヒモ?」
「……だからなんで、そういう言葉だけは知ってるんだよ。何でも屋だよ、何でも屋。元々、傭兵時代の稼ぎで、今のアパートでなら一代働かないで暮らせる程度の金はあるんだ。まあだから、何でも屋は趣味っていうか、とりあえず仕事みたいなことはしとかないと立場的にっていうか」
「へへー、日本語を覚える際に使えそうな言葉はピックアップしてたんだ。――ねえねえ、それより何でも屋って、本当に何でも屋?」
身を乗り出して、やけに食いついてくる吸血鬼A。
なんとなく――嫌な予感がした。こういうときの予感って大概が当たってたりするんだよなぁ。
「まあ何でも屋だから、何でも屋だろうな。んで、それがなに」
「それってさそれってさ、私も何かお願いしていいのかな?」
嫌な予感、的中。
「あ? ……まあ報酬次第だな。仕事の内容に見合った報酬じゃなきゃ、俺は引き受けない主義だ」
ちなみに今言ったのは口から出任せである。本当は仕事を選りすぐり出来る立場ではない。
それなのに吸血鬼Aはやけに真剣そうな顔でうーんと唸ったあと、ポンと手を叩いた。
「それならさ、一つお願いがあるんだけど、いいかな」
「……言ってみろ。とりあえず聞くだけ聞いてやる」
タダだしな。
「私、帰るとこないんだけど、どうしたらいいかな」
「…………」
俺が聞きたい。とは言えない雰囲気だった。
言葉に詰まる。しかし期待に目を輝かせる吸血鬼Aを見ていると、どうも適当な返事をしては人間として失格だと思えてくる。
――そういえばと脳裏によぎるものがあった。
俺が住んでるアパート、名を暦荘。バカみたいな変人ばかりが集まるくせに、なぜか人気のある暦荘の最後の空き室が、これまた何故か埋まらないという話を。
元々それの愚痴に付き合うために、さっきまで大家さんと飲んでいたわけだし。
「でもなぁ……こいつ絶対、間違いなく、神に誓って家賃とか払えないだろうしなぁ」
「え、なになに? 私、どうすればいいのかな?」
「お前アパートって知ってるか? 家賃って知ってるか?」
「ちょっとちょっとっ! それぐらい知ってるってばっ! さすがにあなた、私を侮りすぎてるってば!」
どうやらアパートや家賃という言葉は知っているらしい。こいつはどうも日本語を流暢に話せる代わりに、どこか間違った言葉遣いやら、知っていないといけないことを知らなかったりするからな、要注意なのだ。
「いや、俺そのアパートで一人暮らししてるんだけどさ。暦荘ってんだけど、最後の空き室が埋まらなくてよ」
こう言えばなんとなく喜ぶような気がしたのだが、予想に反して、吸血鬼Aはしゅんと背中を丸めて俯いた。
「……そっか。そうだよね。ちょっと忘れてたよ。あなた、わたしと同じなんだよね」
ボスっと小気味よい音。吸血鬼Aがベッドに倒れこんだのだ。
彼女は大の字になって、天井にある鏡を――いや、そこに映った自分の姿を見つめていた。
急な落差にすこしだけ戸惑う。
「ああ? なにがだよ」
「ひとりぼっち、かな」
「…………」
どうも、一人暮らしという単語に反応したらしい。
吸血鬼Aは寂しげな、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
無邪気で屈託のない――人懐っこそうな笑顔。まるで誰もいない無人島で、もう一人の遭難者を見つけたような、そんな安心感を覚える微笑み。
コーラを飲み干してしまおうと手元の瓶を見る。するとガラスの容器に反射した白い髪の男は、どこか吸血鬼Aと似たような笑みを浮かべていた。
彼女に聞こえないぐらいの小さな舌打ち。
舌打ちをしたのは不覚にも笑みを浮かべてしまったから。
それを小さく自分にだけ聞こえるようにしたのは、こんな不快な音であの無邪気な笑顔を曇らせたくなかったから。
「ねえ、あなた――じゃあ面倒だね。名前教えてよ」
反動をつけて上体を起こした吸血鬼Aは、相変わらずの人懐っこそうな笑顔を浮かべていた。
人じゃないヤツが人懐っこそうに笑うのは、やや皮肉が利いていると思った。
「……宗谷士狼。漢字はこうだ。十秒で覚えろ」
まだ少し中身が残ったコーラの瓶を置き、備え付けられていたメモ用紙に、備え付けられていたボールペンで名前を書く。
宗谷という名は育ててくれた家の人たちが最初に俺に与えてくれたもので、士狼という名は俺を生んで置いていった人が最後に残したものだ。
「あ、ちょっと待ってよ、せめて一分ぐらいないと無理だってば! えーと。そうや、しろう……? しろう、士狼か。うん、覚えた覚えた。いい名前だね、士狼」
吸血鬼Aはきっと――俺の名前が、親たちから残してもらった最後のものだと分かっていたのだろう。だから呼ぶことに躊躇などしないし、笑顔で褒めてくれたのだ。
「ありがとうよ、吸血鬼A。んで、お前名前なんていうんだ?」
「え、ちょっと待ってもらってもいい? なに吸血鬼Aって。もしかしてわたしのこと?」
「もしかしなくてもお前だ。他にAさんに成り得そうな候補BさんやCさんがいるか? さっきからお前のこと、心の中で十回ぐらいそう呼んでたぜ」
「ひっどーい! わたしにもちゃんと名前ぐらいあるし! 絶対あなたよりいい名前だもんっ!」
「じゃあ、さっさと教えろよ、お前の名前」
何故か照れくさくて、挑発染みた聞き方になってしまった。……ガキじゃあるまいし、名前を聞くぐらいで何を緊張しているのか。
すると先ほどまでの怒りはどこに行ったのか。
吸血鬼A――もとい、
「シャルロット。パパが最初に与えてくれて、最期まで呼んでくれた名前だよ。綴りはこう、はい、十秒で覚えてね」
金色の髪と赤い瞳をした少女――シャルロットは、自らを吸血鬼と名乗ったときよりも尚誇らしそうに、そう言った。
「――いや待て、横文字は反則だろっ! しかもこれドイツ語じゃねえか! せめて一分にしろ!」
「仕方ないなぁ、士狼は。ちゃんと……えへへ、ちゃんと覚えてね」
俺が書いた文字――宗谷士狼という名前の下。
意外と綺麗な筆跡で、シャルロットという名が書き込まれたのだった。
「でさ、士狼。ここ何処なの? 無駄になんていうかこう、アダルティックだよね」
あれから時が経つことしばらく。
今更のようにシャルロットは、キョロキョロと忙しなく視線を泳がせながら言った。
「知らないのかよ。ホテルだホテル。ラブラブだよラブラブ」
「ホテル……? それって人間が宿泊するやつだよね。するとラブラブってなに? 意味は分かるけど、ホテルって言葉にラブラブがつく意味が分からないんだけど」
面倒は面倒を呼ぶものだと思った。
別にこの場所のなんたるかを教えたところで俺は痛くも痒くもないが、連れ込んだ俺自身に何か非難が浴びせられそうな気がする。
――いや、この女の性格からして、間違いなくあらぬ誤解をした挙句、またボキャブラリーの少ない悪口で俺を罵るに決まってる。
「ねーねー、黙ってないで教えてよー」
「うるせえなバカ吸血鬼。……そこまで言うなら教えてやるよ」
すっかり気の抜けたコーラ。その最後の一口を飲みこみ、空き瓶を脇にどけて顔を寄せた。
「ここはな……」
「ふんふん、ここは?」
興味津々と瞳を輝かせたシャルロットの耳元で、ゴニョゴニョとなるべく詳細に聞かせてやる。どうせだからと、公道で呟けば警察が飛んできそうなほど卑猥に。
すると赤い瞳から、輝きが消えるのに十秒もいらなかった。白磁のような白い肌が、怒りと羞恥に赤く染まるのにはそこから逆に十秒かかった。そして白魚を連想させる指と見せかけて、もはや弓を思わせるほど鋭い突きが放たれてくるのは、シャルロットが赤く震えた五秒後の話だった。
「うおっ! あぶなっ、何すんだよ! お前が教えてくれって言ったから、親切に教えてやったんじゃねえか」
「カッとなってやりました」
「だから殺されてねえよっ!」
そのあと憤怒と羞恥に薄っすらと涙を浮かべたシャルロットをなだめるのには五分かかった。長いのか短いのか、よく分からない時間だ。
とりあえずこのバカで無邪気な吸血鬼に対する脳内プロフィールに、泣き虫と付け加えねばなさそうである。
二人して無駄に部屋中走り回ったせいで、お隣さんにはさぞ激しく愛し合っていると思われていそうだ。
だが待って欲しい。それは甚だ心外である。俺はもっと全てを包み込んでくれるような大人の女性が好みなのだ。そういう意味では、大家さんは正に理想の女性だったり。
なんだかんだ言っているうちに腹が減った。一応金には余裕あるのと、シャルロットが決して認めようとはしないが腹を鳴らしていたので、とりあえずルームサービスでチキンカレーを二つ頼んだ。
無駄な出費だったが味は悪くなかった。何よりシャルロットが例の人懐っこそうな笑みを浮かべて食うものだから、それだけでも金を払った価値があると思うことにした。
しばらくして、シャルロットがシャワーを浴びてる間に洗濯機に突っ込んでおいた服が乾いたので、さっさと着るように指示した。
さすがにいつまでもバスローブでうろつかれては目の毒だ。目の毒なのだ。保養などとは思っていない。
食後、シャルロットが口ではなく目で俺に「みたらし団子が食べたい」と訴えかけてくるので、更に追加オーダーをすることになった。
そしてやはり笑顔を浮かべて、一つずつ団子を頬張るその姿を見ながら、
「なあ――お前、なんで俺の血吸ったんだ?」
なんだかんだで答えてもらっていない疑問を口にした。
ん? とベッドの上で胡坐を掻き、団子を咀嚼しながらシャルロットは、
「そうだねー。あ、そういえばわたしAB型の血が一番好きなんだ。士狼、ちょべりぐ!」
ぐっ、と親指を立てる。
まさに音がしそうなほどにナイスなサムズアップであった。
「お前バカのくせに余計な言葉だけは知ってるんだな。それ俺以外に言わないほうがいいぞ。多分、温かい目で見られるから」
「……? まあよく分からないけど、士狼がそう言うならそうするよ。で、なんで血を吸ったかって話だったよね」
むぐむぐ、と串から抜き取った団子を食べるシャルロット。
やがて彼女はごくんと団子を飲み込み、串を持っていないほうの手を拳にして、顔の高さぐらいにまで持ってきた。
いい? と人差し指を立てる。
「まず言っておこうかな。吸血鬼っていうのは、別に血を飲まなくても死にはしないの。血が絶対に必要ってわけじゃないから、無理に人間を襲う必要もない。その気になれば、直接人間から血を吸うよりも摂らないといけない絶対量は多くなるけど、輸血パックのようなものからでも血は飲める。効率は悪くなる上に高い額のお金がかかるし、あと不味いけどね」
「はあ、まあ好みの話はどうでもいいや。んで、じゃあなんで危険を冒してまで血を吸うんだ? 血を飲まなくてもいいなら、わざわざ誰かを襲わなくてもいいじゃねえか。誰かに見つかるかもしれない分、むしろ自分を危機に晒してるんじゃないのか?」
「もっともな意見だね。うん、確かにそうなんだけど。でも、やっぱり吸血鬼は血を飲まないと危険なんだ」
最後の串に刺さった団子をまるで生き別れる予定の姉妹でも見るかのような目で眺めたあと、シャルロットは泣く泣くという表現がピッタリの哀愁漂う動作で口に含んだ。
結構な時間をかけて団子を咀嚼し、ごくんと飲み込む。どうもお別れを告げるためか、普段よりも長く味わっているらしい。
本当にバカである。
「はー美味しかった。ありがとね、士狼。
まあ、それで話の続きなんだけど。吸血鬼が血を飲むのはね、生きるためじゃなくて――自分の能力を維持するためなの。例えば電車よりも速く走れる吸血鬼がいたとして、その吸血鬼は別に血を飲まなくても死にはしないけど、血をしばらく飲まないと走る速さは街中を走る車ぐらいになっちゃうんだ。要するに、血を飲まないと吸血鬼としての力を維持できないんだね」
「へえ。原理は知らねえけど、上手くいかないもんだな」
「……そうだね。血は美味しいけど、そこに行き着くまでの過程が面倒かな。まあそれでも頑張るしかないんだけどね。
結局のところなんだけど、血を吸わない吸血鬼は最終的に『生物学的には吸血鬼だけれど能力は人間以下』みたいな存在になっちゃうんだよ。つまり吸血鬼としての弱点もある上に、人間以下の力ってわけ。私たちの弱点を、人間以上の力で守っているから釣り合いが取れてるのに」
「弱点? 吸血鬼に弱点ってあるのか? お前さっき昨日ニンニクラーメン食べたとか言ってたし、鏡だって普通に見てたじゃねえか」
吸血鬼が一般的に弱点といわれている事柄を思い出す。
有名なのでいうと、十字架やニンニク、日光が苦手というものだ。他にも川などの流れている水を超えられなかったり、初めて訪問した家ではその家人に招かれなければ侵入できないなどの話がある。
しかしシャルロットを見ているかぎり、上記に挙げた典型的な弱点があるとは思えない。むしろ寒いからと、日向で日光浴してそうなタイプのヤツだ。
「まあ今、士狼が考えてそうな弱点はないよ。それはきっと、伝承に語られる吸血鬼の伝説を面白おかしくするために、後の人たちが付け加えていったものだろうね。
でもね、全く大嘘ってわけじゃないよ。吸血鬼って視力が高くて夜目が効く分、日光を直接見ちゃうと瞳が痛くなるし。パパ……じゃなくて、とある有名な吸血鬼がニンニクが嫌いだったっていう話があるから、それが弱点だろうと広まったんじゃないかな?」
「いや噂の発生源の一つはおまえのパパかよ」
「えへへー、まあとにかく噂になりうる根拠や原因はあるんだけど、別に致命的な弱点の類はないよ。だから人間が私たちの弱点を脚色していったの。吸血鬼という悪役には、分かりやすい弱点があったほうが都合がよかったんだよ、きっと」
自嘲気味に歪むシャルロットの笑顔は、あんまり好きじゃないと思った。
「……じゃあ、お前のいう、吸血鬼の弱点ってなんだ?」
「吸血鬼狩り」
一拍置いて、一言。
それはある意味、ああ、とそのまま納得してしまうような分かりやすさを持った言葉だった。
「吸血鬼狩り、か。なんかそれっぽいのが出てきたな」
「でしょ。ヨーロッパで大規模に行われた魔女狩りほど、吸血鬼狩りは公に行われていないけれど、やっぱりあるにはあるんだよ。
トランシルヴァニアを発端、拠点とし、色んな目的を持った奴らがそこに集まり、それを達成するために志願するの。中には同族も多くいたりもして、大変なんだよ? 吸血鬼ってのは特有の気配や血の匂いを持っていて、強い力を持った同族には居場所がバレちゃうの。まあ吸血鬼狩りにも色々と制約があったりして、吸血鬼と接触していいのは夜だけとか、新月の日は駄目だとかあるんだけどね。むしろ吸血鬼狩りみたいにある程度統制されてる組織ならまだマシなほうかな? 見つけ次第、即襲ってくるわけでもないしね。それよりも、フリーで活動しているようなヤツらのほうが何しでかすか分からない分、怖いかな」
「マジかよ……。ちなみに聞いておきたいんだが、お前が今ここにいるって、その吸血鬼狩りとかにバレたりはしないのか? 時間帯的にも、お月様的にもジャストミートじゃねえか」
「どうなんだろうね。バレてたりしてっ」
「いや、ウインク下手だなお前。しかも割と笑えねえよ」
数瞬、携帯が震えていることに気がつく。
別に下手じゃないよーと俺の背中をシャルロットが叩いているが、気にしないことにした。なんだかんだで、俺もこの吸血鬼が気に入り始めていて、こういったやり取りが面白いと思っていたからだ。
携帯を開くと、ディスプレイには”高梨沙綾”と表示されていた。ちなみに大家さんの本名である。
俺は携帯に誰かのアドレスを登録するときは、必ずフルネームで登録しないと気が済まないのだ。
「はい、もしもし。宗谷ですけど」
なんだかんだと俺が住んでいる暦荘を出てから二時間近くが経過していた。
大家さんは待ちぼうけて怒っているのかとも思ったが、どうやら俺が家を出た後すぐに寝てしまい、今さっき起きたばかりらしい。
「いえ、すみません。ちょっと酔っ払いを介護してまして、はい、はい」
「え、その電話だれから? ていうか酔っ払いって私のことじゃないよね、ね? それになんで私とは違って、そんな丁寧な口調なの?」
今度は後ろから両肩を捕まれ、前後に揺さぶられる。落ち着けよ吸血鬼。
「まあ待て。お世話になってる大家さんだ、大家さん。それに俺は礼儀正しい人間なんだよ。な? だからちょっとだけ待ってろ。――ええ、はいすみません。え、今夜ですか? あーちょっとすぐに帰れるかどうか、うーん。面倒な仕事引き受けちゃったっぽい雰囲気なんで」
電話口に手を当てて、小声でシャルロットに釘を刺す。拾った酔っ払いが、若い女だと知られればあらぬ誤解を招くと思った判断からだった。
つまらなさそうな顔で、唇をとがらせてシャルロットが離れていく。そのまま部屋を忙しなく歩き回っていたが、やがてピタリと動きが止まった。
「……ねえ士狼」
「――はい、はい。だからですね、今夜は――」
シャルロットが俺の名を呼ぶのと、俺が用件を伝えようとするのと、それはほとんど同時だった。
――視界が消える。
清清しいほど遠慮のない暗闇。人工的な明かりを灯していた部屋が、ほんの一瞬で闇に呑まれてしまった。
停電――なんて、事故的なものだったら凄く嬉しいのだが。
「――帰れそうにないです。ええ、今から急用が入る予定なんで。……え? 日本語がおかしい? はは、んじゃそういうことで」
大家さんが返答する前に電話を切る。ついでに電源も落としておいた。
「ごめんね、士狼。やっぱバレちゃってたみたい」
「遅えよっ! 事後承諾すぎるだろっ!」
全てが影に包まれた世界。しかしこちらも視界が奪われたぐらいでうろたえる素人じゃない。
……気配がする。明らかに堅気じゃない。遠く離れても迸る殺気は、狩りを行う獣を連想させる。
「一難去ってまた一難って言葉を考えた人は絶対天才だな……」
どんな時もポケットに忍ばせていた、小さな折りたたみ式のナイフを取り出す。護身用程度のつもりだったが今はこれで十分だ。俺が遅れを取るわけがない。……なんて言ってみたりして。もちろん雑兵の精一杯の強がりである。
「士狼。いい?」
「それは俺の台詞だって。頼むからウケを狙ったことだけは止めてくれよ、シャルロット」
暗闇の中、背中を合わせて襲撃に備える。
一触即発の緊迫した状況にも関わらず、背後からなんとなく、例の人懐っこい笑みを浮かべた気配がした。
それで思い出した。
――あ、そういえば俺初めてコイツの名前呼んだんだった。