其の七 『買物』
次の日は晴天だった。
大晦日の近いこの時期は、つまりは冬真っ只中ということである。気温にすると一桁とかでもおかしくない勢いだが、今日は日差しが強いのと、風があまりないのとで、冬にしてはポカポカとした日だった。
私たちは、暦荘の前で待ち合わせることになっていた。
約束の時間は午前十時。少し早いと思わなくもないが、昼食などを向こうで適当に食べる予定なので、このぐらいの時間で正解なのだ。
ちなみに昨日夜更かしをしていたので、私はけっこう眠い。なんで夜更かししていたかと言えば……内緒である。あれは二人だけの秘密にしちゃうのだ。
自分の部屋で服を着替える。
持っていた服はほとんど無かったけど、この間雪菜や千鶴から着なくなった服をもらったりしたので、組み合わせを考える程度のバリエーションはある。
私はとりあえずエスニック柄のロングTシャツの上に、リボンのついたチェックのワンピースを着て、下はレギンスタイプのパンツをはいた。これだけでは寒いと思って、髪の毛は結わずにニット帽を被った。
姿見なんてシャレた物は当然ないので、小さな手鏡で頑張って全身をチェックした。自分で言うのもなんだけれど、結構可愛いんじゃないかと思う。
準備を済ませて外に出る。
扉を開けた瞬間、薄ら寒かったはずの家の中が天国だったと錯覚するぐらい強烈な冷気を感じた。やはりどれほど温かい日でも、冬は冬だなぁと思った。
私の部屋は二〇六号室なので、階段までは一番遠い。
途中、となりの部屋という位置上、士狼の部屋の前を通りかかった。なんとなく今の自分の姿を見せたいと思って、呼び鈴を鳴らそうかと考えたが、特に会う理由もないので止めておいた。
待ち合わせの場所である暦荘の前にはすでに、凛葉雪菜と姫神千鶴の姿があった。
「あーあ、どっかのクソ吸血鬼遅いですねー。――あ、シャルロットさん来てたんですか。行儀よくお待ちしてましたよ」
「いや今の絶対、階段を下りてる私を見てから言ったよね? 明らかに確信犯だよね」
雪菜は相変わらず和服だった。今から街に買い物に行こうというのに、当然のごとく和服である。もう私は違和感とか感じなくなっているのだけど、さすがに人の目があるところに行ったら浮くんじゃないだろうか。
ただ雪菜は着こなしが凄いので、知らない人からはどこぞのお嬢様が、金持ちの集うお茶会へ行くように見えたりするのかもしれない。
凛葉雪菜という女の子は、いつも和服を着ているという変わった子である。夜のように黒い長髪を腰まで伸ばしており、月のように白いきめ細かな肌は、精巧に作られた日本人形みたいでとても綺麗だ。
大和撫子という言葉をすぐさま連想させるような出で立ちで、黙っていればきっと異性は放っておかないと思う。……黙っていればの話だけど。
私は雪菜に挨拶を済ませたあと、千鶴に向き直った。
彼女はなんかカジュアルな服装で、デニムやパーカーといった男の子みたいな感じだ。しかしその飾り気のない素朴な服が、千鶴のスレンダーな身体と凄くマッチしていて、モデルみたいな印象を受ける。カッコイイ人は何を着ていても絵になるのである。
姫神千鶴という女の子は、一言で言うとすごくカッコイイ子である。その喋り方も相まってか、外見はやや中性的なイメージを受ける。肩程度まで無頓着に伸ばしたセミロングの黒髪に、少しだけ日に焼けた肌。本人曰く、髪や肌の手入れはほとんどしていないそうなのに、これだけ綺麗なのはズルイと思う。ちなみに身長は私たちの中で一番高い。
「遅れてごめんね、千鶴」
「いや、別にいいよ。私たちも今来たところだしな。ところでシャルロット、吸血鬼っていうのはもしかして」
千鶴の涼しげな笑顔が曇る。
やがて千鶴は生温かい眼差しで私を見たあと、妹でもあやすように頭を撫でてきた。
「吸血鬼だなんて、可愛いなお前は。そういう存在に憧れるのも分からないでもないが、せめて言うのは私たちの前ぐらいにしておいたほうがいいぞ」
「憧れてるんじゃなくて、私は吸血鬼だってば! 自称吸血鬼じゃないんもんっ!」
そう――私は自分の正体を隠してなどいない。もちろん大家さんや周防にも、吸血鬼だとカミングアウトはしている。
けれど皆、いたいけな子供を見るような目で私を見て、全然信じてくれていないのだ。
「ああ、分かったよ。そういうことにしておいてやろう」
「ちょっとちょっと、だから自称吸血鬼じゃなくて、私はホンモノの吸血鬼なんだってばー!」
「まあまあ、細かいことはいいじゃないですか。自称吸血鬼さん」
「――もう、いい。二人のことなんて、知らないから」
少し頭にきた。一言で今の自分の気持ちを表すのならば、私は拗ねた。
暖簾に腕押しというか、馬の耳に念仏というか。何を言っても千鶴たちは私の言うことなんて信じてくれない。雪菜は分かってるはずなのに、彼女も私にイジワルするんだ。……というより、さっきのことわざ、アレであってたかな。
歩き出す私の後ろに、ついてくる気配があった。千鶴はごめんごめんと妹でもあやすように、雪菜はやれやれと子供でも相手するかのように。私のほうが、二人よりもずっとずっとお姉さんなのに。
そうして私たちは買い物に出かけた。
まずは駅前の大きなデパートの中の、雪菜オススメの店に出かけた。アンティーク風な家具が、目玉が飛び出るかと思うぐらいの格安で売られている。三人でああだこうだと相談したりして、その中から適当に見繕っていく。
そのあと店を出て、目に付いた洋服店を片っ端からはしごしていった。ほとんどウィンドウショッピングみたいな感じで、店員さんには申し訳なかったけど、たまに気に入った服を見つけると手持ちのお金と相談して買ったりした。
雪菜と二人で選んだフリフリの可愛らしい服を、恥ずかしがる千鶴に着せてみたりして。その姿を携帯のカメラで雪菜に撮られた千鶴は、泣きそうな顔で「消してよぉ、雪菜ちゃん」と捨てられた子犬みたいになっていた。
やがてお昼が過ぎて、私たちは千鶴が学校の友人とよく行くというイタリアンレストランにやってきた。
千鶴の学校はこの辺りでは結構なお嬢様学校らしくて、こういう上品な店にも割と来るらしい。オシャレな内装と、ゆったりとした音楽の流れる落ち着いた雰囲気の店で、料理の美味しさとは裏腹に値段はかなり安かった。
食後、セットでついてきたホットのコーヒーやら紅茶やらを飲んで、私たちは一息ついていた。
「――いいお店ですね。可愛らしい千鶴ちゃんにピッタリです」
「ぶふぅー!」
紅茶を飲んでいた雪菜が、出し抜けにポツリと呟いた。
彼女の言葉を受けて、足を組んで瞼を閉じ、格好よくコーヒーを飲んでいた千鶴は噴き出した。むせたように咳を繰り返している。千鶴のとなりの席にいる私は、とりあえず背中を撫でてあげることにした。
私たちの向かい側にいる雪菜が、和服の袖で口元を隠しながら眉をしかめた。
「まあ、ダメじゃないですか千鶴ちゃん、女の子がコーヒーを噴き出すなんて。千鶴ちゃんの失態は貴女自身の損失ではなく、貴女を見る男性を失望させてしまうのですよ」
「ごほっごほっ! だ、だって雪菜ちゃんが急にあんなこと言うから」
「あんなこと? それは一体、どういったことでしょうか千鶴ちゃん。私はさきほど、何を口にしてしまったのでしたっけ」
唇に指を当てて、んーと首を傾げながら雪菜が言う。私から見ると、その態度は白々しいにも程があるのだが、むせて余裕のない千鶴にはどうもそう映らなかったらしい。
「え、いや、だから……その、か、可愛らしい、とか」
「なるほど、自分がそう表現されたという自覚はあるんですね。それにしても、そうやって照れながら告白する千鶴ちゃんは、本当に可愛いものです」
花のように微笑む雪菜。私にはその笑みが、意地の悪いものに見えて仕方なかった。
おろおろとする千鶴は、忙しなく視線を泳がせたあと、助けを求めるように私の肩を持った。
「な、なんとかしてくれシャルロット。私はもうすぐ限界だ、いや臨界なんだっ!」
顔を赤くしながら私を揺さぶってくる千鶴の必死な目は、ハッキリいってちょっとだけ怖かった。……ていうか臨界て。
私は小さくため息をついた。
「千鶴がこう言ってるんだし、イジメるのはその辺にしてあげなよ」
「失敬ですね、私は別に悪意を持っていたりするわけではないですよ。ただ、千鶴ちゃんを困らせてみたかっただけです」
「それがイジメっていうのよ、この自称陰陽師!」
「そうなんですか初めて知りました、自称吸血鬼さん」
ピリピリとした空気。私と雪菜は唸りながら睨み合う。千鶴はそれを見て、落ち着きを取り戻したように私たちの間を手で遮った。
他人の諍いを見ることによって、逆に冷静になったようだった。
「落ち着いて、二人とも。ケンカはよくないぞ」
「チ、相変わらず可愛い千鶴ちゃんですね」
「あわわ、だから違うんだってぇ……」
カッコよく私たちを仲裁しようとした千鶴は、雪菜の鶴の一声によって顔を赤くして俯いてしまった。
恐るべきはもちろん雪菜である。
「……ていうかさ。前々から思ってたんだけど、どうして雪菜は私に突っかかってくるのかな」
「そうですね。これは本当になんと言っていいか悩みますが、簡単に言っていいのでしたら、乙女の勘ですね」
「はあ、確かに私もなんて言い返したらいいか分かんないね」
「おまけに昨日、貴女は深夜に士狼さんの部屋にいたでしょう。ワラ人形が丁度切れていて運がよかったですね、もしかすると吸血鬼さんは今頃ここにはいなかったかもしれないですよ」
「え、何するつもりだったの?」
私が問うと、雪菜は和服の袖で口元を隠して、一言呟いた。
「呪い」
「ちょっとちょっと! 結構本気で怖いからそういうの止めようよっ」
なんとなく雪菜が言うと冗談にならなさそうだから困る。
「ちょっと聞いていいか。今雪菜ちゃんの口からチラっと聞こえたんだけど、昨日の夜シャルロットは宗谷の部屋にいたのか?」
「うん、いたけど。それがどうかした?」
私は純粋な疑問からそう聞いたのだけど、雪菜と千鶴はなぜかカチンとした顔をした。
「……それで。シャルロットはなんでわざわざ夜に、宗谷の部屋なんかにいたんだ?」
「なんでって言われても、ただ血を吸わせてもらってただけなんだけど」
「どうしても私たちに言いたくないのか、シャルロット。誤魔化す気満々じゃないか」
「ねえ、絶対信じてないよね? 絶対、千鶴って私が吸血鬼だっていうこと信じてないよね?」
やがて優雅に紅茶を飲んでいた雪菜が、カップを置いた。
「――ところで千鶴ちゃんに吸血鬼さん。お二方は、士狼さんのことをどのように思っているのですか?」
その問いかけに、千鶴はなぜか顔を赤くした。私もとりあえず考えてみる。すると昨日の夜のことが頭に浮かんで、なぜか私の顔も熱くなってきた。いけない、今絶対私の顔は赤いに違いない。
雪菜は私たちの顔を交互に見て、なるほどと頷いた。
「分かりました。千鶴ちゃんも吸血鬼さんも、士狼さんのことを遠からず想っていると。分かりやすすぎて張り合いがありませんね」
「雪菜は士狼のことどう思ってるの?」
「いやですね、私は別に士狼さんのことなんて何とも思ってません昨日の夜吸血鬼さんが士狼さんの部屋にいたことが羨ましいだなんてちっとも思ってないです、はい」
「絶対雪菜のほうが分かりやすいと思うよ」
それから三人して何故か黙る。きっと今、三者三様に頭の中で士狼のことを考えている。私だって例外じゃなく、今まであったことをゆっくりと思い返していた。
結論としては、分からない。少なくとも敵意や悪意を抱くことはありえないと言っていい。士狼は口が悪くて、少し乱暴なところもある人だけど、根はかなりのお人好しだ。それは私のような吸血鬼に親身になってくれたことからも分かるし、雪菜や千鶴が士狼を信頼していることからも分かる。
好意を抱いているのは間違いない。けれど好意という意味では私は、雪菜や千鶴に大家さん、そしてあの周防にだって好ましい気持ちを持っている。皆なんだかんだといい人ばかりだからだ。
でも、と思った。
昨日感じたあの気持ちはなんだったのか。人を愛するという感情はよく分からないけれど、それとも何か違う気がする。ただ分かるのは、凄く温かかった。もっと側にいたりとか、話したりとかしたいと思った。この気持ちは、一体何なのだろうか。
私は人を好きになったことがない。いや、人だけではなく吸血鬼といった、およそ自分と愛を育める存在に対して、その愛を自覚したことがない。
だから私は雪菜と千鶴に、人を好きになるとはどういったことかと聞いた。
「ふむ、ならばお聞きしましょう。士狼さんのことは好きですか?」
「それは当然好きだよ。士狼は、とってもいい人なんだもん」
「そうでしょうね。では次、周防さんのことは好きですか?」
「う――ま、まあ好き……なのか、な? うーんでも」
「なるほど。なんとなく分かりました」
雪菜はそれっきり、私に答えを教えてくれることはなかった。それから一人でよく考えてみたけど、私が士狼に持っている感情が何なのかはよく分からなかった。
ただハッキリと理解できるのは、彼の隣にいるのは凄く居心地がいいということだ。私も士狼がいなければ、暦荘に住もうなんて考えなかったかもしれない。
”あの人”が消えてしまって、それから私はずっとひとりぼっちだった。だからこんな風に、他人について考える機会なんて今までなかった。
故に分からないのだ。知識はあっても、経験が不足している。簡単に言えば、どうすればいいのかが分からない。
人を好きになるというのは、そもそも何なのだろう。好きという言葉は、恋人ではなくとも友人や肉親にも当てはめることができる。ならば愛ならどうかという話になるが、これも友人や肉親に適合する気がする。
私はこれからも士狼の側にいたい。けれど当然、雪菜や千鶴、大家さんに周防のとなりにも居たい。
気の遠くなるような寿命とか、不思議な力とかはいらない。だから願いが叶うのなら、みんなと一緒にずっと笑っていたい。
そんな簡単なことでさえ、神様はきっと許してくれないだろうけど。
「はーいこんにちわぁ。どうしたのぉ、思いつめた顔しちゃって」
私たちに声がかけられたのは、そんなことを延々と考えていたときだった。
顔を上げた私の目に映ったのは、どこかチャラチャラした感じの青年三人だった。赤とか金とかに脱色した髪の毛に、耳や鼻には大きなピアスが光っている。
彼らは遠慮のない態度で、私たちのテーブルの空いている席に座ってきた。
「キミらのことずっと見てたんだけどさぁ。いやーすっごくキレイだよね。だからーこうして声をかけちゃった次第、みたいな?」
ニヤニヤと笑いながら、私たちと距離を詰めてくる男の人。年はきっと雪菜たちと同じぐらいか、少し上だろうか。馴れ馴れしい様子からは、こういった行為が初めてではないことを伺わせる。
「見たとこキミらと俺ら、人数ちょうどピッタリだし、これからどこか遊びに行かね? 最近オレって車買ったばっかなんだよね。今ならもれなく、海岸線のドライブがついてくるよ。って聞いてる、彼女? さっきから思ってたんだけど、すっごく和服似合ってるよね。オレ実はキミみたいな子、めっちゃタイプなの」
雪菜にまるで寄り添うぐらいの距離まで近づいて、親しげに声をかける男。彼女はそれに意も介さず、黙って紅茶を飲んでいたが、やがてため息と共に面倒くさそうに呟いた。
「――うるさいです。貴方ほどの方たちに、私たち程度では釣り合いませんから、どうぞ他を当たってくれませんか」
「えーそんなことないって。だからいいじゃん、ちょっとだけでも遊ぼうよ」
業を煮やしたのか、男は雪菜の細くて白い腕を掴んだ。ちょうどカップを持っていた手だ。残り少なくなった中身が、その反動で揺れて零れそうになる。
その光景を見て、さすがに私は何とかしなくちゃと思い声をかけようとした。しかしタイミングを見計らったように、別の男が私の肩に手を置いてきた。
さするような動きが、吐き気がするぐらい気持ち悪かった。
「ねえ、キミって外人だよね? うっわぁ、やっぱ天然の金髪は違うね。肌だってすげえ白いし、眼も赤いんだ。初めてキミを見たときオレは正直、運命の人だって思ったね」
「ちょっと、離してよ。触らないでってばっ!」
「うーわ、日本語ペラペラじゃん。ねえねえ、外国語も何か喋れるんでしょ? なんかここで喋ってみてよ」
肩に置かれた手を振り払おうとするが、男が上手くかわすおかげで、中々離してもらえない。今まで感じたことのない感情が心に浮かんだ。
周防公人は上辺の軽い言葉で私に愛を囁いたが、それでも真心があった。あれは彼なりの一種のコミュニケーションみたいなもので、相手が本当にイヤがっているのなら、周防はきっと何も言ってこない。だから困惑はあっても、嫌悪や恐怖はなかったのに。
この男たちは違う。まるで品定めをするかのような、遠慮のない視線が身体中を這い回る。例えこの男たちがこれから多くの善行を成したとしても、私は彼らをきっと好きにはなれないだろう。
「おい、お前らいい加減にしろ。私たちにこれ以上構うな」
現状を見かねた千鶴が、怒りを押し殺したような声で言い放った。
「そう怒んないでよ、彼女。あんまり騒ぐとお店に迷惑がかかるよ」
「ふざけるな。お前らのほうがよっぽど迷惑だ」
千鶴が一人の胸倉を掴む。しかし男は飄々とした態度を崩さない。きっとここが店内だから、この場では暴力が振るえないと思っているのだろう。そしてそれは正解だった。
おまけに私たちの席は少し奥まった場所にあって、軽く騒いだところで気付かれることはない。店の人が注意に来ないのも、そういった理由があった。
それから男たちの行動はエスカレートしていった。執拗なまでの強引さで、私たちに迫ってくる。もしもこれがナンパというやつだとしても、ここまで相手を不快にさせるなら、最早それは悪意ある行動といえるだろう。
私の目の前では雪菜が腕を掴まれていて、隣では千鶴が男に絡まれている。そして私自身の肩には、馴れ馴れしく手が置かれている。
耳が遠くなる。店内に喧騒は満ちているはずなのに、私の心の中は水を打ったように静まり返っている。
鼓動がうるさい。体の奥底から、何か危険なものが湧き上がってくる感覚。人を好きとか愛するとかとは全く違う、むしろ正反対の感情。私の心の中にいるもう一人の自分が、悪魔のように囁きを繰り返す。
私は、ただ思った。
――コイツらなんか、いなくなってしまえばいいのに。
瞬間、店内にドクンと心臓の跳ねるような音が鳴った気がした。まるで空間がそのものが生きているかのような脈動。
締まりのない顔で笑っていた男たちの笑顔が消え、その顔には目に見えて分かるほどの汗が浮かんでいた。例えるならその様子は、捕食者に睨まれた獲物のようだった。
店内が静まり返る。楽しく喋っていたカップルも、親子連れの家族も、一人でテーブルに腰掛ける初老の男性も。みんな凍りついたように動かず、何か得体の知れないものに恐怖するかのように沈黙していた。
震える男たちが私を見る。
彼らの驚愕に見開かれた目には、鏡のように私が映っていた。どす黒く濁った瞳。まるで鮮血のように赤く、禍々しさに満ち、そして瞳孔の開いた瞳。吸血鬼ということを踏まえても、こんな瞳をしていいはずがない。
それを見て、自分自身に恐怖を感じた。私は今、こんな眼をしているのか。これでは吸血鬼というよりも、ただのバケモノみたいで――
次に私が瞬きしたとき、店内は全て元通りになっていた。店にいた人間は何か危険なモノを感じながらも、何が起こったのか分からず、結局気のせいだと思ったようだった。
男たちが何か適当なことを言いながら、慌てて私たちから離れていく。
千鶴がため息をつきながら体の力を抜いた。もう少し男たちが調子に乗っていたら、千鶴は例え店内であろうとも殴りかかっていたと思う。
「……どうしたんだ、アイツら。急に大人しくなったかと思えば、今度はあんなに慌てて」
千鶴が口直しのように、冷めてしまったコーヒーを飲む。
「それよりもさっきの一体何だっただろう。なんか急に心臓を鷲掴みにされた感覚というか、体を見えない何かに押さえつけられる感覚というか。気のせいだったのかな」
「そう……だね。うん、きっと気のせいだよ千鶴。あの男の人たちも、多分用事を思い出したりとかしたんだよ」
自分の顔が笑えていないことに気付く。あんな瞳をしてしまった自分が、とてつもなくイヤでイヤで仕方なかった。なまじ要らない力がある分、吸血鬼が人間の中で生きていくことは難しいとでもいうのか。
千鶴に対して無理やり陽気に語りかける。
今日は楽しみにしていた一日だったはずで、これから夕方にかけてまで、まだまだこの楽しさは続くはずだ。
だから、こんなところで落ち込んでいる場合じゃない。
「…………」
その後――店を出る間。
雪菜が何か言いたげな眼で、私を見ていたことが気になった。