其の六 『秘事』
光源のない密室を唯一照らすのは月光。それはどこか神様の祝福に似ていると思った。吸血鬼の私が言うのもなんだけど。
窓から差し込む月明かりだけを頼りにして、私は彼と向かい合った。
体に緊張が走る。だって――この狭い彼の部屋で、私たちは二人きりだったから。
時刻は草木さえ眠るとされる丑三つ時。小声で交わした言葉ですら、隣室に聞こえてしまいそうな静寂。普段は気にも止めない息遣いに注意する。漏れ出す吐息さえ互いの耳に届くのだから。……それは、なんとなく恥ずかしいのだ。
人気がない夜に、男性の部屋にいる女――それが、今の私ことシャルロットの状況である。
私を見つめる彼の視線も、彼を見つめる私の視線も、逃れられないという意味では一種の麻薬のようだった。
やがて、永遠にも続くかと思われた静寂を彼の声が破った。シャルロット――と、私の名を呼ぶ優しい声。顔が赤くなるのを止められない。私たちは今から、人には言えないようなことをするのだ。
二人の距離が縮まる。
迎え入れるように広げた彼の両手の中に、誘われるようにして入った。一見して抱擁するような形に近い。
人肌の体温というやつは、この世に存在する全ての暖房器具とは一線を画するものだ。温めるという意味ではカイロに近いが、本質においてはまったく異なる。きっとこれから科学がどれほど進歩したとしても、この人肌の体温を再現することなど不可能だろう。
窓辺に重なった影が映った。
ドキドキと心臓が暴れる。
我慢できなくなった私は、彼におねだりするような甘い声で尋ねた。
「士狼。いーい……?」
年頃の乙女としては少しはしたないかと思ったけれど、理性を抑えきれなくなったのだから仕方ない。
身体がさっきから欲情したかのように熱いのだ。口内にはひっきりなしに唾液が溜まり、私は何度も喉を鳴らして飲み込んでいた。
彼――白い髪をした男性、宗谷士狼はイタズラをした子供を許す親のような目で頷いた。
顔が近づく。
……こんなときに限って、余計なことを考えてしまう。今夜はもっとちゃんとお風呂に入っておくべきだったとか、髪形は崩れていないかとか、今日の運勢はなんだっけとか。
そんな無駄な思考も、いつしか消えゆく泡のように無くなっていった。
唇が交差――しそうになる直前。私は目標としていた部位に、唇をつけた。
そして愛撫するかのように――牙を立てた。
「いただきまーす」
るんるんと身体が踊りだしそうなほどの歓喜。なにせ血を吸うのは久々だったのだから仕方がない。
こればっかりは例え神様が駄目だと言っても、私は血を吸ってやるのだ。
「うおっ、鳥肌が立ってきた――」
吸血する合間に、士狼がまるでレモンでも食べたときのような反応を起こしながら呟いた。……一応、女の子に抱きつかれているのに、とても失礼だと思う。
文句でも言ってやりたかったけれど、言葉を出すより血を飲むほうがずっと素敵なので、抗議は後にすることにした。
「ん――っ、……ぁっ――ん、ん――」
喉をこくこくと鳴らして、士狼の体液を飲み込んでいく。
――やっぱりAB型の血はとても美味しい。なんて言うんだろう、透き通ったような、サラサラとしたような、そんな感じだ。
よく人間は美味しそうにお酒を飲むけれど、そんな人たちにとっての一杯が、私にとっての一吸いなのだ。
それからしばらくして、私は士狼の首筋から唇――もとい牙を抜いた。吸血した後の傷口は、みるみる内に小さくなって消えてしまう。
吸血鬼の唾液には人間の細胞を活性化させる力がある。人の血を吸った痕跡を残さないための、吸血鬼が二千年近い時の中で進化し、獲得した一種の生きる力だと言えるだろう。
「――ちょっとちょっとー! 鳥肌ってなによ。普通の男の人だったら、女の子に抱きつかれたら喜ぶんじゃないかな。アレでしょ、そういうの萌えって言うんでしょ?」
日本語を覚える際に、最近の日本人が日常的によく使いそうな言葉をピックアップしていたのだ。えっへん。
私は実はドイツ生まれなので、日本語を話せるようになったのは結構最近だった。
士狼は呆れたようにかぶりを振った。
「……おいおい、吸血鬼の口から萌えってシュールすぎるだろ。お前みたいなヤツは、あんまりそういうこと言わないほうがいいぞ」
「――? そうなんだ。まあ士狼が言うなら、そうするけど」
私たちの距離が離れる。
人の体温が消えていく。
……なぜかそれを名残惜しいと感じて、もう少しだけくっついててもよかったなーと思った。
「それより今更聞くんだが、俺ってお前に血を吸われたからって、明日には吸血鬼になってましたーなんてことは無いよな?」
「そうだね、それはないよ。吸血鬼に血を吸われただけで同族になるなら、きっと今頃世界の大部分が吸血鬼になってるよ。私たちに血を吸われるって、言葉にすると大げさに聞こえるけど、その実は大したことないんだ。面白おかしく脚色された伝承のせいで、吸血鬼に吸血されるのは恐怖体験の一種みたいになってるけど。
まあ人間社会の言葉で言うなら……うん、献血みたいなもんだね。でも注射に比べて痛みもないから、むしろ献血よりも楽だと思う」
「なるほどな。……じゃあアレか、吸血鬼は生れたときから吸血鬼なんであって、後天的にそれになるのは伝承の話だけだってことか?」
「……うーん、実はそうとも言えないの。吸血鬼が同族を増やす方法もあるんだ。それはね、吸血鬼の血液を人間の体内に入れること。だけど少量の血だけじゃ、人間は吸血鬼にならない。人間の体には抗体があって、ちょっとやそっとのウイルスならやっつけちゃうでしょ? そんな感じだよ。吸血鬼の血を人間にとっての一種のウイルスだとするなら、その抗体が意味を為さないぐらいの多量の血を入れないとダメなの。それに吸血鬼にとって血液は力の根源だから、自分から進んで血を分け与えようとする吸血鬼なんて滅多にいないんだ」
「ふーん、なるほどね。……ま、難しい話は置いとこうぜ。要は、俺は数週間に一回ぐらい隣人の吸血鬼Aに献血してるってことだろ? 害はないなら、なんでもいいじゃねえか」
どうでもよさそうに笑う士狼だけど、私はそれこそおかしいと思う。
常識で考えれば、吸血鬼に血を吸われることは害がなくても不安以外のなんでもないはずなのに。もしかすると士狼の生まれや経歴が、平均的な人間の思考と差異を生んでいるのかもしれない。
でも――と私は思う。
今まで生きてきた中で、私たちが血を吸うのはそれなりに大変だった。少なくとも街の献血に快諾するような人間だとしても、その相手が吸血鬼だというのなら間違いなく躊躇うだろう。
だから、私はとても嬉しかった。士狼みたいな人はこれまでの人生で見たことがないからだ。
探究心や好奇心のようなものが心に沸く。
もっともっと、士狼を知りたい。
もっともっと、士狼と話してみたい。
もっともっと、士狼と触れ合ってみたい。
――今まで知らなかった感情の発露に、私は少しだけ戸惑った。
「どうしたんだよ、おい。いつもみたいにキャーキャー暴れないのかよ」
「ちょっとちょっとっ! 私は別にいつもキャーキャーなんて言ってないもんっ! 常におしとやかな淑女だもんっ!」
その後は二人、いつもみたいに――私は別にキャーキャーとか言ってないけど――口論して、姦しい雰囲気になりながら別れた。
なんか途中で隣の部屋――雪菜の部屋――からドンっていうカベを叩くような音がしたけれど、気のせいだと思うことにした。
その後、自分の部屋に帰る。
住み始めたばかりの新しい家には、ほとんど家具がない。布団だけは大家さんの家から予備をもらってきたが、現状ではお世辞にも女の子が住んでいるような部屋には見えないだろう。
一度雪菜や千鶴の部屋に遊びに行ったことがあるが、二人ともやっぱり女の子で、部屋のコーディネイトには凄く気を使っている印象を受けた。ただし、千鶴のベッドの下にダンベルがあったのだけは本人には触れないことにしたが。
実は明日、私は買い物に行く予定がある。大家さんにお小遣いをもらったのだ。いずれ大家さんの知り合いの店でアルバイトを紹介してくれるらしいから、いわゆる前借りというやつだ。さすがの私も大家さんの家の家事手伝いだけで食べさせてもらうつもりはない。
買い物には、雪菜と千鶴が付き合ってくれることになっている。駅前のデパートとか、穴場の店とかを案内してくれるらしい。
同い年ぐらいの女の子と買い物に行くのは初めてで、とても楽しみである。……同い年とは言ったけれど、私が百年ぐらい生きている事実を今は忘れてもらいたい。
敷いた布団に潜り込んで、ぐるぐると体に巻きつける。今夜は寒いけれど、こうすればとても温かくて快適だ。
頭だけを布団から露出させた私の視界には、見慣れない天井が映っていた。
――とても楽しい日々。
きっとこれから考えもしないような、体験したこともないような毎日が待っているだろう。
だからこそ、頭の隅でふと思ってしまうのだ。
昔、小さな犬を飼っていた。可愛がっていたその子犬も、すぐに私の前から居なくなってしまった。私にとっては短い間だったのに、その犬にとっては生涯に等しい時間だったのだ。
……もしもこの世に神様というヤツがいたら、ソイツは残酷だ。なぜ生きとし生ける者達は、こうも違う長さの時を生かされているのだろう。
考えたくないのに、考えてしまう。もしかしたら私のこの幸せは、すぐに終わってしまうのではないかと。
だからせめて祈ろう。
――この素晴らしい日々が、少しでも長く続くようにと。