其の四 『決闘』
時が流れることしばらく。
俺は自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、空を見上げて夜道を歩いていた。
いっそのこと流れ星でも流れないだろうかと思う。実は恥ずかしながら告白させていただくと、俺こと宗谷士狼は今までの人生で一度として流れ星を見たことがない。もちろんテレビの番組だとか、本に載っている写真のような形でなら見たことはある。しかし実物を生の目で見たことだけは無い。
だからかもしれない。
俺は夜道を歩くときには、わりと空を見上げながら歩くことが多い。月を見たり星を数えたりするのは、それだけで結構楽しいものだ。もっとも、その習慣はここ最近出来たばかりなので、肝心の流れ星だけは見かけないのだが。
目的地である河川敷は、暦荘から歩いて十五分程度のところにある。休日の朝昼には子供のクラブチームが野球をしたりするぐらいのスペースがあって、近所の人間が犬の散歩に使っているのもよく見受けられる。
ただし夜の河川敷というのは非常に暗く、花火や怪談をするのには最適かもしれないが、何の用もなしに出向くには不向きと言わざるを得ない。
俺はいつかの廃れた高架下を通って、河川敷までやって来た。
――そして思った。
河川敷なのはいいけれど……この広い敷地の一体どこに行けばよいのかと。
幸いにも今夜はよく晴れていて、月光が河川敷の隅々にまで届いている。おかげで人探しには苦労しなさそうである。ここで問題なのは、待ち合わせにも関わらず、わざわざ人を探す労力を割かなければいけない点だ。
茂った芝生のうえを歩き、少し温くなってしまった缶コーヒーの残りを飲み干す。まずはゴミ箱だなと思い、記憶を頼りにそれを探した。設置された公衆便所の側に、手洗い場と共にそれはあった。
やがて、空き缶を捨て。
――再び歩き出した矢先に、その人影は見つかった。
俺の視線の先――白い装束に身を包んだ女性がいた。こちらに背を向けているせいで顔は見えない。
しかしそれが姫神千鶴であると、俺はすぐさま直感した。なぜって、夜の河川敷にこの時間、空手の胴着を着た女など姫神以外にあり得ないからだ。
まるで月がライトアップの照明のように姫神を照らし、柔らかい風がセミロングの黒髪を遊ばせている。
その光景を見た俺の第一印象としては、普通にカッコイイ。映画のワンシーンのように決まりすぎている姫神千鶴であった。
接近するたびに踏まれた芝生が独特の音を立てる。人の気配を感じることができない人間であっても、この音を聞けば他人の接近に気付くだろう。
まして姫神は武道経験者である。当然、俺がやってきたことには気付いている。
「……来たか」
振り向かないまま、姫神は虚空に向けて呟いた。
何枚か重ね着をしている俺でも寒いのに、胴着だけの姫神はまったく動じた様子がない。もはや無我の境地に到達してしまったのか。
「おう、来たぜ」
ポケットに手を突っ込み、俺は立ち止まった。姫神との距離は十メートル程だろう。話すにはやや遠い位置だが、余計な音のない静寂に包まれた河川敷において、彼女の高い声はよく通った。
「わざわざ約束の時間に、約束の場所に来たということは、私と勝負をするということでいいのか」
「ああ、もちろんだ。その為に俺は、こんなアホみたいに寒い中ここまで来たんだからな」
「そうか」
「そうだぜ」
姫神が振り向く。
時代錯誤の果たし状を俺に送り、同時に決闘を申し込んだヤツとは思えないほど、その顔は涼しげなものだった。
てっきり怒りに震えていたり、早く戦いたいと興奮している――とばかり思っていた俺は拍子抜けした。まるで自然と一体になっているかのような静けさだ。
「なら、もう言葉はいらないな。宗谷、私はお前と戦いたい」
「その前に一つ聞いておく。なんでお前、そんなに俺に執着するんだ?」
「執着、か。言われてみれば、確かにそうかもしれない」
「いやいや、言われてみる前に気付けよ……」
姫神は感慨深げに空を仰ぎ見る。
「私は昔から武道が好きだった。きっかけは憶えていないが、この想いだけはずっと忘れることはないと思う。もちろん自分の腕には自信があったし、誰にも負けないつもりもあった。……でもな。あの日、お前を見て思ったんだ。漠然と理屈もないが、感じたんだ。宗谷は強い、って。そう思ったら止まらなくなっていた。戦ってみたい、そしてどちらが強いか確かめてみたいとな」
ふう、と深呼吸をして姫神は構えを取った。
「つまり私のワガママだ。けれど、ある意味で心からの願いでもある。もう一度だけ言わせてもらおう。――宗谷士狼殿、私と試合ってくれないか」
「いいよ、分かった。……姫神千鶴、お前の相手をしてやるよ。その為だけに俺はここに来た」
「ありがとう、じゃあ」
始めようか――そんな言葉を続ける。
構えを取った姫神と対峙する。俺たちの間にもう言葉はなかった――否、いらなかった。
じりじりともどかしい空気。動いてしまいたいような、けれど動いてしまってはいけないような、そして動いてしまいたくないような、そういう時間。互いに様子見合うことによる状況の拮抗だ。
この痺れるような感覚がたまらなかった。
――やがて、姫神が動く。
その疾走は完璧だった。
他人に悟られぬように押し殺した予備動作、初速からすでに特筆するような速度。いままで俺が見てきた姫神の動きのなかでも、格段に速く、鋭く、そして遠慮のないものだ。――”本気”という言葉が思い浮かんだ。
肉薄する姫神の瞳を見て俺はふと、ああコイツは真っ直ぐでいいヤツなんだな、なんて場違いなことを考えていた。
次の瞬間――右足が舞い上がる。
俺の頭を刈り取ろうと振り上げられたそれは、死神の鎌を連想させるような上段回し蹴り。受け止めるのは悪手だ。腕が一本使い物にならなくなる。
ゆえにこの場合は、回避することが正解だ。
俺は上体を後ろにそらすことで避ける。姫神が驚いて、そして舌を打った。
次いで姫神は体勢を立て直すと、拳を固めて俺に突き出してくる。機械のような正確無比さと、獣のような荒々しさを兼ね揃えたそれは、もはや女子高生が放っていいレベルの一撃ではない。
しかし。
――その正拳が俺に届く前に、勝敗は決した。
姫神は腕を繰り出したまま静止していた。動かなかったのではない、ただ動けなかったのだ。その白い喉には万力のように、俺の手が添えられていたから。
俺は姫神の必殺を躱したあと、右手で相手の喉を押さえ込んでいた。もし腕に力を込めていれば、彼女の喉は圧迫され、破壊されていただろう。
人体における喉とは、肉体を研鑽した達人であろうとも鍛えることの出来ない急所の一つだ。気管に通じるそれは、強く衝撃を与えられただけでも想像を絶する苦しみを味わうこととなる。
「――俺の勝ちだな」
白く滑らかな喉から手を離し、姿勢を崩しながら宣言する。
「……ああ、勝ちだ。確かに、お前の」
やがて――姫神は、小さくため息をついて脱力した。
勝負は一瞬であって、
その刹那の間に全てがあった。
――実力以前の簡単な話だ。姫神は空手という武道経験者である。正々堂々と試合することを前提としたスポーツでは、目や金的、そして喉といった人体急所を攻撃することは許されていない。
故にその狙いは単調であり、見切ることはともかく、読むことは赤子の手を捻るように容易かった。さらに姫神は、恐らく自分の喉が狙われると夢想だにしなかっただろう。
つまり俺と姫神では、そもそものやり方が違ったのだ。俺は相手を倒すように戦うし、姫神は相手に勝つように戦う。実戦では相手を殺すまでは勝ちではないが、試合では相手を動けなくするだけで勝ちになる。
もし仮に、姫神が俺と似た人生を歩んできていたとしたら、今宵の勝負は命を賭けたものになっていたかもしれない。
コイツには確かな才能がある。磨けば光るどころか、一人でも輝き続けられるような、持って生まれた天賦の力がある。
それを信じて歩むことができるのなら――姫神千鶴という女は、きっと誰よりも高い場所に辿り着けるだろう。
「やっぱり私が思っていたとおりだ。宗谷は強かったんだな」
「別に強くなんかねえよ。俺は男で、お前は女で、俺は大人で、お前は子供だから。単純にそれだけの差だろ」
男尊女卑を唱えるつもりなど毛頭ない。しかし身体の大きさや筋力面で考えて、男女が武道で競い合うとしたら、女が不利になることだけは否めない。
その代わり女性には男がどう足掻いても、決して為すことの出来ない事が多くあるのだから、世の中は上手くできているというところか。
「いや、それだけじゃないさ。宗谷は強いよ、強いんだ。私が出会ってきた人の中で、誰よりも」
普段は浮かべることのないような優しい顔で、姫神は微笑んだ。
柔らかな風が、彼女の黒い髪を小さく戦がせた。
「……まったく、そうして普通に笑ってりゃあ、お前もちょっとは可愛いのによ」
素直な感想が口をつく。
これで胴着ではなくきちんとした洋服を着て、髪を櫛で梳かし、ほんのりと化粧をすれば大した美人になると思うのに。
……そこまで考えて、待てよと思った。
俺は今、何を口にした? 姫神にとっては禁断の形容詞を言ってしまったような気がする。他人が姫神にその言葉を呟くと反応はいつも決まっている。顔を赤くして、借りてきた猫のように大人しくなり、おろおろとするのだ。
しかし、どうしたことか。
「……か、可愛い」
姫神は確かに顔を赤くしている。けれどその様子は慌しいものではなく、ただ俯きながら頬を羞恥に染めるだけだった。
……何かいつもと少し違う気がする。
違和感という言葉は、こういうときこそ使うものだろう。
「男の人に可愛いって言われたの、初めてだ」
照れたような顔ではにかみながらそう告白する姫神は、さっき笑っていた時よりもなお可愛らしく映った。
――おかしい。
やはり何か、俺が思っていたのと違う。だってそれは、まるで女の子が■する男を目の前にしたような。
「お、おい姫神。お前」
「きゃっ!」
俺が気になって近づくと、胸の部分を抑えて姫神は後退した。
気のせいかと思って、
「お、おい姫神。お前」
「きゃっ!」
もう一度同じ行動を繰り返すと、もう一度同じ行動を繰り返された。
「……お前どうしたっていうんだよ。おかしな物でも拾って食ったんじゃ――」
そこまで言いかけて脳裏にによぎるモノがあった。
あれは昨日の正午過ぎのことだ。姫神がうっかり口から漏らした一言。確か内容は――自分より強い人にしか興味がない、だったか。
ということはもしかして……いや、そんなバカなことなどある訳がない。
そうだ、そんな突拍子もないことなんて、どこぞのバカで泣き虫な吸血鬼に襲われたってことだけで十分だ。
「気のせいだな、うん。こういう日は帰って酒でも飲むに限る」
俺は月に向かって仁王立ちし、自分を納得させるように強く頷いた。
「おい、姫神。とにかくそろそろ帰ろうぜ。寒いだろ、そんな薄着じゃあ」
「い、いや構わないでくれ。まあでも、うん、そうだな。帰ろうか、宗谷」
「……? おう。んじゃあ行くか。途中で温かい飲み物でも買ってやるよ」
相変わらず顔を赤くしたまま、姫神は俺のやや右後方についてくる。そこでも違和感があった。たしか姫神は俺と歩くとき、いつも真横に並んでいたはずなのにと。
しかし、今まで感じた違和感すべてが明確になんだと言えるような大きなものではない。これだけで色々と決め付けるのは早計であり、愚かであるだろう。
とりあえずは、こうして俺と姫神の決着はついたのだった。
……やがて、帰り道のことである。
姫神は俺に買い与えられたホットの紅茶で手を温めながら訥々と呟いた。
「な、なあ宗谷。お前って今、好きな人とかいるのか……?」
「――やめろぉおおおおおおお――!」
この夜。
暦荘にいた住人全てが、冬の夜空に響き渡る大の男の絶叫を聞いたらしかった。