其の十一 『報酬』
それから何が起こったかを話そう。
俺とシャルロットは昨夜とは異なる道を通って、暦荘に帰った。
するといつかと同じく、飲みかけの牛乳瓶を持った大家さんが出てきた。用意した食事も手につけず消えたシャルロットをひどく心配していたらしい。目の下に薄っすらと隈が残った顔で、大家さんはシャルロットを抱きしめた。
何故かなんとなく感動の雰囲気になり、どちらか先か分からないが泣き始める二人。
それを見てどうしようかと頭を抱えていると、今度は雪菜が出てきやがった。この自称陰陽師の目の下にも隈があって、俺の視線に気付いた雪菜は、和服の袖で口元を隠して「わー最近のテレビって面白くってですねー」と何も言っていないのに、誤魔化し始めた。
――きっと雪菜も、ある程度は俺たちの事情を察していたのだろう。いや、もしかしたら本当にテレビが面白かっただけなのかもしれないが。相変わらず嘘か本当か、掴み所のない奴である。
それからは、てんやわんやの騒ぎだった。
俺の背中の傷に気付いた大家さんはパニックになって牛乳を噴き出すし、雪菜は雪菜で怪しい札とか薬っぽい何かを持ってきて、「私が治しましょう」とか言うくせに、それが全く効果がないと来た。
非難の目を向ける俺とシャルロットに、雪菜はこほんと咳払いをして「自称陰陽師ですから」と言った。
けっきょく背中の傷は、大家さんに適当に包帯を巻いてもらった。出血は驚くほど少なかったし、傷自体も治りかけていたから、簡単な治療で事足りたのだ。このときばかりはシャルロットに感謝してやってもいいと思った。
しばらくして、四人で朝御飯を食べた。その朝食の席で前回と違うのは、シャルロットの身の上話を聞いた大家さんが号泣し始めたということだろう。
帰る家がない――という言葉に、涙腺をこれでもかと緩ませたらしい。大家さんは豊満な胸を張って、涙ながらに任せなさいと言った。
暦荘の最後の空き部屋、206号室がもしかしたらシャルロットの帰る家になるのかもしれなかった。
――事実は小説よりも奇なり。
この物語はつまり、夜道を一人で素面に見える人が歩いていると、吸血鬼に襲われますよって話だ。人生なんて、結局なにがあるか分からないんだ。
こうして風呂敷が広がりすぎた感のある一連の問題も、一応なんとか纏まることになりそうである。
――え? 仕事の報酬?
……仕方ない。恥ずかしいが、それも語ろう。
あれは朝御飯を食べて、風呂に入って、とりあえず仮眠をと布団に入って、そして気付けば夜だったとかそんな時のことだ。
布団を畳んでる最中に頭上――つまり屋根から物音を聞いた俺は部屋を出た。なんだと思って見れば、暦荘の屋根の上には、吸血鬼みたいに格好よくシャルロットが立っていた。
砂金を溶かしたかのような金色の髪。物憂げに夜空を見つめる深紅の瞳。冷たい風が時折吹いて、そのたびにシャルロットは髪を押さえていた。
――とりあえず、そんな所で歩き回ると、防音性の薄い暦荘では大変迷惑になる。姫神の奴とか、周防の野郎が出張ってきては余計面倒だ。
注意してやろうと決意し、なるべく音を立てずに屋根に上った。
「――よお、バカ吸血鬼。んなところで何してんだよ」
俺に気付いたシャルロットは、えへへ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
「ちょっと、なんか照れくさくて。大家さんが、まるで私を自分の娘のように色々としてくれるんだもん。私のほうがずっとずっとお姉さんなのにね」
言ってシャルロットが座る。
俺もつられて、隣に腰を降ろした。
「まあ大家さんは天然だからな、この暦荘に住む奴みんなを家族だと思ってる。テレビのニュースを見て、いちいち可哀想だと眼を潤ませるような、そんな情の厚さを間違った方向に広げてるような人だ。お前も覚悟しといたほうがいいぞ」
「もう、相変わらず士狼は口が悪いなぁ。……でもそんなの聞いちゃうと、ちょっと心配になってきちゃうね、大家さん」
「ところが大丈夫だ。あの人は普段はとぼけたような人だが、本当は恐ろしいぐらいに頭がキレる人なんだよ。なのに普段の天然が計算じゃないところが逆に不気味だけどな。頭の中を見てみてえよ」
「あはは、さすが大家さんだね」
「ああ。さすがだろ」
会話が途切れる。
二人してなんとなく月を見上げながら、夜空に白い息を吐いていた。はっきり言って冬夜の屋根はとても寒い。白い吐息がそれを物語っている。
……その白煙じみたものを見ているうちに俺はふと、頑張って禁煙を目指している煙草を一本だけ吸いたくなってしまって、ポケットから取り出した。
そこで気付く。
どこをどう探しても俺はライターを持っていない。最近吸っていなかったものだから、ついライターを持ってくるのを忘れてしまったようだ。
今から部屋に取りに帰るのも面倒だが、口に咥えた煙草を箱に戻すのもまた面倒だった。
唇で煙草を挟んで呆けている俺を見かねたシャルロットは、「はい、どうぞ」と呟いて、指を指して小さな炎を発生させた。
それは昨夜見せた火炎に比べれば、ほんの子供のような炎だったが、それでも煙草に火をつけるには十分だった。
――いや、十分過ぎた。
その証拠に、煙草は俺が咥えているフィルター辺りを残して、全て消し炭となってしまった。真っ白だった紙巻煙草は、見る間もなく真黒の灰となってさらさらと風にさらわれていく。
「――熱っ! おい、せっかくの貴重な一本が味わう間もなく灰となっただろうが!」
価値のなくなった煙草を吐き出す。それは屋根を転がり落ちて、暦荘の下に落ちてしまった。後で拾いに行かねばなるまい。
「いやぁ、ごめんごめん、ちょっと強すぎたみたい。でも士狼、煙草は良くないよ」
「安心しろ。煙草の百害も、俺の健康な体の前では裸足で逃げ出すぜ」
「あのね、煙草が一箱四百円だとしてね。一日一箱吸うとしたら、一年で約十五万円にもなるんだよ。いい? これだけあれば私なら数ヶ月は生活してみせるよ」
「俺じゃなくて金の心配かよ……」
もしかしたらこいつは守銭奴の可能性があるのかもしれない。未来が少し心配になった。
中身のないやり取りを繰り返し、やがて話題のなくなった俺たちは自然と口を閉じた。
二人して手探り合うような空気。
俺はこのまま黙っていても仕方ないと思い、
「……で、お前結局どうすんだ? ここに住むんだろ?」
なんとなく聞きづらかったことを、今更ながらに聞いてみた。本当はさっき会ったときに勢いで聞けばよかったのだが、タイミングを一度逃してしまうとそれもムリだった。
うん、とシャルロットは頷く。
「それがね、なんか大家さんが私に、この暦荘の空いてる部屋に住んではどうかって言ってくれたの。206号室なんけど、それってどの辺かな?」
「ああ、それなら俺の一つ隣だ。二階の端っこだな」
「ほんと? 士狼の隣なんだ。なんか、照れるね」
「うっせえよ。それよりお前家賃とか諸々どうすんだよ? さすがの大家さんも、タダで住まわせるほどバカ――いや、いい人じゃねえだろ」
「うん、なんか大家さんの家事とか手伝ってくれればいいって。最近忙しいらしくって、あまり家に居られないからお手伝いさんみたいな人探してたんだって。あと近々大家さんの知り合いの人が、喫茶店開くらしくって、そこでアルバイトも紹介してくれるって」
「ホントかよ……。ていうかお前家事とか出来んのか? 家がなかった、吸血鬼である、という時点で、明らかに料理をマズく作りそうな要素しかないだろ」
「ひっどーい! きちんと料理ぐらい作れるもん。あれだよね? お米は洗剤使って、卵はレンジ使えばいいんでしょう?」
「――お前絶対わざと言ってるだろっ!」
などというような口論を繰り返すこと馬鹿の如し。
――やがて、ふとした拍子に思い出した。そういえば仕事の報酬ってどうなるんだろう、と。一応これって、きちんと俺が仕事をやり遂げたことになるはずだ。ならばそれ相応の物をねだってしまっても良いのではないだろうか。
そんなニュアンスのことをシャルロットに伝えると、それもそうだねと彼女は言った。一丁前に考え込んでいるようだが、こいつの頭で思い浮かんだものは、間違いなくろくでもないものばかりだ。
あーだこーだとぶつぶつ独り言を呟く姿は、本当に吸血鬼とは思えない――というよりも、ただの子供のようだった。
「……はあ」
これじゃあ期待できなさそうである。
ならば後で俺の方から適当に、労力に見合ったものを要求しよう。どうせこいつは本当にろくでもないものを言うに違いないから――と考えたところで、「士狼になら、いいかな」と声がした。
自分の名を呼ばれ、なんだと思って振り向いた。
「――ありがとうね、士狼」
唇に感触。
一体何が起こったのか――その一瞬では理解できなかった。
ただ目の前には頬を桃色に染めたシャルロットがいて、まるで口付けでもしているように瞳を閉じている。
甘い香り――柔らかな風が金色の髪を揺らし、思わず抱きしめたくなるような優しい匂いがした。
驚きに目を見開く俺を他所に、ゆっくりとシャルロットの顔が離れていく。
照れくさそうに瞼を開いたシャルロットは、えへへ、と例の人懐っこいを笑みを浮かべた。
それは冷たく。
甘くて。
どうしようもないぐらい恥ずかしい。
――レモン味の、キスだった。
「……本当に、ろくでもねえ」
全く持って期待というか予想を裏切らない、バカで、泣き虫で、人懐っこく笑う吸血鬼Aであった。
「たしか仕事の内容に見合った報酬じゃなきゃ、なんだよね。……だから、これで駄目かな? 百年間も取ってきた、私の初めてだったんだから」
百年物と来た。ヴィンテージワインもびっくりである。
……というかそんなことを言われたら、男だったら誰でも許すしかなくなるじゃないか。
「――バカバカしい。そろそろ降りんぞ、シャルロット」
「あー、士狼も顔赤ーい! 照れた、士狼が照れたっ!」
「うるせえ。寒さだ寒さ、俺は寒いんだよ。変な勘違いすんな、バカ吸血鬼! それに、どこからどう見てもお前の方が顔赤いじゃねえか!」
――そんなこんなで夜も更ける。
くだらない言い争いをする俺たちに対して、下から抗議の声が上がる。雪菜だった。その雪菜の抗議もうるさかったものだから、鬱陶しいことに姫神の奴と周防の野郎も出てきやがった。
皆で夜中、馬鹿みたいに言い争う。
シャルロットを初めて見た奴も、すぐに馴れ馴れしい口調で打ち解けた。
それを見て思う。
――きっとやっていける。
ひとりぼっちの吸血鬼は、きっとこの暦荘を帰る家と思えるようになる――
それが始まりだ。
どこかズレた奴らが、どこかズレた話を繰り広げる、そんな物語の始まり。
――気を付けろ、バカ吸血鬼。困難はもしかしたらこれから始まるのかもしれないぞ。
とまあなんだかんだ、これでひとまず、この話は一旦幕を下ろす。吸血鬼が帰る家を見つけただけのそんなチャチな話だが、俺の思い出には一応残してやってもいいかなと思う。
――事実は小説よりも奇なり。
この言葉は本当に、言い得て妙だと思う。