其の十 『黄昏』
とあるホテルの最上階。
屋上と呼ぶにはいささか心苦しい場所だった。一般には開放されておらず、落下防止の柵や網すら無い。
だからもし、そこに人がいるのだとすればそれはきっと人間ではないだろう。事実、夜明けに染まる街を見下ろすのは銀色の髪をした吸血鬼だった。
「……黎明、か」
呟く声は風に消える。
太陽が遥か彼方から顔を覗かせた。赤く照らされた街並みは、こうして見ると黄昏と大して変わらない。
「これでよかったのだろうか。どう思いますか、――」
呼びかける名さえ風に消える。
もしも彼女が黎明だとするならば、今の自分は黄昏だ。始まった者と、終わった者。同じようには見えて、全然違うもの。
勝手に背負い続けてきた肩の荷が下りるのを待ち望んでいたはずなのに、なぜこんなにも心は空洞なのか。
――あの日、一人の少女を見た。
誰よりも無邪気に、そして人懐っこく微笑む少女を見たのだ。傍らにいる者の手を握り、その名を呼ぶ小さな一人の吸血鬼。
一つ、記憶を振り返ってみた。……百年ほど前に見たあの宝石のような笑顔を、ここ最近彼女が浮かべたことがあっただろうか。否、考えるまでもない。
「貴方なら、きっとシャルロットの家になることができるのでしょうね、士狼」
悔しいと思うよりも、今はただただ嬉しかった。
これで日本でするべきことは終わった。立つ鳥跡を濁さず――役目を終えた吸血鬼狩りは、ただ去るのみである。
「ん――これは、ロイですか」
震えを感知して、銀色の吸血鬼は携帯を取り出した。
「どうしました、ロイ」
『どうしましたもこうしましたもないぞ、お前今一体どこにいるんだよ。これから忙しくなりそうだってのによ』
電話口の向こうからは、苛立ちの混じった声のほかに何かを咀嚼する音が聞こえてきた。察するに乾いたパンだろう。
「ふむ、どういうことでしょうか」
『さっきジジイから直々に連絡があってな。東北の方で調子に乗ってる吸血鬼がいるようだから、そろそろ殺して差し上げろとよ。二桁も殺しゃあ、さすがに見逃すわけにはいかねえみたいだわ』
「首領がそう仰ったのなら、従いましょう。やれやれ、休息を取るヒマもありませんね」
『いいだろ、別に。今回はある意味、最強のハズレくじを引いちまったんだからよ。とっととこの辛気臭い街とはおさらばしようぜ。まあ、あのニンニクラーメンが食えなくなることだけは後悔してやってもいいがな』
「そうですね、では仮眠を取ったら出発するとしましょうか。よければ発つ際に、もう一度だけラーメンでも食べに行きますか」
『おっ、いいねえ。それは賛成だ。絶対次はこの前カインが頼んでたヤツを注文してやるからな』
「はい、ロイが望むならそうしてください」
そうして用件は全て話し終えた。
カインはそろそろ自分の部屋に戻ると伝え、電話を切ろうとする。
その最後。
『カイン――これでよかったんじゃねえか。お前がアイツを随分と気にかけてたってことは、俺が一番よく分かってる。ま、お疲れさんってやつだ。じゃあな』
ツー。
ツー。
ツー。
通話が切れたことを示す音。
携帯をポケットに仕舞い込んだカインは、やれやれと首を振った。
「ロイに気付かれていたようでは、私もまだまだ精進が足りないようですね」
けれどその自嘲する顔が、どこか嬉しそうだったことは間違いではないだろう。
黎明を迎えた街。
黄昏を思わせる街。
名残惜しそうに赤い街並みを見渡した銀色の吸血鬼は、最後に一人の少女の幸せを祈った。
「さようなら、悠久の時を生きる吸血鬼。そして――小さく偉大な吸血鬼よ」
その祈る言葉だけ。
それだけは、風にさらわれることはなかった。