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離婚調停の日、息子は父の不倫相手のために「母を死刑にして」と泣き叫んだ

作者: 熾星
掲載日:2026/06/18

 離婚調停の日、息子は父の不倫相手のために「母を死刑にして」と泣き叫んだ


 プロローグ



 実の息子は、幼い頃から私を憎んでいた。


 彼の目に映る私は、父親と初恋の女性の仲を引き裂いた女であり、美容整形で他人の顔を真似て妻の座を奪った偽物だった。


 離婚調停の日、息子は私の味方をするどころか、衆人の前で私を断罪した。真の被害者のために正義を取り戻すのだと泣き叫び、ついには法が許すなら私を死刑にしてほしいとまで言った。


 夫は冷たい目で黙って見ていた。初恋の女は涙を浮かべ、周囲の人間は皆、私が破滅する瞬間を待っていた。


 けれど彼らは知らなかった。


 濡れ衣を着せられ、捨てられ、実の子にまで裁かれた私は、最初から罪人などではなかった。


 あの年月の中で、私が飲み込んだ屈辱。譲り続けた結婚生活。必死に守ろうとした母子の情。


 そのすべてが、あの日、完全に断ち切れた。


 彼らが掌の上で大切にしていた女の鼻筋が歪み、顎の形が崩れ、偽りの真実が少しずつ剥がれ落ちた時、彼らはようやく気づいた。


 本当に顔を変え、名前を奪ったのは、私ではなかったのだと。


 遅すぎる懺悔が足元に跪いた時、私の中に残っていたのは、許しではなかった。


 この茶番を、自分の手で引き裂いてやる。


 私から奪ったものの代償は、必ず払わせる。



 1.調停室の外で告げられた死刑宣告


 私の実の息子は、ずっと私を恥だと思っていた。彼にとって私は、父親とその初恋の女性の間に割り込んだ女であり、本当の母親の座を奪っただけでなく、自分の顔までその女性そっくりに作り変えた卑しい偽物だった。


 だから、東京家庭裁判所での離婚調停が終わったあの日。調停室を出た私に向かって、彼は週刊誌の記者と通行人のカメラの前で、私の顔を指差して叫んだ。


「こんな女、死刑になっても当然だ! この人は、僕の母親でいる資格なんかない!」


 その日、調停室の外にはすでに人だかりができていた。スマートフォンを構える者、声を潜めて噂する者、そして何人かの週刊誌記者が、まるで最初から待ち構えていたかのようにカメラを私へ向けていた。


 夫の石上誠司は、少し離れた場所に立っていた。仕立てのいい濃いグレーのスーツに身を包み、胸元の徽章こそ外していたものの、その人を見下ろすような表情は、東京地方裁判所で働いていた頃と何ひとつ変わらなかった。体面を重んじ、冷淡で、いつも誰かを裁く側にいる男の顔だった。


 そして、息子の石上翔太は、その隣に立っていた。十八歳。私立高校の三年生。かつて私が小さな手を引いて幼稚園まで送り届けた子どもは、今、汚らわしいものを見るような目で私を見ていた。


 翔太は手にした陳述書を広げた。声は震えていたが、一語一語ははっきりしていた。


「皆さん、どうかこの女の顔をよく見てください。この女の名前は藤堂遥。銀座にある美容外科クリニックの院長です。二十年前、彼女は僕の父と夏目沙耶さんの恋愛に割り込みました。それだけではありません。自分の医療技術を使って、沙耶さんと同じ顔に整形したんです」


 人垣の中から、息を呑む音が上がった。カメラのレンズがさらに近づく。翔太は目を赤くしたまま、なおも続けた。


「僕は、小さい頃から法を尊ぶよう教育されてきました。だから、彼女が実の母親だからといって、かばうことはできません。今日、僕、石上翔太は、この女と親子の縁を切ります。法律が許すなら、僕は彼女に死刑を望みます。それで初めて、沙耶さんに正義が返るんです!」


「かわいそうな子ね」


「母親が美容外科医なら、本当にできそうだよな」


「他人の顔に整形して結婚を奪うなんて、怖すぎる」


「そりゃ夫も離婚したくなるわ」


 周囲は一気にざわめいた。私は裁判所の階段に立ったまま、ただ無数のシャッター音を浴びていた。東京家庭裁判所の灰白色の外壁が、陽射しの中でひどく冷たく見えた。


 つい先ほど、調停委員は彼らに説明したばかりだった。離婚調停では刑事事件の告発など扱わない。ましてや、死刑判決など存在しない。だが、そんなことは石上誠司にとってどうでもよかったのだ。


 彼が欲しかったのは、法の裁きではない。


 世論だった。


 私の名誉を地に落とし、ネットで炎上させ、クリニックの患者を離れさせ、実の息子にまで公然と否定させる。そして最後には、財産分与も慰謝料も諦めさせ、石上家から惨めに追い出す。そうすれば、夏目沙耶を迎え入れる場所ができる。


 翔太は私を見ていた。その目には、興奮に似た光が浮かんでいた。正義ではない。母親を自分の手で崖から突き落とす快感だった。


 その瞬間、私はふいに笑いたくなった。


 あまりにも馬鹿げていたからだ。


 カメラの前で私に死刑を望んだこの少年は、十か月お腹の中で育て、命懸けで産み、必死に育てた私の息子だった。


 そして、私が本当に失ったものは、この調停ではなかった。


 十八年分の、母と子の情だった。



 2.盗まれた初恋


 二十年前、石上誠司の恋人は夏目沙耶ではなかった。


 私だった。


 当時の私は、まだ藤堂遥医師などと呼ばれる存在ではなく、早稲田大学医学部で、眠る時間さえ計算しながら暮らすただの学生だった。石上誠司は法学部にいた。成績もよく、家柄もよく、顔立ちも整っていた彼は、キャンパスでも多くの女子学生に好かれていた。


 その中で、もっとも執着していたのが夏目沙耶だった。


 彼女はいつも明るい笑顔で私たちのそばに現れた。サークルの集まりにも、図書館にも、学園祭の写真にも、気づけば必ず映り込んでいた。周囲は彼女を、気さくで愛想のいい女性だと思っていた。


 けれど、私は知っていた。


 彼女が私を見る目の奥に、どれほどの不満と執念が沈んでいたかを。


 私と誠司が婚約を決める前夜、彼女は駐車場で私を待ち伏せしていた。雨の降る夜だった。透明な傘を差し、車のライトの前に立つ彼女は、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたように完璧な化粧をしていた。


「藤堂遥、勝ったつもりにならないで。まだ結婚していないなら、別れる可能性はあるわ。結婚したって、離婚はできる。私は誠司を愛しているの。間違ってなんかいない。ただ、あなたより諦めが悪いだけよ」


 私は相手にしなかった。


 あの頃の私は、愛を信じすぎていた。そして、石上誠司という男のことも信じすぎていた。


 翌日、私と誠司は箱根へ向かった。互いの家族に会い、正式に婚約を発表するためだった。けれど、山道を走っていた車は、突然制御を失った。


 私は今でも覚えている。


 対向車線から突っ込んできた車は、最初、私の座っている側へ向かっていた。だが、最終的に重傷を負ったのは誠司だった。目を覚ました彼は、多くの記憶を失っていた。私たちが一緒に勉強した図書館も、学園祭で私に告白した日のことも、婚約前夜に東京・港区の小さなマンションを一緒に買おうと言ったことも、すべて忘れてしまった。


 彼が覚えていたのは、一枚の顔だけだった。


 私の顔。


 夏目沙耶が現れたのは、その時だった。彼女は誠司の病室へ泣きながら飛び込み、自分こそが恋人だと言った。私のほうが、彼の記憶喪失に付け込んで恋人の座を奪おうとしている偽物だと訴えた。


 しかし、その直後、夏目家は突然彼女を海外へ送った。表向きの理由は、彼女もまた交通事故で大きな怪我を負い、海外で長期治療を受ける必要があるから、というものだった。


 私は、その十年後に彼女が戻ってくるとは思っていなかった。


 しかも今度の彼女は、石上誠司だけにまとわりついたのではない。


 私の息子に、まとわりついた。


 彼女は翔太にスニーカーを買い与え、甘いデザートを食べに連れて行き、ピアノのレッスンをずる休みする手助けまでした。


「遥先生って、少し厳しすぎるんじゃない? 男の子なんだから、たまには怠けてもいいのよ。私が翔太くんのお母さんだったら、そんなふうに追い詰めたりしないわ」


 そうして十年かけて、彼女は私が育てた息子を少しずつ私のそばから奪っていった。私は、子どもは成長すればわかってくれると思っていた。血の繋がりは、最後には嘘をつかないと信じていた。


 けれど家庭裁判所の前で、翔太は日本語の中でもっとも残酷な言葉を使い、私に死刑を宣告した。



 3.岐阜の渓谷に吊るされた私


 佐伯美咲は、この話を聞き終えるなり、危うくコーヒーカップをテーブルに叩きつけそうになった。


「あの子、どうかしてるんじゃないの? あなたが十八年も必死に育てたのに、第三者の女をかばって母親を裁くなんて。石上誠司も同じよ。元裁判官のくせに、家庭裁判所の前で息子にあんなことをさせるなんて」


 私は冷めきったカフェラテをスプーンでかき混ぜるだけで、何も答えなかった。美咲は私を見つめ、少しだけ声を落とした。


「遥、もう離婚しなさい」


 わかっていた。石上誠司との結婚生活は、とっくに空っぽの殻でしかなかった。


 けれど翔太は違った。彼は私の子どもだった。石上誠司を愛さなくなることはできても、翔太を本当に手放すことだけは、どうしてもできなかった。


 美咲はため息をついた。


「少し東京を離れたほうがいいわ。今のあなたには、自分がまだ生きているって思い出せる何かが必要よ」


 そうして私は、岐阜へ行った。渓谷に架かる大橋には、日本でも有数の高さを誇るバンジージャンプの施設があった。私は高所恐怖症で、ジャンプ台に立った瞬間、足元から力が抜け、手のひらには汗が滲んだ。


 けれど、美咲の言う通りだった。


 ある種の恐怖は、飛び降りなければ終わらない。


 私はそこで、翔太に会った。


 彼はスタッフ用の制服を着て、胸に実習生の名札を下げていた。私を見た瞬間、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷たい表情へ戻った。


「藤堂さん」


 彼は私を、そう呼んだ。


 お母さんではなく、藤堂さん。


 その一言だけで、胸の奥を細い針で刺されたような痛みが走った。受付のスタッフが、確認用の書類を手にして私へ尋ねた。


「お客様、体重の確認をお願いします」


「六十キロです」


 翔太は書類に目を落とし、ふっと笑った。その笑みに、背筋が冷えた。


 彼は隣のスタッフへ聞こえるように、はっきりと言った。


「確認できました。四十キロです」


「翔太、聞き間違えているわ」


 私は思わず彼を見た。だが、翔太は無邪気そうな顔でこちらを見返した。


「そうですか?」


 次の瞬間、私が抗議するより早く、体はジャンプ台から押し出されていた。


 風が耳元を引き裂くように過ぎていく。渓谷が目の前で急速に広がった。ロープが激しく張った瞬間、私の体は水面へ叩きつけられるように振られ、冷たい川の水が鼻と口へ流れ込んだ。スタッフが慌ててロープを調整するたびに、私の頭は何度も水中へ引きずり込まれた。


 まるで、命のない荷物のように。


 ようやく引き上げられた時、私は全身ずぶ濡れで、耳鳴りが止まらず、胃の中は酸っぱく焼けていた。翔太は少し離れた場所に立ち、心底楽しそうに笑っていた。


 私はふらつきながら彼の前へ歩いた。


「石上翔太。私はあなたの実の母親よ。あなたは、どうしてここまで私にするの?」


 翔太の顔から笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、隠す気のない嫌悪だった。


「あなたのどこが母親なんですか? 小さい頃から、あなたは僕に命令ばかりしてきた。寝る前に甘いものを食べるな、ピアノの練習をしろ、テストの点が悪かったら欲しいスニーカーは買わない。あなたは全部、僕のためだと言ったけど、僕には息苦しいだけだった」


 彼は一歩近づいた。


「沙耶さんは違った。欲しいものを買ってくれた。学校を休みたい時は先生に言い訳してくれた。男の子はそんなに頑張らなくていいって言ってくれた」


 翔太はさらに声を低くした。


「それに、あなたは不倫相手が嫌いなんでしょう? なのに、あなた自身が一番気持ち悪い第三者じゃないですか。沙耶さんの顔に整形して、被害者ぶった顔をして。藤堂遥、あなたを見ると本当に吐き気がする」


 指先が少しずつ冷えていった。


 説明したかった。寝る前に甘いものを食べさせなかったのは、彼が幼い頃、虫歯の痛みで夜通し泣いたからだと。ピアノは、三歳の彼が自分から習いたいと言ったのだと。あのスニーカーも、テストの点に関係なく、結局は私が買ってあげたのだと。


 けれど、翔太の憎しみに満ちた目を見た瞬間、私はようやく理解した。


 彼は知らないのではない。


 知りたくないだけなのだ。


 翔太は私に近づき、呪いのように囁いた。


「僕の小さい頃からの一番の願いは、あなたが永遠に消えることでした」


 その瞬間、私は心の中に残っていた最後の母性を、自分の手で埋めた。


 これから先、私に息子はいない。



 4.表参道の公開処刑


 東京へ戻った私は、丸の内にある法律事務所を訪ねた。弁護士の黒崎怜は、私の話を最後まで聞いたあと、静かに一言だけ言った。


「藤堂さん。今日から、あの人たちを家族だと思うのはやめてください」


 私は、石上誠司の不倫の証拠、夏目沙耶が頻繁に石上家へ出入りしている写真、翔太がネット上で私を侮辱した動画をすべて彼に渡した。黒崎弁護士は、証拠としては有効だが、誠司を財産分与と慰謝料の交渉で完全に追い詰めるには、さらに強い世論と事実の反転が必要だと言った。


 事務所を出る頃には、外は薄暗くなっていた。表参道のショーウィンドウには、ひとつずつ明かりが灯っていく。


 高級婦人服店の前で、私は翔太と夏目沙耶を見かけた。


 翔太は沙耶の腕に寄り添うように立ち、彼女の買い物袋を持っていた。沙耶が何か言うたびに、彼は少し身をかがめて耳を傾ける。その慎重で優しい仕草は、私が一度も受け取ったことのないものだった。


 以前の私なら、痛みを覚えただろう。


 けれど今は、ただ滑稽だと思った。


 夏目沙耶も私に気づいた。最初は驚いた顔をしたが、すぐに目を潤ませ、翔太の袖を掴んだ。


「翔太くん、私、やっぱり無理だわ。あの人の顔を見るだけで、昔失ったものを思い出してしまうの。本当は私が、あなたのお父さんの隣にいるはずだったのに。どうしてあの人は、私の顔まで奪ったの?」


 翔太の表情が、一瞬で険しくなった。彼は私を振り返り、刃物のような目で睨みつけた。


「あなた、また何をしに来たんですか? 僕たちを尾行しているんですか? それとも、まだ父さんにしがみつくつもりですか?」


「ここは公道よ。あなたに説明する必要はないわ」


 私が静かに答えると、その一言が彼を完全に激怒させた。


 翔太は駆け寄ってきて、私を力任せに突き飛ばした。背中が路肩の柵にぶつかり、息が詰まるほどの痛みが走る。彼は私の髪を掴み、人通りの多い交差点まで引きずった。


 そして、集まってきた人々に向かって大声で叫んだ。


「皆さん、この女をよく見てください! この人が藤堂遥です。他人の顔に整形して、僕の父と沙耶さんの人生を壊しました。それなのに、まだ離婚に応じず、石上家の財産にしがみつこうとしているんです!」


 通行人が足を止めた。スマートフォンのレンズが次々とこちらを向く。夏目沙耶は背後で「翔太くん、やめて」と言っていたが、その目には抑えきれない愉悦が浮かんでいた。


 翔太は店先の装飾リボンを引きちぎると、私の手首を路上の柵に縛りつけた。


「翔太、あなた、何をしているかわかっているの?」


「おかしいのはあなたのほうだ!」


 彼の手が、私の頬を強く打った。


 顔が横を向き、耳の奥で甲高い音が鳴った。


「これは、沙耶さんの分です」


 もう一度、頬を打たれる。


「これは、父さんの分です」


 三度目の平手が落ちた時、口の端に血の味が広がった。周囲では悲鳴が上がり、警察を呼べと言う声も聞こえた。一方で、興奮したように撮影を続ける人間もいた。


 私は俯いたまま、ふいに笑った。


 翔太が怯んだ。


「何を笑っているんですか?」


 私は顔を上げ、彼を見た。


「自分を笑っているのよ。今日まで、あなたに愛する価値があると思っていた自分をね」



 5.歪んだ鼻筋


 岐阜から戻って以来、私は小型のセーフティカッターを持ち歩くようになっていた。人を傷つけるためのものではない。クリニックの救急セットに入れている、ごく一般的な道具だった。包帯やテープ、拘束されたものを切るために使う。


 まさか、それが本当に役に立つ日が来るとは思っていなかった。


 翔太が人々へ向かって叫んでいる隙に、私はセーフティカッターで手首のリボンを切った。夏目沙耶はその動きに気づき、顔色を変えて私へ駆け寄ってきた。


「遥さん、落ち着いて!」


 まるで私を心配しているかのような声だった。だが実際には、彼女の爪は私の手の甲に深く食い込み、カッターを奪い取ろうとしていた。


 私は反射的に彼女を押し返した。もみ合いの中で、セーフティカッターの刃先が彼女の鼻筋をかすめた。傷そのものは深くなかった。


 それなのに、夏目沙耶は引き裂くような悲鳴を上げ、顔を押さえて後ずさった。


 翔太が狂ったように飛びかかってきた。


「沙耶さんを傷つけたな! 藤堂遥、この整形怪物!」


 彼が手を振り上げた、その時だった。


「待って。あの人の鼻、どうなってるの?」


 誰かがそう言った。


 すべてのカメラが、夏目沙耶へ向いた。彼女は必死に顔を隠そうとしたが、もう遅かった。


 高く整っていたはずの鼻筋が、目に見えて横へ歪んでいた。横顔では、皮膚の下に曲がった何かが浮き上がっているのがはっきりと見えた。まるで、本来そこにあるはずのない人工物が、ずれてしまったかのように。


 周囲から息を呑む音が上がった。


「あれ、何?」


「プロテーゼ?」


「彼女、天然の顔だって言ってなかった?」


 夏目沙耶は両手で鼻を押さえ、震えながら首を振った。


「違うの。違うのよ……」


 翔太は呆然としていた。声が震えている。


「沙耶さん……整形、していたんですか?」


 私は口元の血を拭い、ゆっくりと立ち上がった。そして夏目沙耶を見た。


「正確には、鼻だけではないわ。鼻のシリコンプロテーゼ、額のフィラー、顎プロテーゼ、頬のフィラー、二重修正、輪郭形成。その顔、上から下まで、元のまま残っている部分のほうが少ない」


 人垣が一気に騒然となった。カメラのレンズが彼女の顔へ殺到する。


 翔太は一歩後ずさった。世界そのものが目の前で崩れ落ちたような顔をしていた。


「ありえない……あなたは言っていたじゃないですか。彼女があなたの顔に整形したんだって。あなたこそが、元の顔の持ち主だって」


 夏目沙耶は涙を流しながら首を振った。


「翔太くん、聞いて。私は少し整えただけなの。女は年を取れば、誰だって少しくらいメンテナンスをするでしょう? 私は、彼女と区別をつけるために少し変えただけ。最初に私を真似したのは、あの人なのよ!」


 あの歪んだ鼻筋がなければ、きっとまた誰かが彼女の言葉を信じていただろう。


 私は彼女を見つめ、静かに笑った。


「夏目沙耶。忘れたの? 私は美容外科医よ。その顔が微調整かどうかくらい、一目でわかるわ」



 6.偽りの顔の下


 夏目沙耶はなおも泣いていた。涙で濡れた目を石上誠司へ向け、すがるように声を震わせる。


「誠司、あなたは信じてくれるわよね? 私がこうしたのは、全部あなたのためなの。あなたが私と遥さんを見分けられなくなるのが怖かった。あなたを愛していたから、少しでも特別な私になりたかっただけなの」


 石上誠司の顔色はひどく悪かった。彼はさっきから人垣の後ろに立っていたが、沙耶の鼻が歪んだことで、ようやく前へ出てきた。私は彼の目の中に揺らぎを見た。


 だが、その程度の揺らぎで、自分の過ちを認められる男ではない。


 彼は私を見て、冷たく言った。


「藤堂遥、今度は何を企んでいる。たとえ沙耶が美容整形を受けていたとしても、二十年前に嘘をついたのが彼女だという証拠にはならない」


「そう」


 私は笑った。


 スマートフォンを取り出し、あらかじめ準備しておいた資料を、弁護士チームが確保していた配信画面へ送信した。周囲の人々が同時にスマートフォンを覗き込み、近くのビジョンにもニュースアカウント経由で証拠映像が流れ始める。


 一枚目は、大学時代の私と石上誠司の写真だった。早稲田の銀杏並木の下で、彼は私に指輪を差し出していた。


 二枚目は、婚約前に双方の家族が顔合わせをした時の写真だった。私は石上誠司の隣に座り、夏目沙耶は一番端で青ざめた顔をしていた。


 三枚目は、事故の前日に夏目沙耶が私へ送ってきたメッセージだった。


「藤堂遥、あなたに彼は奪えない」


「たとえ結婚しても、必ず彼を私のもとへ戻してみせる」


 四枚目は、海外の美容整形機関の予約記録だった。時期は、彼女が交通事故の治療のため海外にいたとされていた数年間と、ぴたりと重なっていた。


 写真と記録が次々に表示されるたび、人々のざわめきは大きくなっていった。翔太は画面を凝視し、顔から血の気を失っていた。


 私は彼を見た。


「あなたはずっと、私が彼女の顔に整形したと言っていたわね。けれど考えたことはなかったの? なぜ私は、大学時代からこの顔だったのか。なぜ夏目沙耶は、海外へ行く前と今とで顔がまったく違うのか。なぜ彼女は、あなたが私の躾を嫌っていたことを、ひとつ残らず知っていたのか」


 翔太の唇が震えた。


「だって……」


「彼女は被害者ではない。十年かけて、私の夫と息子と人生を盗んだ詐欺師よ」


「違う! 全部嘘よ!」


 夏目沙耶は悲鳴を上げ、石上誠司に飛びつこうとした。だが、今回ばかりは誠司は彼女を抱きとめなかった。ただ、少しずつ歪み始めた彼女の顔を見つめていた。


 夏目沙耶は、ようやく本気で慌てた。


「誠司、私はあなたを愛していたの! 藤堂遥さえいなければ、あなたは最初から私と一緒になるはずだった。私は、私のものを取り戻しただけなのよ!」


 石上誠司の目が、完全に冷えた。


 彼は手を上げ、彼女を強く押し退けた。夏目沙耶は路肩の展示台にぶつかり、顔の人工物がまた大きくずれた。


 その瞬間、周囲の人々は全員見てしまった。


 私が真似たとされていた白月光など、存在しなかった。


 そこにあったのは、嘘と手術で作り上げられた偽物の顔だけだった。


 私は人垣の中心に立っていた。もう説明もしなかった。泣きもしなかった。


 なぜなら、わかっていたからだ。


 この瞬間から、裁かれるべき人間は私ではなくなった。



 7.炎上する裁き


 その夜、東京のネットは炎上した。Xには、次々と関連ワードがトレンド入りした。


「整形怪物、まさかの反転」


「実母を公開暴行した息子」


「元裁判官の夫と初恋女の不倫疑惑」


「夏目沙耶の偽りの顔」


 最初に私を罵っていた人々は、一夜にして態度を変えた。


「つまり、本当に整形して成りすましたのは夏目沙耶だったってこと?」


「息子、怖すぎる。実の母親を路上で殴るなんて」


「父親は元裁判官なのに、息子にあれをさせていたの?」


「この家族、ドラマよりひどい」


「藤堂先生が気の毒すぎる」


 深夜、黒崎弁護士から電話がかかってきた。


「藤堂さん、今が一番いいタイミングです。正式に離婚訴訟へ移りましょう。慰謝料、財産分与、名誉毀損、すべてまとめて請求できます。加えて、石上さんが社会的地位を利用して圧力をかけ、家族による世論攻撃を黙認した点も、補助証拠として使えます」


 私は港区のマンションの大きな窓の前に立ち、夜の東京タワーを見つめていた。


「お願いします。取り戻すべきものは、一つも譲りません」


 翌日、石上誠司のもとへ弁護士名義の通知書が届いた。内容は簡潔だった。離婚。高額の慰謝料。共有財産の再計算。銀座のクリニックと港区のマンションの権利確認。


 そして、石上翔太について。


 彼はすでに成人している。今後の生活について、私は一切の費用を負担しない。


 通知書を受け取った翌日、石上誠司は私の家へやって来た。玄関の外に立つ彼は憔悴し、スーツには皺が寄っていた。これほどみすぼらしい彼を見るのは、初めてだった。


「遥」


 彼の声はかすれていた。


「すまなかった。沙耶に騙されていたんだ。彼女があんな嘘で、僕たちを引き裂いていたなんて思わなかった」


 私は彼を見た。


「彼女が嘘をついたら、あなたは信じた。翔太が私を殴っても、あなたは見ていた。今になって財産と名誉を失いそうになったから、謝りに来たのね。石上誠司、あなたの後悔はずいぶん安いのね」


 彼の顔色が変わった。


「遥、僕たちは十八年も夫婦だったんだ。それに翔太もいる。彼は君の実の息子だ。本当に捨てるつもりなのか?」


 私がドアを閉める手を止めると、彼は私の弱点を掴んだとでも思ったのだろう。慌てて言葉を重ねた。


「あの子は洗脳されていただけだ。母子に一晩越しの恨みなんてない。実の息子まで見捨てる母親だと世間に思われたら、君だって困るだろう?」


 私は彼を見つめ、思わず笑った。


「世間が私をどう言うか。それが、今さら何?」


 石上誠司は息を呑んだ。


「私はもう、自分の夫と息子に一度、公開の場で死刑を宣告されたのよ。それでも私は生き残った。だから今度は、あなたたちが自分の罪に潰される番よ」



 8.カメラの前の懺悔


 石上誠司は諦めなかった。


 彼がもっとも得意とするのは、自分を被害者に見せることだった。


 三日後、彼はライブ配信を始めた。画面の中で、誠司は私のマンションの下に跪いていた。顔は青白く、声は涙で詰まっている。


「皆さん。僕は今日、妻の藤堂遥に謝罪するためにここへ来ました。過去の僕は、夏目沙耶に惑わされ、本当に僕を愛してくれていた妻を傷つけました。自分が許されないことをしたとわかっています。だから今日、僕は痛みで自分の覚悟を証明します」


 私がその配信を見た時、ちょうど管理人から電話がかかってきた。


「藤堂様、石上様が一階にいらっしゃいます。かなり不安定なご様子で……」


 私は落ち着いて答えた。


「警察と救急車を呼んでください。建物の中には入れないで」


 管理人は一瞬黙ったが、すぐに承知した。


 数分後、石上誠司はカメラの前で小さな刃物を取り出し、自分の体を傷つけた。配信画面は一気に騒然となり、コメントが次々と流れた。


「え、ここまでするなんて本気じゃん」


「そんなに愛してるんだ」


「これでも奥さんは許さないの?」


「男がここまで謝っているのに、女のほうが追い詰めすぎじゃない?」


「藤堂遥、冷たすぎる」


 私はリビングのソファに座り、画面を見ていた。心は少しも動かなかった。


 石上誠司は、痛みを見せれば再び道徳的優位に立てると思っていた。私が情に流されると信じていた。だが彼は忘れていた。


 カメラの前で自傷して相手を脅す男は、自分がどれほど危険な人間かを証明しているだけだ。


 その日の深夜、私は黒崎弁護士に三本の動画を公開してもらった。


 一本目は、家庭裁判所の前で翔太が私に死ねと叫び、石上誠司が隣で黙認していた動画。


 二本目は、岐阜のバンジージャンプ台で、翔太が私の体重を故意に書き換えた動画。


 三本目は、表参道の路上で、翔太が私を縛りつけて殴り、石上誠司が最後まで見ていただけだった動画。


 公開から十分後、世論は完全に反転した。


「これ、謝罪じゃなくて脅迫だろ」


「石上誠司、怖すぎる」


「元裁判官が世論を操って妻を追い詰めようとしていたのか」


「息子ももう十八歳だよ。子どもだからでは済まされない」


「藤堂先生が許さないのは当然」


 翌朝、石上誠司が所属していた裁判所の関係者は、記者に取り囲まれた。午後には、彼のもとへ内部調査の通知が届いた。


 そして夜、ニュース速報が流れた。


「石上誠司氏、司法関係者としての品位を著しく損なったとして辞職へ」


 彼が半生をかけて守ってきた体面は、ついに崩れ落ちた。



 9.最後の手術同意書


 私が病院から電話を受けたのは、その数日後だった。看護師は、石上誠司が失血により危険な状態で、精神的にも強いショックを受けており、手術が必要だと説明した。


「藤堂様は、現在も法律上の配偶者です。医師からの説明を受け、手術同意書にご署名いただく必要があります」


 本当なら、行きたくなかった。


 だが黒崎弁護士は言った。


「一度行ってください。彼のためではありません。今後、この件を利用してあなたを責めさせないためです」


 私は病院へ向かった。


 石上誠司は病室のベッドに横たわっていた。顔色は灰のようで、かつての威圧感は見る影もなかった。医師は私に状況を説明した。彼は急所を避けたつもりで、配信用の芝居をするつもりだったらしい。だが彼は医師ではない。傷の位置が悪かった。


 手術が成功しても、不可逆的な後遺症が残る可能性が高いという。


「手術をしなければ、生命の危険があります。手術をすれば命は助かる可能性が高いですが、機能の回復については、楽観できません」


 ベッドの上で、石上誠司の指がかすかに動いた。


 彼は聞こえている。


 そして賭けているのだろう。わずかな回復の可能性に。


 この男は、いつも欲張りだった。私の持参金も欲しかった。夏目沙耶の優しさも欲しかった。裁判官としての体面も欲しかった。不倫の刺激も欲しかった。息子が自分の味方でいることも欲しかった。そして私には、いつまでも耐える妻でいてほしかった。


 けれど今回だけは、思い通りにはさせない。


 私はペンを取り、同意書に名前を書いた。


「手術をお願いします」


 医師は頷いた。


「本当によろしいですね?」


 私は、石上誠司のかすかに震える指を見下ろし、穏やかな声で答えた。


「もちろんです。夫が苦しんで死ぬのを、黙って見ているわけにはいきませんから」


 石上誠司の目尻から、一筋の涙がこぼれた。


 痛みのせいか。


 それとも、憎しみのせいか。


 どちらでもよかった。


 もう私には、関係のないことだった。


 手術室の扉が閉まった瞬間、私はようやく理解した。


 人を愛さなくなるというのは、こんなにも軽いものなのだ。



 10.扉の外の息子


 石上翔太が私を訪ねてきたのは、雨の降る夕方だった。


 病院から戻り、マンションのエレベーターを降りた時、彼は玄関の前に跪いていた。全身ずぶ濡れで、髪は額に張りつき、目は赤く腫れていた。


「お母さん」


 その一言は、あまりにも久しぶりだった。


 久しぶりすぎて、私はただ他人の言葉のように聞いていた。


 昔の私は、彼が泣くだけで心が揺れた。小さい頃、彼が転べばしゃがんで抱きしめた。熱を出せば一晩中ベッドのそばに座った。虫歯の痛みで泣いた時は、午前三時に車を走らせて救急歯科へ連れて行った。初めてのピアノコンクールの前、緊張で震えていた彼の手を舞台裏で握り、「賞なんか取れなくてもいい。翔太が楽しく弾ければ、それでいい」と言った。


 けれど今、彼が私の前で泣いていても、私の心は少しも動かなかった。


 翔太は膝をついたまま這うように近づき、私のスカートの裾を掴んだ。


「お母さん、僕が悪かった。本当にわかったんだ。全部、夏目沙耶に騙されていたんだ。父さんもずっと、あなたは悪い女だって言っていた。僕は洗脳されていただけなんだ。お願い、許して」


 彼はそう言いながら、ふいに顔を上げた。その目に、見覚えのある偏執が浮かぶ。


「僕が復讐してあげる。夏目沙耶を殺してくる。父さんに彼女を裁かせる。だから、お母さん――」


 私は彼を見た。


 かつて彼が私を死刑台へ送ろうとした時も、同じ目をしていた。正義に燃え、誰かを罰することに酔い、自分の過ちをすべて他人へ押しつける目だった。


 私はスカートの裾を引き抜いた。


「坊や」


 翔太が固まった。


「お母さん?」


 私はドアを開け、静かに言った。


「お母さんを探しているなら、近くの交番へ行きなさい」


 彼の顔が一瞬で青ざめた。


「お母さん、そんなこと言わないで。僕にはもう、お母さんしかいないんだ。父さんとは喧嘩した。もうあの人を父親とは認めない。だからお願い、僕を捨てないで」


 私は部屋へ入り、ドアを閉めた。


 扉の向こうで、彼の泣き叫ぶ声が聞こえた。


「お母さん! お母さん、ごめんなさい!」


 私はノイズキャンセリングのイヤホンをつけ、ソウルでの研修プログラムのメールを開いた。


 よかった。


 何も聞こえなかった。



 11.地下クリニックから届いた救いの動画


 離婚判決が下りた後、私は東京を離れた。


 石上誠司は、不倫、精神的な不安定さ、世論の炎上、そして職業上の処分によって、ほとんどすべてを失った。財産分与と慰謝料の結果は、私にとって非常に有利だった。銀座のクリニックは私のものになり、港区のマンションも私の名義になった。


 石上翔太については、もう成年だった。親権の問題など存在しない。彼が誰についていくかは、彼自身の問題だった。


 私はソウルへ向かった。


 そこには、失敗した美容整形の修復医療で知られる高度な研修プログラムがあった。私は半年間の研修機会を得ていた。


 日本を発つ日、私は振り返らなかった。


 飛行機が離陸し、東京の街が雲の下でぼやけた光になっていくのを見た時、ふと思った。


 私の前半生は、長い麻酔のようなものだったのかもしれない。


 そして今、その薬がようやく切れたのだ。


 半年後、ソウルの部屋で、私は差出人不明のメールを受け取った。件名も署名もない。迷惑メールだと思い、開かなかった。


 それから三日後、日本のニュース速報がスマートフォンに表示された。


「元裁判官・石上誠司氏、無許可の地下美容クリニックを開設し、複数の死傷者を出した疑いで逮捕」


 私はその見出しを見つめ、指を止めた。


 記事によると、石上誠司は辞職後、精神状態が悪化していた。どこかで美容外科の知識をかじったらしく、東京郊外の廃診療所を借り、藤堂遥に捧げる美容医院を開くのだと周囲に話していたという。


 それは、私への償いであり、私と復縁するための贈り物なのだと。


 私は、数日前に届いた差出人不明のメールを開いた。


 動画の画面は暗かった。地下室のような場所で、カメラは激しく揺れている。ひとりの女が、血まみれの顔で画面へ縋りついてきた。


 その顔は、もう判別しづらいほど崩れていた。


 それでも、私は一目でわかった。


 夏目沙耶だった。


「藤堂遥、助けて! お願い、助けて! 私が悪かった。本当に悪かったの! 石上誠司は狂っている! 彼は、あなたの人生を作り直すって言っているの。私の顔で練習して、私を一番完璧な形に修復して、それをあなたへの償いとして捧げるって! あの人は怪物よ!」


 彼女の背後で、石上誠司が手術器具を持って近づいてきた。顔には何の表情もなく、目だけが空っぽだった。


「沙耶。君は、遥が君の顔を奪ったと言っていただろう。なら、僕が君の顔を遥へ返してあげる」


 動画は、悲鳴の中で途切れた。


 私はスマートフォンを閉じた。ソウルの夜景が窓ガラスに映っている。


 背後にいたマッサージ師が顔を青くして尋ねた。


「藤堂先生、大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


 私はグラスを取り、水を一口飲んだ。


 夏目沙耶は、彼女が最も愛した男の手で壊された。


 それは、とても公平な結末だった。



 12.誰も彼の「お母さん」を聞かなかった


 石上誠司の事件は、その後大きく報じられた。


 地下クリニックには夏目沙耶だけでなく、無料で修復手術を受けられると騙されて連れてこられた女性たちがいた。死亡した者もいれば、重傷を負った者もいた。


 石上誠司には、極刑が言い渡された。


 その執行の日、私はソウルにいた。


 スマートフォンにニュース速報が表示された時、私は失敗した整形で鼻を壊された二十一歳の女性の術前デザインをしていた。彼女はまだ若く、鏡に映る自分の顔を見ながら、ずっと指を震わせていた。


 私は彼女に言った。


「大丈夫。壊れたものが、必ずしもやり直せないとは限りません」


 彼女は泣いた。


 私はふと、昔の自分を思い出した。


 その後、私は修復基金を設立した。容姿、結婚、暴力、欺瞞によって閉じ込められた人たちを支援するための基金だった。


 基金設立の日、私は振込備考欄に一文を書いた。


「殺人犯・石上誠司の刑執行を祝して」


 美咲はそれを見て、危うくワインを吹き出しそうになった。


「遥、あなたって本当に変わらないわね」


「いいえ。変わったわ」


 昔の藤堂遥なら、夫のために耐えた。息子のために心を柔らかくした。家族という名の幻想のために、自分を傷だらけにしても笑っていた。


 今の藤堂遥は、価値のある人のためだけに生きる。


 私は後に、ひとりの女の子を養子に迎えた。名前は結衣。五歳で、とても大人しく、慎重な子だった。


 何より、彼女は初めて私に会った時、何を買ってくれるのかとも、学校を休ませてくれるのかとも聞かなかった。


 ただ、小さな手で私の指をそっと掴み、遠慮がちに尋ねた。


「ママって呼んでもいい?」


 その瞬間、私は長い間黙っていた。


 それから膝を折り、彼女を抱きしめた。


「いいわ。今日から、私があなたのママよ」


 石上翔太については、長い間何の消息も聞かなかった。


 ある日、美咲が日本から電話をかけてきた。新宿・歌舞伎町の近くで、彼に似た少年を見た人がいるという。髪は乱れ、服は汚れ、学校へも戻っていないらしい。石上誠司と決裂してから、行き場を失ったのだろう。


 最初のうちは、同情を誘って少しの金をもらうこともできたらしい。だが、やがて誰も彼に構わなくなった。彼は街をさまよう存在になっていた。


 石上誠司の刑が執行された日、東京には雨が降っていた。


 新宿の歩道橋の下では、誰かが記念のチラシと小さな封筒を配っていた。封筒の中には千円札が一枚入っており、そこには小さな紙が貼られていた。


「殺人犯・石上誠司、本日刑執行」


 ぼろぼろの服を着た少年が這うように近づき、その封筒をひとつ奪い取った。彼は紙に書かれた名前を見た瞬間、全身をこわばらせた。


 そして、千円札を抱きしめて泣き出した。


 周りの人間が笑った。


「おい、たかが千円だろ」


「そんなに泣くことかよ」


「ホームレスって哀れだな」


 少年は答えなかった。ただ、その文字を見つめ、唇を震わせていた。


「お父さん……お母さん……」


 誰も、彼が何を呼んでいるのか聞き取れなかった。


 次の瞬間、逃走中の指名手配犯が歩道橋を駆け抜けた。その男は、ついさっきコンビニを襲ったばかりで、手には電動カッターを持っていた。


 男は少年の手から金を奪った。少年は気が狂ったように飛びかかった。


「返せ! それは僕のだ! 返せ!」


 彼は知らなかった。


 相手はもう、人を傷つけることにためらいのない逃亡者だった。


 雨音が強くなっていく。


 橋の下から、悲鳴が上がった。


 警察が駆けつけた時、少年はすでに地面に倒れ、二度と動かなかった。最期の瞬間、彼は何かを呼んでいたらしい。


「お母さん」


 けれど、誰も聞いていなかった。


 その日、私はソウルの家で結衣と夕食を食べていた。結衣はにんじんを皿の端へ避けたので、私は軽く茶碗を叩いた。


「お野菜も食べなさい」


 彼女は小さな顔をしかめたが、最後にはきちんと食べた。食べ終わると、私の胸に飛び込んできて、小さな声で言った。


「ママ、明日、一緒に桜を見に行ってくれる?」


 私は彼女の髪を撫でた。窓の外には、柔らかなソウルの夜景が広がっていた。


「ええ。明日、一緒に行きましょう」


 それからの私の人生に、石上誠司はいない。石上翔太もいない。かつて私は、夫と息子に死刑を宣告された。


 けれど最後に本当に死んだのは、彼らの腐りきった人生だった。


 そして私は、ようやく自分自身の姿で生きられるようになった。



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