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5. 影を覆う暗雲

第5話をお読みいただきありがとうございます。


ライラックの香りに包まれた穏やかな時間は、一人の男の登場によって切り裂かれます。


異世界の英雄という称号すら届かない、血筋と伝統という名の壁。 ハルトが直面する、武力では解決できない「敵」との対峙をお楽しみください。


エリシアと庭園を散策し、交わしたライラックの香りの余韻も冷めぬうちに、王宮の空気は急激に凍りついた。


「異世界の英雄」と「王女」の距離が近すぎるという噂は、社交界の垣根を越え、保守的な貴族たちの耳に入った。彼らはそれを、帝国の威信を汚す「汚点」だと断じたのだ。


「ハルト卿、今日の謁見の間での雰囲気を聞いたか? 卿に向ける貴族たちの視線は尋常ではなかったぞ」


王女宮の廊下を守っていた僕に、第一騎士団長カイザーが近づき、低く警告した。


模擬戦以来、彼は僕を認めているようだったが、同時に帝国の法度を知る者として、心からの懸念を示していた。


「僕はただ、殿下をお守りするだけです。それ以外の視線は気になりません」


「気にならぬはずがなかろう。卿が守ろうとするのが王女の『命』だけならいざ知らず、彼女の『名誉』まで考えるならば話は別だ。肝に銘じておけ。この宮廷は戦場よりも薄汚い場所だ」


カイザーの言葉が終わるや否や、重厚な王宮の門が開き、華麗な紋章が刻まれた馬車が一台入ってきた。


フォンテイン公爵家の長男であり、長らく王女の有力な婚約者候補と目されてきた男――『セドリック』の登場だった。


馬車から降りたセドリックは、隙のない身のこなしで大理石の階段を上がった。


彼は真っ直ぐに国王の執務室へと向かい、護衛騎士として僕はエリシアの後を追い、その謁見の場に同席せざるを得なかった。


セドリックは国王の前で膝をつき、作法の正石とも呼べる完璧な挨拶を披露した。


「陛下、北部の戦線が安定したとの報を聞き、馳せ参じました。帝国の太陽の下、再び平和が訪れましたのは、偏に陛下の聖徳のおかげにございます」


国王は満足げな笑みを浮かべて彼を迎え入れた。


セドリックは北部の領地の減税案や、魔物の死骸から抽出した魔力石の流通権に関する行政報告を淀みなく続けていった。


その姿は、戦場で剣を振るうことしか知らぬ僕とは対照的な、徹底して計算された統治者の面目躍如たるものだった。


しばらく国王と政務や王国の秘宝の警備について論じていたセドリックは、用件がまとまった頃、まるで今気づいたかのように顔を向け、僕を見つめた。


その口元には、妙な歪みが宿っていた。


「おや、この者が噂の『異邦人の英雄』ですな。陛下、近くで見ればなるほど、気概が人並み外れている。戦場で浴びてきた返り血の臭いが、ここまで漂ってきそうですな」


称賛を装った侮辱だった。国王が豪快に笑って仲裁しようとしたが、セドリックは止まらなかった。


彼は僕の横を通り過ぎる際、ごく低い声で、それでいてエリシアにも聞こえるほど明確に囁いた。


「剣を振り回すだけの獣に騎士の甲冑を着せたところで、人間になれるわけではあるまいに。お前のその無知な刃が、高貴な王女殿下の名誉を汚さぬことを祈るばかりだ」


僕の手が本能的に剣の柄に向かったが、隣に立つエリシアの鋭い視線が僕の手の甲をかすめた。


彼女はセドリックに対し、冷ややかに応酬した。


「セドリック卿、私の護衛騎士は獣ではなく帝国の恩人です。その弁舌が刃よりも先走るようでは、帝国の法度が泣きますよ」


「おお、殿下。失礼いたしました。ただ、不釣り合いな影が殿下の輝きを遮ってしまわぬか案じたまでです」


セドリックは余裕たっぷりに肩をすくめ、執務室を去っていった。彼は去り際まで、僕に向かって勝者の笑みを浮かべてみせた。


その短い邂逅だけで、僕は彼が振るう武器が鋼ではなく「秩序」と「傲慢」であることを痛いほど思い知らされた。


その後、晩餐の準備のためにエリシアを王女宮へ送り届ける道中、僕の中の魔力は黒く煮え繰り返っていた。


セドリックは国王や大臣たちと会う合間に、僕を透明人間扱いするか、あるいは下男にでもさせるような用事を騎士団所属の僕に命じ、忍耐を試してきた。


彼は単に僕を嫌っているのではない。


僕がここに存在してはならない「異物」であることを証明しようと躍起になっていた。


その日の夜、皇室大食堂で開かれた晩餐は、僕にとって拷問にも等しかった。


護衛騎士として僕は王女の背後に立ち、僕の前ではセドリックが王女の手の甲に口づけ、優雅に微笑んでいた。


「エリシア、しばらく見ぬ間に一段と美しくなられましたな。北部の無骨な勇者の傍にばかりいて、その審美眼が曇ってしまわぬか心配しておりましたよ」


セドリックは露骨に僕を標的にして言葉を吐いた。


エリシアは不快感を隠さなかったが、国王や貴族たちが見守る席で、むやみに感情を表に出すわけにはいかなかった。


「セドリック卿、ハルト卿は帝国を救った英雄です。軽々しく口にするのは無礼ですよ」


「英雄、ですか……。ふむ。戦場で血を流すことと、高潔な殿下の傍を守ることは、別の才能が必要なものです。身分も礼法も知らぬ異邦人が、影のように殿下に付きまとう姿は、社交界ではあまり好ましくは見られておりません」


セドリックはワイングラスを軽く揺らしながら、僕を品定めするように眺めた。


その眼差しは、ねっとりとした嘲笑に満ちていた。

僕の心臓の中で眠っていた黒い魔力が脈打つ。


今すぐこの傲慢な首を撥ねてやりたいという衝動が、戦慄のように走った。


だがその時、食卓の下から伸ばされたエリシアの手が、僕の甲冑の裾をそっと掴んだ。


(耐えて、ハルト)


言葉にしなくとも、彼女の震えが伝わってきた。彼女は僕を心配していた。


僕が暴走して、苦労して積み上げてきた「英雄」の名誉を失墜させることを。


そして、僕が再び戦場へと追放されることを恐れていた。


「公爵家の長男ともあろう方が、これほどまでに国防に関心がおありとは知りませんでしたな」


僕は感情を押し殺し、冷徹に口を開いた。


「ですが、暗殺者の刃は礼法など問いません。身分の高い方々の口喧嘩より、僕の無愛想な剣の方が、殿下をお守りするには遥かに有用でしょう」


食卓に静寂が流れた。セドリックの顔が屈辱に歪んだ。彼はワイングラスを置き、毒蛇のような笑みを浮かべた。


「口だけは達者なようだ。だがハルト卿、覚えておけ。貴様がどれほど強くとも、この帝国で貴様は異邦人に過ぎない。王女殿下の傍は、貴様のような『道具』が座れる場所ではないのだ」


晩餐は終始、張り詰めた緊張感の中で続いた。


セドリックは食事の間ずっと、エリシアに幼い頃の思い出を語り聞かせ、僕を徹底的に疎外した。


僕の知らない彼らだけの物語、僕が断じて手にすることのできない貴族的な教養と時間。


彼は一言一言で、僕の存在を否定していた。


セドリックは予定があるとのことで席を立った。


しかし、彼はこの一言を伝えることこそが目的だったのだ。彼はゆっくりと僕の横を通り過ぎ、言った。


「ドブネズミめ。その時計をいつまで着けていられるか、見ものだな」


僕は反射的に手首の時計を握りしめた。背中に冷たい悪寒が走った。


(どうして……こいつが、時計のことを……?)


これは単なる精密機械ではない。


ユウがくれた、この世界には存在しない地球のデザインと技術の結晶だ。


セドリックの言葉は単なる嫌味ではなかった。彼は、この物が「どこから」来たのかを知っていたのだ。


これまでの襲撃が単なる暗殺未遂ではなかったこと。


そしてこの世界の運命が僕の過去、そしておそらくは、別の転移者や転生者の存在と複雑に絡み合っていることを暗示する瞬間だった。


晩餐が終わり戻る道すがら、エリシアの足取りは普段より重かった。


彼女の寝所の前、月明かりすら届かぬ暗い廊下で、彼女は立ち止まった。


「ハルト、ごめんなさい」


彼女の声は、今にも壊れそうなほど儚かった。


「貴方を守ると言っておきながら、あんな屈辱的な場所に座らせてしまった。セドリックの言葉……気にしないで。私にとって、貴方は道具なんかじゃない」


「分かっています。僕は大丈夫です、エリシア」


僕は彼女の目を見つめた。


ユウを失った時に感じたあの無力感が、再び僕を押し潰そうとしていた


あの時は突然の事故が原因だったが、今は、この強固な世界の秩序が問題だった。


「ですが殿下。世界が僕をどう呼ぼうと構いませんが……貴女があの男と結ばれることだけは、僕の心が許さないようです」


初めて露わにした、剥き出しの嫉妬だった。


エリシアは目を見開き、やがてその頬が赤く染まった。


彼女は僕の胸元に手を置き、低く囁いた。


「馬鹿ね……私が貴方以外の誰を見るっていうの? 貴方は一生、私に感謝しなきゃいけないんだから」


かつてユウが口にした悪戯っぽい誓いが、彼女の唇を通じて再び紡がれた。


僕の心臓が引き裂かれるように疼くと同時に、エリシアへの誓いがより一層強固なものとなった。


彼女を部屋へ入れた後も、僕はしばらく廊下に立ち尽くしていた。


夜気は冷たく、セドリックが残していった侮辱の残香は依然として不快だった。


彼が単に口が達者なだけの貴族であれば問題はなかったが、フォンテイン家は帝国魔導師団の半分以上を支援する強大な家門だ。


僕の感覚は、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされていた。セドリックが晩餐会で見せた露骨な敵意は、決して単なる嫌味で終わらないことを本能が告げていた。


その夜、僕はベッドに横たわっていたが、意識は宿舎周辺のあらゆる空気の流れを読んでいた。


真夜中過ぎ、格子の向こうから気配がした。


普通の暗殺者であれば僕の刃が先に彼らの喉を貫いていただろうが、僕は微動だにしなかった。


(やはり、これほど底の浅い手口か)


隠密に忍び込んだセドリックの手下たちが、僕のベッドの下に何かを押し込み、僕のマントの端を巧妙に切り取っていくのを、僕は闇の中で見守っていた。


彼らの荒い息遣いや緊張した手つきまでも、すべて感じ取れた。


今すぐ奴らの手首を捻り上げ、背後関係を問い詰めることもできたが、僕は無理やり閉じた瞼の下で怒りを噛み殺した。


今ここで奴らを捕まえたところで、セドリックは尻尾切りをするだろう。


むしろ僕が彼を攻撃したと状況が逆転する恐れすらあった。


僕が選んだ方法は、彼が掘った罠の中に自ら飛び込むことだった。彼が僕を完全に制圧したと信じ、油断する瞬間。


僕は、彼が持つすべての権威と名誉を根こそぎ引き抜くつもりだった。


(思う存分踊るがいい、セドリック。高く登れば登るほど、墜落の痛みはより凄惨なものになるのだから)


翌朝の夜明け、予想通り不穏な動きが始まった。


王女宮の庭園が騒がしい金属音に満たされた。


「ハルト卿! 皇室捜査隊だ。直ちに門を開けろ!」


門を開けると現れたのは、第二騎士団長ベルンと武装した数十名の兵士たちだった。


彼らは問答無用で僕の部屋に踏み込み、家具をひっくり返し始めた。


「何の真似ですか? ここは王女殿下の処所です」


「昨夜、皇室宝物庫から伝説の魔力石『アステリアの涙』が盗まれた。


犯人のマントの切れ端が現場で発見されたが、その材質が、異邦人である貴様が着ていた北部戦線のマントと一致するという密告が入ってな」


ベルンの目は勝利感に酔いしれ、ぎらついていた。


馬鹿げた濡れ衣であり、既に予見されていた台本通りだった。


捜索が始まって間もなく、兵士の一人が僕のベッドの下を探ると、昨夜の侵入者たちが置いていった青い宝石を拾い上げた。


「見つけました! アステリアの涙です!」


周囲に集まった騎士たちがざわつき始めた。ベルンはほくそ笑みながら、僕に手錠をかけようと近づいてきた。


「英雄扱いしてやれば、恩を仇で返し、皇室の宝を盗むとはな。その死神の仮面もこれまでだ」


その時、騒ぎを聞きつけたエリシアが騎士たちを押し退け、僕の前に立ちふさがった。


「止まりなさい! ハルト卿は昨夜、ずっと私と共にありました。彼に盗みを働く時間などありませんでした!」


「殿下、感情に流され犯罪者を庇護するのは困ります。この男の部屋から明白な物証が出ました。王女殿下の名誉のためにも、お下がりください」


ベルンの声は断固としていた。


エリシアは震える体で僕の前を守ったが、騎士たちの圧力は凄まじかった。


僕は彼女の肩越しに、遠くからこの状況を見守っているセドリックを見つけた。


彼は柱の影に立ち、優雅にワイングラスを傾けていた。


自分の計画が完璧に運んでいるという確信に満ちたその眼差し。


「異邦人ごときが、私の座を奪おうとした報いだ」


と言わんばかりの傲慢な態度が僕を刺激した。昨夜の沈着さが嘘のように、胸の奥底から冷たい憎悪がこみ上げてきた。


(貴様、よくも……エリシアを泣かせてまで、こんな稚拙な演劇を……!)


自ら飛び込んだ罠だったが、僕を守るために必死で耐えるエリシアの背中を見ると、理性が千切れそうだった。だが、今は耐えなければならない。


セドリックの首根っこを完璧に掴み、彼をエリシアの傍から永遠に粛清するためには、この地下牢という舞台がどうしても必要だった。


「殿下、大丈夫です」


僕はエリシアの手を優しく解き、彼女の耳元で囁いた。


「少し席を外すだけです。僕は身に覚えのない罪で屈したりしません。心配しないでください」


「ダメよ、ハルト! 奴らが貴方に何を……!」


「信じてください。僕は貴女の騎士です。そして……すぐに戻ります」


僕は素直に手錠を受け入れた。冷たい金属の感触が手首に食い込む。


ベルンの兵士たちが僕を荒々しく引き立て始めた。


エリシアの泣き混じりの叫びが遠ざかる間、僕は顔を上げ、セドリックと目を合わせた。


彼は勝者の笑みを浮かべて首を傾げてみせた。だが、彼は知らない。僕がこの屈辱に耐えるのは、恐れているからではない。


彼が持つすべてを、最も悲惨なやり方で崩壊させるための「死神」の招待状なのだということを。


皇宮地下牢へと連行される間、僕の頭の中にはただ一つの誓いしかなかった。


ユウを失った時のように、大切な人を誰かの陰謀で再び失うことは、断じてあってはならない。


(セドリック、貴様が吐き出したその傲慢な言葉の数々を、貴様の墓標にしてやる)


地下牢の重い鉄門が閉まる音と共に、真の戦闘が始まった。


セドリックに加担した貴族派は、自分たちが勝利したと信じているだろうが、彼らが灯した火は、結局彼ら自身を焼き尽くす火焔となって返っていくことだろう。

いかがでしたでしょうか。 ついに登場した強敵、セドリック公爵令息。


圧倒的な武力を持つハルトですが、血統や身分という目に見えない鎖にどう立ち向かうのか。 そして、エリシアの


「一生私に尽くしなさい」という言葉に隠された想いとは。 続きが気になる方は、ぜひブックマークや評価をお願いします!


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