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4. ライラックの香りと、不器用な甘え方

第4話をお読みいただきありがとうございます。 戦場を離れ、束の間の平和を享受する二人。


ハルトが語る異世界の物語と、少しずつ心を開き始めたエリシアの可愛らしい「甘え」を楽しんでいただければ幸いです。


帝国の朝は、思いのほか平和だった。


前日の血闘や重苦しい誓いが嘘のように、庭園に降り注ぐ陽光は目に沁みるほど透き通っている。


「ハルト卿、準備はいいかしら?」


エリシア殿下の声に、僕は屋根の上から軽く飛び降りて彼女の前に立った。


今日は公式行事のない、お忍びの散歩の日だ。


華やかなドレスの代わりに軽やかなワンピースを纏った彼女は、あの日、河原道を歩いていたユウとあまりに似ていて、一瞬息が止まりそうになった。


「……はい、殿下。巡回ルートの点検、完了しました」


「巡回じゃなくて『お散歩』だって言ったでしょう。今日は剣先を尖らせてばかりいないで、お花見でもしなさいな」


彼女がいたずらっぽく笑って先を歩く。


その後を追う最中、僕は無意識に、いつもの癖で彼女の手を握ろうとして、ハッとして手を引っ込めた。


そうだ、ここは日本じゃない。そして、この人はユウじゃないんだ。


しかし、エリシアは僕のぎこちない動きに気づいたのか、頬をわずかに赤らめて顔を背けた。


「……その、繋ぎたければ繋いでもいいわよ。護衛なんだし。迷子になられたら困るもの……」


「い、いえ。では、殿下の袖の端でも……」


結局、僕は彼女の薄い袖の端をそっと掴んだ。


まるで高校生の頃の初デートのように、手のひらに汗が滲む。


大陸に名を轟かせた勇者が、たった一切れの布に神経を集中させているなんて。


自分がおかしくて、自嘲気味に鼻で笑ってしまった。


庭園のベンチに座り、僕は彼女に僕が住んでいた『向こう側の世界』の話を聞かせた。


「鉄でできた巨大な鳥が空を飛び、夜でも太陽のように明るい光が街を照らしているですって? ハルト卿、小説家に転業してもやっていけそうね」


「本当のことですよ。それに、あちらには『コンビニ』という魔法のような店があって、夏の夜遅くに行っても冷たい氷菓子が食べられるんです」


「氷菓子? 魔導師が氷の魔法でも使うのかしら?」


僕は笑いながら、近くにあった冷たい泉に手を浸した。


「魔法ではなく技術です。ミントの色とチョコの味が混ざったお菓子があったのですが、殿下もきっと気に入りますよ。歯磨き粉の味がするって嫌う人もいましたけど」


「歯磨き粉の味のお菓子なんて、本当に奇妙な世界ね!」



エリシアはお腹を抱えてクスクスと笑った。


その笑い声はスズランが揺れる音のようで、僕は呆然と彼女を見つめた。


ユウと会話する時に感じていたあの安らぎが、エリシアという人を通じて、僕の心の中に染み込んできていた。


「ねぇ、ハルト卿」


彼女が突然、真剣な表情で僕を見た。


「貴方の世界では、好きな人にどうやって想いを伝えるの?」


予想外の質問に、むせて咳き込んでしまった。


「それは……普通は花を贈ったり、手紙を書いたり……あるいは、沈む夕日を見ながら大声で好きだと叫んだりしますね」


「ふふっ、貴方らしいわ。不器用そうに叫ぶなんて」


図星を突かれたようで、胸の奥がチクリとした。 彼女は立ち上がり、ライラックを一輪折って僕の鼻先に近づけた。


「我が帝国では、言葉の代わりにこうして花の香りを贈るのよ。『貴方が傍にいてくれるから、空気が甘くなった』という意味を込めてね」


瞬間、かつての記憶が重なった。『あの日の空気は、ひどく甘かった』。


目頭に熱い感情がこみ上げてくる。 僕の目が潤んだことに気づいたのか、エリシアは慌てて花を僕の胸に押し付けた。


「あ、違うわ! 泣かせようとしたんじゃなくて……ただ、そういうことだって言いたかっただけ! 本当に、勇者様は時々子供みたいなんだから」


彼女は照れ隠しに先を急いだ。僕は胸の中のライラックの香りを嗅ぎながら、彼女の背中を見つめた。


ユウに似た彼女だったが、今、僕の胸をときめかせているこのもどかしい空気は、エリシアだけが与えてくれるものだった。


「殿下、待ってください!」


僕は初めて英雄の重荷を下ろし、平凡な少年のような足取りで彼女を追いかけた。


しばらく散歩を続けるうちに、お互いの心の距離がぐっと近づいたことを実感した。


「ハルト、見て! あの蝶、お城では初めて見る種類だわ」


エリシアが前を歩きながら振り返った。けれど、その口調が少しおかしい。


いつもの『殿下』らしい堅苦しさが消え、どこか不慣れながらも、妙に親しげな話し方だった。


「……殿下、今のお言葉は?」 「あ、それは……」


エリシアは困ったように頬を染め、指先をいじった。


「貴方の住んでいた場所の話を聞いたら、帝国の礼法が窮屈に思えてきて。貴方といる時だけでも……その、少し崩して話してもいいって許可してあげるわ。どうかしら、私……少しは貴方の国の人のように見える?」


彼女は僕の顔色を伺いながら、「私、どう?」と尋ねるように首を傾げた。


まるで、ユウが新しい服を買って自慢してきたあの日みたいに。胸の奥がキュッと締め付けられた。


「……ええ、とてもよくお似合いです。殿……」


「殿下って呼ばないでって言ったでしょう! ええと、そうね……『おーい、ハルト!』って言えばいいのかしら?」


彼女はどこかで間違えて覚えたような、現代の学生っぽい口調をぎこちなく真似た。


その突飛な姿に、思わず吹き出してしまった。


「それは少し行き過ぎです。ただ名前を呼んでくださるだけで十分ですよ」


「ちぇっ、これでも考えたのに。じゃあ……ハルト、私、あれが食べたいわ」


エリシアが指差したのは、庭師たちが間食用に置いていた小さな野いちごの籠だった。


普段の彼女なら想像もつかないことだが、今日はなんだか、子供のように甘えたい気分なのだろう。


「あれは、お姫様が召し上がるには酸っぱすぎると思いますが」


「関係ないわ! 貴方が摘んでくれるものなら、何でも美味しい気がするの。ほら、早く!」


彼女は僕の袖をぐいっと引っ張り、地団駄を踏んだ。


ユウがチョコミントのアイスを買ってとせがんでいた姿と、完璧に重なって見えた。


僕は吸い寄せられるように野いちごを一粒摘み、彼女に差し出した。


「はい、どうぞ」


エリシアは野いちごを一口で頬張ると、すぐに顔をしかめた。


「ううっ、本当に酸っぱい! ハルト、これ分かってて渡したでしょう? 意地悪なんだから!」


「ですから、酸っぱいと申し上げましたよ」


「もう、責任とって! 口の中がすっかり酸っぱくなっちゃったじゃない。ええと……そうだ、貴方が言っていたあの甘い『コンビニのアイスクリーム』とやらを、今すぐ作ってちょうだい!」


彼女は無茶な理屈をこねて僕の腕に縋り付いてきた。触れ合う体温、鼻先をかすめる彼女の髪の香り。


そして何より僕を戸惑わせたのは、彼女の瞳に宿る純粋な信頼だった。


彼女はユウじゃない。


けれど今この瞬間、僕を見て笑い、拗ね、甘えるこの少女は、間違いなく生きて息をしている『エリシア』だった。


「……わかりました。アイスクリームとはいきませんが、似たような冷たいフルーツのデザートをお作りしましょう」


僕の答えに、エリシアは世界中の幸せを手に入れた子供のように満面の笑みを浮かべ、僕の腕をぎゅっと抱きしめた。


「やっぱりハルトが最高ね! ねぇ、明日もこうして遊べないかしら? ううん、明日もこうして遊びましょう。いい?」


彼女の不器用な甘えが、胸の奥深くに突き刺さった。


ユウへの罪悪感と、エリシアへの新しい高鳴りが混ざり合い、息が苦しくなる。


僕は彼女の頭上に降り注ぐ陽光を見つめ、静かに誓った。


守りたい。


過去の亡霊のためではなく、今、僕の腕に縋ってわがままを言うこの愛らしい少女の笑顔を、永遠に見ていたいという利己的な欲望が芽生えた。


「はい、殿下……いえ、エリシア。そうしましょう」


僕たちの間に流れる空気は、ライラックの香りよりもずっと甘く熟していった。


【王宮の厨房にて】


厨房から氷の魔石を借りてきて、キンキンに冷やしたフルーツポンチを出すと、エリシアは珍しそうに目を輝かせた。


「わあ、本当に冷たい! ハルト、貴方、本当に魔導師じゃないの?」


彼女は銀の匙で大きく一口掬うと、もぐもぐと咀嚼して幸せそうな表情を浮かべた。


貴族らしい優雅さはどこへやら、頬をパンパンにして食べる姿は、それこそ普通の少女のようだった。


「エリシア、ゆっくり食べてください。頭にツーンときますよ」


「そんなわけ……あ! 痛っ、本当だわ! 頭がキリキリする!」


こめかみを押さえて悶絶する彼女の姿に、僕はとうとう堪えきれず笑い声を上げた。


エリシアは涙目になりながら僕を睨みつけた。


「笑わないで! これ、全部貴方のせいなんだから!」


彼女はへそを曲げたように、器を僕の方へ押しやった。


「ほら、貴方も食べなさい。私だけ痛い思いをするのは不公平だわ」


王女と同じ器を分け合うなど、この世界の法によれば不敬に値したかもしれないが、今のテラスには厳格な王室も身分も存在しなかった。


僕は彼女が使っていた匙を慎重に受け取り、冷えた果実を一口飲み込んだ。


冷たくて甘い味が喉を通り、胸の奥底に積もっていた三年の埃を洗い流してくれるようだった。


「美味しいですね。本当に」


僕の心からの言葉に、エリシアは満足げに頬杖をついて僕を見つめた。



「でしょう? 私と一緒に食べるから、もっと美味しいのよ。ハルト、貴方のいた日本という場所では、毎日こんなに美味しいものを食べて暮らしていたの?」



「毎日ではありませんが、ユウと一緒なら……そうだった気がします」



思わずユウの名前を出してしまった。


空気が沈むのを心配して彼女を見たが、エリシアは嫉妬する代わりに、柔らかな微笑みを浮かべて僕の手の甲に自分の手をそっと重ねた。


「そのユウという人、きっと幸せだったでしょうね。貴方のような優しい人が隣にいたのだから」


彼女の手は温かかった。雨に濡れて冷たくなっていったあの感触とは正反対の、躍動感あふれる温もりだった。


「ハルト、私は貴方に過去を忘れてほしいとは思わない。でも、たまには、ほんのたまには……今貴方の隣にいる私だけを見てほしいの。これって、わがままかしら?」


ぎこちなく真似ていた口調ではない、彼女本来の真実の声だった。


僕は彼女の手をそっと握り返した。手のひらを通じて伝わる彼女の鼓動が、一段と速く感じられた。


「わがままなんかじゃありません。むしろ僕の方が……厚かましくも、そうしたくなってしまいそうで怖いほどですから」


僕たちはしばらく、無言で沈む夕日を眺めた。


オレンジ色に染まっていく庭園は、まるで三年前のあの日の河原道のように美しかった。


だが、今僕の傍にいるのはライラックの香りを纏った王女であり、僕はもう、雨の交差点で泣いているだけの少年ではなかった。


甘い空気の中に、僕たちの最初の『本当の』散歩が、暮れていこうとしていた。


いかがでしたでしょうか。 敬語を崩そうと奮闘するエリシアと、彼女に「ユユ」の面影を重ねつつも、今の彼女自身に惹かれ始めるハルト。


二人の距離がぐっと縮まった回でしたが、王宮の影では不穏な動きが……。


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『死んだ恋人と瓜二つの王女を、今度こそ逃がさない』
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