3. 紙の香りと血の匂い — 平穏な王宮の午後と月下の死闘
陽光が降り注ぐ穏やかな午後、皇宮の書庫。
ハルトはエリシア王女の命を受け、書籍の整理を手伝いながら、この世界の未知なる知識と遭遇します。
ユウが残してくれた大切な時計の中に「妖精」を探す純진な王女の姿に、ハルトの固く閉ざされていた心も少しずつ解け始めていきます。
しかし、平穏は常に短いもの。
本宮へと続く冷え切った回廊で、紫の魔力を纏った刺客たちが二人の行く手を阻みます。
ハルトの非対称双剣【残光】と【深淵】が夜空を切り裂く瞬間、ただの少年騎士だった彼の瞳は、再び「死神」の冷酷な輝きを宿すことになります。
陽光が細かく砕け散る皇宮の別宮図書室。
普段なら剣術の訓練に邁進している時間だが、今日はエリシアの命に従い、書庫の整理を手伝うことになった。
「ハルト卿、その棚の上にある『帝国建国史』を降ろしてくれないか?」
エリシアは梯子の上で危うげに手を伸ばしていた。
僕は静かに近づき、軽く腕を伸ばして本を受け取った。
指先がほんのわずかに触れたが、エリシアはびくりとして手を引いた。
いまだに僕たちの間には、見えない透明な壁が存在していた。
「感謝する。……ところで、ハルト卿」
「何でしょうか、殿下」
「いつまでそうして監視するように私を見てばかりいるのだ? 見ているこちらまで息が詰まる。そこに座って、この本でも読んでいろ。王女としての命令だ」
彼女が指差したのは、日当たりの良い窓際の小さなテーブルだった。僕は躊躇したが、結局彼女の向かい側に座った。
「卿は……本当に不思議な男だな。剣術は帝国の誰よりも優れていながら、この世界の基本的な歴史すら知らぬとは」
「お恥ずかしい限りです。僕が育った場所は、こことは風習が大きく異なっていたので……」
エリシアは好奇心に満ちた瞳で頬杖をついた。
「卿の住んでいた場所はどんなところだったのだ? あちらも騎士と魔法が支配する世界だったのか?」
「いえ。魔法の代わりに『機械』と『電気』という力を使っていました。夜でも真昼のように明るく、鉄でできた馬車が数百人を乗せて走る場所でした」
「奇怪だな。だが……なぜだか卿が語ると童話のように聞こえる。けれど、なぜそのような豊かな場所を離れ、こんな殺伐とした戦場のような場所に流れ着いたのだ?」
瞬間、窓から吹き込む風が冷たく感じられた。僕は一瞬、ユウの最期の姿を思い出した。
「……守るべき人を、守れませんでした。それで生きる理由を探しているうちに、目覚めたらここだったのです」
僕の短い答えに、エリシアの瞳が揺れた。彼女は謝ろうとするように唇を震わせたが、代わりに分厚い一冊の本を僕の前に差し出した。
「すまぬ。重い質問だった。代わりにこの本を読め。『帝国の家紋印章と紋章学』だ。護衛騎士ならば、せめて誰に剣を向ければよいかくらいは知っておかねばなるまい」
エリシアなりの配慮だった。僕は彼女に与えられた本をめくりながら、この世界の権力構造を頭に叩き込んだ。
皇室を守護する四つの大公家、そしてその中でも西部を掌握する『フォンテイン家』。
エリシアは退屈している僕のために、帝国の地理や魔物の特性まで、落ち着いた声で説明してくれた。
午前中いっぱい続いた読書は、平和そのものだった。ページをめくる音と、エリシアの静かな声。
異世界で感じていたひどい絶望感を一瞬でも忘れられるほど、ここの空気は温かかった。
窓の外に降り注ぐ午後の陽光は、平和を通り越して物憂げだった。
読書を終えたエリシアは
「護衛騎士なら地理の把握が優先だ!」
と堂々と僕を先導し、皇宮の散歩に乗り出した。だが、彼女が場所を指し示すたびに飛び出す
「この世界」と「僕の常識」の巨大な乖離に、僕は何度も頭を掻くことになった。
「ハルト卿、あそこに見える像が誰か知っているか? 帝国第一代皇后、アグネス様だ。貞節と忍耐の象徴なのだぞ」
エリシアが誇らしげに指差した先には……なぜか筋骨隆々の女戦士が、家一軒ほどもあるクマの首をへし折っている巨大な石像が立っていた。
「……貞節というより、『破壊』の象徴に見えますが」
「何を言う! あのクマこそが皇后様の行く手を阻んでいた魔獣だったのだ。我が世界では、あれくらいできてこそ良妻賢母と言われるのだぞ」
この世界の「良妻賢母」の基準は、どうやら僕のいた世界の「最終兵器」に近いらしい。僕は黙って頷いた。
僕たちは王宮の名物だという『女神が休息する池』へ向かった。
エリシアは相変わらずどこか他人行儀な口調ではあったが、先ほどよりも一層浮き足立っている様子だった。
彼女は僕の世界への好奇心を抑えきれず、再び口を開いた。
「先ほどの『機械』というものだが、魔法なしで動く物がそんなに多いのか? 例えば……勝手に動く馬車とか」
「はい。『自動車』と呼ぶ鉄製の馬車が、魔石もなしに走ります。ガソリンという液体を燃やして力を得るんです」
「液体を燃やして走る? では馬車からずっと肉を焼くような匂いがするのだな。腹を空かせた騎士たちには酷な話だ」
僕の少しズレた答えに、エリシアがくすくすと笑い声を上げた。
すると不意に、彼女は僕の手首に巻かれた古びた革の腕時計を見つけ、目を輝かせた。
「それは何だ? 卿が着けているその奇妙な腕輪のことだ。来た時からずっと着けていただろう」
僕は一瞬、動きを止めた。手首に巻かれた黒い革の感触が、改めて鮮明に感じられた。
この世界へ飛ばされた時に着ていた服と共に、僕が持つ唯一の異世界の品。
「これは『時計』といいます。時間を知るための道具です」
「時間を? いや、日の位置を見れば済むことなのに、なぜこんな重いものを着けて歩くのだ? ……まさか、これも卿の世界の『魔法のアイテム』か?」
彼女は僕の手首をガシッと掴むと、時計に耳を当てた。秒針が回る微かな音に、エリシアの目が丸くなった。
「聞こえる! 中でとても小さな妖精が金槌を叩いている音が聞こえるぞ!」
「妖精ではなく、ゼンマイが巻かれる音で……」
「しっ! 妖精が驚かないよう静かにしろ。あ……もしかして、この妖精にも食事が必要なのか? 砂糖水でも持ってこようか?」
真剣に悩む彼女の姿に、思わず吹き出してしまった。だが、すぐに僕の視線は古い時計のガラス面へと落ちた。
ユウがアルバイト代を貯めて「誕生日プレゼント」だと差し出してくれた、僕にとって世界で何よりも大切な宝物。
「妖精ではありませんが……僕にとっては、妖精よりも大切な人がくれた贈り物です。僕がここへ来た時に持ってこられた、唯一の思い出なんです」
僕の低い声に、エリシアが時計から耳を離して僕を見上げた。彼女の目に宿っていた悪戯っぽさが消え、妙な静寂が二人の間を包み込んだ。
「……そうか。卿にとって、とても大切な物だったのだな。無礼をした、謝ろう」
「いえ。殿下のおかげで、妖精がいるなんて考えもできましたから」
気まずくなったエリシアが空咳をして話題を変えた。彼女が足早に向かった先は、騎士団の訓練場を見下ろすテラスだった。
運悪くその時、下では新人騎士たちが上半身を脱ぎ、冷水を浴びる訓練をしていた。
「あらやだ!」
エリシアが悲鳴を上げて両手で目を覆った。しかし……指の間はかなりたっぷりと開いていた。
「ハ、ハルト卿! あれを見ろ! 神聖な皇宮であのように卑俗に体を晒すとは! 帝国騎士団の規律も地に落ちたものだな!」
「殿下、指の間から丸見えですが」
「ち、違う! これは……敵の急所を把握するための観察だ! あの騎士の腹筋がいくつに割れているか確認することが、国防に繋がるのだ!」
無茶苦茶な屁理屈を並べて狼狽える彼女の姿が、ユウとあまりに重なった。
ユウも夏の海に行けば
「私は水着モデルの筋肉配置を研究しているの」
と言いながら、サングラスの奥で目を輝かせていたものだ。
苦い笑みがこぼれたが、今度はその悲しみが僕を押し潰すことはなかった。
むしろエリシアの突飛な行動が、僕の心の中の重い空気を少しずつ追い出していた。
「卿は本当に……計り知れない男だな」
夕陽が長く伸びる皇宮の庭園。
口調は相変わらずで呼称も堅苦しかったが、二人の距離は朝よりも確実に一歩近づいていた。
「明日も……この時間に散歩に来る。その時はその時計の中の妖精……いや、ゼンマイの巻き方を必ず教えるのだぞ。わかったか?」
「はい、殿下。砂糖水は持ってこなくて大丈夫ですよ」
僕たちは長く伸びた互いの影を踏みながら、本宮へと向かった。
少なくとも今この瞬間だけは、僕もこの世界で息をすることがそれほど苦しくはなかった。
本宮へ戻る回廊。昼の温もりは消え、夜の冷気が足元を絡め取った。
エリシアと交わした他愛もない冗談が頭を巡る。すると不意に、自分の足音以外の微かな音が聞こえた。
足音ではない、衣擦れのわずかな摩擦音。
僕は思わず先を歩いていた足を止めた。全身の神経が鋭く研ぎ澄まされる。回廊の空気が異常なほど冷え切っていた。
「殿下、僕の後ろへ」
僕の声は、昼間にエリシアと交わした日常の口調ではなかった。
血の気が引くほど冷徹な、死神の声だった。
エリシアがいぶかしげに僕を振り返るよりも早く、闇の中から紫の火花が散り、五、六人の影が飛び出してきた。
「侵入者だ! 王女殿下を保護せよ!」
遠くから別の騎士の叫びが聞こえたが、既に遅い。刺客たちは刹那の迷いもなく、エリシアの心臓を狙って殺到した。
僕は躊躇なく右手の長剣【残光ざんこう】を抜き、最初の刺客の攻撃を弾き飛ばした。
(ガキィィン――!)
火花が散ると同時に、全身に伝わる重い衝撃。敵の剣には一般的な騎士の剣とは異なる、陰湿な魔力が込められていた。
刺客の数は予想以上に多かった。
二人目の刺客が脇腹を突き、三人目が頭上から剣を振り下ろす合撃。
僕は【残光】で辛うじて二人目を防いだが、頭上の剣を弾くには体勢が不十分だった。
(くそっ、数が多い!)
その刹那、僕の左手がマントの下で閃いた。
肘ほどの長さの黒い曲短剣、【深淵しんえん】が蛇のように虚空を裂いた。
銀色の【残光】が敵の剣を縛り付けている間に、見えざる【深淵】が三人目の刺客の防具の隙間、心臓へと至る急所を正確に貫いた。
「がはっ……!」
刺客は悲鳴すら上げられずに崩れ落ちた。
【深淵】の黒い刃から禍々しい魔力が立ち昇り、刺客の生命力を吸い上げるのが分かった。
奴の体から紫の気が消えていった。
「なっ……双剣使いだと!? 帝国にそんな変則的な剣術を使う騎士などいなかったはずだ!」
刺客の頭目の驚愕に満ちた叫びが聞こえたが、既に遅い。
僕は銀色の【残光】で二人目を力任せに押し返して隙を作り、その隙間に【深淵】を振るって奴の喉元を断ち切った。
血が噴水のように舞ったが、僕の剣には一滴の血も付着していないかのように潔白だった。
黒と銀の軌跡が踊るように交差するたび、刺客たちはなす術なく倒れていった。
僕はエリシアの安全を最優先にし、彼女の周辺を旋回しながら、一分の狂いもない動きで敵を制圧した。
最後の刺客が床に伏した時、僕は倒れた奴の剣の柄に視선을 落とした。
そこには昼間、エリシアと共に読んだ『帝国の家紋印章と紋章学』で見かけた紋様が、微かに刻まれていた。
(波紋の盾の紋章。西部フォンテイン家……か)
奴らの剣から感じられたあの不吉な紫の魔力と、おぞましい殺気。
そのすべてが、昼間に対峙したあの傲慢な公爵の影であることを直感した。
「ハルト! 大丈夫なの!?」
エリシアの声がした。震える手が僕の肩を掴んだ。
引き裂かれた甲冑の隙間から、赤い血が滲み出していた。刺客の魔法剣に掠めた傷だった。
「……案じないでください。ただ、まだ人間を相手にするには、俺が未熟すぎたようです。それより、殿下にお怪我はありませんか?」
「この馬鹿が……こんなに血が出ているのに! 止まって! 血が止まらないじゃない!」
エリシアは昼間の王女の威厳などどこへやら、狼狽した様子で自分の赤いシルクのハンカチを取り出した。
彼女は不慣れながらも一生懸命に僕の傷を止血した。
冷たい夜気の中で感じる彼女の手先は、信じられないほど温かかった。
「殿下、騎士の体は道具に過ぎません。このような貴い布を血で汚しては……」
「道具なんて呼ぶな! 貴方は……貴方はさっき、私に自分の世界のことを話してくれた時、初めて生きている人間のように見えたのだ。なのに、なぜまたそのように自分を卑下するのだ?」
エリシアの目に涙が溜まった。
僕はその瞳の中にユウの面影を見、同時に僕を「道具」ではなく「ハルト」という一人の人間として見てくれる彼女の 真心を強く感じた。
失ったユウが僕にしてくれたように、彼女もまたこの地獄のような世界で、僕を「人」として扱っていた。
「このハンカチ、貴方が持っていなさい。そして、綺麗に洗って、直接返しに来るのだぞ。これは護衛騎士としてではなく、私の命の恩人としての約束だ。わかったか?」
ハルトは血の付いたハンカチを固く握りしめた。
昼間の穏やかな読書の光景が夢のように感じられたが、手のひらに残る彼女の温もりは鮮明だった。
その温もりが僕の傷を、そして心の深淵にある傷さえも、少しずつ癒してくれるようだった。
「肝に銘じます、お姫様」
他人行儀だった二人の距離に、初めて「騎士と主君」以上の絆が芽生え始めた夜だった。遠くからカイザー団長の咆哮が聞こえてくる。
刺客の正体は迷宮入りするかと思われたが、僕は確信していた。
この襲撃と紫の魔力の背後にフォンテイン家があることを。
そして、奴らが狙っているのは、王女の命だけではないということを。
刺客を退けたハルトの肩には赤い傷跡が残りましたが、それよりも赤いエリシアのハンカチが、彼の傷と心をそっと押さえます。
「道具なんて呼ぶな」という王女の心からの叫びは、ハルトにこの世界で生きる新たな理由を突きつけました。
刺客たちの剣に刻まれたフォンテイン家の紋章、そしてハルトの時計を知っているかのような謎の声。
果たして、この陰謀の背後には誰がいるのでしょうか?
ハルトは自分と同じ「転移者」が他にもいるのではないかという既視感を抱きながら、闇の向こうへと視線を投げます。
[作者の一言] 今回のエピソードでは、ハルトとエリシアの微笑ましいやり取りと共に、ハルトの本領発揮(?)となる熱い戦闘シーンを描いてみました。
ハルトの細身の体から繰り出される鋭いアクション、楽しんでいただけたでしょうか?
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