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17. 欺く者と欺かれる者

「忠誠」という言葉ほど、残酷な響きを持つものはない。 目の前の騎士が掲げる正義が、実は愛する者を殺す刃であるとしたら。


死神の目には、王国の高潔な騎士道さえも、滑稽な茶番劇にしか映らなかった。


早朝、机の上の書類を整理していると、扉の外から控えめな足音が聞こえてきた。


コンコンと短いノックの音と共に現れたのは、怯えた表情の侍女だった。


彼女は震える手で、銀色の印章が押された一通の書状を差し出した。


「伯爵様、その……新しく来られた騎士様が、必ずお渡しするようにと」


侍女は書状を置くやいなや、逃げるように部屋を去った。俺は茶碗を置き、無造作にその封筒を破った。


中にはカイラス・フォン・デルマール、あの堅物な男の性がそのまま表れたような、整然として力強い筆致が並んでいた。


『死神伯爵ハルト。殿下は貴公を友と呼ぶが、私は決して認めない。貴公の不吉な魔力と正体不明の力が殿下を惑わす仮面であるならば、私の剣でその実体を暴いてみせよう。今朝、演習場にて待つ。騎士の挑戦から逃げぬことを願う』


「仮面か……。随分と大層な名分だな」


俺は口元に皮肉な笑みを浮かべ、机の端に置かれた細い革の手帳を手に取った。昨夜、ルナが徹夜でまとめてくれた「カイラス攻略本」だ。


すでに彼の筋肉の収縮具合、魔力運用の経路、さらには本人さえ自覚していない微細な癖までがデータとして置換され、俺の頭に刻み込まれている。


俺は迷わず執務室を出た。廊下を進む足音が、いつもより軽く響いた。わざわざ戦う必要はなかったが、自らまな板の上に乗るというのを止める理由もない。


何より、ルナが設置した魔力測定装置が実戦でどのようなデータを弾き出すか、確かめてみたかった。


演習場に到着すると、冷たい早朝の空気を切り裂く金属の魔力が肌に触れた。


訓練用の木剣を握り直し俺を待っていたカイラスは、俺の姿を見るなり嵐のような気迫で立ちはだかった。


朝日に照らされた銀色の甲冑が、冷たく輝いている。


「ようやく来たか、死神」


カイラスが剣先を俺の喉元へ正確に向け、宣告した。その瞳には、一点の曇りもない、酷いほどに真っ直ぐな正義感が宿っていた。


「魔法のような小細工ではなく、真の剣技で証明せよ。貴公が王女殿下の傍に居る資格があるか、見極めさせてもらう!」


パッ――!


言葉が終わるが早いか、彼は全速力で俺へと肉薄した。カイラスの動きは教科書のように完璧だった。


王国騎士団の頂点という肩書きは伊達ではないと言わんばかりに、彼の木剣は空気を切り裂く鋭い風切り音と共に、俺の米神を狙ってきた。


だが、俺の目に映る彼は、さながら数千回繰り返したシミュレーションの中の人形に過ぎなかった。


(0.7秒後、右斜め上からの斬撃)


俺は首をわずか一インチだけ横に傾けた。木剣が頬をかすめて通り過ぎたが、瞬き一つしなかった。


「なっ――!」


カイラスの目に衝撃が走ったが、彼の身体はすでに次の連撃へと移行していた。


「なぜ避ける! 死神と恐れられた男が、よもやこの程度か!」


カイラスが激昂した声で叫び、剣を垂直に振り下ろした。地面を揺らすほどの威力だったが、俺はすでに彼が踏み込む前、左膝の筋肉が微かに収縮するのを捉えていた。


(重心移動30%、次は旋回斬りだ)


俺は後ろへ下がる代わりに、むしろ彼の懐へと踏み込んだ。剣を振るための遠心力が極大化する瞬間、すなわち最も防御が脆くなる死角。カイラスの瞳が激しく揺れた。


「こ、これは……!」


「お前の剣は、正直すぎる」


俺は鞘を握った左手で、彼の手首の関節を軽く叩いた。魔力を精密に乗せた打撃に、カイラスの剣筋は見事に歪んだ。


体勢を崩した彼がよろめいた刹那、俺はルナが「最も脆弱な連結部」と指摘した彼の右脇の下を、木剣の先で正確に突いた。


ドッ!


たった一度の打撃だったが、カイラスは息を詰まらせて後退した。


呼吸を乱した彼が強引に構え直そうとしたが、俺は隙を与えない。ルナの報告書には、カイラスが危機に陥った際、本能的に魔力を全方位に放出し距離を置こうとする癖があると記されていた。


(今だ)


カイラスが魔力を爆発させる0.2秒前、俺は彼の経絡に魔力を注入し、流れを強制的に遮断した。魔力逆流の苦痛に、彼の身体がくの字に折れる。


その瞬間を逃さず、俺は木剣を振るい、彼の首筋と膝の裏を立て続けに打ち据えた。


ガッ、ボゴッ!


鈍い音と共に、銀色の光彩が地面へと崩れ落ちた。ただの一度の無駄も、不必要な動きもない、圧倒的な蹂躙だった。


演習場の土煙が、冷え切った空気の中に沈んでいく。足元で膝をつき、荒い息を吐く騎士、カイラス・フォン・デルマール。


王国最強と謳われた彼の銀色の甲冑には、先ほど俺が木剣の先で刻んだ痕が、勲章のように刻まれていた。


「……はぁ、はぁ……」


カイラスは震える手で地面を突き、再び立ち上がろうとした。その瞳は敗北の屈辱よりも、さらに巨大な何かで燃えていた。それは他ならぬ「盲目的な信念」だった。


「私は……まだ退くわけにはいかない。第二王子殿下は、慈悲深き御心で大切な妹君を守るため、私をここへ送られたのだ!」


カイラスの叫びが演習場に木霊した。その声には一点の曇りもなかった。彼は本気で第二王子が妹を想っており、自分はその崇高な任務を遂行する正義の守護者だと信じ切っていた。


その汚れなき純粋な眼差しを前にした瞬間、俺の中で言いようのない吐き気がこみ上げた。


彼の忠誠心が深ければ深いほど、彼を利用して実の妹を屠殺場へと追い遣った第二王子の影が、より一層醜悪に感じられたからだ。


「……慈悲深き命、か。その勘違いがどれほど悲惨な結末を招くか、貴様には想像もつくまい」


俺は冷たく言い捨て、背を向けた。


「興が削がれた」


これ以上彼と言葉を交わすのは時間の無駄だと感じた。


夜が更けると、俺は直ちにルナの地下研究室へ向かった。


昼間に収集したカイラスの魔力動向データと、彼の所持品から抽出した魔力の破片が、ルナのテーブルの上に乱雑に散らばっていた。


ルナは眼鏡の奥で紫色の瞳をぎらつかせ、魔力回路を解読していた。俺が部屋に入ると、彼女は不気味なほど落ち着いた声で口を開いた。


「伯爵様、とても面白い……いえ、恐ろしい結果が出ました」


ルナが空中に投影した魔力幾何学の術式は、不快な鼓動を放っていた。俺は腕を組み、その異質な光を凝視した。


「言え」


「第二王子がカイラス氏に下賜したという品々、そして彼が使う剣術の根幹となる魔力運用の方式についてです。一見すると王宮騎士団の正統な術式に見えますが、その核に隠された構造は全くの別物です」


ルナの指先が、複雑に絡み合った術式の中心部を指した。


「これは人間の魔法体系では絶対に説明できない構造です。魔力を扱うアルゴリズム自体が、人体の限界を考慮せずに設計されています。これは……魔族の上位術式にのみ見られる異質な痕跡です」


部屋の空気が一瞬にして凍りついた。第二王子が単に王位を狙う野心家だと思っていたが、真実は想像よりも遥かに奈落の底にあった。


「魔族の痕跡か。では、第二王子は魔族……魔王軍と結託しているというのか?」


「ええ。第二王子は王女殿下を守るために騎士を送ったのではありません。むしろ、殿下の傍に『魔族の痕跡』を宿した人物を配置することで、彼女が持つアーティファクトの状態をリアルタイムで調整していた……カイラス氏をアンテナとして利用していたのです」


頭の中でパズルのピースが繋がり始めた。


第二王子は妹を想う振りをしながら彼女を辺境の聖域へと幽閉し、その傍らに最も忠実な部下を監視役として付けた。


自分の権力のために妹の命を担保に取り、部下の高潔な忠誠心すらも屠殺場の道具へと転落させる人間。


「吐き気がするな」


握りしめた拳から、みしりと音がした。魔王が何者かは知らない。だが、少なくとも今目の前に広がる人間の悪意よりは、幾分か正直だろう。


怪物は飢えや本能のために狩りをするが、人間は大切なものを守ろうとする心さえ、最も醜悪な形で利用し尽くす。


「ルナ。この事実をカイラスが知れば、どうなると思う?」


「さあ……あれほど高潔を気取っていた騎士様が、自分の主君が魔王の飼い犬だと知れば……。精神が崩壊して自害するか、あるいは現実を否定して最期まで王子の犬として残るかでしょうね」


ルナはメスの刃先をなぞりながら冷ややかに笑った。彼女はすでにこの状況を、一つの興味深い解剖学的実験として楽しんでいた。


俺は窓の外、相変わらず城壁の上を愚直に巡回し、エリシアの寝所を守るカイラスのシルエットを睨みつけた。


彼は今この瞬間も、自分が王女を守っていると信じ、誇りを感じているのだろう。


その無知が、その純粋な忠誠心が、あまりに憐れで、そして反吐が出る。


「人間という種族は、守りたいという心すら欺瞞の手段に使うのか」


俺の中で何かが切れる音がした。それは人間という種族に対して抱いていた、最後の一欠片の同情心だった。


第二王子が仕組んだこの演劇の中で、エリシアは犠牲羊であり、カイラスは盲目の屠殺者だった。


俺はポケットの中にある小さな木彫りの人形に触れた。エリシアが俺にくれた素朴な真心。この聖域に息づく平凡な人々の暮らし。


これほどまでに高潔で美しいものたちを踏み台にし、私腹を肥やそうとする王国のクズども。


「いいだろう。その取引、俺が世界で最も残酷なやり方でぶち壊してやる」


俺は決意した。もはや奴らを「同族」とは見なさない。第二王子が魔王の力を借りてこの国を玉座にしようとするなら、俺はその玉座ごと地獄の火に投げ込んでやる。


俺は闇の中で城壁の騎士を見下ろし、低く呟いた。


「カイラス。お前の魂が壊れる時、お前が真っ先に恨む対象が誰になるか、見ものだな」


勇者として異世界の人間族を守り続ける理由があるのか……という疑問がよぎったが、その問題は後回しにすることにした。


考えたところで、今の俺に答えは出せそうにないのだから。

救いようのない真実が、ルナの手によって暴かれました。 カイラスの純粋な忠誠心を利用し、妹であるエリシアを「生贄」へと作り替える第二王子の策略。


人間という種の底知れぬ悪意に触れたハルトの中で、何かが決定的に壊れ、そして再構築されていきます。 果たしてハルトは、この泥沼のような陰謀をどう食い破るのでしょうか。

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『死んだ恋人と瓜二つの王女を、今度こそ逃がさない』
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