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16. 聖域の朝と、静かなる宣戦布告

いつもご愛読いただきありがとうございます。 第16話は、ハルトの「一人称視点」でお届けします。 エリシアに見せる少し不器用な優しさと、よそ者に向ける冷徹な眼差し。


その温度差を楽しんでいただければ幸いです。そして……お待たせしました。


聖域の「裏の主役」とも言えるルナの活躍(?)にもご注目ください!

昨日の騒動が嘘のように、聖域の朝は平穏だった。


だがハルトにとっては、かつてないほど緊張する朝だった。


彼は鏡の前で何度も自分の表情を点検する。


「死神伯爵」としての威厳ではなく、一人の友人として接するための準備だった。


城内にある小さな食堂。


普段なら冷たい静寂が漂う場所だが、今は焼きたてのパンの香ばしい匂いに満ちていた。


エリシアはすでに席に座り、窓から差し込む朝の光を楽しんでいた。


「……よく眠れたか?」


ハルトが慎重に切り出した最初の一言に、紅茶を飲もうとしていたエリシアの手が止まった。


彼女は目を丸くしてハルトを見つめる。


「ハルト? 今……」


「昨日、考えたんだ。ここでは俺たち二人きりなんだから、無理にかしこまる必要もないだろう。……口に合うか?」


ハルトは視線を逸らし、ぎこちなくパンを一切れ手に取った。


エリシアの顔に、ゆっくりと華やかな微笑みが広がっていく。


彼女はハルトの変化が心底嬉しいようで、椅子をぐいと引き寄せながら囁いた。


「うん! すっごく美味しい。それに今の話し方、ずっといいわ。私にだけ、こうしてくれるの?」


「まあ……そうだな。他の奴らの前で、こんな姿は見せられないからな」


傍らで茶を淹れていたノアは「伯爵様がついに人間の言葉を話された!」とハンカチで涙を拭う真似をし、ハルトは「黙れ」と一蹴したが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。


だが、その平和は長くは続かなかった。


笑いが収まる頃、ハルトは窓の外、城門の方を見つめて低く呟いた。


「冗談はここまでだ。エリシア、間もなく王宮から客が来る」


「客? お兄様が人を送るとは言っていたけれど……もう?」


「ああ。城門近くの結界に異質な魔力が触れた。ひどく堅物で、融通の利かない騎士の魔力だ」


ハルトはあらかじめノアに、領地内の「現代的施設」のうち秘匿すべき場所を隠すよう命じた。


王宮から来た監視役が、自分の「前世の知識」を魔法や異端の力と誤解すれば面倒なことになるからだ。


特に下水道の浄化施設やガラス製造工房には、アーシャに厳重な警備を言い渡してある。


「エリシア。相手が誰であれ、ここでは俺のやり方に従ってもらう。たとえお前の兄の腹心であっても、例外はない」


「心配しないで、ハルト。私があなたの味方になってあげるわ」


彼女の力強い言葉に頷きながらも、ハルトの手は食卓の下で、密かに「イステリアの涙」が入った袋を弄んでいた。


昨日見た、あの不吉な紫色の糸。


王宮から来るあの騎士は、果たして王女を守りに来るのか。それとも、この「捕食者」を監視しに来るのか。


城門の外から響く激しい蹄の音と、甲冑がぶつかり合う騒がしい音。


ハルトの瞳は、瞬時に鋭い「死神」のそれへと戻った。


「さて、騎士様をお迎えに行こうか」


ハルトは仲間たちとエリシアを連れ、城門の前で第二王子の使者を迎える準備を整えた。


城門が開き、銀色の甲冑に身を包んだ騎士団が威圧的な勢いで入城してきた。


その中心に立つ男は、第二王子の最側近であり、王国でも指折りの剛直な騎士「カイラス・フォン・デルマール」だった。


「第二王子殿下の命を受け、王女殿下の身辺警護および聖域の視察に参った!」


カイラスは馬を降りるなり、ハルトに向かって敵意に満ちた視線を投げつけた。


カイラスは、死神と呼ばれる男が王女を甘言で唆し、この不吉な地に監禁していると疑って止まない様子だった。


その視線は、まるで疫病患者を見るような嫌悪と警戒に満ちていた。


「死神伯爵ハルト。殿下をこのような疎かで危険な辺境に留め置くとは、正気か? 王室の貴い花を、死の臭いの消えぬ場所に置くこと自体が不忠だとは思わんのか」


その傲慢な物言いに、ハルトは鼻で笑った。内なる死神が冷ややかに鎮まり、唇を動かす。


「疎かなのは認めるが、危険だというのは貴殿の偏見に過ぎないな。視力が悪くて領地の変化が見えないのなら、うちの軍医に診てもらったらどうだ? 脳までイカれているなら、手の施しようがないがな」


あえて冷徹な口調で応酬し、カイラスを圧迫する。


ハルトの周囲から漏れ出した凍てつくような魔力がカイラスの勢いを呑み込むと、彼は屈辱を感じたように剣の柄を握りしめた。


今にも抜剣せんばかりの緊張感が漂う。


その時、隣に立っていたエリシアが、いつもの柔らかさを捨て、厳しい声で仲裁に入った。


「無礼ですよ、カイラス。ここは私が望んで滞在している場所です。そしてハルトは私の大切な友人であり、同志です。私の選択を侮辱することは、私自身を侮辱することと同じだと心得なさい」


王女の断固たる態度に、カイラスの肩がびくりと震えた。


彼は結局、怒りを堪えて深く頭を下げた。


「……失礼いたしました、殿下。ですが、それがしには殿下の安全を守る義務がございます」


頭は下げたものの、その瞳からは疑念が消えていなかった。彼はすぐさま領地の視察へと向かった。


何としてでも粗探しをし、王女を直ちに王都へ連れ戻そうという魂胆が透けて見えた。


だが、ハルトはあえて彼を止めなかった。むしろ、見せたいものは山ほどあったからだ。


しばらくして、領地を一周して戻ってきたカイラスの表情は見ものだった。


彼は魂が抜けたように呟いた。


「これが……本当に、半月前まで廃墟だった場所だというのか?」


彼の目の前には、綺麗に整備された水路と、塵一つ落ちていない街並みが広がっていた。


ゴミ一つ見当たらない道路は王都よりも快適だった。


農民たちの顔には無理やり作った笑顔ではなく、明日の暮らしを期待する活気が溢れていた。


特にバルガスが再建した城壁を見たカイラスは、驚愕を隠せなかった。


王都の城壁よりも堅固に見える工法と魔力的な補強。


この光景を目の当たりにし、彼はハルトが持つ「死神」の能力が単なる破壊ではなく、むしろ何かを創造し支える強大な力であることを直感していた。


その時、露店を見て困惑していたカイラスの隣をアーシャが通り過ぎ、肩をポンと叩いた。


「おい、甲冑のおじさん。田舎者みたいに口開けてないで、うちの特産品でも買いなよ。あ、王都のお坊ちゃまは金くらい持ってるんだろ?」


「き、貴様、無礼な……! 私が誰か知っての狼藉か!」


「知るもんか。騎士様なら騎士様らしく、領地の経済に貢献しな。ここではうちの『あんさん』の言葉が法律なんだよ。文句があるなら、あんさんに直接言いな」


アーシャの皮肉にカイラスの顔は真っ赤になった。


彼は聖域の非現実的な発展に当惑しながらも、ハルトへの警戒心をさらに強めたようだった。


(これほど強力な基盤を短期間で構築するとは……やはり王女を盾に取り、反逆を企てているに違いない)


その硬直した思考から導き出される結論は、火を見るより明らかだった。


夜が更け、エリシアが疲れを見せて眠りにつくと、ハルトは直ちにルナと共に地下研究室へと向かった。


昼間、エリシアの前で見せていた柔らかさは消え失せ、その顔には冷ややかな殺気が漂っていた。


「ルナ、分析は終わったか?」


研究室の奥、複雑な魔法陣と、ハルトが前世の記憶を頼りに設計図を描いたガラス試験管が並ぶ机の前で、ルナが顔を上げた。


最初に彼女を勧誘した時、ルナはただ「人体」そのものに執着する危うい医者に過ぎなかった。


だが、ハルトが与えた生物学的知識と科学的手法は、彼女に新世界を開かせた。


ルナは魔力の流れを神経系の信号と結びつけ、解剖学的知識を機械工学的な原理と融合させ、「独自の人体工学」を切り拓きつつあった。


今や彼女は、領内で最も精密な「目」を持つ分析官だった。


「……状態は良くありません、伯爵様」


ルナが冷たい金属ペンでチャートを叩きながら、報告書を差し出した。


彼女の目は新たな知識を渇望する時のようにぎらついていたが、その内容は凄惨だった。


「これは遺物ではなく『寄生虫』に近いです。いいえ、正確には被験者の生体エネルギーを高純度の魔力へと精製する『抽出機』ですね。


王女殿下が傍に置くほど、彼女の生命力を吸い取り、何かを孵化させようとしています。


伯爵様が教えてくださったエネルギー保存の法則を当てはめれば、答えは一つです」


ルナは無機質な手つきでアーティファクトの幻影を空中に浮かび上がらせた。


「王室がこれを『イステリアの涙』と呼び聖物として扱っているのは、実質的に王女殿下を『生きているバッテリー』として利用している証拠です。


人体の限界を考慮しない、あまりに冷酷な設計ですよ」


ルナの分析は冷徹ゆえに、鋭く突き刺さった。


ハルトの拳が微かに震える。


エリシアがそれほど大切にし、家門の誇りだと信じていた家宝が、実は彼女の命を蝕む毒だったとは。


王家はこれを知っているのか。それとも知っていながら、彼女を贄に捧げたのか。


「遮断する方法は?」




「伯爵様の領地で習得した分子魔学の知識を応用してみました。


今すぐには一時的な魔力抑制陣を張るしかありませんが、根本的な解決にはなりません。


この寄生遺物はすでに彼女の生命力の波動と同調していますから。


それと……あのカイラスという騎士。彼もこの事実を知っている可能性があります」




ハルトは窓の外に見えるカイラスの宿舎を睨みつけた。


第二王子が心から妹を心配して騎士を送ったのか、それとも遺物の「充電状態」が良好か監視しに来たのか。確かめる必要があった。


もし後者であれば、王国は「死神」の手によって滅びる覚悟をすべきだろう。


「誰の許可を得て、俺の領地で命を啜ろうとしている……」


ハルトはポケットの中の木彫り人形を握りしめた。粗い木の感触が、冷たい怒りを鎮めてくれた。


もはやこの聖域は、単に自分が生き延びるための要塞ではない。


ここは、自分が守るべき人々が息づく安らぎの場だ。




「ルナ。お前が会得したその新技術で、カイラスを徹底的に監視しろ。奴の生体反応を一つたりとも逃さず、不審な動きがあれば即座に報告しろ。


少しでも遺物に手を出そうとしたり、王女を圧迫したりすれば、直ちに処理して構わん」


「承知いたしました、伯爵様。ちょうど新しい麻酔試薬の臨床実験の相手が必要だったところですから」




ルナが眼鏡を押し上げ、薄気味悪い笑みを浮かべた。


「それと、エリシアには絶対秘密だ。彼女が傷つくのは望まない」


研究室を出て城壁に上がると、冷たい夜風が髪を乱した。


暗闇の中で聖域の灯りを見下ろしながら、ハルトは低く呟いた。


「俺の領地に足を踏み入れた以上、王女だろうが民だろうが、指一本触れさせん。王子だろうが神だろうが、俺の行く手を阻むならすべて斬るだけだ」


ハルトが城壁の上で決意を固めていた頃、地下研究室の空気は、普段よりも一層重く、そして緻密に沈んでいた。


「ちょっと、ルナ……。本当にここまでしなきゃダメなの? あたいはただ、あんさんに言われた通り監視報告をしに来ただけなんだけど」


アーシャが顔を青ざめさせ、手術用ベッドに拘束されて横たわっていた。


彼女の全身には、ルナがハルトの知識を応用して作った細い「生体魔力測定センサー」が、血管に沿って複雑に絡みついていた。


「じっとしていてください、アーシャ。あなたの筋肉の収縮データは、カイラスの動きを予測するための完璧な比較対照群なのですから」


「昼間、市場で件の騎士に付着させた『魔力記録器』は正常に作動しています。


ですが、敵の情報だけでは不十分です。我が方最高の敏捷型人間であるあなたの動きと比較対照して初めて、彼が繰り出し得るすべてのケースを計算できるのですよ」


ルナは満足げに微笑んだ。彼女は机の上に置かれた魔力記録装置を起動した。


空中にはカイラスの体型を模した透明なモデルが現れ、その中で脈打つ魔力の流れがリアルタイムで記録されていた。


「カイラス・フォン・デルマール。典型的な敏捷型剣士にしては筋肉の密度が異常に高いですね。


ですがアーシャ、あなたのデータと融合させてシミュレーションした結果、面白いことが分かりました。彼が剣を抜く0.5秒前、左足首の魔力密度が22%上昇します。これは癖ですね」


ルナは艶めかしく、それでいて残酷な笑みを浮かべ、メスで空中のモデルを指し示した。


「伯爵様が教えてくださった『確率』と『人体力学』は、実に素晴らしい。おかげで、彼が放ち得る剣筋とスキルの予想表を8割以上完成させました。


明朝には伯爵様の机の上に、彼に関する完璧な攻略本が置かれていることでしょう」


ルナは眼鏡の奥で紫色の瞳をぎらつかせ、アーシャの腕を細い指先でなぞった。


ひんやりとした滑らかな感촉に、アーシャは肩をすくませた。


「ひ、ひえっ、手が冷たいよ! それにノアはなんであんなことになってるんだい!」


アーシャが指差した隅には、ノアが猿轡を噛まされ(正確にはルナお手製の『強制黙音マスク』を装着され)、涙をポロポロ流しながら縛り付けられていた。


「ノアさんはお喋りが過ぎてデータ収集の邪魔になりますから。装置を嵌めておきました。おかげで研究室がとても快適です」


ルナは満足げに微笑んだ。普段の無機質な表情とは違う、どこか妖艶で残酷な笑みだった。


彼女は机の上の透明な試験管を振りながら、低く呟いた。


「恐怖を感じる時と興奮する時の人体反応が、これほどまでに精巧に異なるとは……。アーシャ、今、あなたの心拍数が急激に上がりましたね? これは恐怖ですか? それとも、私の指先が与える……刺激ですか?」


ルナがアーシャの耳元に唇を寄せ、囁いた。アーシャの顔は瞬時に茹で上がったように真っ赤になった。


「な、何を……! この狂い医者が、本当に!」


「ふふ、冗談です。反応が良くて、つい」


ルナは何事もなかったかのように再びチャートへと視線を戻した。


彼女はハルトが与えた科学知識を、単なる領地発展のためだけでなく、自身の捻じ曲がった知的好奇心を満たすために完璧に活用していた。


研究室の壁には、カイラスの体型と筋肉配置を分析した精密な解剖図が貼られていた。


「カイラス・フォン・デルマール。騎士団の頂点と呼ばれる肉体……解剖してみる価値は十分にありそうですね。伯爵様が『処理しても良い』と仰ったのですから、最大限原型を留めたまま分解する方法を考えなければ」


ルナはメスの刃先を指先で軽く弾き、陶酔したような表情を浮かべた。その姿は美しい天使のようでもあり、魂を求める悪魔のようでもあった。


アーシャは震える手を握り締めながら、ノアに目配せした。


(おい、あんさんに言ってあたいらの部署を変えてもらおうぜ)。


ノアはマスク越しに激しく首を縦に振り、同意の涙を流した。


地下研究室のランプの光の下、ルナの影が奇妙に蠢きながら、聖域の夜は更けていった。

いかがでしたでしょうか? ルナの異常な(?)


才能によって、招かれざる客・カイラスの攻略準備は整いました。 ハルトが手にした「攻略本」が、次回の対決でどう火を噴くのか。


そして「イステリアの涙」の不穏な動向から目が離せません。


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