1. 雨の交差点、あるいは甘すぎる空気
はじめまして。本作を手にとっていただき、ありがとうございます。
当たり前だと思っていた日常が崩れ去った時、人は何を糧に生きるのか。
絶望の果てに異世界へ辿り着いた一人の男と, 彼を待っていた「残酷な奇跡」の物語です。
少しでも皆様の心に触れることができれば幸いです。
私の高校生活は、決まった軌道を往復するだけの振り子のようだった。
明け方の空気を切り裂き登校し、ぎっしりと詰まった問題集の中から「正解」だけを探し求め、夜遅くに塾の窓の外を眺めること。
私の世界は、硬い教科書の紙の匂いと重いカバンが肩に食い込む圧迫感がすべてという、ひどく乾燥した灰色一色の世界だった。
成績表の数字だけが自分の価値を証明すると信じていた、その息の詰まるような日常の中に、ユウは予期せず入り込んできた。
「ねえ、ハルト! また数学やってるの? 野外授業なんだから、外に出て風に当たろうよ!」
ユウは私の問題集の上に影を落とし、明るく笑っていた。窓から差し込む日差しよりも眩しい笑顔だった。
彼女は退屈な授業中にこっそり渡してくれた飴玉一つで私を笑わせ、勉強に疲れ果てて伏せっていると、そっと机の上に「頑張れ」と書いた付箋を貼っていった。
世界に揉まれ、自分自身を見失いそうになるたび、ユウは私の名前を呼び、私が生きていることを思い出させてくれた。
彼女と共に歩む下校路は、くすんだアスファルトさえ輝いて見え、彼女が口にする何気ない冗談は、私の人生に初めて訪れた優しいリズムだった。
私の乾いた日常を最も輝かしく美しく変えてくれた人。この冷たい世界の中で、唯一私を「一人の少年」として見てくれた人。
「幸せはいつも音もなく訪れ、騒がしい悲鳴を残して去っていく。振り返ってみれば、あの年の夏は妙に長く、私のポケットの中にはいつも彼女に渡すための小さな飴や手紙が入っていた。そして、あの日の空気は、とりわけ甘かった」
【夕暮れの川辺】
「だから、僕が言いたいのは……!」
手のひらは汗でじっとりと濡れ、唇はからからに乾いていた。 隣を歩いていたユウが足を止め、私を振り返った。
風に舞う茶色の髪、いたずらっぽく光るその瞳。 私は、ええいままよという気持ちで叫んだ。
「好きだ! 本気なんだ。僕と付き合ってくれ、ユウ!」
しばしの静寂。 やがて、ユウの顔が夕焼けよりも赤く染まった。彼女は私の袖をぐいっと引っ張り、うつむいた。
「……バカ。遅すぎるよ。待ってたんだから……」
あの日、私たちは激しく波打つ胸を抱えたまま、恋人になった。
【コンビニの前】
「これからも、ずっと一緒にいられるよね?」
私の唐突な問いに、ユウはアイスクリームを頬張りながらクスクスと笑った。
「当たり前でしょ。あんた以外に誰がいるのよ? あんたは一生私に感謝しなさいよね、ハルト」
「言われなくても分かってるよ」
その後も、私たちの季節は陽炎のように美しく咲き誇った。
春には桜が雪のように舞い散る公園で、互いの肩に落ちた花びらを払いながら歩いた。 ユウは私が作った不格好な弁当を、世界で一番のご馳走であるかのように幸せそうに食べた。
夏の祭り。汗の滲んだユウの横顔が、打ち上げ花火の華やかな光に染まった瞬間も覚えている。 賑わう人混みの中、はぐれないよう強く握り締めた手のひらの熱。 ユウは浴衣の裾をなびかせながら、「来年の花火も、君の隣で見たいな」と囁いた。
紅葉が赤く色づく秋には、静かな神社を訪れ、二人の約束が永遠であることを願ってお守りを分け合った。 冬には冷えた手を互いのポケットに入れ、白い息を吐きながらクリスマスに彩られた街を歩いた。
他愛ない冗談に腹を抱えて笑い、些細な喧嘩の後はコンビニのプリン一つで仲直りする。 どこにでもいる、ごく普通の恋人同士だった。
ユウは私の世界のすべての風景であり、私の未来の唯一の設計図だった。 この瞬間が、永遠に続くと思っていた。
【雨の交差点】
世界がゆっくりと流れた。 雨に濡れたアスファルトに降り注ぐライトの光。引き裂くようなタイヤの摩擦音。
私の腕の中で、ユウの体温が瞬く間に冷えていった。
「……ハルト、泣か……ないで……」
嘘だ。 これからもずっと一緒だって言ったじゃないか。 私の世界はあの日、あの雨の中で止まった。
彼女のいない世界は、もはや生きる価値などなかった。 心臓が張り裂けるほど痛み、毎日私の瞳は悲しみで満たされていた。
「なぜあの時、もっと愛してると言えなかったのか」 「あの日、なぜあの交差点を通ろうと言ってしまったのか」
自責の念は尖った錐となり、胸を突き刺した。
私の人生に生きる価値を与えてくれていたのは、私の意志ではなかった。 飯を食べ、眠り、朝を迎える。
そのすべての無意味な行為に「意味」という息吹を吹き込んでくれていたのは、ただユウの笑顔だけだった。
展望台の頂上。冷たい風が吹きつける手すりの前に立つと、目の前の夜景が涙で滲んでぼやけた。 この華やかな光のどこにも、彼女はいない。
もう涙さえ枯れ果てたと思っていたのに、込み上げる思慕は止まる気配がなかった。
手すりに手をかけると、冷たい金属の感触が鳥肌が立つほど押し寄せた。
涙で霞んだ視界の向こうに、彼女の幻が見えては消えるのを繰り返した。
「ユウ……僕、もう君に会いたくて、息ができないんだ」
震える声で虚空に告白した。
日常を生きる価値に変えてくれていたすべての欠片が彼女だったことを、失ってから痛いほど思い知らされた。
彼女のいない世界で私にできることと言えば、せいぜい誰もいない場所で卑怯に泣きじゃくることくらいだった。
私は重い唇を動かし、世界と自分自身に向け、最後の問いを投げかけた。
「これくらいで……十分だろう……?」
もう、痛みを感じる気力さえ残っていなかった。
これほど苦しんだのなら、これほど壊れたのなら、もう終わりにしてもいいのではないか。その問いを繰り返すだけ。
世界が歪んで見えたその瞬間、ユウの、私が何よりも恋い焦がれた一言が耳をかすめた。
『愛してる』
私はその言葉を最後に、ふっと笑って、密集した都市へと身を投げた。
「僕も愛してるよ、ユウ」
そのまま、意識は途切れた。
―――
「……っ、はぁっ、はぁっ!」
激しく息を乱しながら、上半身を跳ね上げた。全身が汗でびっしょりと濡れている。
さっきまで指先に触れていたユウの冷たい感触があまりにも生々しく、手が震えた。
だが、目の前に広がる光景は、雨に濡れたアスファルトではなかった。
「……ここは、どこだ」
冷たい石畳、鼻を突く見慣れぬ香料の匂い。 そこは私の知る日本ではない、異世界だった。
私を「救世主」と呼び縋りつく人々の中で、私はユウを失った絶望を殺意に変えて叩きつけた。
それから続いた三年の月日。私は死ぬことさえできず、ただ戦い続けた。
私に与えられた正体不明の力は、魔物を引き裂き、大地を割るには十分すぎた。
帝国最北端の凍てつく要塞。 そこで私は、「災厄」と呼ばれる魔王軍の先鋒隊と対峙した。
「やめろ! 来るな! あれは人間じゃない!」
自我を持つ上位種、言葉を操るゴブリンロードが悲鳴を上げた。 つい先ほどまで人間の村を蹂躙していた残虐な指揮官の顔は、恐怖で歪んでいた。
「我が軍勢は五万だ! たかが人間一人に……こんなことが、こんなことがあってたまるか!」
ゴブリンロードが指差した地平線の向こうは、すでに生き地獄と化していた。
私が剣を一振りするたび、数百の魔物が肉塊となって宙に舞った。
魔力の余波だけで大地は陥没し、凍土の要塞の城壁はガラスのように砕け散った。
その時、魔王軍が誇る地域ボスであり巨大怪獣、「アイスレンド・ドラゴン」が咆哮を上げながら私に襲いかかった。
山のような巨体から放たれる冷気が大気を凍らせたが、私はただ無味乾燥な眼差しで剣先を向けた。
「うるさい」
たった一振りの抜剣。 閃く軌跡が虚空を切り裂くと、永劫の時を生きてきたという古代龍の首が、呆気なく地面へと落ちた。
一撃だった。 魔法抵抗も、伝説的な鱗の防御力も、私の前では紙切れほどの意味もなさなかった。
「ひいぃっ……! あ、あああああああ!」
部下たちが屠られ、守護龍までもが斬首される光景を目にしたゴブリンロードは、武器を捨ててへたり込んだ。 知能を持つ存在ゆえ、彼は本能的に悟ったのだ。
目の前の男は「勇者」などではなく、人の皮を被った「何か」であるということを。
血生臭い匂いが立ち込め、肉片が飛び散るその場所でだけ、私はユウを失った地獄のような苦痛を束の間忘れることができた。
あの日以来、人々は私を「帝国の守護盾」と呼び、神格化し始めた。
人々は私を英雄と称え、騎士の爵位を授けたが、私の心はいまだに雨の降るあの日の交差点に止まったままだった。
そして今日、ついに魔王軍の残党を討伐した功績により、国王の謁見を受けることとなった。
「帝国の英雄、ハルト卿の入城である!」
重厚な黄金の扉が開かれ、長く敷かれたレッドカーペットの先に王座が見えた。 数多の貴族の視線が私に突き刺さる。
私は感情のない機械のように足並みを揃えて歩み、王の前で片膝をついた。
「陛下にお目通り叶い、光栄に存じます。命じられた通り、国境の脅威を排除して参りました」
「面を上げよ、英雄よ。そなたの功績は、すでに大陸全土に響き渡っておる」
国王の慈愛に満ちた声に、私はゆっくりと顔を上げた。 礼法に従い、王の顔を仰ぎ見ようとした刹那、私の視線はそのすぐ傍らに立つ一人の女性に釘付けになった。
「……ッ!」
心臓が異常なほどに脈打ち始めた。 頭の中で引き裂くような耳鳴りが響き、周囲の空気が一瞬で希薄になる。
風に舞っていた茶色の髪。いたずらっぽい光を湛えて私を見上げていた、あの瞳。 雨に濡れ、私の腕の中で冷たくなっていったあの顔が――今、そこで生きて動いていた。
「……ユウ……?」
思わず名前が口から漏れた。 彼女はユウだった。間違いなく、ユウだった。
だが、彼女は私の知る、コンビニのアイスを食べながらクスクス笑っていた少女ではなかった。
華やかなドレスを身にまとい、冷たいほどに優雅な微笑を浮かべたまま、私を他人として見つめている帝국의 皇女だった。
「卿、今なんと申された?」
国王が怪訝そうに尋ねたが、答えることはできなかった。 彼女の瞳には私への愛情も、十年後を約束したいたずら心もなかった。
ただ「異世界から来た勇者」を敬畏と好奇の目で見つめる、赤の他人の視線だけがあった。
確かにユウなのに、ユウではない。 私の世界が再び崩れ去る音が聞こえた。 息が詰まり、指先が震えた。
私はこの残酷な奇跡の前で悲鳴を上げることすらできず、彼女の美しい瞳をただ呆然と見つめるしかなかった。
いかがでしたでしょうか。 幸せの絶頂から一転、最愛の人「ユユ」を失ったハルト。
彼が異世界で目にしたのは、死んだはずの恋人と瓜二つの姿をした皇女・エリシアでした。 果たして彼女は本人なのか、それとも……。
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次回、ハルトが下す「ある決단」をお見逃しなく。




