Round.1「夜這い未遂、開幕!」
恋をすれば、誰もが少しずつおかしくなる──
あるいは、知らぬうちに“熱”を持ち始めるものなのでしょう。
この物語は、とある貴族令嬢が、
一冊の本に心をかき乱され、
夜な夜な婚約者の王子に“戦い”を挑むお話です。
……そう、ベッドの手前まで。
「わたくし、もっとアシュラン様に愛されたいのです!」
と、指南書を握りしめたカミラは決意した。
月の光が石畳に青白く落ちる深夜、リラリエ公爵家の令嬢カミラ・リラリエは、廊下で小さくガッツポーズをしていた。
手には『淑女のための恋愛指南書』初版——祖母の遺品であるこの本は、古びた革装丁に金文字が浮かび、ページをめくるたびに微かに光を帯びる。
読み手の想いに反応するように、温度や香りが変わることもあって、「本当に生きているのでは」と噂されるほどだった。
幼い頃に祖母が「この本に恋の知恵は全部詰まっているのよ」と笑った記憶がある。
「第六の秘訣、 完璧に暗記しましたわ」
“男性は夜の静寂において女性の魅力に最も弱くなる。無防備な寝姿は、保護欲と征服欲を同時に刺激する”
胸元に手を当てながら、カミラはその一文を復唱する。
絹のナイトガウンの裾が足首を撫でて、心臓は太鼓のように鳴っている。
「でも、なぜこんなに緊張するのかしら?」
カミラは首を傾げた。相手は幼なじみでもある婚約者なのに、最近は彼のことを考えるだけで胸がときめいてしまう。
王宮の廊下は夜になると、昼間とは違った表情を見せる。壁に掛けられた肖像画の瞳が月光でぎらりと光り、まるで見張っているかのようだった。魔法で作られた照明の水晶が、薄紫の光をちらちらと放っている。
「あの肖像画たち、なんだか意地悪そうに見えますわね」
カミラは肖像画を見上げながらつぶやいた。先代の王妃の絵が、特に厳しい視線を向けているような気がする。
——恋する女性の邪魔は、誰にもさせませんわ。
月光の中で、カミラは静かに決意を深めた。
そんな幻想的な雰囲気の中を、カミラは決意を胸に歩いていた。
問題は、実践する相手が婚約者のアシュラン・オークレイン王子だということだけで。
「大丈夫、カミラ。あなたはリラリエ公爵家の誇り高き令嬢よ」
そう自分に言い聞かせながら、王子の居住する東棟へと向かう。警備は厳重だが、婚約者という立場を利用すれば、深夜でも面会は可能だった。実際、過去に何度か夜中に「重要な話がある」と言って押しかけたことがある。
今回は、それよりもずっと重要な任務だった。
廊下の向こうから足音が聞こえ、カミラは慌てて大きな柱の陰に隠れる。夜警の騎士が松明を持って巡回していく。その光が遠ざかるのを確認してから、再び歩き始めた。
幼なじみでもある婚約者の私室の前に辿り着くと、扉の前で深呼吸をする。子どもの頃は何の遠慮もなく彼の部屋に入っていたのに、今はこんなにも緊張するなんて。
指南書の第七章を思い出しながら、ナイトガウンの紐を大胆に緩める。肩がはだけるくらいまで。
「えい、やってしまいましょう!」
カミラは勢いよく扉に手をかけた。猪突猛進が彼女の信条だった。
ノックはしない。指南書によれば、「驚きの要素」が重要なのだから。
扉は施錠されていなかった。アシュラン・オークレイン王子は自分の居室では警戒を緩めているのだろう。カミラはそっと扉を開け、月光の差し込む室内に足を踏み入れた。
部屋は思っていたよりも広く、調度品も簡素だった。王子らしい実用性を重んじた空間で、余計な装飾はほとんどない。ただし、壁の魔法陣が描かれた鏡や、微かに光を放つ魔石のランプなど、この王国らしい調度品が配置されていた。
奥にはカーテンで仕切られたベッドスペースがあり、そこから規則正しい寝息が聞こえてくる。暗闇の中でも、天井に散りばめられた魔石のおかげで室内はぼんやりと見えていた。
カミラの心臓が激しく鼓動した。
いよいよ、決行の時だった。
「男性の枕元で微笑み、優しく名前を呼びましょう」
そんな指南が脳裏をよぎる。清楚さと艶やかさを兼ね備えることが肝要、だったかしら。
カミラは指南書の教えを胸に、ベッドに近づいていく。カーテンをそっと開けると、月光に照らされたアシュランの寝顔が見えた。
昼間の凛々しい表情とは違い、眠っている王子は年相応の青年らしい柔らかさがあった。プラチナブロンドの髪が額にかかり、長い睫毛が影を作っている。整った顔立ちは、まさに王族らしい気品に満ちていた。
「美しい……」
カミラは思わず見惚れてしまう。子どもの頃から見慣れた顔のはずなのに、最近は見るたびに胸がときめいてしまう。
こんなに美しい人が、婚約者なのだ。今夜、ついに二人の関係は新たな段階へ進むのだ。
「アシュラン様……」
指南書の通り、優しく名前を呼んでみる。王子の睫毛がぴくりと動いた。
「アシュラン様、起きて下さいませ」
今度は少し大きな声で。王子がゆっくりと瞼を開ける。
最初は寝ぼけた表情だったが、カミラの姿を認識した瞬間、アシュランの瞳が大きく見開かれた。
「カミラ……?」
「おはようございます、アシュラン様」
カミラは指南書で学んだ通り、微笑みを浮かべて言った。「朝露のような清楚さ」を意識して、少しだけ首を傾げる。
「おはよう、って……まだ夜中だよ?」
アシュランは身体を起こしながら困惑した表情を見せた。 そして、カミラの薄いナイトガウン姿に気づくと、ピクリと右眉を上げた。
「何か急用かな?」
「はい、とても急な用事でして」
カミラはベッドの端に腰をかけた。指南書によれば、「適度な距離感で親密さを演出」することが大切だという。
「どのような?」
「実は……あの……私たち、婚約してから随分と時間が経ちますのに、まだ……その……」
カミラは頬を染めながら、上目遣いでアシュランを見つめた。指南書の「第一の秘訣:羞恥心を武器にする」の実践だった。
「ええと……まだ、お互いのこと、よく知らないままなのではと思いまして…」
「知らない、とは?」
アシュランの声が少しだけ掠れていた。カミラの薄い寝間着越しに、彼女の肌の白さが月光に浮かび上がっているのが見えているのだろう。
「もっと……親密になりたいのです」
カミラは思い切って言った。そして、指南書の最終段階「第八の秘訣:行動で示す」を実行に移す。
ゆっくりと身体をアシュランに近づけていく。王子の瞳が動揺に揺れているのが分かった。
「カミラ……」
「私たち、結婚するのでしょう?ならば……」
カミラはアシュランの首に腕を回そうとした。
その瞬間。
「だめだ」
アシュランの手が、カミラの手首を優しく、しかし確実に掴んだ。
「え?」
「カミラ……そんな格好で来るなんて……」
王子の声は穏やかだったが、その手の力は意外にも強かった。カミラの動きを完全に封じている。
内心では、アシュランの心は荒れ狂っていた。
(こんなに無防備な格好で……誰かに見られたらどうするつもりだ)
彼女の薄いナイトガウン、透けて見える肌、自分だけに向けられた誘惑。全てが愛おしくて、同時に誰にも見せたくなくて仕方がなかった。
(このまま誰にも見せずに、ずっと自室に閉じ込めておきたいくらいだ)
そんな危険な想いが喉元までこみ上げたが、アシュランは静かに息を飲み込んだ。
「でも、アシュラン様……」
「……誰かに見られたらどうするつもりだったの?」
アシュランがカミラをじっと見つめる瞳は怖いほどに輝いていた。
「私では、お気に召しませんか?」
カミラは不安になって尋ねた。指南書には「男性が拒絶する場合の対処法」は書かれていなかった。
「そんなことは……ないよ。君は、美しい。……とても、美しすぎるくらいに」
アシュランは慌てたように首を振った。
その言葉にカミラの心は躍った。しかし、王子は続けて言う。
「だからこそ、今はいけない」
「なぜですの?」
「……君を大切にしたい。だから今はまだ……。それが……それが君のためでもある」
アシュランの声には、何かを堪えるような響きがあった。カミラにはそれが何なのか分からなかった。
「でも……」
「カミラ」
アシュランは立ち上がり、カミラの肩に上着をかけた。
「部屋まで送ろう」
「そんな、一人で大丈夫ですわ」
「いや、深夜に女性を一人で歩かせるわけにはいかない」
王子は既に服を着替え始めていた。その動作は迅速で、まるで逃げるようだった。
カミラは呆然としながら立ち上がった。
指南書の通りにやったのに。完璧だったはずなのに。
なぜ?
「アシュラン様は……私のことを、女性として見ていらっしゃらないのですか?」
その質問に、王子の手が止まった。
「……それは」
振り返った王子の瞳には、複雑な感情が宿っていた。まるで、何かに苦しんでいるような。
「君を女性として見ていないなどということは、決してない」
「では、なぜ……」
「今はまだ、時期ではないということだよ」
アシュランは曖昧な答えでごまかした。そして、カミラの手を取って部屋から出ていく。
廊下を歩きながら、カミラは混乱していた。
王子は自分を女性として見ている、と言った。それなら、なぜ拒絶するのだろう。
結婚するのに、なぜそんなに時期にこだわるのだろう。
「きみの部屋に着いたね」
カミラの部屋の前で、アシュランは足を止めた。
「おやすみ、カミラ」
王子はそう言って、踵を返そうとする。
「アシュラン様」
カミラは慌てて呼び止めた。
アシュランは優しく微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に何かを隠しているようにも見えた。
「大丈夫だよ。またね」
王子はそう言って、暗い廊下の向こうに消えていった。
カミラは自室の扉の前に立ち尽くしていた。
初めての夜這い作戦は、完全な失敗に終わった。
「『淑女のための恋愛指南書』……」
カミラは握りしめていた本を見下ろした。
「どこが間違っていたのかしら」
部屋に入ると、カミラは机に向かって指南書を開いた。第六の秘訣を読み返してみるが、自分は完璧に実行したはずだった。
それなのに、王子は拒絶した。
「もしかして、アプローチが足りなかったのかしら?」
カミラは第七の秘訣「より積極的な戦略」のページをめくった。
「『男性は時として、女性のアプローチを理解できない場合があります。そのような時は、より明確な意思表示が必要です』」
カミラの瞳が輝いた。
そうだ。王子は自分の気持ちを理解していないのだ。それなら、もっと分かりやすくアプローチすればいい。
「明日は、第八の秘訣を試してみましょう」
カミラは指南書を胸に抱いて、決意を新たにした。
一方、自室に戻ったアシュランは、ベッドに座って頭を抱えていた。
「……危ういところだった」
アシュランは深く息を吐いた。掴んだ手首の感触が、まだ指先に残っている。
彼の手は、まだ微かに震えていた。
カミラの白い肌、薄いナイトガウンから透けて見える身体の線、上目遣いの瞳——それら全てが、アシュランの理性を激しく揺さぶった。
あと少しでも自制を失っていたら、きっと彼女を抱きしめて、このまま誰にも渡したくないと思ってしまっていただろう。
(子どもの頃から、ずっと君だけを愛してきた)
アシュランは窓辺に立ち、月を見上げた。夜の王宮は静寂に包まれ、魔法の護りが建物全体を蒼白い光で覆っている。
(やっと婚約できたのに、こんな誘惑をされて……君は自分がどれほど危険なことをしているか分かっているのか)
彼女を愛している。それは間違いない。子どもの頃から、ずっと彼女だけを見つめてきた。
しかし、愛しているからこそ、今はまだ我慢しなければならない。
結婚するまでは。正式に、誰にも文句を言わせない形で、彼女を自分のものにするまでは。
(カミラ……君の全てが欲しい。でも、待つんだ)
窓の向こうでは、夜風に揺れる古木の枝が、まるで何かを囁いているかのようにざわめいていた。この王宮には古い魔法が宿っており、時として人の想いを敏感に察知するのだ。
「結婚まで、あとどれくらいだったか……」
アシュランは溜息をついた。
カミラの誘惑に耐え続けるのは、想像以上に困難な戦いになりそうだった。
翌朝、カミラは使用人たちの視線を感じながら朝食を摂っていた。
どうやら昨夜の「夜間散歩」は、何人かに目撃されていたらしい。
「カミラ様、昨夜は随分と遅いご就寝だったとか」
メイド長のマーガレットが、意味深な笑みを浮かべながら紅茶を注ぐ。
「少し眠れなかっただけですわ」
カミラは頬を染めながら答えた。
「アシュラン様とのご面会も、随分と短時間でしたね」
「え?」
「警備の方が申しておりました。カミラ様がアシュラン様のお部屋から出てこられるのを見かけたと」
マーガレットの声には、明らかに興味深そうな響きがあった。
「あ、あれは……」
カミラは慌てて言い訳を考えようとしたが、適当な理由が思い浮かばない。
「お若いお二人ですもの、仕方ありませんわ」
マーガレットは理解のある笑顔を見せた。しかし、その次の言葉が問題だった。
「ただ、結婚前のあまり激しいご交際は、宮廷での評判に関わりますから、お気をつけ下さいませ」
「激しい交際って……」
カミラは顔を真っ赤にした。昨夜のことが、そんな風に誤解されているとは。
「な、なんですの、その言い方……!」
カミラはテーブルの紅茶を見つめながら、顔から湯気が出そうだった。
「何も起きてませんの!」
「もちろんです」
マーガレットは嘘っぽい笑顔で頷いた。
「でも、世間はそのようには見てくれませんからね」
カミラは頭を抱えた。
昨夜の作戦は失敗しただけでなく、変な噂まで立ってしまったのだ。
「今度こそ、成功させなければ……」
カミラは『淑女のための恋愛指南書』第八の秘訣を思い出しながら、新たな作戦を練り始めた。
アシュランに自分の魅力を理解してもらうまで、この戦いは続くのだ。
そして、遠く離れた東棟では、アシュランが朝の執務に集中しようと努力していた。
しかし、カミラの薄いナイトガウン姿が頭から離れない。
「これは……長期戦になりそうだな」
アシュランは深い溜息とともに、困難な日々の始まりを予感していた。
果たして、リラリエ公爵家の令嬢の恋愛作戦は、いつ成功を収めるのだろうか。
そして、王子の理性は、いつまで持ちこたえることができるのだろうか。
婚前交渉バトル、ここに開幕である。
ご覧いただき、ありがとうございました!
今夜の作戦は失敗に終わりましたが、カミラの“次なる戦略”はもう動き始めています――
次回も読んでくださると嬉しいです。続きは明日投稿予定です。
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