転生したらチート能力が微妙だった
深夜2時のオフィスビル。蛍光灯の白い光が、がらんとしたフロアを照らしている。
桜庭麗華は、もう何時間同じ姿勢でいるのか分からなくなっていた。目の前のパソコン画面には、延々と続くデータ入力の作業。指先は既に感覚を失い、肩は石のように固まっている。
「また徹夜か...でも明日の会議に間に合わせないと」
デスクの周りには、コンビニ弁当の空き容器が散乱していた。いつ食べたのかも覚えていない。というより、最近は食事をしているという感覚すらない。胃に何かを流し込んで、とりあえず動けるようにしているだけ。
麗華は28歳。でも、鏡を見るたびに年上に見える自分に驚く。6年前から始まった過酷な生活が、確実に彼女の体を蝕んでいた。
昼間は正社員として事務職。夜はデータ入力のバイト。週末は派遣で市場調査員。月曜から日曜まで、休む日など存在しない。週90時間労働。普通の人の倍以上働いて、それでもギリギリの生活。
「お金のために働いてるけど、食事する時間もない...」
家庭の事情で、どうしてもお金が必要だった。だから選り好みなんてできない。製薬会社でバイトをして薬草の知識を覚え、探偵事務所で受付をして事件の手法を学び、中華料理店で火力管理を覚え、ファミレスでオムライスの作り方を見て...
気がつけば、ありとあらゆる職場を経験していた。カウンセラーの資格も取った。栄養士の資格も取った。調停委員の研修も受けた。全部、少しでも時給を上げるため。少しでも良い条件の仕事に就くため。
でも、それでも生活は楽にならない。
「最後にちゃんとした食事をしたのはいつだっけ?」
ふと、母親の手料理を思い出す。温かくて、優しくて、愛情がたっぷり込められた料理。あの頃は当たり前だと思っていた。みんなでテーブルを囲んで、「美味しいね」って言い合って...
「お母さんの手料理、食べたいな...」
その時だった。
急に胸が苦しくなった。
「あれ?なんか変...」
息が苦しい。心臓がバクバクと不規則に鳴っている。手が震えて、キーボードを叩けない。
「6年間頑張ってきたのに...」
意識がぼんやりとしてくる。体に力が入らない。
そして麗華は、デスクに突っ伏した。
最後に心に浮かんだのは、たった一つの想いだった。
『せめて美味しいものを食べたかった...』
気がつくと、麗華は真っ白な空間にいた。
どこまでも続く白い空間。そこには、シンプルな机と椅子が二つ。そして、その向かい側には優しそうな中年男性が座っていた。
「お疲れ様でした、桜庭麗華さん」
男性は温かい笑顔で麗華を迎えた。
「あの、僕は死んだんですか?」
「あなたは女性でしょう?『私』と言いなさい」
「はい...僕は死んだんですか?」
神様は苦笑いを浮かべた。
「『私は』でしょう?まあいいです。残念ながら、過労死です」
「過労死...」
麗華は、なぜかあまり驚かなかった。どこかで予感していたのかもしれない。6年間、体が悲鳴を上げ続けていたのだから。
「28年間、お疲れ様でした」
「...特に最後の6年間は地獄でした」
「週90時間労働でしたからね」
神様は優しい表情で頷いた。
「お金のために色んな仕事をして...でも食事する時間もなかった」
「様々な職業を経験されましたね」
「生きるためでした...」
麗華の声には、深い疲労が滲んでいた。製薬会社、探偵事務所、中華料理店、ファミレス、カウンセラー研修、栄養士の資格取得、調停委員の研修...数え切れないほどの職場で働いた。普通の人なら13年分の経験を、たった6年で積み上げた。
「新しい人生はいかがですか?」
「え?転生ってやつですか?」
「はい。今度は好きなことをして生きてください」
「好きなこと...?」
麗華は首をかしげた。好きなこと。そんなことを考える余裕なんて、この6年間一度もなかった。ただただ働いて、食べて、寝て、また働いて...
「何でも一つ、願いを叶えてあげます」
「何でも?」
「チート能力でも、美貌でも、お金でも」
麗華はしばらく考え込んだ。チート能力。確かに魅力的だ。でも、戦って、敵を倒して、また敵が現れて...それって結局、今までと同じようにエンドレスに働き続けるってことじゃないだろうか。
美貌。お金。それも悪くない。でも、本当に欲しいものは...
「美味しいものが食べたいです」
神様は一瞬、言葉を失った。
「...はい?」
「だから、美味しいものが食べたいんです」
「それだけですか?」
「はい。前世では美味しいものを食べる余裕がなかったので」
神様は困惑した表情を浮かべた。
「普通は『最強の力を』とか『無敵の能力を』とか願うものですが...」
「そんなの面倒くさいじゃないですか」
「面倒くさい?」
「戦って、敵倒して、また敵が現れて...エンドレスですよね」
「まあ、そうですが...」
「それより美味しいものを食べて、のんびり過ごしたいです」
神様は呆れたような、でも少し感心したような表情を見せた。
「...分かりました」
「では『超味覚』を付与します」
「超味覚?」
「食べ物の美味しさが10倍に感じられます」
麗華の顔がぱあっと明るくなった。
「すごい!」
「でも戦闘能力は...」
「いりません」
「魔法も使えませんが...」
「大丈夫です」
「本当に食べるだけで満足ですか?」
「はい!」
神様は詳しく能力の説明を始めた。
「食材の品質、鮮度も完璧に分かります」
「調理法の良し悪しも瞬時に判別できます」
「毒物や腐敗した食材も味で完全に検知できます」
「毒物?」
「まあ、おまけみたいなものですね」
神様は続ける。
「料理を作った人の心境も味から読み取れるかもしれません」
「へー」
「愛情込めて作られた料理は特に美味しく感じるでしょう」
「逆に、心がこもっていない料理は分かってしまいます」
「素晴らしい能力ですね!」
麗華は目を輝かせた。これがあれば、きっと毎日美味しいものが食べられる。それだけで十分幸せになれる気がした。
「ただし、料理を作る技術は一切向上しません」
「えー」
「あくまで『味を感じる』能力です。作るのは別問題」
「まあ、誰かに作ってもらえばいいですよね」
「...たくましいですね」
神様は苦笑いを浮かべる。
「本当にこれで良いんですね?」
「はい。これで十分幸せになれます」
「分かりました。頑張ってください」
「では、転生させます」
「よろしくお願いします」
「向こうでの名前は...サクラバ・レイカになります」
「レイカ...響きが綺麗ですね」
神様は少し意味深な表情を見せた。
「一つだけ忠告を」
「何ですか?」
「その能力、思わぬところで役に立つかもしれません」
「?」
「まあ、お楽しみということで」
麗華の体が光に包まれ始める。
「うわあああ!」
「良い人生を!」
神様の声が遠ざかっていく。意識が遠のいていく。
そして、麗華は新しい世界へと旅立った。
森の中で目が覚めた。
「あれ?ここは...」
辺りを見回すと、見たことのない風景が広がっている。青い空、緑豊かな森、そして澄んだ空気。
体を確認してみる。18歳くらいの女性の体になっている。
「体が軽い...若い!」
6年間の過労で蓄積された疲労が、嘘のように消えている。深呼吸をすると、肺いっぱいに新鮮な空気が入ってくる。
「お腹空いた...」
ふと、近くに野イチゴが生えているのを見つけた。真っ赤で美味しそうな実がたくさんなっている。
「食べてみよう」
恐る恐る一粒を口に入れる。
その瞬間—
「うまーーーい!!!」
衝撃が走った。こんなに美味しいイチゴは生まれて初めてだ。甘みと酸味のバランスが絶妙で、果汁の香りが鼻に抜けて、まるで宝石を食べているみたい。
「これが超味覚...すごい!」
「前世のコンビニ弁当とは大違い!」
麗華—いや、レイカは感動に震えた。
この能力があれば、きっと素晴らしい人生が送れる。美味しいものを食べて、のんびり過ごして、平和で幸せな日々を...
「この能力、最高じゃないですか!」
レイカは野イチゴを頬張りながら、新しい人生への期待に胸を膨らませた。
過労死という悲しい終わり方をした前世だったけれど、今度こそは幸せになってみせる。
美味しいものを食べて、笑顔で過ごせる人生を。
それだけを願って、レイカは森の奥へと歩き始めた。
新しい世界での冒険が、今始まろうとしている。