第二節
雨季が過ぎたとは言え、本格的な夏の到来はまだ先である。汗ばみはしても、涼風が心地良く体を冷やして行く。特に、今歩いているような整備された街道は風通しも良く、快適な旅程と言えた。
紅い髪の傭兵と、天使のように可愛らしい盗賊の少女ふたり――と見える四人連れは、幻の街ダイナスを後に一路西へと向かっていた。
目的地は無い。いや、判らない。ダイ・オフが、西から声が聞こえると言うから西へ向かう。そんな旅である。
道中、街道沿いの街へ立ち寄り、装いを新たにしていた。
デュースは剣と手を包帯で固く結ぶのを止め、それまで常に手にしていた義父の形見は腰に差すようになった。得物も片手、両手と使い分けられる両手剣から、両手持ちで振るう大剣へと変わった。……背丈ほどもあるその大剣は、見た目と違って短刀よりも軽く振り回せるのだが……
こうなると、左腕を楯代わりにした戦い方も変わり、もう片手にだけ鉄製の手甲を嵌めておく意味は無くなった。
腰に帯剣し、両手には黒い革手袋を嵌めて、背中に巨大な段平を背負った姿は、エンジエルと初めて逢った時とは大分変わった。背に鉄塊を負っているにも関わらず、常に両手剣を肩に担いでいた時より身軽そうに見える。実際には背負っていないからか、それとも心が軽くなったからか。
エンジエルの方も、その服装は新しい。先の戦いの折ヴィンスに斬られ、背中が大きく裂けてしまっていた。幸か不幸か、零れるほど実っていないお陰ではだけてはいないが、油断したら落ちて来る。まだ旅立って数日。本来であればもっと長く着回す旅装束だが、このままと言う訳にも行くまい。
新しい旅装も、スカート丈の短いレザー・ワンピースと女盗賊らしい格好であるが、ディアマンテにいた頃と比べれば露出は控えめだ。ただ、闇ほど黒かった先のワンピースと違い、仄かな桜色に染まる白が眩しい。外套こそそのままだから少し渋さも残るが、随分と可愛らしい装いとなった。
そうして旅を続ける事数日。声に近付いた事で、目的地もはっきりした。
「地図によると、ボードウィン男爵領となっているが、どうやらその男爵は没落し、今では旧男爵領と呼ばれているそうだ。」
西進するなら街道の終わりとなる街で、ふたりは情報収集を終えて食事を摂っていた。
街道はこの先、北と南西へと続いているが、真っ直ぐ西へ進む街道は整備されていない。そこで、近隣がより詳細に描かれた地図を買い込み、冒険者ギルドや盗賊ギルド、酒場を巡って聞き込みもした。
四人が情報を共有する意味もあって、今情報の整理をしているところだ。
「旧男爵領?没落したなら、他の誰かの領地になるんじゃないの?」
「ふむ。どうも、あまりに僻地で実入りの乏しい土地らしい。下手に拝領すれば、余計な手間と金が掛かる。結局、いくつか点在する村の自治領扱いだそうだ。」
「……まさか、またダイナスみたいにおかしな土地じゃないでしょうね。」
「へっ、俺様に声が聞こえるんだ。その時点で、充分おかしな土地だろ。」
瞳の色こそ変化するが、正対しなければ気付くまい。口調も違うが、声は一緒なのだから別人とは思うまい。三人で会話していても、それが悪目立ちする事は無かった。
「そうは言っても、俺やO・D・Iほど珍しい代物はそうそうあるまいがな。」
もうひとつ違う声がした。とは言え、普通剣は喋らない。動かす口もありはしない。仮に疑問に思っても、腹話術とでも思うのではないだろうか。
「それにしても、随分辺鄙な場所なのね。一応、道らしい道はあるそうだけど、ちゃんと辿り着けるかしら。」
「大丈夫だろ。さすがに、モンスターは出ねぇ。あそこは特別だった。」
「そうね。ダイナスは地図にも載ってなかった、忘れられた土地だもんね。」
「時の精霊か。俺も、まさか千年眠っていたとは驚きだ。」
「ふふ。さすがに貴方ほどのお宝は、その男爵領にも無いでしょうね。」
「……ここから先、目的地まで他に村も無い。食料を買い込んだら、早めに出発しよう。」
こちらの話に聞き耳を立てている存在に、四人とも気が付いた。どうやら、相手は手練れとは言えそうに無い。取り合う必要も無いと考え、特に何もしない。一応、視線を気にせず堂々と観察出来るデッド・エンドが見たところ、相手は冒険者のようだった。人数はこちらと同じ四人だが、明らかにひとりは駆け出しである。
食事を終え店を後にする一行を、冒険者たちは追わなかった。それくらいの分別はあったようである。
諦めたのか。否。すぐ後を追えば、尾行している事がばればれだ。それに、向かう先は判っているのだ。
デュースとエンジエル。ふたりの様子はすっかり変わり、戦士と盗賊のふたり連れとなった事もあって、デュースが悪名高い死神と呼ばれる傭兵であると気付く者も減ったのだろう。
件の冒険者たちも、今声を掛けた相手が、まさか死神だとは思っていなかった。
あの後、街道を少し進んだ先、辛うじて轍が道であると示したような荒れ道に分け入り、その道が少し開けて来た頃、
「よう、おふたりさん。あんたらも、旧ボードウィン男爵領に向かうんだってな。」
何時の間に先回りしたものか。四人の男が、デュースたちの前に立ち塞がったのである。
声を掛けて来た男がリーダー格のようで、年齢的には二十代後半か。くすんだ金髪の襟足が少し長めで、それをひとつに結んでまとめている。
彼と他に同年代と見えるふたりは、その兵装から軽装戦士に見える。キルティング・シャツの上に革鎧一式を着込んだだけの軽装で、野外活動や洞窟探索などの邪魔にならない事を意識した装備のようだった。あくまで兵士、傭兵では無く冒険者と言った風情。革手袋と革長靴、長剣に革製の円形盾。三人の装備はほぼ一緒で、多少個々人で着こなしが違う程度だ。
もうひとりが、デッド・エンドの目から見て駆け出しに見えた盗賊らしき男で、他の三人より少し若く見える。その顔立ちと、肩まで伸びた長髪の色がくすんだ金髪である事から、察するにリーダー格の弟なのかも知れない。
どうやら戦闘は他にお任せの職業盗賊らしく、キルティング・シャツのみで鎧は着ていない。革手袋と革長靴は、三人と同じ物のようだ。色々詰め込んだような大き目のリュックを見るに、戦闘を任せる代わりに荷物持ちを務めているのだろう。腰には護身用と思われる短剣こそ下げているが、三人の後ろに控えている。
「もし良かったら、あんな辺鄙な田舎に何の用があるのか、聞かせて貰えないか?」
リーダー格のその言葉を合図に、軽装戦士三人は揃って腰の物に左手を宛がう。決して、右手で剣の柄を握ったり、ましてや不用意に抜いたりはしない。これはあくまで、脅しなのだ。その立ち居振る舞いは、幾度か修羅場を潜った事のある者のそれであった。
それに対し、デュースは全身の力を抜いた。冒険者三人はそれを見て、もしかしたら自分たちは大きな過ちを犯しているのではないか。そう感じ取った。隙が無い。脱力した目の前の男は、その異常なほど大きな段平を、いつでも抜き打ち出来る自然体に見えた。そのほんの少しの振舞いだけで、格の違いを見せ付けられた気分だった。我知らず、汗が頬を伝う。思わず唾を飲み込む。こちらは四人、あちらはふたり。などと、軽率な判断だった……
「あら。もしかして貴方たちも、旧ボードウィン男爵領にお宝探しに向かうの?偶然ねぇ。良かったら、ご一緒しません?」
そんな空気を、エンジエルの無邪気な明るさが打ち壊した。いや。いつもより声が高い。女を武器にした話し方だ。そう。エンジエルは判った上で緊張を解したのだ。こちらの盗賊は、向こうの駆け出し盗賊とは違う。相手の心内も、今のデュースとのちょっとしたやり取りの意味も、ちゃんと理解していた。理解した上で、事を荒立てないよう配慮したのだ。
もちろん、相手の為である。デュースは紳士だから無用な殺生なんてしやしないけど、相手が馬鹿だったら、ダイ・オフが暴れるかも知れない。それでは、彼らが可哀想だ。
エンジエルは優しいな。デュースはそう思って微笑し、佇まいを改めた。
冒険者三人は、くずおれそうな膝に力を入れて踏ん張った。駆け出し君は、一連の流れを一切理解しておらず、呆としている。
「そうだな。お宝なんか簡単に見付かるものじゃあ無い。競争を始める前から啀み合っていても、仕方無いとは思わないか?」
デュースが投げ掛けた言葉は、彼らに対する助け舟だ。彼らも、それを解さぬほど愚かでは無かった。
「……その通りだ。現地を見てからじゃ無きゃ、何も始まらないしな。そもそも信憑性の薄い話なんだ。わざわざ危険を冒す事も無い。」
緊張の余り強張っていた体がようやく自由を取り戻し、三人は腰の物から手を離した。
「……俺の名はサダルス。後ろにいるのが弟のトールスで――」
「オルヴァだ。」
「……ケルマー。」
リーダー格であるサダルスに続き、仲間ふたりも名乗った。
「よ、よろしくお願いします。」
その後を継ぎ、トールスも声を上げた。
何故だろう。デュースやダイ・オフだけじゃ無い。ダイナスでは沢山凄いものを見た。そんなエンジエルには、彼らが微笑ましく思えた。
「ふふ、あたしはエンジエルよ。よろしくね。そして、こっちが――」
その言葉を遮ったのは、紅い瞳だった。
「ダイ・オフだ。それじゃあ道中、よろしく頼むぜ。」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら、死神は名乗りを上げたのだった。その名を聞いた三人は、再び固まってしまった。
「え、エンジエルさんにダイ・オフさん。珍しいお名前ですね。こちらこそ、よろしくお願いします。」
トールスだけは、その意味に気付かず明るく挨拶を返した。
はぁ、と溜息ひとつのエンジエル。
「全く、意地悪なんだから。え~と……サダルスにオルヴァ、ケルマーだっけ?大丈夫よ。噛み付いたりしないから。何だったら、少し後ろを付いて来れば良いわ。さ、行くわよ、ダイ・オフ。」
呆れてさっさと歩き出すエンジエルの後を、くくくと声を殺して笑いながら付いて行くダイ・オフ。それを呆然と見送るサダルスたちと、両者を不思議そうに眺めるトールス。
こうして、旧ボードウィン男爵領への旅路は、一応六人での道行きとなったのだった。
その森深い道を三日ほど、ようやく低木が目立ち始め草原と呼べるようになった頃、村落が見えて来た。
この三日ほどで、一行はかなり打ち解けていた。最初は距離を置こうかとも考えたエンジエルだったが、生来の面倒見の良さが出た。あんまりにもあんまりなほど、トールスが未熟だったからだ。
この新米盗賊は、紛う方無く駆け出しだった。ひと通り盗賊として覚えるべき技能は習得している。素人から見れば、間違い無く盗賊である。
しかし、完全に一切の実務経験が無い。話によれば、冒険者向けの盗賊技能講習を、冒険者ギルドで受けたそうである。これで貴方も晴れて職業盗賊です。と送り出された訳だが、何とも無責任な話だ。とエンジエルは思う。
これが、どこかの街に留まり、鍵を失くした街人の為に鍵開けをするような定住冒険者の類いならともかく、危険を伴う秘境や遺跡探索に出掛ける職業冒険者となれば、一度の失敗が即落命に繋がり兼ねない事もある。
にも関わらず、この子はまだ一度も、支給された七つ道具をひとつも使った事すら無いと来た。そんな話を聞いては、とても放っておけなかった。
そこで道中、森と言う地形を利用して、エンジエルが簡単な罠を設置しトールスが解除する、と言うゲームを行った。あくまでゲームだ。簡単に発見、解除出来無いよう、エンジエルは真剣に罠を設置した。
もちろん、致命傷を負うような罠では無く、最初などは草の多い森道でその草同士を結んだだけの、初歩的な、子供の悪戯程度の罠から始めたが、トールスのみならずサダルスたち一行、全員が揃って転んだ。
踏めば足首をロープが捉え、木に逆さ吊りとなる罠。しならせておいた枝が顔面を叩きに来る罠。道に落ちている板が急に迫り上がり股間を襲う罠……軽装鎧すら身に付けていないトールスには、格別効果的であった……。樹上から石が落ち矢が飛び来る罠――もちろん、小さい礫と鏃を外した怪我をしない矢ではあるが、その悉くにトールスは引っ掛かって行った。
それはそうだ。エンジエルは、箱入りとは言えギルドマスターであった父親が手塩に掛けて育てた、言わば盗賊のエリートだ。人工物に限らず自然物を扱った罠にも精通した、凄腕盗賊なのである。
そのエンジエルが、素人同然のトールスの成長を促す為に、わざと失敗を経験させているのだ。
簡単な罠をひとつひとつ解除させ、成功体験を積み重ねていては遅いのだ。もうすぐそこに、致命の罠が口を開けて待ち構えているかも知れないのだから。
そうして、重篤な怪我こそ負わないものの、生傷の絶えない三日間を過ごし、トールスの顔付きも少し変わった。もしこれが本当の鏃だったら……。些か抜けたところのあるトールスも、さすがにそれくらいは想像出来た。
エンジエルは思う。これなら、本当の意味での駆け出し程度には、ものの役に立つだろう。それで充分とは言わないまでも、ひと先ず最低限使い物になるところまでは持って来た、と。
そして、社交的なのはエンジエルだけでは無い。デュースであれば他人とそう簡単に打ち解けはしないが、ダイ・オフは違った。その態度や言動は粗野なれど、その分気安く相手の懐へと入り込む。
サダルスたち三人は、成人してすぐ兵役に就き、荒くれの中で過ごして来た。ダイ・オフのような男とは馬が合う。もちろん、格の違いは嫌と言うほど痛感しているので、兄貴と慕う形であったが。
結果として、戦士連中は戦士連中で、盗賊は盗賊で交流が生まれ、まるでひとつのパーティーのようだった。
「どうやら、あの村がサルモンドの村ね。そしてあれが……」
村は、背後にそびえる小高い丘の麓に位置し、その丘の頂上には、微か遠くに建物の影が見えた。目を凝らせばそれは砦のように見え、
「旧ボードウィン男爵邸ですね。まだ結構距離がありますね。」
背伸びをするようにして、エンジエルの頭越しに丘の上を眺めるトールスが、その正体を口にした。エンジエルにとって歳上の弟のようなこの男は、ほとんどエンジエルと同じくらいの背丈だった。聞けばサダルスより五つ歳下と言う話だが、その童顔もあって、エンジエルの弟のように見えなくも無い。……エンジエルもその天使のような見た目から、実年齢よりも若く見られがちではあるのだが。
「それで、どうしますか、エンジエル姐さん。すぐ男爵邸に向かいますか?」
そう声を掛けたのは、サダルスである。下手をすれば十近くも歳下のエンジエルを、何故姐さんと呼ぶのか。それは、ダイ・オフよりも序列が上だと判断したからだ。
普段の何気無い会話の中で、エンジエルは当たり前のようにダイ・オフを叱り付ける。馬鹿にする。呆れる。口喧嘩で負かす。
もちろん、腕っぷしでは遥かにダイ・オフの方が上なのは承知の上で、その様子を見ているとエンジエルの方が姉のように見えるのだ。いや、母親かも知れない。
結果、序列はエンジエルが上で次がダイ・オフ。その下が自分たちだと認識した。それでも、サダルスたちは軍務の中で自分より腕の立つ女性士官に仕えた事もあったし、荒くれの中ではそう言う事も良くある話と、自然に受け入れられた。
トールスは盗賊の先生であるエンジエルを、当たり前のように歳下の姉として慕っている。
一行のこの関係は、誰もが納得の力関係となっていた……ダイ・オフだけが、気に入らない様子であったが。
デュースは混乱を避ける意味もあって、あれから表には出ていない。デッド・エンドも、特に必要が無かったので黙っていた。きっと、デュースが表に出ていれば序列も違ったろう。けれど、デュースはこう言う和気藹々とした雰囲気が苦手であったので、少し寂しいとは思いつつ、中からその様子を眺めるだけで満足だった。
「そうね……村へは寄って行きましょ。男爵邸で夜を明かすかも知れないから、食料を買い足しときたいし、何か話が聞けるかも知れないでしょ。」
「判りました。それじゃあ、手分けして聞き込みですね。俺はトールスと回ります。オルヴァはケルマーと回って来てくれ。姐さんと兄貴の方で、買い出しの方は頼みます。」
「OK。一応、あたしたちの方で、村長さんにも挨拶しとくわね。」
「頼みます。それじゃあ、小一時間したら村の北側で落ち合いましょう。トールス、行くぞ。」
「あ、うん。それじゃ、エンジエルさん、行って来ます。」
てきぱきと打ち合わせを済ますと、サダルスたちは即行動に移った。この辺は、冒険者としては新米なれど、兵士としては必要充分な経験を有している故であった。
サダルスたちは、早くに亡くした両親の代わりに育ててくれた伯父夫婦への恩返しをしようと、兄に倣って自立する為冒険者を志したトールスの意志を汲み、それでも何処の馬の骨とも判らぬ連中に大事な弟を託せないからと、幼馴染のふたりに声を掛け冒険者へと転向したのである。
サダルスたちは、例え配属先が違っても、日頃から良く飲み歩いた中であり、気心が知れていた。トールスを守る為の、連携も良く取れている。
「……訓練したように、意思疎通が出来ている。俺たちとは違い、心の中で会話する訳でも無いのに、大したものだな。」
素早く行動に移ったサダルスたちが去った後、デュースがぽつり呟いた。
「あ、デュース。ようやく出て来たのね。良かった。それじゃあしばらく、今度はダイ・オフがお休みね。」
「何でだよ!」
「うん、もう、あんたはトラブルメイカーじゃない。サダルスたちは似た者同士だから良いけど、あたしたち、これから買い物と情報収集、そしてご挨拶よ。デュースの方が良いに決まってるでしょ。」
「お、おぅ、そうか。そう言う事なら、確かにな……」
この調子で、いつもダイ・オフはエンジエルに言い包められる。こちらも大したものだ。デュースは心の中で、エンジエルを称賛した。
「では、俺たちも動くか。エンジエル。交渉役は任せたぞ。」
その言葉に、ぱぁっ、と顔を輝かせて、
「任せといて!きっちり値切って、村長からも何か聞き出して見せるわ。」
丁度今はお昼時。家々から煙の立ち上るサルモンドの村へと、四人も歩を進めるのであった。
何故、こんな事になったのだ。イリアス・ボードウィンは、頭を抱えていた。
ある意味、順調な旅路だった。下手に口答えしなければ、チャカとペテサはそれなりに気の良い男たちであった。もちろん、笑顔で何でも「はい」と応えてしまう人の良いイリアスは、口答えなどしない。雇用主であるイリアスの方がまるで使用人のような関係ではあったが、問題は起きなかった。
アガペー王国から南東へ一週間ほど。途中、長らく整備されなくなった森道へ入りペースが落ちるも、危険な野生動物にも野盗の類いにも遭遇せず、目的地である旧ボードウィン男爵邸へと辿り着いたのだ。
旧ボードウィン男爵領を埋める森林地帯には、旧男爵邸のある丘陵の麓に、村落が四つほど点在している。しかしながら、森の北西より至る森道は何処の村へも寄らず、真っ直ぐ旧男爵邸へと繋がっていた。その為、街道の最後の街を出てからおおよそ三日ほど、他の人間を見ていない。このような辺鄙な場所を訪れる旅人など、我々以外いないだろう。そう思っていた。
放置されていた旧男爵邸の建物は、元は千年前の砦跡とは言え、数十年前に邸宅として利用する為に改修してある為、そこまで激しく老朽化していなかった。
外観としては、千年持つ特殊な石材――もしくは、理解出来無いだけで何某かの魔法的処置の賜物だろうか、古めかしくも当時のまま崩れる事無く遺っている。
そんな石造りの壁が、縦横二十~三十mほどの正方形を成しており、高さは十mほどだろうか。ひと周り小さな石の箱がさらに上に乗っかっていて、もうひとつ上まで積み重なっている。全部で三階層の構造だが、屋上にも上がれそうに見える。
一階部分には、十字に刻まれた隙間が空いており、それが明り取り、そして換気口の役割を果たしている。元は砦だけに、要害の弱点となり得る窓は設えられていない。千年前であれば、魔法の恩恵もあって硝子窓にも出来ただろうが、それではいざと言う時守りに適さないからだ。
反対に、二階層より上には窓がある。改修時のボードウィン男爵家には、贅を凝らす余裕があったのだろう。当時高価だった硝子窓をふんだんに取り入れた結果、今では木戸も無い吹き抜けの穴が壁に穿たれた状態で晒されている。
正方形の建物の周囲には、円形の堀が巡っている。それにより、砦の周囲に半円状の土地が堀の内側に出来、千年前はそこに兵を配置する事が出来た。ボードウィン男爵家は、そこを庭として改修した。今や、庭木やテーブルセットなどは風化し、剥き出しの土の上にまばらに雑草が生えるのみ。
先頃まで雨の多い季節だったが、堀に残った濁り水の水位は低い。堀の何処かにひびでも入り、じわじわと水が漏れ出しているのかも知れない。それでも、堀としての役割は果たせるだろう。数mほど堀の内から断絶されている事で、正面の跳ね橋以外渡る手段は無い。
その跳ね橋だが、現在では動かない。さすが千年前となると、駆動部は壊れていたし、橋を支える鎖も脱落していた。橋自体は頑丈に作られており、補修してそのまま使用している。
そして、正面玄関の門扉も、いざその時、敵襲を防ぐ楯となる重要部位だけに、木製でありながら原形は留めていたと言う。さすがに内部が腐り脆くなっていた為、改修時に新調され、それ故まだ数十年しか経っておらず、未だその威容をそのままに保っていた。
この大扉を開いた先にも、もう一枚扉があった。内部は外周部が廊下のようになっていて、明り取りである十字孔が狭間としても機能する。内壁の方には窓がたくさんあったようで、今は四角い穴がいくつも並んでいるばかりだ。
玄関の大扉は重く、一々何度も開け閉めするのは効率が悪いと、そのまま開け放っていた。風通しが悪いと、この内壁の扉も開け放っていた。そして、瓦礫と埃で汚れ切った室内を見渡し、さてどこから手を付けたものかと思案していたところに、来訪者があったのだ。
イリアスは、まさか自分と同じようにこの旧男爵邸を探索しに来る者がいるとは思わず、その来訪者がメイド服を着ていた事から、近隣の村から誰かやって来たのかと思った。チャカたちも初めはそう思ったのだが、すぐにイリアスを押し退け、腰の物を抜き放ったである。
「手前ぇ……何者だ。」
問われたメイド服の女は、玄関を背に立っているので、影に隠れてその表情は読めない。そして、微動だにしない。
「ちょっ、どうしたんです、いきなり。相手はどこかのメイドさんのようですし、まずは何用かお話を……」
いつもの癖だ。荒事が起こりそうになると、自然両者の間に体を滑り込ませてしまう。性分なのだ。考えるより先に体が動く。
「馬鹿野郎っ!俺たちゃ一応、お前の護衛だぞ。勝手に死にに行くな。」
「え!?」
何の事やら判らず呆としながらも、イリアスなりに何かを感じ、そのメイド服を振り返った。目の前に、何かを振り被った女の顔が迫っていた。
咄嗟に飛び退いたイリアスがいた辺りで、まるで岩が砕けるような豪快な音が鳴り響いた。イリアスにも判った。もし逃げるのが一瞬でも遅れていれば、自分は死んでいただろうと。
抜けそうになる腰を気力で支えながら這いずって距離を取ると、イリアスは振り返り何事が起ったのかを確かめようとした。
もうもうとした砂煙――破砕した床を見れば、石煙と言った方が正しいだろうか……で良く見えなかったが、そこにメイド服の女性が佇んでいるのは判った。彼女は、片手で何かを肩口に担ぎ上げた。それは、彼女自身の身の丈ほどもあった。
視界が晴れ見通しが良くなると、それが何かは判った。だが、意味が解らなかった。仮にそれが二mを超す大男であっても、片手で持つには無理があるような、巨大な戦斧。先端に槍の穂を持つ両刃の斧頭は、間違い無く戦いの為に作られた武器である事を示していた。
それを軽々担ぎ上げた主は、まだ十代と思しき赤毛の少女であった。後ろ髪が肩まで届かぬ短髪で、無表情でイリアスを見詰めている。恐ろしい光景のはずだが、無表情でも彼女の面立ちは可愛らしく、フリルの付いた可愛らしいメイド服も相まって、つい気が緩む。
「この馬鹿司祭!さっさと下がれ。」
対して、チャカにはそのギャップがむしろ恐ろしかった。護身用に、冗談のような巨大な戦斧を模した玩具でも振り回すならともかく、床石は粉々に砕かれ少し陥没している。その威力を見れば、その冗談のような戦斧が冗談では無いと知れる。それを片手で振り回すのも脅威だが、彼女はとても素早かった。あんな物を担いで素早く動けるなど、一体どんな筋力をしているのか。しかし、その細腕にそんな筋力が宿っているとも思えず……目の前のこれは、化け物だった。
メイドに次の動きは見えず、その間にイリアスはチャカたちの後ろに逃れる事が出来た。……何故だ。こんな辺鄙な田舎の廃墟。お宝話が広まっている訳でも無い。自分自身、きっと期待するような物は何ひとつ見付かるまいと思っている。危険など無い。ただ、報告する為に、何も無い事を確認するだけの話だった。どうして命を狙われるのだ。一体、誰が襲って来たのだ。何の為に……
「ど……どうして私を襲うのです。私には、誰かに命を狙われる覚えなどありませんよ。」
震えから体に力が入らず、上手く喋り出す事も難しかったが、イリアスは何とか言葉を紡いだ。
その言葉に、赤毛の少女はきょとんとした顔をして、
「……貴方誰?別に、貴方の命なんて狙ってないわ。」
「そ……それじゃあ、どうして……」
赤毛の少女は、顎でチャカたちを指して、
「そっちが先に剣を抜いて、攻撃の意思を示したんじゃない。私は、自分の身を守ろうとしただけ。」
「……へ!?」
「ふざけんな!そんな大物担いでりゃ、警戒して当たり前だろうが!」
言われて、彼女は戦斧の穂先を、どん、と床に突き立てた。
「これは護身用よ。女のひとり旅だもの。これくらい、普通でしょ。」
「普通な訳あるか!」
チャカが突っ込むが、警戒は緩めない。いや、緩められない。あの重量級の得物を、彼女は軽々振り回すのだ。ふたり掛かりでも、とても手に負えるような怪物では無い。最悪、イリアスを囮に逃げ出すにしても、いつでも動けるように身構えておかなければならない。
こうして、玄関方面で仁王立ちする赤毛のメイドと、殺気立った傭兵ふたりが対峙したまま、緊張の時間が数刻続いた――実際には数分だ。こんな修羅場を経験した事の無いイリアスには、それはあんまりにも濃密な時間となった。
何故、こんな事になったのだ。イリアスが、何度目かの同じ言葉を頭の中で呟いたその時、
「あら、可愛い。何でこんなところにメイドさんがいるの?」
開け放たれた大扉の外から、別の女の声がした。声に続いて、六つの人影が現れる。エンジエルたち一行であった。
「なっ、何者だ!」
再び同じようなセリフを吐いたチャカとペテサ、そしてイリアスは、新たな存在の登場に驚きを隠せないでいた。対して赤毛、静かに半身だけ振り返り、声の主を視認する。表情は変わらない。こちらは、背後からの気配など疾うに気付いていたのだろう。
「これは……随分可愛らしいお客様ですね。初めまして。」
と、器用に戦斧を真っ直ぐ立てたまま会釈して、
「ラヴェンナと申します。お見知り置き下さい。」
体の前で重ねた手を戻し、再び戦斧の柄を握る。ほぅ、と碧い瞳が感嘆を漏らすと、すぐに紅い瞳が言葉を続けた。
「へぇ、そうなのか。こいつは凄ぇメイドもいたもんだ。」
「何?どう言う事?」
「いや、何でも無ぇ。気にすんな。」
後でエンジエルがデュースに確認したところ、この時デュースは心の中で、ダイ・オフに気付いた点を解説していた。実は、少し前からイリアスたちとの遣り取りは見ていたのだ。
細腕に見えて、しなやかで強靭な筋肉を纏ってはいる。しかしそれでも、あの巨斧を力で振り回す事など不可能。初動に力は必要として、後は上手く重さを誘導し、言うなれば斧を投げるように操っているのだ。その証拠に、穂先は決して床に刺さってやしないのに、手を放しても倒れたりしなかった。常人では考えられないほど正確にバランスを取って、戦斧を自立させたのだ。達人の域である。
「な……何でぇ、そっちの奴らには、襲い掛からねぇんだよ。」
自分たちへの反応との違いに、思わずチャカが口走る。何でこんな化け物と、そんな簡単に仲良く出来るのだ。
顔だけを向けて、冷ややかな視線でラヴェンナ。
「……彼女らには、微塵も敵意がありませんもの。攻撃の意思の無い者に攻撃的な態度を取るなんて、私はそんな馬鹿じゃありませんので。」
なるほど。イリアスはすぐに理解した。自分が襲われたのは、仲間であるチャカとペテサが、いきなり剣を抜いたから。このラヴェンナと言う女性は、こちらを責めているのだ。
しかし、その言葉の意味がすぐ理解出来無かったチャカとペテサはしばし沈黙した後、
「お、おい!それってもしかして、この俺が馬鹿だって言ってんのかよ!」
ようやく気付いたようだ。
冷ややかな視線はそのままにラヴェンナ。
「だって、未だに剣を構えたままじゃないですか。気付いてます?今この場で武器を振り翳してるの、貴方たちだけですよ。」
言われて、は、っとする。一応ラヴェンナは、戦斧を逆さに床に突き立てているのだ。構えているとは言い難い。後からやって来た連中は、誰も得物なんて抜いていない。余裕綽々な態度の――滅茶苦茶可愛い盗賊娘と、自分でも判るほど別次元の存在感を持つ剣士だけで無く、その後ろに控える素人臭い冒険者たちでさえ、誰もラヴェンナ相手に身構えてなどいないのだ。
「な、何でっ……この化け物前にして、平気でいられんだよ……」
思わず口にした言葉に、は、っとするチャカだったが、ラヴェンナの表情は変わらなかった。……それが怖かった。
肩越しにペテサに目配せすると、ふたり揃って剣を腰に戻した。
「す、すまなかったな、姉ちゃん。その斧が目に入って、思わず身構えちまったんだよ。これでも一応、俺たちゃ護衛なんでね。この司祭様の。」
何故、こんな時だけ司祭様だなどと立てるのか。イリアスは心の中で項垂れながら、
「本当に申し訳ありませんでした。彼らも私を守ろうとするあまりの行動。お許し下さい。」
そうして前に進み出た後、体も項垂れる――いや、頭を垂れた。何故、私が謝罪しなければならないのか。疑問には思うが、そうする事は拒絶しない。自分はそう言う人間なのだ。
「……そうですね。その謝罪、受け入れましょう。私も、咄嗟の事とは言え、後ろの礼儀知らずでは無く、司祭様に手を上げてしまいました。申し訳ありません。」
ぐ、っとひと声唸るも、ここは堪えるチャカ。納得などしていない。だが、状況がまるで見えていない訳でも無い。今ここには、少なくとも二匹化け物がいる。これ以上悪目立ちして矛を向けられるような事態は、避けねばならなかった。
「あ、ありがとう御座います。私も、不用意に間に入ったのが悪かったのです。性分とは言え、面目無い。」
司祭とメイドの和解により、ようやく場の緊張の雲が晴れた。切欠は天使の声掛けだったが、その天使が改めて空気を入れ替えた。
「さて。一旦いざこざは終わったみたいだし、改めて自己紹介でもしない?こんな田舎の廃墟に四組の訪問者。偶然じゃ無いわよね。」
その言葉に従ったものでは無いが、ここ旧男爵邸の玄関ロビーに集まった一同は、何とは無しに四方に散り、四組に分かれた。
ひと組みは、人の良さが滲み出る司祭と、人の悪さが溢れんばかりの傭兵ふたり。
ひと組みは、その姿からメイドと思しき十代後半と見える赤毛の少女だが、その手に身の丈ほどもある戦斧を持つひとり。
ひと組みは、装備こそ新しいがその物腰から熟達の戦士と見える三人と、見た目通りの新米盗賊を合わせた四人。
そしてもうひと組みは、言わずと知れた天使と死神のふたり……
こうして、運命の三日間を共に過ごす、十二人が集まったのである。