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Die off  作者: 千三屋きつね
第二章「旧ボードウィン男爵領」
8/11

第一節


北方とは言え、所詮人間族の領域内だ。そこまで厳しい環境では無い。近隣にある山など、例の不気味な山だけであるし、北は一年中雪に閉ざされたような土地だが、その影響がこの寒村まで及ぶ事は無い。

東に海を臨む――とは言え、この村は漁村な訳では無く、海まで数kmは離れている為、直接荒海が猛威を振るう事も無い。

しかしここ数日、草原を渡る風は機嫌を悪くし、草木を薙ぎ倒しては空へと巻き上げ、人間のみならず動物たちの自由すら奪って唸り続けた。

珍しいと言えば珍しいのだが、数年に一回ほどはこうして癇癪を起こす事があり、しかも決まって農閑期を狙って来る。大人しくしていれば被害らしい被害も出ないが、家に籠って女房の小言を聞かされ続ける事だけは、耐え難い苦痛と言えた。

そんな暴風小僧の癇癪もあって、しばらくあの老人の姿は見えなかった。いや、あの時はっきり顔を見た。もう老人と呼ぶのは憚られる。

今度村に帰って来た折には、ちゃんと名前を聞いてみよう。自警団長は、まだ彼の名も知らない事に思い至ったのだった。

帰って来る。そう、彼はまた、チェックアウトせずにふらりと散歩へ出た切りだ。そして、こんな気候が訪れるなど、土地の者でもなければ知る由も無い。

きっと、数日村を空けるつもりで、帰るに帰れなくなっているのだろう。さすがに、この風ではどうしようも無いので、女房衆の催促も鳴りを潜めているから、急ぐ必要は無い――のだが、本音を言えば俺が早く聞きたいのだ。あの話の続きを。


そうして一週間も過ぎた頃、草原の草花が微風に揺られるようになって、久方ぶりに酒場に繰り出した自警団長は、そこに彼の姿を認めた。酒場の親父によれば、三日ほど前、暴風の最中何事も無かったかのようにふらりと帰って来たそうだ。

隅のテーブルで軽食を取っていた彼に、自警団長は近付いて行った。少し気安いかも知れないが、隣の椅子を引き、どっかと腰掛ける。

「しばらく帰って来られないと思ったが、あの風の中を帰って来たそうだな。怪我はしなかったかい?」

彼は一瞥だけくれると、再び目の前の獲物に視線を落とす。

「あぁ、大丈夫だ。少しは、風を避けられる道を辿って来たからな。」

「へぇ……」

……精々、低木がまばらに生えているだけの、あの草原を?そう疑問に思ったが、この男の事である。本当かどうかは知らないが、あんな山に登って来られるのだ。寒風吹き荒ぶ原野など、取り立てて騒ぎ立てするようなものでは無いのだろう。

「おっと、そう言えば自己紹介がまだだったな。」

我ながら、話の切り出し方が下手糞だ。大柄で人よりがたいが良いから自警団長など務めているが、まだ三十代の若輩者だ。村には他に、何人も年長者はいる。だが、ここは農村だ。自警団より重要な役職が他にある。団長などと呼ばれても、体良く押し付けられた乱暴者たちの監督官に過ぎない。渉外役など他の者の役割だし、口下手でも仕方無いのだ。

「俺は自警団長のタルカスだ。あんたは?」

彼は、口に運び掛けていたフォークを止めると、しばらくそのまま押し黙り、フォークを皿に戻してからフードを背中の方へ剥いで、顔を露わにした。老人――と村人は判断していたが、やはりまだ若く見える。髭は白いが、ざんばらな髪は少しくすんではいるものの、まだ金色を保っている。白髯もあって実年齢よりは歳嵩に見えるのだろうが、下手をすればタルカスよりも歳下かも知れない。……見た目だけならば。

「そうだな。そう言えば、まだ名乗ってもいなかった。失礼。オリバーだ。」

タルカスの方へ向き直り、挨拶をしながら右手を差し出した。ごつごつした拳は、年季の入った漢のそれだが、それでも老いているようには見えない。

「お、おう。よろしく頼むぜ、オリバー。」

がっちり握り返した手は冷たく、死んだ親父の手を握った時を思い起こさせる。一見とても若々しく逞しいだけに、何ともミスマッチだ。タルカスは、そんな事を思った。

握手の後、再びフォークに伸ばしたその手が止まる。

「なぁ、タルカス。折角名乗り合ったんだ。記念に、今日も天使と死神の話を聞かせたいと思うが……どうだ?」

「ほ、本当(ほんと)か!?そりゃ、願っても無ぇ話だ。あ、だったら、少し待っててくれ。野郎共を集めて来るから。おい、親父!オリバーにワインを出してやれ。俺たち(・・)のツケでな。」

元々、話を催促するつもりだったタルカスは喜び勇んで、転がるように酒場から駆け出して行った。その様子を微笑ましく眺めるオリバーの表情は、これまでに無いものだった。そこへ、酒場の親父がカップに入ったワインを運んで来る。

「これは私からのサービスにしとくよ、お客さん。タルカスの奴だけじゃ無い。私も楽しみにしていたからね。それに……」

カップを受け取り、その香りを楽しんでから、

「それに?」

「話を聞きたくて、客が増えるからね。狭い村の事だ。ツケとは言え、皆払いは良い。お客さんのお陰で、とても助かるよ。」

オリバーは、ひと口唇を湿らせる。

「ほぅ、美味いじゃないか。こんな場所で、こんな美味しい酒が飲めるなんてな。」

「……私自身が愉しむ為の、秘蔵の逸品だ。あいつらには内緒だよ。」

この日の夜は、大いに盛り上がった。何時に無く、オリバーも饒舌だったからだ。

「今日は、ダイナスを後にした天使と死神の物語だが、その前に、天使の兄の話をしようか。」


ゼノヴァ。街道から外れた辺鄙な村だ。行く先によっては近道となる為、多少の人通りはあり、だからこそ宿も経営が成り立っている。

とは言え、広い宿では無い。街に良くある、一階が酒場で二階が宿屋、と言う体でも無く、平屋五部屋の内、ひと部屋は宿屋夫婦の家であり、ひと部屋は息子夫婦の家であり、空き部屋みっつを旅人に開放している形だ。

共用スペースにテーブルセットはあるものの、宿代に食事代は含まれない。普段、そこで食事をするのは家人のみ。食事は外へ食べに行く必要があった。

その呑み喰い処も村に一軒あるのみで、畑仕事や狩猟で朝早い村人たちは寝るのも早く、酒は提供すれども夜半には閉めてしまう。

元より、旅人にとっては通り次るだけの村だ。ひと晩くらい、酔わずに寝ても構うまい。

そんなゼノヴァ村に、もう三日ほど逗留しているおかしな客がいた。いや、街道から外れている事から、ゼノヴァで落ち合う人間は稀にいて、数日留まるだけなら珍しくともおかしくは無い。

この客がおかしかったのは、まずその外見である。

ひとりは精悍な顔付きの立派な青年で、その端正な顔立ちと美しい金髪は、村の女たちをざわつかせた。革製の全身鎧を着込み大剣(グレート・ソード)を背負っている事から、兵士か傭兵と思われた。彼ひとりであれば、珍しくともおかしくは無かったろう。

連れのひとりは悪目立ちした。黄橡(きつるばみ)色した長髪の絶世の美女だが、その扇情的な格好は村の男たちをざわつかせ、それは女たちからの敵意となる。

とは言え、ただ露出の高いレオタード姿な訳で無く、上半身には金属鎧を着込んでいるのだ。まともな仕事柄とも思えない。怪しい雰囲気を纏った妖艶さから、お伽話(フェアリー・テイル)に聞く魔女のようにも思えた。

それでも、彼女が秋波を送れば、男たちはたちまち蕩けてしまうのだ。村の半分は、彼女の味方であった。

何より、本当に悪目立ちしている、おかしな連れがもうひとりいるのだ。

それは、青年よりも頭ひとつ以上背の高い大男で、人間離れした筋骨隆々な肉体の持ち主である。だが、問題はそこじゃ無い。その仕立ての良い黒のスーツ姿は、どう見ても貴族のそれであった。

その体躯が貴族に似付かわしく無い、とも言えるが、戦場での功績により爵位を賜ったのならあり得ぬ話では無い。

貴族が徒歩で村を訪れる。これもおかしな話だが、道中輓馬や馬車に故障でもあったのなら、仕方の無い話だろう。

ただひとつ、絶対にあり得ぬ光景があった。この貴族は、青年に付き従っていたのだ。

貴族の護衛として、戦士と魔導師が付き従っている。と言う事であれば、何ら不思議は無かった。しかし、貴族が青年の後に付き従っているのである。仮に青年が貴族の子息であったとて、爵位を持つ父親の方が後ろを歩くなど、あり得ぬ話であった。

そのあまりに奇異な情景には、村人たちだけで無く、当の青年も困惑しているように見えた。夕暮れ時に村を訪れ、色々な意味で村人たちをざわつかせた後、青年と貴族は宿に引き籠ってしまった。

その為、本来そんな役回りでも無さそうな魔女――アマンダが、専ら村人たちと挨拶を交わすようになっていた。今日もふたり分(・・・・)の食糧を買い込んで、宿へと戻って行った。

「只今戻りました。」

素早く部屋の中へ体を滑り込ませたアマンダは、精悍な青年、ヴァルハロスに帰還の挨拶をした。

その主人は、部屋の奥でベッドに腰掛け、目の前に仁王立ちする元伯爵様を見上げていた。

「ご苦労……どうだった。」

テーブルに買い込んだ食料を置き、主人の前で片膝突いたアマンダは、静かに首を振った。

「何も。……そちらはどうでしたか?」

「うむ……収穫は無いな。だが、この数日でいくつか判った事がある。」

「それは?」

「……整理してみよう。まず、この男の名はO・D・I(オッド・アイ)。千年前、伯爵領だったダイナスの地を治めていた吸血鬼(ヴァンパイア)。ここまでは、すでに話したな。」

「はい。……しかし、吸血鬼ですか。未だに信じられない気持ちです。」

吸血鬼など、お伽話にも登場しない。吟遊詩人も謡わない。巫蟲術の里出身のアマンダだからこそ知識として知ってはいたが、それこそ千年以上前の話だ。この千年、人間族の領域内で、吸血鬼が確認された事は無い。……少なくとも、公的な記録としては。

「……しかも、だ。どうやら最強の吸血鬼と呼ばれていたらしい。通常の吸血鬼では無く真祖と呼ばれる原初の一族のひとりで、心臓に杭を打たれても陽光の下に歩み出ても、決して滅びぬ無敵の存在だそうな。」

「え!?……でもあの時、体中から煙が上がって……」

ダイナスを脱し、ステイメンと合流地点として打ち合わせてあったここゼノヴァへ向かい始めた最初の夜明け。O・D・Iは朝日を浴びて、しゅーしゅーと体中から煙を噴き上げたのである。

すでに吸血鬼とは聞き及んでいたので、折角の古代魔族の遺産・世界を失う訳には行かないと、昼日中の移動は諦めた。その為、ゼノヴァへの到着も遅れ、すでに合流予定日時は過ぎていた。

「あぁ、今は普通の吸血鬼と何ら変わらない。俺がこいつの力を、引き出せていない所為でな。つまり、これからもしばらくは、夜行を強いられると言う事だ。」

ヴァルハロスは、所有者として認められた。……ある約束の元に。今はまだ、ただ所持しているだけの状態に過ぎない。使いこなすのはまた別の話であった。

「だから今はまだ、俺はこいつを操れない。この伯爵様が勝手に後を付いて回るのも、どうしようも無いって事だ。」

「それは……困りましたわね。」

実際問題、夜しか動けぬ事などより、貴族を付き従える異常な光景の方が厄介だった。これでは、ヴァルハロスは人前に出られない。

「……それで、ルートは決まったか?」

「えぇ、ここは裏街道の要衝と言っても良い村ですから、周辺について良く知っていましたわ。例の場所まで、人目を避けて三日と言うところでしょうか。……それでは……」

「うむ……ステイメンは己が役目を果たした。すでに予定の日時は過ぎているんだ。あのヴィンセントの足止めだけじゃ無い。死神共もいる。……痕跡だけは残しておけ。ステイメンなら、それだけでこちらを追跡して来られるだろう。」

「はい、承知しました。」

返事をして頭を垂れたアマンダは、改めて心の中で天使と言う言葉を呪った。ヴァルフとふたり切りなのは良いけれど、貴方、そんなに気の回る男じゃ無かったでしょう。彼が本気で頼りに出来るのは、私と貴方のふたりだけ。これからも、貴方の力が必要なのよ?

アマンダなりに、帰らぬ同志が心配ではあったのだが、すでに確信も覚悟もしていた。次は、私が命を捨てて彼を助ける番なのだと。

「良し。それでは陽が沈み次第、出立する。さっさとこの木偶の坊を操って、せめて前を歩かせないとな。……落ち着いて、用も足せやしない。」

その言葉に、思わず顔を上げ微笑を浮かべたアマンダ。目が合った途端気恥ずかしくなったが、笑顔で応えたヴァルハロス。それを無言で見下ろす大男さえいなければ、ふたりの仲はもう少し進展するのかも知れない……

その日宵闇の中、このおかしな客たちはゼノヴァの村を後にした。相変わらず、貴族が付き従うおかしな夜行であったが、不思議とその一行には夜が似合った。


この世界において、神とは創造神の事であり、その一族の事である。名も伝わっていないその神々の神話、伝承を基に、宗教は成り立っている。世に宗派は数あれど、信仰を捧げる対象は皆同じ。宗教自体は、世界に只ひとつであった。

アミリティア教。創造神の一族の神話を記した最古の書の名が、アミリティアの書である事からそう呼ばれる。アミリティアが何を指すかは不明である。それが、世界唯一の宗教の名だ。だが、先述したように、世に宗派は数多存在した。それも当然だ。神は人智及ばぬ存在なれど、宗教は人が作り出したもの故に。

各宗派は、アミリティア教原理(ファンダメンタル)派、アミリティア教自由(リベラル)派などと教義に沿った宗派名を掲げ、通俗的にファンダメンタル教、リベラル教などとも呼ばれる。大小合わせれば数十派閥は下らないし、民間信仰として神以外の存在に対し畏敬の念を示す組織なら世界各地に点在している。神の存在に対して意見の一致を見てさえ、宗教そのものは人の手によって作られているだけに、ひとつに統合される事などあり得なかった。

そんな数多ある宗派の中に、アミリティア教アガペー派がある。小国の国教であり、その勢力は小さい。しかし、他のどの宗派とも違う、個性的な特徴があった。それは、一切の寄進を受け付けないと言うものである。

アガペーとは神々の愛の意であり、神は見返りなど求めず等しく全ての者に施す。その理念から、一切の寄進を禁じていた。教徒に対しては、必要であれば無償で際限無く施しを与えもした。

とは言え、本来それで成立するものでは無い。世の宗教悉く信仰の徒から金品を受け取っているが、悪徳の輩が私腹を肥やすばかりでは無い。神々自身の組織で無い以上、運営にも費用が掛かる。聖職者の食い扶持もそうだし、貧しき者、困り事を抱えた者に手を差し伸べるにも、お金は掛かるのだ。

程度の差こそあれ、人々の救済の為に人々から寄進を受けるのは、特別おかしな話では無い。裕福な教徒が多くを納め、皆で支え合って行くなら理想的な話であろう。例え、一部に私腹を肥やす輩がいても、世の宗教全てを否定する理由にはならない。

ただ、現実はどうあれ、理想だけで語るなら、救うべき神々の子から何も受け取らないのは美徳であろう。実現出来るのであれば……

ここに、いくつかの小国が寄り集まった小国群のいち国家として、国名もアガペーを名乗るアガペー王国があった。アガペー教を国教として成る王国であり、理想国家であった。

もちろん、人の善意だけでそんな奇蹟は起こらない。このおかしな国家が成立するには、相応の理由がある。

興国の祖は、まずアガペー教を興した。その運営資金を賄う為、アガペー教発祥の地を王国とした。寄進は一切受け取らない。代わりに、国民から税は徴収するのである。

詭弁であった。始まりは、詭弁であった。しかし、集めた税の使い道として、貧しき者、困り事を抱える者の救済に充てる。と言うのは、とても耳障りの良い話だ。

国民の多くが教徒でもあるので、結果的には税の名で寄進しているようなものだが、その税もかなり緩かった。富める者から多くを徴収し、貧しき者には免除もした。

一見不公平であるが、そこが宗教の良さである。神々への感謝を行動で示す事に他ならないので、裕福な者はむしろ喜んで税を納めた。稼いでも稼いでも、それが神の名の下に貧しき同胞を救うのだから、罪悪感を感じずに済む。富める者も救われた。

こうして、興国の祖の思惑を超えて、宗教を隠れ蓑にした国家運営は、驚くほどの成功を収めた――収め過ぎた。その建前であるはずの清廉な理念が、力を持ち過ぎた。

今や、信仰の徒である国民の目は厳しく、貴族は正しくあらねばその身分を危うくする。事が信仰心だけに、周辺国も下手な事は出来無い。仮にアガペー王国と戦争にでもなれば、周辺諸国が団結してアガペー王国を守る事にもなる。国庫を広く国民、教徒に開放する以上決して軍事力に優れた国では無いが、理想的な宗教国家として――ある意味触らぬ方が身の為故に、一番平和な国でもあった。

それでも、奇蹟のようなバランスで成り立っている理想国家であるから、アガペー王国の版図、及びアガペー教圏が広がる事も無いのだが。

その男は、そんなアガペー教の司祭であった。イリアス・ボードウィン。少し癖のある栗色の髪を短く梳いた、少し瘦せ気味の青年で、二十代後半と言う年齢で司祭を務めるなど、それなりに優秀だと思われる。しかし、この男を表すのに最も相応しい言葉は、人が良い、である。

流されるまま周りの意見に逆らわず、頼まれ事は何でも聞いてしまう。アガペー教に帰依しているからでは無い。そんな人柄故、アガペー教へ至る人生だった。

彼が属したボードウィン家は、何年か前まではボードウィン男爵家であった。その分家の三男坊として生まれたイリアスは、没落し掛かった男爵家内の権力争いの一環として、継承権を放棄し隣国アガペー王国のアガペー教会に預けられる事となった。結局没落したのだから大した意味も無いのだが、男爵家の末席にある三男坊。そもそもの生まれが生まれであった。幼少期より、周りの人間の言う事に、否と言える立場に無かった。

イリアスにとって幸いだったのは、教徒として人々に仕える生活は快適だった事。顔色を窺うのでは無く、ただ助けてあげれば良いのだ。生来の気性に合った。

小さな権力の取り合いから解放されて、人々に仕える生活を心から楽しみ、その為に必要な勉強にも一所懸命向き合った。小さな教圏の司祭とは言え、多くの場合長年仕えた四十、五十の壮年が付く役職であるから、イリアスは特別優れた修道士だったと言えるだろう。この十余年は、イリアスにとって幸せの日々であった。……あの日までは。

逃れたはずの男爵家、いや旧男爵家から、ひとりの使いがやって来たのだ。没落男爵家が今更何の用なのか。思った通り、とても下らない、迷惑な話であった。

ボードウィン男爵家が属したのは、アガペー王国の隣に位置するダレリウス王国。現在でもアガペー王国と比べれば大きな国であるが、何世代も前には南東方面にもっと広い版図を誇った。ボードウィン男爵家は、そもそも大家では無く、小さな領国を何とか守り続けるだけの田舎貴族。ダリウス王国自体が疲弊して行って国土を狭めて行った結果、ボードウィン男爵領はいくつかの小さな飛び地の集合体となる。数年前爵位と共に領地も召し上げられたが、そんな飛び地のひとつが、ボードウィン家に残された。決して、国からの情けなどでは無い。その飛び地が、特殊だっただけの話である。

現在その飛び地は、ホーリンゲン王国の版図に取り残される形であるが、いくつかある村落の自治領扱いだ。農業と狩猟で自給自足がやっとの土地で、税収など期待出来無い。しかし、自国領としてしまえば、管理、運営、防衛などの責任が生じる。何の旨味も無い、戦略的価値も無い、抱え込んでは手間と金が掛かる。そんな土地故、ダリウス王国が衰退しても、ホーリンゲン王国はそのまま飛び地として放棄して来た土地であった。

いくら没落したとは言え、ボードウィン家にとっても、この旧男爵領は何の価値も無い土地である。ただ――土地の者しか知らぬような、眉唾な噂話があった。元々、旧男爵邸として利用された建物は、改修前古代の砦跡だった。何か特別な事件があった訳では無いが、不気味がられていた。ボードウィン男爵家が衰退し始めると、男爵邸の呪いだなどと囁かれた。只それだけの事だった。

だが、溺れる者は藁をも掴む。この旧男爵邸が古代の遺跡ならば、そこに呪いの元となるようなお宝が眠っているかも知れない。実に、馬鹿馬鹿しい発想だ。

そんな事は、馬鹿なボードウィンの者たちも承知。だからこそ、大した期待も何も無い、眉唾なお宝話に縋るのに、彼に白羽の矢が立ったのだ。過日、一族から追い出したような聖職者であれば、頼みを聞いてくれるだろうし、失敗しても何も失うものなど無いだろうと。

純白の司祭服に身を包み、重そうな荷物を両手と背中に背負って、イリアスは大きな溜息を吐いた。断ったとて、角は立っても今更どうでも良い相手と言えた。それでも、彼は笑顔でこの話を受けた。それがこの男、イリアス・ボードウィンなのだった。

「イリアス殿。早く行きましょうや。」

そのイリアスに、傭兵風の男が声を掛ける。いや、事実傭兵であった。声を掛けた二十代前半と思しき黒髪の男は、チャカと言った。もうひとりの金髪の十代、ペテサの兄貴分である。

ふたりは、鎖帷子(チェイン・メイル)革製の胸当て(ブレスト・レザー)を重ね着した中装戦士で、鉄の籠手(アイアン・グローブ)鉄の脛当て(アイアン・グリーヴ)を着用し、長剣(ロング・ソード)アイロン型の盾(ヒーター・シールド)と傭兵らしい兵装である。

特定の傭兵団には属さず、契約が切れる度に有り金全て使い切るまで放蕩し、路銀が尽きればまた雇われ兵を務める。そんな典型的な流れの傭兵だ。

たまたま一緒になった傭兵団で馬が合い、ペテサがチャカを兄貴と慕って行動を共にするようになり、以来ふたり組の傭兵として旅をしている。

特に目的も無いその日暮らし。毎日楽しければそれで良い。どこかの戦場で野垂れ死ぬまで、刹那的に生きるのみ。と言ったところも、典型的な傭兵気質。

丁度給金が入り遊び歩いている最中、念の為に護衛を雇おうと盛り場をうろついていた世間知らずのイリアスの頼みを、葱を背負った鴨と見做して引き受けた。

相手は歳上でアミリティア教の司祭であるにも関わらず、いざと言う時護衛に支障が出るからと、自分たちの荷物まで依頼主に持たせているところからも判るように、彼らはイリアスを嘗めていた。

ただ、イリアスは馬鹿では無い。人の良さに付け込まれている事など、重々承知だ。承知していて、何も言えないのだ。自分はそんな人間なのだと、すでに諦観している。

実は、そんなイリアスだから助かってもいた。お宝見付けたら横取りすれば良い。チャカはそう考えていたが、と同時に、この男は言いなりだから、お宝横取りするだけで解放してやろう。殺して全部奪っても、身包み剥がして荒野に棄てても良いのだが、さすがにこの男相手ではばつが悪い。俺たちは野盗の類いでは無い。命ばかりは助けてやろう。

芯から性根の腐った男にも、神心を芽生えさせる。その意味でも、イリアスは優れた聖職者なのだと言えるだろう。

「すみません。今行きます。」

歳下の雇い人相手に愛想笑いを浮かべ、イリアスは足早に歩き出した。

目指す先は、一族所縁の呪われた土地であった。

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