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Die off  作者: 千三屋きつね
第三章「アガペー王国」

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第四節


樹上から射す光が徐々に明るさを増し、今日と言う日の始まりを告げている。そんな神々しくもある光のカーテンの中に、一部分だけ切り抜かれたような闇がわだかまっていた。

混濁する意識の中で考える。この魔導器は何なのか――魔導器?何故、目の前の大男を魔導器だなどと思うのだろう。すでに私は、エミーグレイでもアドルドムファスでも無い。いや、私はエミーグレイでありアドルドムファスである。混じり合った意識が混乱を来たし、状況をまともに理解する事など出来無くなっていた。ただひとつ、はっきりしている事がある。この魔導器は強いと言う事だ。

混乱の中にあっても、猿王の動きは衰えていなかった。中身は多少傷付いたものの、本体には一切の損傷も無い。振り切る事は叶わぬまでも、闇の大男――世界ことO・D・I(オッド・アイ)の攻撃では、猿王を傷付けるには至らなかった。

最初は面喰らった猿王だったが、これならば逃げる必要も無い。片やO・D・Iも、それ以上何も出来無いでいた。ヴァルハロスは、O・D・Iを自由に操れるまでに至っていたが、それだけであった。未だ、最強吸血鬼(ヴァンパイア)としての力を覚醒させるには至らず。今はまだ、超人的な力を発揮する、筋骨隆々の大男に過ぎない。

ヴァルハロスは、膠着状態の場にアマンダが加勢にやって来れば、事態も動くと考えていた。その為、無理に動こうとはしなかったが、予想外に時間が掛かる。まさか後れを取る事はあるまいと思いつつ、人間であるヴァルハロスの精神は疲弊もする。長期戦は、必ずしもヴァルハロスにとって都合が良いとは言えなかった。

片や猿王には、すでにまともな時間感覚すら存在しない。エミーグレイとしてもアドルドムファスとしても、それぞれの望み通りに行動する事も出来無くなっていた。混濁する意識は正常に機能せず、本能がその身を突き動かす。

そんな本能が、ある存在を認識した。目の前のO・D・Iとは違う、新たな脅威。いや、再びの恐怖だ。

O・D・Iを無視して振り返った先、そこにその恐怖は居た。

「ちっ、気付かれた。もう同じ手は通じねぇ、ってか。」

炎を纏った魔法の段平を投擲しようと構えていたダイ・オフは、すぐさま構えを解き疾駆へと移った。また全力で逃げられては追い付けないが、何やら状況が違っている。ここからでははっきり確認出来無いが、どうやら猿王は先の聖堂騎士とは別の何かと一緒にいるようだった。しかも、空気は剣呑。

「そこを動くなよ、猿っ!」

動くなと言われて動かぬ馬鹿はいない。本能が叫ぶ。こいつは駄目だ。こっちは駄目だ。振り返って猿王、一目散に逃げ出す。そこにはO・D・Iがいるも、すでに猿王の意識の外だった。

O・D・Iはと言えば、事態の急変に相応出来ず、猿王をそのまま行かせるも後を追う。そちらにはアマンダもいる。上手くすれば挟み撃ちである。

そうして猿王は……エミーグレイは、その場へと至ってしまうのだった。


そんな馬鹿な……一体どうして……何故こんな事に……。混濁し混乱した渦の中から、エミーグレイの意識が覚醒する。判らないはずは無い。そこに血塗れで倒れている者が、愛する夫である事に。

辛うじて抵抗を続けられたのは、愛する夫と元の生活に戻る事を望んでいるから。この苦しみを耐え、再びの幸せな日々を取り戻せると信じていたから。その希望が潰えた。もうどうでも良い……何もかもが、もうどうでも良かった。

「ヴァウォゥゥゥオオオオーーーーー!!!」

永き眠りから覚めてより一番大きな咆哮を上げ、猿王は天を仰いだ。混じり合い、個を失った混沌の精神は、泣きじゃくりながら大いに怒った。

猿王の体は、ただの全身鎧では無かった。全身板金鎧フル・プレート・アーマーもいくつかのパーツに分かれているものだが、猿王の場合さらに細かく分割されている。魔法により接合されたそれは、装着者の体型に合わせて形状を変える。猿王としての力を発揮する為に、装着者本来の体型よりも猿に似た形状に。

それにより、猿王は装着者に野生の獣に勝る身体能力を与える。普通の人類が、大型の猿にも負けぬ力を発揮する事が可能になる、身体強化アーマーなのだ。

ただし、猿王は封印されていた。失敗作だからである。その効果は絶大故、廃棄するには惜しいと仕舞い込まれたが、致命的な欠陥があった。

魔導器の核、及び魔法的動力として、猿王に憑依させられた悪魔アドルドムファス。自由意思を失ったアドルドムファスと装着者の同化が進むと、猿王はより強い力を発揮しようと、体内の異物――人体を無視する。アドルドムファス本来の体型に無理矢理変化を遂げるも、この悪魔と人類とでは関節の位置も可動域も大きく異なる。結果、装着者の四肢が中程から無理に折られ、動かぬはずの方向へ曲げられる。

猿王の真価を発揮する事で、装着者は壊れてしまうのだった。

そうして肉体も精神(こころ)も壊れた猿王は、苦鳴を上げながら、まず愛しい亡骸の傍に立つ人間の雌に躍り掛かった。

「ちょっ?!これ、不味くない?」

口では軽い調子を奏でたものの、心底では慌てて回避を試みたアマンダだったが、猿王の動きは最前までのそれとは格が違った。

「がぁっ!っっっ痛ぅ……」

何とか転がり猿王の爪を躱したが、右腕は持って行かれた。ベテラン盗賊(シーフ)とは言え、アマンダはどちらかと言えば巫蟲術を中心に戦闘を行う。体術は並と言って良い。さらに言えば、再生中の左目もまだ見えていない。

幸い、四肢を捥がれても深刻な怪我とはならない体だが、再生にはかなりの時間を要する。腕を繋げるなら数十分で済むだろうが、落ちた腕を拾っている余裕は無い。何しろ、腕を吹き飛ばして通り抜けた猿王は、すでに踵を返して二撃目に移ろうとしているのだから。

残った左腕で頭を庇ったアマンダだが、胴を裂かれるなり、頭部ごと持って行かれれば、さすがに助かりはしない。死を覚悟しゆっくり流れる時間の中でアマンダが目撃した光景は、闇色の大きな背中が自分を庇って立ち塞がるものだった。

「ヴァルフっ!」

叫んだアマンダは後ろに倒れ込み、追撃を受ける事は無かった。だが今度は、O・D・Iの防御した両腕を引き裂いて行った。先程までと、攻撃力が違い過ぎた。O・D・Iの強靭な肉体さえ、猿王の爪は防げない。

然りとて最強吸血鬼。未だ真価は発揮出来無いまでも、その再生力は蟲によって無理矢理行うアマンダのそれとは違い、かなりの速度で傷を回復する高速再生。千年の昔には、デッド・エンドが心臓に杭を打った傷さえ、瞬きの間に癒して見せた。本来であれば、両腕を失ったのが気の所為かと思えるほど、一瞬で元通りとなるだろう。今は、持って行かれた腕が瞬時に灰となり、それが体へ戻って数秒で元の形を成した。充分驚異的な再生力であったが、真の力を思えばかなり弱体化していると言えた。

正気を失った猿王は、新たに現れた獲物に標的を変え、矢継ぎ早に攻撃を繰り出して行く。爪を受ければ腕が飛び、蹴りを受ければ肩ごと消し飛び、噛まれた部分はエミーグレイだったモノの胃へ収まる前に、灰と化して再生された。完全なる、防戦一方。

最強吸血鬼の身体能力すら凌駕する――だけでは無い。その動きを、ヴァルハロスが追えずにいた。体はO・D・Iでも、それを動かすのはヴァルハロスである。明らかに、O・D・Iを使いこなせていなかった。

そして、いくら再生し続けると言っても、今は古代魔族の遺産“世界“と言う名の魔導器である。魔力自体は“世界“に蓄えられた膨大な量を誇るが、人間に本来備わっていない異能を使うのは神経を使う。精神が疲弊して行く。詰まる所、魔導器の性能は使用者次第なのだ。

であるからこその結果。ついに猿王の爪はO・D・Iの心臓を貫き、元最強吸血鬼はその場で灰と化してばら撒かれた。

「っ……そんな……」

絶句するアマンダ。“世界“を手にしたヴァルハロスは、最強になるはずだった。それなのに、こうも簡単にその“世界“を喪ってしまうとは……

アマンダには、O・D・Iが死んでしまったと思えた。今の世に吸血鬼はいない。ヴァルハロスから話を聞いてはいても、吸血鬼の事を良く理解してはいなかった。

確かにO・D・Iは灰と化したが、吸血鬼は灰からも黄泉帰る。事実、O・D・Iだった灰はその場に留まらず、何処かへと吹き晒された。アマンダは気付かぬが、主人の許へと……


絶望の美姫は、その場で項垂れ気付いていない。自分を守る騎士(ナイト)が消えた事で、再び命が風前の灯火である事に。そして、目の前に残ったもうひとつの獲物を、今や狂乱の獣と化した猿王が見逃すはずが無かった。

「ゴゥウォゥワァァァーーー!」

ひとつ獲物を仕留めた興奮に胸をどんどこ両手で叩くと、すぐさま空中へと飛び上がりアマンダへと躍り掛かる。

「あ……」

そこで現実に戻されたアマンダは、今度こそ自分は死ぬのだと覚悟した。

「ダイ・オフっ!」

「おうよっ!」

その時、別の黒い影が横っ腹を突き、猿王の軌道を変えた。爪撃はアマンダの右方へと逸れ地面を抉った後、猿王は距離を取って新たな黒影を威嚇する。

「ちっ、少しも効いちゃいねぇ。おいっ!絶対出て来んなよ!こいつは前回までと訳が違ぇぞ!」

ダイ・オフは両断する勢いで斬り付けたつもりだったが、猿王の表面に傷は付いていないし、吹き飛ばすどころか軌道を変えるに止まった。しかも、先刻までは一目散に逃げ出していたはずが、今はこちらの隙を窺い何時でも飛び掛かれる体勢を取っている。明らかに、別物だった。

「判ったぁー!樹の陰に隠れてるから、さっさと何とかしちゃってぇー!」

「けっ、気楽に言ってくれる。相手は、古代魔族の遺産だぜ。しかも、何だこりゃ。覚醒だか何だかしちゃったみてぇじゃねぇか。こいつぁ、分が悪そうだぜ。」

言葉とは裏腹に、ダイ・オフの口元には笑みが零れていた。強敵を前にした時ほど高揚する。ダイ・オフは、デュースと比べれば明らかに戦いを楽しむ傾向が見られた。それは命を危険に晒す事故普段自重せねばと意識していたが、本能はそうは言っていなかった。

まさか……まさかっ?!命拾いしたばかりの傷身の美姫は、自らを襲う災厄よりも、その災厄から守ってくれた黒影よりも、左方の樹の陰に意識を向けていた。

そんなはずは無い。こんなところにいるはずが無い。しかし、その声を聞き違える事もあり得ない。とても大切で憎らしいその声を、私が聞き間違える事などありはしない。

「エ……エンジ……エル、様……、エンジエル様っ?!」

「アマンダっ!じっとしてて!すぐに助けるから!」

エンジエルは、アマンダに確信を与える返事を返す。ダイ・オフの後に付いて猿王を追ってみれば、まさかあのアマンダがいるなんて。咄嗟にダイ・オフを送り出したが、助かって良かった。……アマンダがいると言う事は、きっと兄さんも……

一瞬、そんな考えに意識を持って行かれたが、ギィン、と言う甲高い金属音で我に返る。まだ危機は去っていないのだ。

そうして目を向けた先では、信じられない光景が繰り広げられていた。猿のような格好をした人間では無く、完全な猿となった猿王の動きは、エンジエルの眼でも完全には捉え切れない。ダイ・オフの周囲を目まぐるしく駆け巡り、隙を見付けては爪を振り下ろし、すぐさま駆け抜け別の角度から再度攻撃。

あのダイ・オフが防戦一方、且つ爪撃を受ける度に少しだが体勢を崩されている。その為、ダイ・オフの方から反撃を試みる余裕すら無い状態だった。

それほど猿王の一撃は速くて重い。もし、これを受けているのがデュースの義父(ちち)の剣であったなら、きっと剣身を破砕されダイ・オフも斬り裂かれていた事だろう。

そんな圧倒的な連撃を、致命の一撃を喰らわず受け続けるダイ・オフも驚異的だが、小さな傷は負っている。少しでも下手な体勢の崩し方をすると、ダイ・オフを以てしても完全には受け切れない。どう見ても、ダイ・オフ不利のじり貧であった。

「おい、ダイ・オフ!受けてばっかじゃ埒が明かねぇぞ!得意の炎で、少しずつでも奴にダメージ与えられないのか?」

強烈な衝撃をその身に受けつつも、少しも傷付かぬ最上級魔剣が相棒に叫んだ。

「くっ!五月蠅ぇ、今そんな暇無ぇんだよ!少しでも気ぃ抜きゃあやられっちまう。こんな状態じゃあ、炎だ何だって余裕なんか無ぇわ!」

旧男爵領の遺産を吸収した事で、ダイ・オフの魔力は増え、魔法に対する理解も感覚的に深まった――が、ダイ・オフは純粋な魔法種族では無い。まだ完全に使いこなすに至っていない魔法を発動するには、それなりに集中を要した。格下相手ならまだしも、これほど強力な相手を前にしては、魔法の発動など思うように出来無かった。

「くそ!それじゃあ打つ手無しかよ!俺様の刃だけじゃ、あれには傷ひとつ付かねぇぞ!」

「……、……、……」

次々と繰り出される命を刈り取る一撃を受けながら、どうする事も出来無いダイ・オフの顔から、不敵な笑みは消えていない。

「何、へらへらしてやがる!俺には最強の使い手(パートナー)が必要なんだぞ。こんなところで……」

「あ、っせんなよ。確かにこいつぁ、俺様の手にゃあ余る。だったらぁ……俺より強い奴に任せるまでさ!」

ギィィィッン、とひと際甲高い金属音が響くと、猿王の足が止まっていた。どさ、っとその傍らに何かが落ちる。しかし、そんな細かい事が気になるほどの正気は無い。すぐさま両腕を地面に突き、飛び掛かる態勢に移ろうとした猿王はそこで気付く。右手首から先が無い事に。

血を吹き出す右腕の先を不思議そうに見やると、気にせずそのまま周囲を駆け巡り始めた。すでに、状況をまともに理解出来るだけの知性は残っていなかった。ただただ野生の本能がままに、獲物を仕留めようと疾駆し続ける。

「なるほどな。然しもの覚醒猿も、まだまだ達人には敵わないって事か。しかし、俺様の刃でも傷ひとつ付かなかったのに、どうやったんだ?」

「……力の方向を逸らす。脆いところを斬る。それだけだ。」

それだけだった。ダイ・オフが力に力で対抗して力負けしたように、正面から当たっては力の強い者が勝つ。だから力は受け流し、正面からは当たらない。

そして、魔剣の刃にも耐え得る装甲であっても、一枚の金属板では無い。特殊な性質を持つ全身鎧とは言え、例えば関節のような可動部であれば、装甲の形状や厚さも他の部位とは異なるだろう。全身全てが同一の硬さとは言えない。ならば、他より脆い個所ならば斬れもする。簡単な理屈だった。実践が神業と呼べるほど難しいだけで。

それを成したデュースに猿王が敵うはずも無く、その上右手首から先を失って明らかに動きも衰えている。もう勝負は決していた。

それでも、そんな事を考えられぬ猿王は、デュースの背後から再び躍り掛かり――今度はそのまま地へ伏して動かなくなった。どさ、っと体を追って後から落ちたのは、猿王の頭部だった。落ちた衝撃で兜から何かが転げ出す。それは、泣き叫ぶような形相をした女――エミーグレイの頭であった。

「女……どう言う経緯(いきさつ)でそうなったのかは知らないが、すまないな。せめて、安らかに眠ってくれ。」

魔剣をひと振りして血を払うと、そのまま背負って収める。目を瞑り、デュースなりに黙祷を捧げた。

こうしてついに、猿との追い駆けっこは終わりを告げた。ひと組みの夫婦の、ささやかな幸福と共に……


静けさを取り戻した森の中に、ざわざわと何かが群れ蠢く小さな物音が響く。まだ体を起こせていないアマンダの許へ、吹き飛ばされた右腕がひとりでに戻って来ていた。いや、蟲だ。腕の下側には、無数の蟲が蠢いていた。群れが腕を運んで来たのだ。

危機を脱し落ち着いたアマンダは、その腕を左手で受け取り、傷口同士をぴったりと合わせる。今度は傷口内部に蟲が湧き、腕を接合し始める。すぐにも腕は繋がったが、まだ動かせない。顔の傷も塞がり切ってはいないし、視力も回復していない。再生蟲はあくまで蟲固有の習性に従い仕事をしているだけで、魔法のような奇蹟では無い。どうしても時間は掛かる。

それでももう、傷の心配は無い。その内完治するだろう。立ち上がって、奥の樹へと視線を向ける。

「……エンジエル……様ですか?」

目の前の戦士を無視して、大切で憎い相手に声を掛けた。別に、確認の為では無い。エンジエルであると確信している。

「……良かった、アマンダ。非道い怪我に見えたけど、どうやら大丈夫みたいね。」

樹陰から、ふたつの影が姿を現した。ひとつは、良く見知った天使。もうひとつは、見知らぬ聖堂騎士。

アマンダから少し距離を置いて、エンジエルは少しもじもじした様子で、

「あ……アマンダがいるって事は……当然、兄さんも……」

「エンジエル……なのか?」

その声は、アマンダの後ろ、さらに奥から聞こえて来た。聞き違える事の無い兄の声。そして……

「……兄さん!」

駆け出しそうになったエンジエルの視界に、デュースが入る。エンジエルは思わず足を止めた。いや、足が止まった。かつてエンジエルの世界の中には、父と兄しかいなかった。でも今は……

心底から溢れ出す喜びは本物だが、それでもエンジエルはその場で――デュースの傍で、兄へと声を掛けた。

「兄さん……良かった。本当に生きてた。」

ぽろり、と涙が頬を伝う。昔のエンジエルのままならば、それは滝となって止め処無かったろう。だが今は、嬉し涙も美しき清流で済んだ。生きていると、すでにダイナスで知っていたと言う事もあるだろう。

もっと複雑な表情なのは、兄の方だった。もちろん逢えて嬉しい。しかし、こちらは寝耳に水だ。彼の中では、未だエンジエルは憎き仇の下、ディアマンテにいるはずなのだから。

「……どう言う事だ。何故、お前がここにいる?……あの男が、お前をひとり旅立たせたりはせぬだろう。……その男は誰だ?ゼフィランサスはどうした。」

そう。このようにディアマンテから遠く離れた地に、エンジエルがひとりで来るはずが無い。唯一信頼に足るゼフィランサスを伴わぬとなれば尚更だ。

「ヴァルハロス様、これは……これには……」

アマンダは狼狽した。確かに、せめてエンジエルの生死を確認してから報告を、とは思っていた。しかし、まさか本人に直接会うとは思ってもみなかった。何ひとつ報告していない今、ヴァルハロスが混乱するのも仕方無い。配慮が裏目に出た。これでは余計、ヴァルハロスを惑わす事になる。

「兄さん……もしかして、何も知らないの?」

「これはその……私がいけないんです!余計な心配を掛けたく無くて、せめてエンジエル様の安否を確認してからと……」

アマンダの背後まで歩を進めたヴァルハロス。

「良い。お前の判断に間違いは無い。それは別に良い。ただ、どう言う事か説明してくれ。何故、エンジエルがこんなところにいるんだ。」

顔よりも、腕よりも、心が痛いアマンダ。そんなアマンダの顔を見たエンジエルは、自ら語り出す。

「死んだわ、兄さん。……親父の奴、くたばったのよ。」

「……死んだ?……あの男が……」

一瞬、全身の力が抜けそうな気がしたヴァルハロス。だが、体から力は抜かなかった。ヴァルハロスには、二本の柱がある。まだ一本倒れただけで、幸いもう一本は目の前にいるのだった。

「何故……一体どうして……」

きゅ、っと一度唇を噛み締めて、エンジエルは言葉を続けた。

「サイサリスの奴、兄さんが死んだから後は親父を殺せば自分がギルドマスターだって言って、親父を殺したのよ。あたしが戻った時には、もう全部燃えてたわ。」

まさか。ヴァルハロスとアマンダは絶句した。自分たちだった。事態の引き金を引いたのは、誰あろう自分たちだったのだ。

エンジエルは、敢えてそこもぼやかさずに伝えた。自責の念に駆られるかも知れないが、伝えぬ訳にも行かない。何せ、その出しに使った死神が、今共に旅する仲間なのだから。

「そのサリサリとか言う野卑な男は、こいつの事を自分の物にしようと手を出してな。そんな窮地を救ってやったのが、この俺様だ。」

事態を静観していたデュースでは無く、ある意味因縁の相手であるダイ・オフが割って入った。

「貴様……いや、お前が?」

「あぁ、そうさ。あ~確か、あんたは求道者だったか。んで、そこの色っぽい姉ちゃんが愛人で、こいつはそのまんま天使だったな。……俺が誰か、自己紹介は必要か?」

彼の地ダイナスにおいて、ヴァルハロスは求道者、アマンダは愛人、エンジエルは天使と呼ばれた。ただ、その天使がエンジエルであった事を、ヴァルハロスは知る由も無かった。

「……天使……そう言う事か。ヴィンセントの奴、知っていて隠していたのか。」

今のやり取りで、ヴァルハロスは色々と合点が行った。

ヴィンセントの態度には、何か含みがあった。奴は奴で思惑があったのだろうが、結果的にはステイメンの尽力もあって、無事“世界“を手にして城を出たのは俺たちだった。

そのステイメンが合流出来無かった事で、あの後城で何があったか、ヴァルハロスたちは何も知らない。

「……天使と……死神……死神?!」

アマンダが先に気付いた。ダイナスで競争相手となったのは、天使と死神。その天使がエンジエルで、では死神とは誰か。

「?!……まさか……」

ヴァルハロスも気付いた。死神と言えば、奇縁があるではないか。自らの運命を変えるその時、騙った旅の傭兵の通り名こそ死神。

「その節は大変お世話になったなぁ~、え~おい。ダイ・オフだ。よろしくな、お兄様。」

言って、にやりと嗤う。エンジエルは横目でダイ・オフを睨むと、諦めて溜息を吐く。本当に意地が悪い。本当にふたりはまるで違う。紳士とちんぴらだ。

「……、……、……」

ヴァルハロスもアマンダも、言葉が出ない。多くの情報が急に押し寄せて、頭も心も混乱していた。

「うん?あぁ、何で俺たちが一緒にいるのか、って?」

「ちょ、ちょっとダイ・オフ。あんた一体、何言うつもりよ。」

「あぁん?だってよ、お兄様が訳判らなくて混乱してるみてぇじゃねぇか。この際だ。知るべき事は知らせておくべきだろ。」

やり方はスマートでは無い。デュースはそう思う。しかし、自分が表へ出て止めようとも思わない。こうして出逢ったのだ。確かに、知るべき事は知っておくべきだろう。

「こいつは兄を喪って、その仇を討とうと俺様に近付いたのさ。お前さんの偽りの死が、こいつも、サリサリとか言う奴も、事を起こす切欠になった。兄も亡くし、親父も亡くし、家も失い、あ~……もうひとりの兄みたいな奴。そいつも喪って、居場所を失くした。だから、仇である俺を追い掛けて来たのさ。偽りの仇であっても、唯一残されたたったひとつの繋がりだしな。」

「……」

エンジエルは押し黙る。ダイ・オフの言葉は、途中から揶揄する調子が無くなり、少し優しさを秘めていた。そんな気がした。だから、文句を言う気にもならなかった。

ヴァルハロスも押し黙った。何と言う事だ。まさか自分の行いが、そんな事態を引き起こしていたとは。志は、愛する妹を守る事だった。だが、結果的にはその妹を苦しめただけだった。もう、倒すべき敵を喪った事などどうでも良くなっていた。残された一番大切なもう一本の柱を、自ら倒そうとしていた事実が自分を全否定させる。

「し、しかし……ヴァルハロス様はクロイツを倒してエンジエル様を救おうと……ただただ、その想いで……」

こんな言葉では届かないと判っている。それでも、何か言葉を掛けずにいられないアマンダだった。

そんな様子を見詰めていたデュースが、スポットの外からダイ・オフに声を掛けた。それを受けてダイ・オフ、やれやれ仕方無ぇなぁ、と心の中で頭を掻き掻き――

「ま、そう言う事だから、こいつの事は安心して俺様に任せな。」

言って、ヴァルハロスに見せ付けるように、ダイ・オフはエンジエルの肩を抱いた。

「ちょ、ちょっと何よ!?」

これには面喰ったエンジエル。思わず上げた声に、項垂れていたヴァルハロスが顔を上げる。それを確認してダイ・オフ、ぐいぃ、とさらにエンジエルを抱き寄せる。

「こいつも今や、一端(いっぱし)の盗賊だ。ただ、さすがに腕っぷしで言やぁ、まだまだ心許無ぇ。確かに、ナイト役は必要かもなぁ。……だがそいつぁ、お前さんには荷が勝ち過ぎるだろ。何しろ、あのO・D・Iをまだまだ全然使いこなせていねぇんだからよぉ。」

最愛の妹の肩を抱く不遜な男の知ったような口振りに、ヴァルハロスの落ちた肩がぴくりと跳ねた。

「なん……だと……」

左手でエンジエルを抱き、空いた右手で長大幅広な段平を引き抜き、ヴァルハロスの方へと切っ先を向ける。

「こいつぁ、O・D・Iの千年前からの知り合いでな。何とも嘆かわしいと漏らすのさ。」

「……はぁ、まぁ良い。そうさな。確かに全くなってねぇ。あれがO・D・Iだと?ちっともらしく無ぇじゃねぇか。高が爪で心臓を抉られた程度で灰になる。そんな在り来たりな吸血鬼みてぇな醜態、我が眼を疑ったね……眼、無ぇけどな。」

アマンダは眼を丸くした。こいつ――と言うのは、この剣――魔剣の事だろう。ダイ・オフとはまるで違う声であるし、確かに剣身から声が聞こえる。O・D・Iの事を知っていると言う事は、きっとダイナスでダイ・オフが手にしたものなのだろう。またしても、混乱に拍車を掛けるような新情報が示された。

だが、ヴァルハロスの反応は違った。

「貴様っ……あぁ、確かに、まだまだ本来の力を発揮し切れていないのだろう。だが、そうとも、高が心臓を抉られただけだ。あんなもので滅びはしない!」

ヴァルハロスが激情に駆られて叫ぶと、いつの間にかヴァルハロスの足元にうずたかっていたO・D・Iの灰が、収束し闇色の塊となって立ち上げり、見る間に吸血鬼の姿を再生させた。

もう一度アマンダは、眼を丸くする。てっきり、あれで“世界“は壊れてしまったものと思っていた。ヴァルハロスは力を失ってしまったのだと。しかし違った。まだ彼は、覇道を歩み続ける事が出来る。

「へ、そいつがお前さんの力、って訳か?良いぜ。試してみろよ。俺様が検分してやる。」

エンジエルの肩を突き放し、一歩前へ出てデッド・エンドを構えるダイ・オフ。

「……」

何と無くその意図を感じ取ったエンジエルは、何も文句を言わずに距離を開けた。

エンジエルが充分離れるのを待って、ヴァルハロスはO・D・Iを伴い数歩距離を詰める。

「……先に謝っておこう。すまんな。お前の悪名、勝手に借りた。」

「へ、気にすんな。良くある話さ。」

ダイ・オフは、その場で構えて動かない。数瞬、ふたりの視線が交錯し……ダイ・オフの横合いから、黒い巨影が躍り掛かる。

しかしダイ・オフ、そちらを見ようともせず左手一本でデッド・エンドを振るいそれを受けると、矢継ぎ早に繰り出されるO・D・Iの拳撃を(ことごと)く片手で持ったデッド・エンドで受け切って見せる。猿王の時とは違い、力に力で対抗しながら体勢を崩す事も無く、あまつさえその拳を眼で追う事すらせずに。

「くっ……」

その様子をヴァルハロスは、額に汗を滲ませ疲労を隠せぬ表情で見詰めていた。“世界“はあくまで魔導器なのだ。それを操るには、精神力と高い集中力が求められる。魔力こそ、魔導器自体が空気中より取り込んだ魔素(マナ)を変換する事で賄われるが、使用者にも負担を強いる。

すでに一度、灰にされる痛手を受けてもいる。多少なりとも、疲弊していた事は事実。だが、仮に万全の状態で挑んだとて、この男を倒す――ひと太刀浴びせる事は適うだろうか。

「ほらほら、どうした。本当にこれがあの、最強吸血鬼様なのかよぉ。」

わざと(・・・)余裕ぶって受けに徹するダイ・オフが、さらにヴァルハロスを挑発する。実際は、そこまで楽な作業では無かった。斬る方は得意だが、受けるのは苦手な死神である。かなり集中して受けに徹しているが、と同時に余裕の表情を意識して(・・・・)浮かべていた。

全く、他人の成長を促すなんざ、親父だとか師匠だとかがやる事だろうが。この俺様に無茶な注文付けやがって。心の中で溢した愚痴は、当のデュースに聞こえるものなのだろうか。

「……がぁっ……」

力を振り絞り、O・D・Iにさらに意識を集中するヴァルハロス。それに応えて、()最強吸血鬼はダイ・オフの目前から消えると、霞となって背後へ移動し、その丸太のような脚で蹴りを繰り出した。

今まで敢えて拳撃のみで攻撃していたところに、不意を突いた蹴り。並みの使い手であれば、到底対処出来ぬ必殺の一撃であったろう。何より、普通の蹴りでは無い。自由に宙を舞える吸血鬼が繰り出す蹴りである。その軌道も変幻自在。今出来る、最高最強の一撃であった。その結果は――再びの灰である。

やはり背後を見やる事も無く、そのままの体勢で蹴りを受け止めたダイ・オフは、炎も纏わぬ刃を縦に振り抜きO・D・Iを両断して見せた。股間から頭頂までを斬り裂かれたO・D・Iは、ばさ、っと一瞬で灰と化し、地面に山を作った。と同時に、ヴァルハロスも膝を突く。精魂尽き果て、嗤う膝を支えられなかったのだ。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……く、くそっ……」

完敗である。それこそ、義父(クロイツ)に負けてより初めての完敗であった。今日まで積み上げて来た自負が、全て崩れ去った。

「兄さん……」

心配するエンジエルを手で制し、

「全くなってねぇ。まるでO・D・Iを使いこなせてねぇ。……が、それ以前の問題だ。おい、兄ちゃん。意味判るか?」

き、っとダイ・オフを睨み返すヴァルハロスだが、何も言葉が口を衝かない。疲労困憊な事もあるが、頭も上手く回っていない。

「はぁ、はぁ、はぁ……な、何が……言いたい……」

「……あのなぁ、O・D・Iを動かせるようになっただけで、お前が一緒に動けねぇんじゃ意味無ぇだろ。」

「……はぁ、はぁ、……そ、そんな……事……」

判ってはいた。判ってはいたが、それでも、あれを自由に動かせるようになるだけで、どれほど苦労した事か。何より、あれを戦わせれば、充分な戦力ではないか。……と言うのが言い訳に過ぎない事など、判ってはいたのだ。

「今のO・D・Iじゃ、精々三下吸血鬼。ま、陰に隠れてこそこそしてりゃあ、安全かも知れねぇけどな。だがな、この程度の吸血鬼ひとりじゃ大した戦力にゃならねぇ。所詮ひとり分だろ。手前ぇが一緒に動けてりゃ、ふたり分になるだろ。それだけでも全然違ぇし、不意を打つならお前が敵を引き付けた方が効果あんだろうが。」

「はぁ……くっ……」

返す言葉も無い。全てこの男の言う通りだ。己の認識の甘さに、改めて怒りが湧いて来る……と同時に。

「……ふぅ……まさしくその通りだな、死神。……いいや、ダイ・オフ。」

睨み返す瞳に、光が宿っていた。つまり、こう言う事だ。O・D・Iは、まだまだ強くなる。使いこなし、自らもさらに剣を磨けば、今の倍以上も強くなれる。……こいつはわざわざ、俺にそれを伝えようとしている。

「ふ……確かに口は悪いが、噂ほど悪い男では無いのかもな。」

「あん?何か言ったか?」

気力を振り絞り、すっく、と立ち上がるヴァルハロス。ふら、と倒れ掛かるも、歯を喰い縛って大地を踏み締める。脂汗を流しながら、意地で精神力を振り絞り、十秒ほども掛かりながらも、O・D・Iが灰から形を復元して行く。

「ぐぅう……な、何でも無い……」

形だけは元に戻った闇色の従者を連れ立って、好敵手に、そして最愛の妹に背を向けるヴァルハロス。

「……今の俺では、まだまだ目的を果たすに力不足のようだな。……不本意だが、貴様に大切な宝を預けておく。良いか。俺が引き取るまで、絶対に傷付けるなよ。」

我ながら何とも不格好な捨て台詞と思いながらも、今はそれが精一杯とも思い知る。少しでも気を抜けば、今ここで気を失ってもおかしくないほど、その足取りは覚束無かった。ただただ、支えているのは意地だけ。そんな有様だった。

「兄さん……」

「……判った。約束しよう。」

その言葉に片手を上げて、ヴァルハロスは振り返らずに歩み続けた。約束を交わした相手が、先程までとは違う相手だなどと、気付く事も無く。

そんな愛する男の後を付いて行こうとするアマンダは、一度だけ振り返り、どうしても聞かなければならない事を聞いた。

「エンジエル様……ステイメンは……ステイメンはどうなりましたか?」

「あ……アマンダ、それはその……あたしたちが駆け付けた時にはヴィンスの奴と戦ってて……」

「……役目を……全うしたのですね。」

「う……うん。ステイメン()、もう……」

ステイメン()……そう。この愛しくて憎い天使は、もうひとりの兄も亡くしていたのだ。アマンダは、深々と頭を下げた。

「ヴァルハロス様の事はお任せ下さい。このアマンダが、命を懸けてお守り致します。」

「……お願いね、アマンダ。でも、貴女も死んじゃ駄目よ。」

本当に、憎らしい女。何故、こんな私にまで優しいのか。頭を上げ、まだ崩れた顔で精一杯の笑顔を浮かべ、

「大丈夫ですよ。私が不死身な事、エンジエル様もご存知でしょう。」

言って、もう一度頭を下げる。次に頭を上げた時には、今度こそ振り返らず愛しい男の後を追った。

それを見送って、

「……これで良かったのか?」

そう問うたのはダイ・オフ。

「折角再会した兄貴だろ。一緒に行かなくてよぉ。」

消えたふたりの――兄の背中を見詰め続けながらエンジエル。

「……兄さんも言ってたでしょ。自分はまだまだだって。きっとまた逢えるわ。兄さん、絶対もっと強くなるもん。」

見えなくなっても、気配が消えても、ずっとずっと、その背中を見詰め続けて。

「それに、言ったでしょ。」

「あん?何をだ?」

すぅ、と一回深く息をして、突然振り返ったエンジエル。

「ダイ・オフ!兄さんの仇!付いて行くぞー!」

元気に叫んだその顔には、ひと粒の涙と顔一杯の笑顔が咲いていたのだった。

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