第三節
その女は、いつも傍にいた。後ろに控えるように。私を引き立てる為、常に一歩下がって。
長く美しい金髪も目立つが、もっと特徴的なのはその瞳だ。私の紅と蒼の虹彩異色と違い、金目銀目の虹彩異色。さらに、魔眼邪眼の力も秘めた、私と同じ真祖の女。
だがその力は、真祖としては弱い。魔眼の魅了も邪眼の弱体化も、抵抗されれば一切効果を及ぼせぬ脆弱なもの。私のように、眷属に姿を変える能力も無い。それでも、私の傍に常に控えていられる。私と同じ、昼間歩き回る吸血鬼だからだ。
この女は特別だ。真祖としては弱い――が、この女ほど優れた真祖もおるまい。真祖ですら免れぬ数多の致命の弱点。この女は、その全てに耐性を持つ。陽の光はもちろん、首を落とされても、心臓に杭を打たれても、流れ水に晒されても朽ちぬ体は、敬虔な信仰者の聖印すら受け付けぬ。まして、大蒜などと言う冗談のような弱点にも怯まない。
それは唯一、神祖のみに宿りし奇蹟とされていた。私ですら、陽の下は歩けても、かなり力を制限されてしまうのだ。
ヘテロ・アイ。この美貌の吸血鬼は私の物だ。誰にも渡さぬし、誰の許にも走らぬだろう。例え相手が神祖であっても……
この女――ヘテロ・アイ?いや、私――俺はこんな女は知らない。俺の女は……確かに同じように、後ろにいつも控えるようにして、俺を立てる。だが、たまに悪戯っぽい微笑を浮かべ、俺を子供扱いするのだ。そこがまた、憎らしくて惹かれもする。そう、金色では無く黄橡色の髪をした……
は、とそこで目が覚める。意識が覚醒する。そうだ、俺はジャッキー……いや、ヴァルハロス。今のは……
「……どうかされましたか?」
そう声を掛けながら、黄橡色の髪の女がヴァルハロスの瞳を覗き込む。
「……いや、何でも無い。少し、深く寝入っていたようだ。」
ここはまだ、人通りの無い山道の途中。一応の修業を終え、新たな目的地へと向かっている最中。修行の成果と言っても良いが、今は昼間行動し、夜眠る事が出来た。こうして野営をし、体を休める事も出来る。
「少し、夢を見ていた。……いや、多分これは記憶……」
「記憶――ですか?……それはつまり、O・D・Iの?」
そうしてアマンダは、木に寄り掛かるようにして立ったまま眼を閉じている、もうひとりの同行人を見やった。その同行人は、闇色の外套で身を覆い包んでおり、その巨躯もあって今はとても貴族には見えない。
「うむ。これも修行の成果か。たまに少しだけ、垣間見られるようになった。この男にも……いや、何でも無い。」
「……」
主従であって、男と女では無い。ふたりはまだ、そんな関係であった。多分きっと、想いは同じであるだろうに。
「まだ少し早い。アマンダも寝ておけよ。何かあっても、あれが報せてくれるのだから。」
そう言って、ヴァルハロスは同行人を顎で示した。すでに、それくらいは使いこなしている。世界――と呼ばれるその真価は、未だ引き出せやしないとしても。
「えぇ、大丈夫。心配要りません。」
寝不足は女の敵。などと言う者もある。だがそれは、普通の女の場合だ。アマンダには当て嵌まらない。アマンダにも睡眠は必要だ。日に二~三時間程度で充分だとしても。アマンダは普通の人間では無かった。普通の人間ではいられなかった。そう言う一族の出であり、今はその力が愛しい男の助けとなっている事に感謝もしているし……憎んでもいた。普通の女であれば、愛しい男の子を産めたかも知れないのだから。
陽が昇り、夜気が完全に去った頃、食事を済ませてふたりは――三つの人影は行動を開始した。同行人――千年前の最強吸血鬼は、もう陽の光に煙を上げる事は無かった。すでに、以前のようなデイ・ストーカーであった。
「おや?……」
「どうかなさいましたか?」
出立しようとしたところで、ヴァルハロスが異変に気付いた。アマンダが問い、“世界”は動かない。
「ふむ……どうやらこの古代魔族の遺産は、どこぞの遺跡に安置されている訳では無さそうだ。」
「……と言うと?」
「就寝前に感じた場所から、大分移動している。この分だと、想定より早く接触出来そうだな。」
元々は、もう少し長く修行を続けるつもりだった。痕跡は残したのだ。例え可能性は低くとも、ステイメンが追い付いて来るかも知れない。だが、声が聞こえた。いや、それは正確では無い。ほんの少しだけ共感覚が芽生えた“世界”から、同族の呼び掛ける声が聞こえる感覚を得たのだ。“世界”の同族――つまりは、古代魔族の遺産。
ヴァルハロスはまだ、もっと、力を欲している。親父を倒し天使を守り抜く為には、もっと力が要る。彼は未だ知らない。倒すべき敵がすでに死んだ事も、守るべき最愛が姿を消した事も。
アマンダは知っていた。言う事を聞かせられない貴族然とした同行人の所為で、修行の間の買い出しはアマンダの仕事だった。盗賊の嗜みとして、街へ降りれば情報収集は欠かさない。そこで、ディアマンテでの事件を知った。正確とは言えないまでも、その顛末を。
だがアマンダは、それを主人に報せていない。怖かったのだ。ヴァルハロスが目的を喪う事が。せめて、エンジエルの生死を確認するまでは……生きていて欲しい。愛しい男の為に。死んでいて欲しい。私が最愛となる為に。従者と女の狭間で揺れながら、後ろめたさを感じつつ、今は力を手にする事に集中して貰おう。そう考えた故である。
「確か、遺産が呼んでいると仰いましたね。近付いていると言う事は、向こうもこちらへ向かっていると言う事でしょうか。」
「……いや、どうかな。そこはこいつも懐疑的だ。移動すると言う事は、すでに誰かが手中に収めたはず。本来、もう遺産が誰かに呼び掛けたりはしないようだ。だが……」
「例外があるんですね。」
「あぁ。俺はこいつを手に入れたからな。」
そう言って、背後の黒い巨影を睨め付ける。
「扱うに足る器で無いと判断されれば、こちらが乗っ取られ兼ねんのだ。」
「っ……そんな……でも……」
「案ずるな。俺を信じろ。」
ヴァルハロスは、アマンダの瞳を真っ直ぐ見詰める。信じている。疑いなどしない。それでも、心配はする。もしもの時は……その覚悟を以て、アマンダはヴァルハロスに瞳で応えた。
「きっと、その遺産の所有者は負けたのだろう。……いや、まだ戦っているのかもな。完全に遺産の方が支配していれば、呼び掛けなど必要無いはずだからな。」
「では……」
「他の資格ある者に己を差し出し、今の所有者を排除させたいのやも知れん。俺は……さすがにこいつで手一杯だ。遺産がどのような魔導器か次第だが、アマンダ。お前が所有者になるのも良い。」
「私が――ですか。私に資格がありますか?」
「ふむ、すでに起動済みの遺産だ。起こすに足る資格は問われんだろう。お前は魔法に関して詳しい。決して、扱い切れん事は無かろう。」
「……やってみましょう。」
最悪、手に入れ寝かせておいても良い。ヴァルフが“世界”を完全に支配下に置いて後、ふたつ目の力として支配すれば良い。私が古代魔族の遺産などと言う大それた物を扱えるとも思えない。私の……一族の巫蟲術(※)は魔法では無い。必死に魔法知識を蒐集しても、魔法を使えなかった一族の業である。古代魔族の遺産と言う特級魔導器に適合するとは思えない。
「まずは、実際に相手を見てからだな。手に負えないようなら、“世界”の力試しに丁度良い相手となるだろう。」
絶対の自信。まだ若い証拠だ。だが、それが良い。そこが魅力とアマンダ。
こんな時なのだ。ヴァルハロスが見惚れる、自分を子供扱いしたような微笑を浮かべるのは。
「えぇ、貴方なら出来るわ。」
その顔に崩れた相好を隠すように、ヴァルハロスは背を向け今度こそ歩き出した。黒い同行人は、外套で体を覆ったまま付き従う。少なくとも、もう貴族が後を付いて来るようには見えなかったが、奇妙な一行である事に違いは無かった。
今見上げる樹上には、見知った顔があった。いや、兜の下には見知った顔があるはずだった。だが、俺の事が判らぬくらい、混乱しているのだろう。何を呼び掛けても応えてはくれない。一体どうしてこうなってしまったのか。一獲千金。これで俺たちは遊んで暮らせる。そのはずだった。俺とお前――エミィ、我が妻。
まるで、見た目が大型の猿のような古代魔族の遺産。それを見上げる黒衣の聖堂騎士の名は、ガルドルット・ルトリシャス。フードを被らず露わとなったその顔は、不惑に見合った相貌に見えた。オールバックに撫で付けた髪と顎髭は明るめの茶色で、きつい釣り目が特徴的だ。体型は細身だが鍛え上げられ引き締まったもので、決して貧相には見えない。
風体は、闇色の長衣の上に黒くくすんだ魔法銀製胸甲を着込み、腰には戦棍を吊るしている。首から下げた聖印はローブの中故見えないが、全ての肯定を表した意匠がケイオス教の物である事を示していた。
「エミィ!思い出せ、エミィ!俺だ!ガルドだ!」
「……、……、……」
無駄と知りつつ、何度も声を掛ける。どうやら、こうして無反応な時は、エミィ――エミーグレイの意識は無く、古代魔族の遺産が表に出ている時のようだった。じっと何かを待つようにして動かない。多分、誰かを呼び寄せようと声を発しているのだ。ガルドにはそれが判った。何故なら、そうしてふたりも呼ぼ寄せられたのだから。
ガルドとエミィは、旅回りの聖堂騎士とその妻だった。ケイオス教の本拠地はもっと北にあり、他の地域に教会はほとんど存在しない。だが、ケイオス教の教義に賛同する者は少なくなく、隠れて信仰を捧げる者もいる。そう言った隠れ教徒の許を訪れたり、新たに布教する為、ケイオス教聖堂騎士は各地を巡る。
迫害の危険もある為、布教の為旅に出るのは、戦闘能力を持つ聖堂騎士となる。聖堂騎士なのはガルドルットのみだが、エミーグレイは元々錬金術師だった。潜りで魔法薬売買を商い、野に潜んで研究を続けていた。国に仕える魔導師とは違い、無許可で魔法薬を売買する事は大概の国で違法であるが、そこはケイオス教。そんな事は気にしない。むしろ、積極的に利用していて、ふたりはそうして知り合った。
戦闘能力に秀でている訳では無かったが、ただの素人では無く一応は魔法使いである。ガルドルットの旅に付き添った。女連れで旅など、欲望に忠実なケイオス教聖堂騎士としては珍しい。港々に女がいる方が一般的だ。もちろん、全てを肯定するケイオス教。夫婦の愛も、尊重されて然るべきではあるのだが……
ふたりは、この生活に満足していた。エミーグレイは結婚後、ケイオス教徒となるも聖堂騎士とはならなかった。あくまでガルドルットを愛したのであって、ケイオス教に帰依した訳では無かった。その教義を拒絶するものでは無い為、形式上ケイオス教徒となったまでで、それ以上深く関わるつもりは無かったのだ。故に、本拠に引き籠って教会で暮らす事は望まず、ふたりで旅する事を選んだ。
そんな旅を数年続け、先頃声が聞こえたのだ。ガルドルットには聞こえなかった、エミーグレイを呼ぶ声が。それが、この悲劇の始まりだった。声に従い見付けた、大樹の根に隠された太古の遺跡。そこに安置されていた秘法。銘板によれば、その名も猿王アドルドムファス。まるで大型の猿を思わせる全身鎧で、魔法使いであるふたりにはそれが強い力を発する上級魔導器である事がすぐに判った。
欲が出た。別に力など欲していない。だが、これを売れば金になる。いや、金が欲しい訳では無い。欲しいものは、安定した生活。旅が嫌いな訳では無い。旅が辛い訳では無い。ただ、定住せず旅を続ける生活では、手に出来無いものがあった。新しい家族――子供である。
最初から子供を欲していた訳では無い。ふたりで旅し、幸せな日々を過ごす内、愛の結晶を望むようになっていた。歳を重ねた事も、理由のひとつだったかも知れない。もう何年かすれば、エミーグレイが子供を産むのは難しくなるだろう。そこまで強く意識していた訳では無い。ただ目の前に、それが現れてしまった。夢を見た。
ガルドルットとしては、不注意だったと言わざるを得ない。こんな怪しげな魔導器からの声を、エミーグレイだけが聞いていたのだ。決して、触れさせるべきでは無かったのだ。だが、夫婦の夢を共に見てしまった夫は、不注意にも魔導器をその場で解放してしまった。互いに魔法使いである為、その作業は共に行った。まるで意思を持つかのように妻の体に取り憑き、そのまま姿を消してしまうなど夢にも思わなかった。
不幸中の幸いは、妻もケイオス教徒となっていた事である。敬虔では無いとしても、形式上常に聖印を携行している。妻もいつも首から下げていた。事前に付印した物の場所が確認出来る捜索の魔法で、その位置は確認出来た。決して逸れぬようにと、互いの聖印に掛け合っていたのだ。
だからこうして、妻の許へと辿り着く事は出来た。しかし、とてもでは無いが猿王には敵わない。呼び掛けにも反応しない。打つ手は無く、ただ妻を追い掛け声を掛け続ける日々。
その上、あれは冒険者だろうか。自分以外に、猿王を追う者が現れ、しかも強力な魔法攻撃を仕掛けて来るとは。
いや、猿王を何とか出来るならやらせてみても良いのだろうか。……だが、もし妻にまで危害が及んでしまったら……
「くそ!あれで良かったのか悪かったのか、それすらもう判らねぇ……」
思わず魔法障壁で防ぎはしたが、これでは何も進展しない。一体どうすれば、この状況を打破し得るのか。デュースたちよりもさらに長く、ガルドルットはこの不毛な追い駆けっこを続けていた。疲れていた。肉体的にも精神的にも。諦める事は出来無い。しかし、どうする事も出来無い。限界は近付いていたのだった。
動きを見せない猿王の傍で、今日も何も進展の無いまま夜を明かし、仮眠から目覚めたガルドルットは焚火の始末を始めた。薄明が微かに葉を透けて、木々の足元にも朝を運んで来る。
その時、猿王がまず気付いた。いや、それは猿王の中のエミーグレイ。強烈な敵意、そして圧倒的な力の奔流を感じ、枝の上で迎撃態勢を取る。
遅れて妻の動きに気付いたガルドルットは、頭上を何か大きく黒いものが過るのを見た。次いで、すぐ近くの地面に何か――猿王が落ちて来た。背中から地面に激突し、號、と轟音を立て小さなクレーターを作る。
「くっ……エミィ!無事か?!」
土埃で前が見えず、顔を覆うようにして妻へと呼び掛ける。一体何が!?あの猿王が叩き落とされるなど、先の冒険者たちにも出来無かった事だ。最も、魔法障壁が間に合わなければ、あの時全ては終わっていたかも知れないが。
「ゴゥワァッ!」
まるで本物の大猿のように、猿王――エミーグレイは咆哮を上げ飛び起きた。一撃を受け、地面に叩き付けられはしても、ひと筋の傷も付いていない――猿王の外側は。
その頭上から、ゆっくりと闇が舞い降りて来た。文字通り闇色の大男が、まるで巨大な蝙蝠が羽を広げたような姿で。
馬鹿な!一体何者だ!?完全に空を飛んで来た。今も落ちるのでは無く降りて来た。魔法?自由に空を飛ぶ魔法など、神話や伝承の話だろう。ガルドルットは混乱していた。
目の前の光景が信じられないのもそうだが、つい最前まで、何の気配もしなかったのだ。ガルドルットは、ベテラン聖堂騎士である。ケイオス教だけに、旅回りの聖堂騎士だけに、実戦経験も豊富だ。神聖魔法を駆使すれば、一流の傭兵とでも渡り合える。敵意を持つ人間の気配に、気付かぬはずは――敵意?この男からは感じない。……人間の気配さえも。
「グゥゥ……」
低く唸ったエミーグレイは、相手を強敵と認め、透かさず逃げの体制を取った。が、走り出そうと振り返った先に、巨大な闇が回り込む。ガルドルットは見た。地を駆けず宙を舞う蝙蝠はあまりに素早く、あたかも闇の塊が飛翔するが如く。その動きは、野生の獣を超越した猿王の動きよりも速く。
回り込んだ闇はそのまま拳を叩き込み、猿王は森の奥へと吹き飛ばされた。
「エミィ!」
叫んで追い縋ろうとするガルドルットの足が止まる。
「……どう言う事かしら。貴方、あれのお仲間?……には見えないのだけれど。」
ガルドルットを遮るかのように、樹の陰からひとりの女が姿を現した。まるで下着のような露出の激しい格好の上に、胸甲を始め、甲や肘、膝などの要所に金属製の防具を身に付けている。一見して只者では無いその女は、黄橡色の髪をした妖艶な女であった。
「……貴様こそ何者だ。あの大男の仲間か?」
問いながら、ガルドルットはメイスを構えた。左手は軽く開いて、女の方へ差し伸ばす。肉弾戦を想定しながら、いつでも魔法を発動出来る戦闘技法。これが、ケイオス教聖堂騎士の構えであった。
「ふん……まぁ、そうとも言えるわね。それで。貴方の方こそ、あれの仲間なの?」
アマンダの方は、これと言った構えを見せない。アマンダも盗賊であるから得物は短剣を忍ばせているが、それで斬り結ぶような戦い方はしない。体に寄生させた蟲には指令を受け取る核となる個体がおり、アマンダの意思だけで操る事が出来た。無手で機を窺うアマンダの姿は、見る者が見れば魔法使いのように思えるだろう。異能は異能でも、まるで異質な力であるのだが。
「まぁこちらも、そうとも言える、だな。……悪いが少し急ぐ。退いて貰えないか?」
薄く微笑するアマンダの相貌は、愛する妻をこれから救おうとする夫でさえ、妖しい色香を感じて見惚れるほど蟲惑的だった。
「まさか。冗談でしょ。貴方はここで、私と踊るのよ。あっちの邪魔しちゃ駄目よ。」
ガルドルットは、警戒しながらもじりじりと距離を詰めて行く。
「悪いな。俺は妻と先約があるんだ。早く行ってやらんとな。」
対してアマンダ、相手が距離を詰めて来るも後退せず、その場で妖しく微笑み続けている。その様子を見たガルドルットは、立ち止まって呪文の詠唱を開始する。と言っても、省略形だ。祈りの文言の一部で魔法を発動させる。威力は格段に落ちるが、その分速い。実戦向きの魔法使用法である。
いち文節で発動したその魔法は、アマンダを見えない壁で押し込んだ。神聖魔法にも攻撃魔法はある。純粋な魔法力を相手にぶつける力の魔法は、本来喰らった相手を吹き飛ばす威力がある。簡易発動では大した威力を発揮しないが、それで充分。実際、アマンダはたたらを踏み、バランスを崩した。
そこへ透かさず踏み込むガルドルットは、しかし目的を果たす事が出来無かった。アマンダがいた場所の地面から、蟲柱が立ち昇ったのである。
蟲はガルドルットを呑み込もうと波のように押し寄せたが、距離を取ったガルドルットは今度こそ正規の手順でフォースを発動し、蟲柱は四散した。
「くそ、何だこりゃ!?魔法使いじゃ無いのか。」
一度距離を開け仕切り直すガルドルットだったが、すでにアマンダの攻撃は完了していた。ガルドルットは、どこからどう見ても聖堂騎士だ。つまり、魔法使いである。アマンダの狙いは、魔法の力を封じる事。アマンダが生まれた育ったグレンダ一族は、魔法を使えぬ身でありながら魔法を極めんとした一族。魔法を知悉していながら、魔法の恩恵に与れぬ身。それ故に、他者の魔法の力を妬み、僻み、嫉み、封じようと業を磨いたのだ。
蟲柱が囮となって、それはガルドルットに取り憑いた。首筋に取り憑き、血では無く魔力を吸う。魔法の源である魔力が不充分であれば、魔法は不発に終わる。蚊に喰われる程度の違和感は覚えるだろうが、その小さな違和感に戦闘中に気付ける者はほとんどいない。よって巫蟲術は、対魔法使いにおいて無敵の力と言えた。これもまた、高い代償に見合った能力である。
「ふふ、確かに魔法は驚異的な力よ。でもね。この世にはもっと色んな力があるのよ。例えば……数と言う力。」
アマンダが右手を上げると、四散した蟲が再び結集し、壁となってガルドルットへと迫る。フォースを使えば、その不可視の力は蟲を蹴散らす事が出来る。しかし、数百、数千にも上る数を前に、フォースによる加撃は焼け石に水。一時的にその形を崩して、攻撃を止めるのが精一杯である。
が。この蟲たちは硬い殻を持ってはいても、あくまで虫としては硬いだけ。相応の攻撃を加えれば簡単に殺せるし、何より人に群がったからとて大した被害を及ぼせない。何百、何千と言う虫に集られるのは生理的嫌悪を催すだろうが、言ってしまえばそれだけである。この蟲たちの特性は群れ。体内に巣食う女王が出すフェロモンに惹かれ、常にいくつもの群れが周囲に潜伏していて、アマンダは女王を通しいつでも群れを招集出来た。ただ異常な数が群れるだけで、体を喰い破ったり、体内に侵入して暴れたりするタイプの蟲では無かった。無論、相手にそれは判らない。群れが襲い掛かるだけでも、充分牽制となるのである。
このままでは埒が明かぬと、ガルドルットは戦術を変える事にした。攻撃が功を奏さないならば、守勢に回る。防御に徹し機を窺う事が出来るのも、神聖魔法の使い手たる聖堂騎士の特徴であった。迫る蟲壁から距離を取りながら、ガルドルットは魔法障壁を展開し――ようとして、それは発動しなかった。
「……発動しない?!何故?!」
その時、驚駭するガルドルットの背後にアマンダが回り込み、得物の刃をその首筋へと押し当てた。アマンダは巫蟲術師であるとともに、盗賊である。蟲を攪乱に使い、素早く背後を取る隠密からの暗殺を得意としていた。今度もまた、いつも通りの完勝――のはずだった。
しかし、背後を取ったアマンダの顔面左側が、ガルドルットのメイスによって叩き潰されていた。
「ぐぶを……がふっ……」
破砕された頭骨が喉まで達したものか、口腔から血反吐を吹き溢しアマンダは声にならない声を漏らした。ガルドルットは振り返る事無く、左肩越しにメイスで自らの背後を攻撃していたのだ。
「へ、ばればれだぜ、お嬢さん。虫の動きが中途半端過ぎる。虫が本命なら、もっと執拗に追い縋らせるだろ。盗賊っぽい所作も、隠せてなかったしな。」
勝ち誇ったガルドルットの背後で、血塗れの朱唇の残り半分が、横に広がり口角を上げた。
「ぐぼぉあっ……」
今度は、ガルドルットが血反吐を吐いた。アマンダの得物が喉を斬り裂いたのである。
「ふふ、危ない危ない。危うく死ぬところだったわ。」
そう語るアマンダの顔半分は、ざわざわと蠢く黒粒に覆われていた。否。それは蟲であった。その蟲が蠢く陥没箇所の、骨が、筋繊維が、皮膚が、そして眼球が少しずつ再生されて行き、段々と元の顔形を形成して行く。決して再生速度は速く無いが、確実に蟲が損壊箇所を復元して行く。
宿主が死んでは、寄生蟲も困る。そこで、多くの寄生型の蟲が宿主の自然治癒力を高める分泌物を出すが、さすがにそれだけでは肉体の再生など不可能。再生特化の蟲が、体中に繁殖しているのだ。
しかし、その女王は脳に寄生している。アマンダの指令を受ける為、多くの女王が脳には共生している。故に、脳を破壊されれば不死身に似た巫蟲術師であっても、死は免れない。
それは実証済みであった。永い歴史を持つグレンダ一族は、蟲について実践により多くの知識を修めて来た。再生蟲を宿した巫蟲術師であっても、頭部を破壊されれば、首を断たれれば、胴を断たれるなど一度に致死量を超える失血状態に陥れば、さすがに死に至る。女王が死ぬ事でも機能を喪うが、寄生体が見限られても蟲が体外へと逃げ出してしまう。
巫蟲術は、決して万能の無敵能力などでは無かった。蟲の苗床として体を蝕まれる代償を払ってさえ、大いなる魔法の力には及ばない事も多かった。
「ぐぁぼぉ……げぁは……が、神よ……聞ぎ……とどげ……だまへ……」
転げ回りながら、喉を押さえて何とか祈りの言葉を吐き出すガルドルット。そう、大いなる神の奇蹟であれば、これほどの致命傷すら癒す事が出来る。それが魔法――が。
「ぐぼぉあ……な、だぜ……ば、発動じねぇ……」
転げ回る力も失い、ガルドルットは力尽きようとしていた。神はガルドを見放したもうたのか――否。先程、魔法障壁が発動しなかったように、魔力が不足しているのだ。神に祈りを届けるには魔力が要る。ガルドルットは、最期まで理由に気付けなかった。首筋に張り付いた一匹の蟲が、自らを破滅へ導いた真因である事に。
「全く、油断したわ。聖堂騎士相手なら吸魔蟲で簡単に勝てると思ったのに、どうやら戦士として一流だったようね。……これじゃあしばらく、ヴァルフの許へ戻れないじゃない。」
力を使い果たした再生蟲がぼたぼたと零れ落ちるアマンダの顔は、普通の人間では正視に堪えない有様だった。痛みは無い。体内中を蟲が這い回っているのだ。通常の感覚のままでは、一分と持たず精神崩壊し兼ねないだろう。痛覚を始めとした様々な感覚も、脳に巣食う女王によって取り除かれている。アマンダは、禁を破り蟲を自身に寄生させた時より、もうずっと食事を美味しいとは感じられなくなっていた。蟲の養分として喰う、寂しい食事である。
きっと抱かれても、幸せな絶頂を迎える事は出来無い身体だが、それでも愛する心は止められない。こんな顔のままでは、愛しい男の前に出られない。どんな体になっても女。乙女心は不滅。
その乙女の足元で今、妻を愛するひとりの男が死んだ。
※本来は巫蠱術と書くが、内容に違いがあり、蟲を扱う術である事から、蟲は「こ」とは読めないが当て字として蟲で巫蟲術とした。




