序章「天使と死神」
閑散とした空気に包まれたその村では、収穫期を終えた農夫たちが暇を持て余し、妻や娘の小言を避けるように、日がな酒場に籠っている。
酒場と言っても、辺境に位置する寒村の酒場だ。
綺麗な踊り子がいるで無し、美味い肴が喰えるで無し、主役の酒すら水で薄めた自家製ワインが一等品で、貧乏農夫が呷るのはそれよりさらに薄いエールとなる。
それでは酒になど酔えないから、あくまで酒場の雰囲気に酔うだけで、これからの寒い冬と、それが明けてからの忙しい毎日を忘れる為に、不味い不味いと愚痴りながら、それでも毎日ツケで飲んだくれるのだ。
そんな寒村の酒場で一番の娯楽は、年に数回訪れるか訪れないかの、旅の吟遊詩人が聴かせる英雄物語の類い。
農夫とは言え、小さい村の事である。常駐する兵などおらず、皆が自警団員として村を守る素人戦士だ。
中には力自慢、腕自慢もいて、誇れる武勇など遠くから複数人で矢を射掛け、熊を追い払った程度に過ぎなくとも、一端の戦士のつもりでいるものだ。
そんな男たちは、本物の戦士の物語に、己を重ねて大いに盛り上がる。
しかし如何せん、来訪するのは年に数回。全く訪れない年もある。
だから、吟遊詩人に限らずとも、話に飢えた男たちは、たまに立ち寄る旅人ならば、誰彼構わず話をせがむのだ。
そうで無ければ、その旅人に話を聞こうなどとは、思わなかったかも知れない。
その旅人は、フードで顔は隠れているが、しかし長い白髯が零れている事から、老人のように思える。
身長は180cmくらいで背筋も真っ直ぐ、がっちりとした体付きで、声にも壮年の張りがあり、その白髯を除けばまだ若く思えるが、酒場の男たちは彼を老人と判断した。
確かに声は若いのだが、話し振りは落ち着き払っていて、その場にいる誰よりも年嵩に思えたのだ。
老人は自身を旅の者と言うが、そうした見事な体躯でありながら、一見して武器の類いは帯びていないようで、確かに戦士や傭兵では無いのだろう。
多少物珍しい風体と見えて、中には老人を訝しがり、もしや魔族なのでは、と考える者もいたが、すでに百年も前の何か大きな戦いの末、魔族は滅んだと言われている。
何より、百年前に滅んだ魔族など、お伽話でしか聞いた事が無く、果たしてこの老人が魔族のような姿なのかも、判断出来ようはずも無い。
吟遊詩人も滅多に立ち寄らぬ辺境の寒村故、そんな怪しい旅の老人にも、男たちは何か珍しい話は無いかと群がった。
カウンターから広いテーブルへと席を移し、酒場で一番の薄いワインをひと口啜った後、その老人は語り始める。
「これは、とある天使と死神の物語……」
照り付ける陽差しで、誰も彼もが薄着になるから、とても仕事のしやすかった季節が過ぎ、最近は晴雨が目まぐるしく入れ変わり、朝晩冷え込むようになって来た。
薄曇りの空を見上げながら、その男はそんな事を呆と考えていたが、階下から呼ぶ声に気付き我に返った。
それは女の声で、一度だけ小さく囁かれた。
「用意出来たわ。」
多分、普通の人間では聞き逃してしまうような囁きであったが、男は仕事柄、小さな音も聞き漏らす事が無い。
女もそれを知っていて、小さく囁いたのだろう。
闇に紛れれば姿を見失いそうな黒い装束を身に纏い、腰に帯びた長剣とは別に、目立たぬように背中に短剣を忍ばせた中肉中背のその男は、世間一般に言えば盗賊である。
冒険者としてお宝探しに明け暮れる、職業盗賊と言う者たちもいるが、この男は読んで字の如くの盗賊である。
今では相応の実力を持ち、相応の立場もあるので、まぬけの懐を探るような仕事はもうしないが、昔からの癖で人々の着込み具合は気にしてしまう。
それに、その当時の方が、まだ平和的でもあった。
昔は気付かれずに抜き取ったものを、今では殺してから抜き取るのだ。
男は、盗賊仕事以上に荒事の実力が認められて、今ここにいた。
窓の外を確認する為に開いていたカーテンを閉めると、油の臭いが充満した部屋を見渡し、何も問題が無い事を確認してから、階段を下りて行く。
その階下には、ふたりの人物が待ち構えていた。
ひとりは妙齢の女性で、先程囁いた女だろう。彼女の出で立ちは、とても盗賊には見えない。
レオタードのような露出の高い服を着ているが、その上に一見すればとても重そうな、金属鎧のような物を身に纏っている。
肩当てと胸当てだけなので、下半身の露出具合とのアンバランスさが、却って煽情的にも見えた。
マントが薄絹のように透けていて、下半身のシルエットがはっきり見て取れるのも、異性に対する心理的効果を狙ったものかも知れなかった。
黄橡色した長髪も美しく、誰もが見惚れるような良い女……ではあるのだが、その表情や雰囲気から醸し出される妖艶さに、多くの者は感嘆するとともに畏怖もする。
「首尾は?」
問われた先程の男は、
「抜かりない。」
素気無く、ひと言だけ答える。
「ステイメン、アマンダ……本当に……嫌、よろしく頼むぞ。」
そう声を掛けたもうひとりの人物は、椅子に腰掛けたまま厳しい表情でふたりを見詰めていた。
年齢的には、多分ふたりよりも若いだろう。
若さや力強さに溢れる精悍な顔付きをした青年で、こちらも盗賊のようには見えない。
着込んだ革製の全身鎧に、今は傍らに立て掛けてある背丈ほどもある大剣を見れば、この男が剣士であると窺えた。
ステイメン、アマンダと呼ばれたふたりが、その声に畏まるようにして膝を突いた事から、若くともこの男の方が主人である事が判る。
醸し出される雰囲気からして、ふたりより力強さも感じられた。
主人が呑み込んだ想いを察し、配下ふたりは何も発しない。ただ、その号令を待つのみ。
それを確認し、その精悍な若武者は、傍らの大剣を手にして立ち上がり、
「好機は今。始めるぞ、俺たちの戦いを。」
そうして、卓上の燭台を払い、蝋燭を床へと落とす。それは撒かれた油に引火し、一気に部屋の中を嘗め始める。
床も、壁も、机も、椅子も……床に転がっている、刀傷を負ったみっつの死体も、見る間に炎に包まれて行く。
「ヴァルハロス様、お早く。」
そう声を掛けたアマンダの左手の壁は、ぽっかりと黒い穴を開けていた。すでに、ステイメンの姿は無い。
声に応えて、振り返る事も無くヴァルハロスはその穴から部屋を後にした。
一度部屋の様子をぐるり確認した後、アマンダもその穴へと姿を消し、そのすぐ後、その穴は内側から塞がった。
残ったのは、燃え盛る建物と、みっつの焼死体と、壁の傍に何故か大量の蟲の死骸……それだけだった。
数日続いた雨も上がり、高い空の下人々が行き交う街道を、その男も次の街を目指して歩いていた。
左腕には鉄製の手甲を嵌めているが、右腕には嵌めておらず、鎖帷子の上に金属製の胸当てを重ねて着込んでいても、比較的動きやすさを重視したカスタム・プレートと言った風情の鎧姿。
さらに特徴的なのは、手甲を嵌めていない右腕には包帯を巻き付けてあり、その包帯によって右手と手にした両手剣の柄とが、固く結ばれている点だ。
これならば簡単に剣が手から離れる事は無いだろうが、完全に右手が塞がってしまう為、普段の生活には支障を来しそうである。
そうして右手と一体化した両手剣を肩に担ぎ、その鞘に旅の荷物を詰め込んだ革袋を吊るし、身に付けたカスタム・プレートと同色の闇色のマントをなびかせて、男は早足で街道を行く。
旅の戦士、乃至傭兵と見える男だが、その出で立ちは一般的な戦士のそれより珍しく、さらには顔にも特徴がある為、行き交う人々は彼の正体に気付いていた。
Die off。
敵であれ味方であれ、関わる者全てが死に絶える事から、そう呼ばれる傭兵である。
その髪は燃えるように紅く、しかし襟足から伸びた髪は新雪のように白く、鋭い眼光を覗けばそこに燃える炎を見るだろう。
多くの者が関わり合いにならぬようにと目を逸らすから、その瞳を覗く事など無いのだが。
ダイ・オフは一週間前、街道の北に位置するヘラデンの街にいた。
そこでしばしの休息と、心細くなって来た保存食の補充を済ませ、すぐさま街を後にするつもりが、ここ数日の雨である。
目的地はもっと南だが、急ぐ旅でも無い。……そう、急ぐ旅では無い。
何か、ヘラデンにあるどこかの街の盗賊ギルド支部が全焼して、構成員が全員死ぬと言う事件があったとかで、ダイ・オフの元にも衛兵がやって来た。
噂に尾ひれが付いて、ダイ・オフの名は悪評と共に広まっており、身に覚えの無い罪を糾弾される事もしばしばあった。
いつもの事とは言え、気分の良いものでは無い。
雨の中を、強行軍で進む必要も無い。気晴らしに、久しぶりに酒を呷った。
結局、雨が上がるまでヘラデンに留まる事となり、今ようやく次の街を目指しているところだ。
だが、やはり、気分は晴れない。
ヘラデンを出る前から、そして今も、何者かがずっと尾けて来ているのだ。
いや、何人かが代わる代わる、監視していると言った方が正しい。
しかし、後を尾けられるような覚えは……あり過ぎるくらいあるとも言えるし、実際のところ身に覚えは無いとも言える。
直近で言えば、ヘラデンでのギルド支部全焼事件……これも、ダイ・オフは何もしていない。
だから、敢えて無視している。
プロの仕事なのだろう、決して下手な尾行でも監視でも無いが、ダイ・オフにはバレバレのその監視を、敢えて無視している。
真実関りなど無いのだし、仮に命を狙って来るのなら、斬り捨てれば良いだけ。
そう、斬り捨てれば良いだけ。ダイ・オフにとっては、簡単な話なのだった。
「来ました、奴です。」
ヘラデンの街を発って、交代要員と監視を代わった盗賊のひとりが、その先にあるディアマンテの街の盗賊ギルド本部へ帰還したのが、ダイ・オフがディアマンテに到着する半日ほど前。
その盗賊の報告を受け、ゼフィランサスは街の入り口で待機し、今ダイ・オフの姿を確認して戻ったところだ。
ゼフィランサスは、盗賊然とした風貌をしている判りやすい盗賊だが、その腕っぷしを買われ古くからギルドに仕えている古参である。
そんなゼフィランサスがへりくだって声を掛けた相手は、ゼフィランサスよりかなり若い、まだ十代と思しき可憐な女盗賊だった。
まだ発育途中で体の凹凸も慎ましいが、判りやすいくらい女盗賊らしい格好をしており、胸元は大きく開かれ、スカートの丈もかなり短い。
意識的に女を強調するものの、妖艶とは程遠く、ただただ可愛らしかった。
金色に光り輝くショートヘアに、吸い込まれそうなほど澄み切った青い瞳は、司祭の説教で聞く天使を思わせた。
彼女の名前は、エンジェルと言った。
父親であるディアマンテ・ギルドのマスター、クロイツ・ディアマンテにとって、正に天使のような娘だったから。
しかし、彼女は天使とは名乗らない。いや、名乗れなかった。
「来ましたよ、エンジエル。先程、橋を渡って街へ入りました。」
ゼフィランサスを一瞥し、椅子に座ったまま短いスカートで足を組み替えると、自分でやっておいてちょっと恥ずかしそうにした後、
「間違いないのね、ゼフィランサス。」
照れ隠しか、そう厳しい口調で問い返す。
「はい。プレートのカスタム・アーマーに黒い外套。得物の柄と右手を、包帯で巻き留めて肩に担ぐあの出で立ち。そして赤い髪と、鋭い眼光。報告通りですし、遠くから眺めただけで背筋に冷たいものが走りました。間違いありません。」
「そう……」
目を瞑り、ごくりと唾を呑み込んで、エンジエルは自らを奮い立たせた。
あの強かった兄、ジャッキーすら殺された。
兄の腹心だったアマンダは不思議な業を使うし、ステイメンはゼフィランサスに並ぶ戦闘力を誇った。
そんな三人が敵わなかった相手。まともにやって、勝てる見込みなど無い。
だが、やるしか無いのだ。父が手を貸してくれないなら、自分の力で仇を取るしか無いのだ。
「良いね、手筈通りだ。ぬかるんじゃないよ。」
「はい、それではまた後程。……エンジエル、気を付けて下さい。」
「判ってるわ。ゼフィランサス……ありがとう。」
慈しむようにエンジエルを見詰め、クロイツに代わり自分がこの天使を守るのだと、改めて心に誓い部屋を後にするゼフィランサス。
そんな父親代わりとも言える腹心の部下が去った後、
「兄さん……」
つい、不安な気持ちが口を吐く。
意を決して立ち上がり、ずり上がったスカートの裾を直して、
「兄さんの仇はあたしが討つ!」
ひとり気を吐くエンジエル。
こうして、エンジエルの仇討ちが始まった。
ディアマンテの街は、近隣では一番大きな街であり、四方に大きな街道が整備された交通の要衝である。
街を治めるのは地方領主の何某であったが、多くの者が領主の名など忘れている。
この街を実質支配しているのは、盗賊ギルドのマスターを務めるクロイツ・ディアマンテであった。
領主が集める税収よりも、ギルドが納める上納金の方が、遥かに額が大きい。
必然的に、国家中枢への発言力も違って来る。
地方領主の首のすげ替えなど、彼の働き掛けひとつでどうにでもなった。
だから領主は、与えられた特権だけで満足し、影を潜めているのが正解だった。
そんな裏社会の長が取り仕切る街とは言え、表面上は治安の良い発展した街である。
事情を理解していない衛兵の類いは、盗人や荒くれ者をちゃんと取り締まっている。表通りを行けば、旅人も観光客も、安心安全に街で過ごす事が出来た。
ただ、裏路地を通って一本道を逸れれば、裏社会に生きる者共が幅を利かせる危険な通りとなる。
ダイ・オフは、そんな裏通りを歩いていた。
表通りの宿よりも、裏通りの宿の方が格安だったし、荒事には慣れている。
だから、ダイ・イフはいつも、そんな裏宿に部屋を取る。
もちろん、値段なりに非道い部屋だが、彼はベッドを使わない。
ただ、雨露が凌げれば、それで良かった。
今ダイ・オフは、裏通りを適当にぶらつき、適当な安宿を探していた。
この街に何か目的がある訳では無かったが、もう陽が傾き掛けていて次の街を目指すには遅い時間だ。
急ぐ旅じゃ無い。だから、ひと晩の宿を求め、裏道を歩く。
その姿を物陰から確認したエンジエルは、無理して露出を多くしたいつもの格好とは違い、年相応の街娘と言った扮装をしていた。
「……良し!」
心の中で意を決し、物陰から飛び出したエンジエルは、履き慣れていない長いスカートに苦戦しながらも、ヒールの無い靴で軽快に走り出し、視線を外したままダイ・オフへと体を預けた。
「きゃっ!」
可愛らしく声を上げ、ダイ・オフにぶつかり、弾かれ、倒れるエンジエル。
「ぁいたたたたたた……」
腰をさすりながら反応を待つエンジエルだったが、ぶつかった壁はその場で仁王立ちして微動だにせず。
反応の無さに思わず見上げると、そこにはエンジエルを睥睨する冷たい碧い瞳が。
「綺麗な瞳……」
思わず心の中で呟くと、はっと我に返り、自ら立ち上がってダイ・オフの背中へ回る。
「ご、ごめんなさい。急いでて前を見てなかったの。お願い。助けて。」
その言葉を待っていたかのように、いや、実際にその言葉を合図に、ゼフィランサスと麾下の下っ端盗賊ふたりが、ばたばたと路地から現れる。
ダイ・オフの前にゼフィランサスが立ち塞がり、下っ端が左右を取り囲んだ。
「ようやく追い付いたぜ、お嬢ちゃん。……ん~?何だ、お前。」
そうゼフィランサスが睨みを利かせると、
「俺たちゃ、そこの娘に用があんだよっ!」
左手の手下が吠え、
「痛い目に遭いたくねぇなら、今すぐ消えなっ!」
右手の下っ端が脅す。
「お願い、助けて!」
背中の外套にしがみ付くエンジエルだが、ダイ・オフは動かない。
「こいつぁ、良い。このあんちゃん、ビビッちまってるよ。さぁ、判ったら……」
と、一瞬気を抜いた右手下っ端の水月に、ダイ・オフの放った鋭い前蹴りが突き刺さる。
「っっっ!!!」声も無く、呼吸も出来ずに、その場にうずくまって悶絶する下っ端。
「ぬなっ!き、貴様っ!」
それを見て、思わず腰の物を抜き放つ、もうひとりの下っ端。
「……抜いたな。」
その言葉に、急変したその雰囲気に、思わず外套から手を放し、数歩後退るエンジエル。
「あぁ?抜いたが、どうした。そんな形して、剣が怖いのかよ。とんだ見掛け倒しだな、お前ぇ。」
ダイ・オフの変化にまるで気付かぬ下っ端は、不用意に小剣をぷらぷらと揺らして挑発する。
その小剣を、鞘のまま得物を振り下ろし、ギィンッ!と甲高い音を鳴らして、地面に叩き落とすダイ・オフ。
「ぐぁっ!」
剣身を叩かれただけなのに、手が痺れて痛みすら感じ、下っ端は膝を折った。
「おい、貴様。ふざけてるのか?斬り合う気も無ぇのに、俺様に剣を向けるたぁ、どう言う了見だ。……斬っても良いか?」
そうして下っ端を、燃えるような紅い瞳が見下ろした。
「ひ、ひぃっ!」
情けない声を漏らしながら、下っ端は腰を抜かして後退って行く。
その様子を見ていたゼフィランサスは、
「引くぞ。」
ひと声掛け、そのまま踵を返した。
駄目だ。あれは正面どころか、不意を討っても敵うような相手じゃ無い。
ゼフィランサスには、それが判ってしまった。
多少なりとも腕に自信はあったが、いやだからこそ、あれには勝てないと心から理解出来た。
「駄目です、エンジエル。とても私たちの、貴女の手に負える相手じゃ無い。逃げて下さい。それは駄目です。」
心の中でそう唱えながら、今はエンジエルが自ら引く事を、祈るしか出来無いゼフィランサスであった。
「ま゙、待ってよ、兄貴ぃ……」
まだ腰が半分抜けかかったままの下っ端が後に続き、呼吸が出来ずにそのまま意識を失ってしまった下っ端は、その場に置き去りにされた。幸い、すでにダイ・オフの眼中には無かったが。
「へっ、何だ、ありゃあ。」
そんな光景を呆然と見詰めていたエンジエルは、はっと我に返り、おずおずとダイ・オフの背中に声を掛ける。
「あ……あのぅ~……」
「……何だ、姐ちゃん、まだいたのか。良かったな。追手は逃げたぜ。だから、もう行きな。他に用は無ぇだろ。」
ダイ・オフは振り返り、興味無さげにエンジエルを一瞥した後、落とした革袋を担ぎ直す。
「……、……、……え?あ、いえ。そのほら、折角助けて頂いたのだから、何かお礼でも……」
あたしのような美女を悪漢から助け、何も見返りを求めない。そんな事があるとは露程も思わず、数瞬言葉を失っていたエンジエルだが、気を取り直して作戦を継続する。
「ふ~ん……ま、良いけどよ。俺はダイ・オフ。お前は?」
「ま、まぁ、貴方があの……」
その言葉を遮るように、
「お前は?」
「あ、あたし?あたしはエ……えぇ、アリス。そう、アリスと申しますわ、ダイ・オフ様。」
「ふ~ん、ま、良いけどな。それじゃあ、行こうか。」
「え?ど、どちらへ?」
「そこの看板に、『旅の道草亭』とある。」
と、顎で示した先には、一階で酒場を兼業している、良くあるタイプの宿屋があった。
「そ……そうですわね。」
「昔どこかで聞いた誰かの言葉さ。人助けをすると飯が食える。」
それだけ告げると、さっさと宿の入口へと向かうダイ・オフ。
「あ……お待ち下さい。」
一瞬、何の事か判らなかったエンジエルだったが、すぐその意味に気付き、後を追う。
まぁ、良い。そこは端から誘い込む予定だった、ウチが経営してる宿だ。計画に変更は無い。頼んだわよ、ゼフィランサス。
そう心の中でほくそ笑みながら後を追うエンジエルは、ゼフィランサスがアジトまで逃げ帰ってしまった事に、まだ気付いていなかった。
『旅の道草亭』の中は、カウンター席が十席程度、他に丸テーブルが五組ほどある、良くある酒場然とした内装だった。
今はまだ陽暮れ前とあって、テーブル席でふた組の荒くれ者共が酒を酌み交わしているだけ。……もちろん、本当の客では無く、エンジエルの手下たちだが。
ダイ・オフは、ずかずかと歩み入って、マスターらしき親父の前、カウンター席へと腰掛ける。
そして、腰の水袋をカウンターの上へ置き、
「こいつの中身を、この店で一番上等な酒に変えてくれ。」
そこへ、遅れて入店したエンジエルが、ダイ・オフの姿を認めてカウンターへと近付く。
「それから、適当に美味いもんを見繕ってくれ。代金は、このお嬢ちゃんが払ってくれる。」
「え?」
ダイ・オフの隣の席に着きながら、思わず聞き返すエンジエル。
「うん?良いんだろ。それとも、お嬢ちゃんも一緒に喰うかい?」
「あ、いえ、あたしは別に……。助けて頂いたお礼ですのに、お食事だけでよろしいのですか?」
「構わねぇよ。ただ火の粉を払っただけだ。大した事ぁ、してねぇ……良くない。」
「え?!」
思わずダイ・オフを見やるエンジエルは、この時何か違和感を覚えた。
その違和感の正体にはまだ気付かぬまま、
「あ、あのぅ~、何がよろしくないんですか?あ、もしかして、やっぱり違うお礼の方が……」
『旅の道草亭』も、二階は宿泊用の部屋になっている。そう言う流れも想定内。房術も女盗賊の嗜み……もちろん、実践した事など無いのだが。
耳年増なだけの乙女は、妄想を膨らませ、ひとりどぎまぎしてしまう。
「すまない。ここは自分で払う。」
「お食事だけで無く、床も用意出来ますけど……って、え!?……それは、どう言う……」
「大した事はしていない。礼など不要だ。」
「い、いえ、お礼はあたしが言い出した事ですし。」
ダイ・オフは、エンジエルの言葉を聞き流し、正面を向いたままエンジエルの方を見ようともしない。
「……あの、ダイ・オフ様?」
その呼び掛けには反応し、エンジエルの方へ向き直り、碧い瞳がエンジエルを捉える。
あ、そうか。この人、ダイ・オフとは違うんだ。瞳の色の違いにこそ気付かなかったが、エンジエルは違和感の正体に気付いた。
「そう言えば、自己紹介はまだだったな。俺はデュース。君を助けた訳じゃ無い。気にしないでくれ、アリス。」
「あ……」
エンジエルが答えようとした時、デュースとエンジエルの前に、とても良い香りのする肉料理が運ばれて来た。
「この鶏は、今日一番の食材だ。こんな安宿じゃ、普段喰えない御馳走だぜ。存分に味わってくれや、兄ちゃん。それから、エ……お嬢ちゃんも。」
キッ、とエンジエルに睨まれた親父……手下は、慌てて奥へと引っ込む。
そんな様子は気にも留めず、手を合わせてぼそっと、
「いただきます。」
と、デュース。それを見たエンジエルも、同じように手を合わせて、
「いただきます。」
そのまま黙々と食べ続けるふたりだったが、何故だか、いつもより美味しいと感じるエンジエルであった。
剣は腿の上へ置き、手甲を嵌めた左手だけで器用に食事を終えたデュースは、金袋から取り出した銀貨数枚をカウンターへ置き、親父の用意したワイン入りの水袋を受け取って、さっさと席を立つ。
「あのっ!」
その背中へ、声を掛けるエンジエル。
立ち止まり、背中で続きを待つデュース。
「あの……よろしいのですか?もうじき、陽も暮れます。今日は、こちらで宿を取られては。」
「……いや、止めておこう。幸い、雨も降りそうに無い。今日は、もう少し先まで進む。」
もちろんデュースは、何か面倒に巻き込まれそうな雰囲気を察している。
だから、予定を変えて宿は取らず、少し先で野営をするつもりでいた。
……ここを発っても、きっと面倒は付いて来るだろう。とは、思いながらも。
そうして歩き出す背中に、
「あ、あのっ!」
と、再び声を掛けるエンジエル。
デュースは足を止め続きを待つが、エンジエルには掛ける言葉が見付からない。
「あ……」
しばし待ったデュースだったが、結局そのまま宿を出て行った。
それを見送った後、酒場の親父役が顎で指示を出すと、客役の手下数人が後を追う。
「……この後、どうしやすか、エンジェル姐さん。」
扉の方を呆と見詰めていたエンジエルだったが、その言葉に振り返り、キッと親父を睨み付けて、
「あたしを天使と呼ぶんじゃ無ぇ!」
と、怒気を孕んだ声を上げる。
「あっ!……す、すんません、エンジエル姐さん……」
謝る親父の胸倉を掴み、
「良いかい、手筈通りだ!兄さんの……ヴァルハロスの仇は、あたしが討ってやるんだ!良いね。」
綺麗な瞳に睨まれて、怒鳴られているのに思わず頬を染める配下を突き放すと、エンジエルは振り返って扉へと駆け出した。
やるしか無い。父がやらないなら、あたしがやるしか無いんだ。
エンジエルは、一流の腕を持つ女盗賊だ。
マスター・クロイツが手塩に掛けた、ギルドの中でも指折りの盗賊と言える。
しかし、それはあくまで技術の話だ。
その技術を実践する機会は、今まで無かった。いや、与えられなかった。
人の体に刃物が呑み込まれて行く感触も、彼女はまだ知らない。
そんなエンジエルは、一度決めたはずの覚悟が揺らぐのを感じ、もう一度腹を括り直したものの、その足取りは重かった。
街の中心から少し離れたそこは、重厚な作りのログハウスで、一見すると真っ当な組織の建物に見えた。
しかし、どこにも看板の類いは掲げられておらず、人家でも無ければ店舗の様相も呈していない。
街一番の大店の建物に匹敵するほど大きいのは、その奥が主の邸宅を兼ねている為だ。
街の住人ならば、誰もがこの建物が何の建物か、誰の邸宅か知っている。
エンジエルの事が気に掛かるものの、エンジエルの性格を思えば計画を投げ出すとも思えず、ゼフィランサスは渋々ながらアジト、盗賊ギルド本部へ一時帰還した。
技倆においては自分に、僚友であったステイメンにも劣るが、膂力においては常人のそれを遥かに上回り、その脅威は充分と強さだけは認める、最低な男の力が必要だと判断したからだ。
あの、野卑で総身に智慧の回らぬ、暴力だけで物事を解決しようと言う見下げ果てた男の事は大嫌いだったが、仕事に私情は持ち込まない。
見立てでは、こいつの力を借りてすらあの男には敵わないと思えるが、いざと言う時、エンジエルだけでも逃がす為の時間稼ぎにはなるかも知れない。
打てる手は全て打っておく。ゼフィランサスは普段、仕事に取り掛かる前に仕事を完了しておくような、慎重さを持ち合わせた男だった。
事、エンジエルに関しては、いつも振り回されて、仕込みが台無しになる事など日常茶飯事ではあったのだが。
ゼフィランサスはいつも通りに扉を潜り、脇目も振らず奥へと進んで行く。勝手知ったるギルド本部であるし、今は目的もはっきりしていて、急いでもいた。
だからこそ、いつもの受付の姿が見えない事など、気付きもしなかった。
そして、メンバーたちが普段から屯している、マスターの部屋の前、そこそこの広さを持つ談話室のような溜まり場で、目的の男を発見する。
「楽しそうだな、サイサリス。」
サイサリスと呼ばれた大男は、なるほど、野卑な笑いを上げながら、数人の取り巻きと談笑している最中だった。
余程筋肉に自信があるのか、年がら年中上半身裸で、腰に差した蛮刀も相まって、盗賊では無く山賊と呼んだ方が似合いの風貌であった。
「ぃよぅ、ゼフィランサス。どうしたんだ?今日は、エンジェル様のお守りじゃなかったのか?」
「……エンジエルだ。少し予定が変わってな。……それより、どうしてお前は顔を出さないんだ。」
「あん?何の話だ?」
「とぼけるな。ヴァルハロス様の仇討ち、エンジエルもお前の腕には期待して、声を掛けたはずだ。」
サイサリスは、興味無さげにそっぽを向いて、
「あぁ、聞いてるよ。ちょっと野暮用でな。別に、エンジエル様に逆らうつもりは無ぇさ。」
「……そうか。しかし、お前の力を借りたとて、あの男には敵うまい。だが、お前さえいれば、安全にエンジエルを逃がせるかも知れない。後は、親父にエンジエルをなだめて貰って……」
その言葉に、サイサリスはにやにやしながら、
「親父ぃ?お前に、親父なんていたか?」
そうして下卑た笑い声を上げて取り巻きたちを見回すと、取り巻きたちも一斉に笑い出す。
「阿呆がっ!俺が親父と言やぁ、マスター・クロイツの事に決まって……」
その言葉を遮るように、ゼフィランサスの前に両手を広げて立ち塞がるサイサリス。その背後には、マスター・クロイツの執務室がある。
「手前ぇ、まさか……、どけっ!」
体をぶつけサイサリスを脇へ追いやり、ゼフィランサスは執務室の扉を開け放つ。その途端、扉から熱気が噴き出し、室内の赤が炎の色である事を知らしめた。
「お、親父っ!クロイツ様っ!!ぐぁっ……」
そんな隙だらけの背中を斬り付けたサイサリスは、
「おいっ!一体どうなってる。誰が火なんか点けやがった。さっさと消せっ!ここはこれから、俺様の城になるんだぞ!」
その慌てぶりから、部屋に火を放ったのがサイサリスの仕業では無いと知れたが、その叛意は明らかであった。
現場が混乱し始めた事で、背中に致命の一撃を受けながらも、ゼフィランサスはその場を脱する事が出来た。
すでに、誰もゼフィランサスの事など気にしていなかったのだ。
それほど火は激しく燃え盛り、部屋を、建物を……そこに横たわるはずの権力者の死体も、灰へと変えて行った。
そして、ゼフィランサスは走る。ひとり遺された、天使の許へ。
「ぐ……エンジエル……せめて、せめて貴女だけでも……」
ディアマンテの街を、少し南へ出た街道脇の森の中。
下草が枯れ広場のようになった場所で、丁度良さそうな倒木を腰掛けに、火を焚いてデュースは暖を取っていた。
予定を変更して宿を取らなかったが、急ぐ旅では無い。夜を徹して歩く必要は無い。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音だけが静かに響く中、揺らぐ炎を見詰める碧い瞳が、独り言つようにもうひとりへ問い掛ける。
「何故だと思う?」
しばしの沈黙の後、紅い瞳で同じ口が開かれた。
「大方、仇討ちの類いだろ。デュースにゃ悪いが、俺の名は少々売れ過ぎてる。覚えのあるやつ、無いやつ、色んな恨みを買ってるからな。だが、デュースも承知のように、俺は何もやってねぇ。ここふたつみっつの街は、路銀に余裕もあったから、ほとんど素通りだ。……多分、あれだろ?ヘラデンで難癖付けられそうになった、ギルド支部の壊滅。下手な尾行が付いたのも、ヘラデンからだしな。」
碧い瞳は沈黙を続け、再び紅い瞳が後を続ける。
「あの女も、他の奴らと同じさ。なのに何故、遠ざけて守ってやろうとするんだ?確かに、邪魔だと思えば斬る。だが、そんなのはいつもの事だろ。」
「……好んで人を斬っている訳じゃ無い。お前も、俺も。それだけだ。」
「だが、結局は付いて来た。当たり前だ。俺たちは、あの女の仇らしいからな。敵なれば斬る。それだけだろ。」
「敵……か。アリスはそうでも無いさ。……多分な。」
やれやれと言った風情で、首を振るダイ・オフ。
「エアリスちゃんね。あんな貧相なの、どこが良いんだか。本当、女の趣味だきゃ合わねぇな、俺たち。」
「……そうでも無いと思うけどな。それに、可愛いじゃないか。特に、抜けてるところがな。」
紅い瞳をぱちくりさせた後、思わず声を上げて笑うダイ・オフ。
「ふははっ、デュース、お前が冗談を飛ばすたぁ、驚きだぜ。これもアリスちゃんのお陰なら、俺も考え直さなきゃいけねぇな。」
はははと、さらに笑う紅い瞳の後に、碧い瞳が「ふっ」と思わず微笑む。
そんな様子を、少し離れた木陰から、エンジエルは見詰めていた。
やっぱりだ。彼は、いいえ、彼らは、独り言を言ってるんじゃ無い。ふたりで会話してるんだ。
先に尾行していた手下はゼフィランサスを呼びに行かせ、ひとり仇の様子を窺っていたエンジエルは、先程気付いた違和感の正体を確信していた。
どうやら、口数の少ない方がデュースで、粗野な言動が目立つのがダイ・オフらしい。
デュースが紳士だったからイメージとのギャップで少し混乱したけど、なるほど、ダイ・オフの方はイメージ通りだ。
……それなら、デュースとダイ・オフ、どちらが仇なのだろう。
ただでさえ決意が揺らぎそうなところに、迷いも出て来た。
このままでは駄目だ。
意を決したエンジエルは、そっと木陰から出て彼らへと近付いて行った。
「あ、あのぅ~……」
声を掛けてみたが、どちらの反応も無い。声が小さかったのかと思い、改めて
「あのっ!」
と、呼び掛けてみる。
すると、表情も姿勢も変えずに、
「こちらへ来たらどうだ。そんなところでは寒いだろう。」
それを聞いたエンジエルは、ぱぁっと表情を輝かせながら、
「あ、ありがとう御座います、デュース様っ!」
と、焚火を挟んだ対面にある倒木に腰掛けた。
そんなエンジエルの様子を、少し驚いた顔で見詰めていたデュースは、エンジエルが腰掛けた後、
「何故、俺がデュースだと?」
そう疑問を投げ掛ける。
「だって……そうなのでしょ。見れば判ります。」
「そう……か。何故来た?」
「そ、それは、そのぅ……」
真っ直ぐデュースを見詰めていた視線をふい、と外し、少し俯いて沈黙するエンジエル。
そのまま上目遣いにちらちら様子を窺っていると、
「俺は何をした?」
そのひと言に、思わず顔を上げるエンジエル。
「俺とダイ・オフが、多くの人を殺めて来たのは事実だ。だが、身を守る為に剣を振るいはしても、無辜の民に剣を向けた事は無いつもりだ。」
その言葉に、がばっと勢い良く立ち上がり、
「兄さんはっ!……兄さんは、意味も無く人を襲ったりしないわ。身を守る為だって言うなら、何で兄さんたちを皆殺さなくちゃならないの!?そんなの……そんな事、信じられないよ……」
「デュース。こいつは冤罪で確定だな。」
「え!?」
と、デュースを見詰めたエンジエルは、目の前の男がダイ・オフである事に気が付いた。
「ヘラデンだろ?あそこの盗賊ギルドが壊滅した一件。噂じゃ俺の仕業って事になってるらしくて、衛兵が話を聞きに来たぜ。」
「そんな……だって、ヘラデン支部はダイ・オフに潰されたって……皆、そう言ってるもの……」
碧い瞳が、
「俺たちの目的地は、もっと南だ。雨で足止めを喰らったが、その間仕事はしていない。」
紅い瞳が、
「そう、ここディアマンテと同じだぜ。あくまで立ち寄っただけ。まぁ、俺様の風貌は目立つから、噂は立っちまったみたいだが。」
「アリス、俺たちでは無い。」
そう優しく碧い瞳が語り掛けるも、呆然と立ち尽くし何も反応出来無いエンジエル。
その時、ばさばさっ、と鳥の羽ばたく音がして、
「……誰か来たようだな。」
そう言ってデュースが見やったエンジエルの背後の茂みが揺れて、何者かが近付いて来る。
まだ呆としながら振り返るエンジエルの眼に、よろふらと茂みを掻き分け現れた、ひとりの男の姿が映った……ゼフィランサスである。
「エ……エンジエル……」
「!……だ、誰の事かしら?」
未だ、いつもと様子が違う事に気付かぬエンジエルは、すでに作戦が失敗している事も忘れて、思わずすっ呆けた。
「た……大変な事が……エンジエル……ぐぅ……」
苦しい息の下、何とか言葉を紡ぎ出したゼフィランサスは、そこで膝を突いてしまう。
「え!?……え、ゼ……ど、どう……」
ようやく異常に気付いたエンジエルだが、事態が上手く呑み込めず、おろおろするばかり。
「アリス、もう正体を隠す必要は無い。それにその男の様子、ただ事では無いぞ。」
デュースの言葉に、数瞬迷ったエンジエルだが、
「あたしはっ!……あたしはエンジエルだ。アリスと呼ぶな!」
叫んで、ゼフィランサスの許へ駆け寄った。
「ゼフィランサスっ!一体、一体どう……」
「親父が……、親父があの野郎に……ぐぁっ!!」
エンジエルの目の前で、どうと倒れるゼフィランサス。その背中には短剣が生えていた。
「ゼっ!……」
「に……逃げ、て……エンジ、エル……せめて……貴女……だけ……で……、……、……」
突っ伏したままそれだけ声を吐くと、そのまま二度と動かなかった。
「あ……あぁ……、ど、どうして……どうしてゼフィ……」
エンジエルは力無くその場で両膝を付くと、そのままゼフィランサスの体に縋り付く。
ゼフィランサスが出て来た茂みから数人の男たちが現れて、そんなエンジエルを取り囲むよう散開した後、
「ひゃっはぁ~、死ぃんだか、ゼフィランサスぅ~。いつもいつも俺様を馬鹿にしやがって。良い気味だぜ。」
下卑た笑いを上げながら、あの山賊のような盗賊も姿を現した。
その濁声に、我に返って、
「サイサリスっ!お前はっ!……お前はぁ!どう言う、どう言うつもりだっ!これはっ!!」
サイサリスを睨み付けながら勢い良く立ち上がり、背中に隠していた短剣を構えて、エンジエルは怒声を上げた。
「……エンジエル様ぁ……いやぁ、エンジェルちゃ~ん。」
誰もが嫌悪を抱くような嫌らしい笑みを浮かべ、サイサリスの視線がエンジエルを嘗め回す。
思わず半歩後退って、
「あ、あたしはエンジエルだ……」
「後は、あんただけだぁ。邪魔者だったヴァルハロスの奴ぁ、どこぞの傭兵が消してくれたし、親父面していつも上から目線だったクロイツの奴ぁ、俺様が殺してやった。後は、あんたがいなくなりゃ俺様がNo.1だぁ。俺様が、サイサリス・ディアマンテよぉ。」
「……な、何だと?……今、お前、何て……」
サイサリスの言葉を、ちゃんと理解していても理解したくない。そんな思いからつい聞き返すエンジエルは、膝から力が抜けて行くのを、必死に堪えていた。
「あぁん?何の事だ。ヴァルハロスたちは、傭兵が殺してくれた。ゼフィランサスは、今俺様が殺した。クロイツの奴ぁ、さっき俺様が殺した。もう残るはあんただけ、そう言ったんだぜ、俺様はよ。」
「お前!お前は!ゼフィランサスだけじゃ無く、親父まで……親父まで、死んだ?……お前!貴様!サイサリスっ!!許さない!お前だけは絶対、許さないっ!!」
ぐっと下半身に力を入れ直し、必死にサイサリスを睨み付けるエンジエル。
「そんなに怒んないでよぉ。俺様、あんただけは生かしておいても良いと思ってんだぁ。」
そうして今度は、さっきよりも卑猥な視線でエンジエルを犯す。
「俺様の女にしてやるよ。俺様、昔からあんたのファンだったんだぁ。壊れるくらい激しく愛してやるよ、エンジェルちゃ~ん。」
その気持ち悪さに、さらに一歩後退り、思わず自分の体を庇うように、両腕で抱き締めるエンジエル。
「あ、あたしはエンジエルだ……あたしを、あたしを天使と呼ぶな……」
思い切り声を上げたいのに、思うように声が出ない。もう顔を上げて、サイサリスを睨み続ける事も出来無い。体から、全ての力が抜けて行くようだった。
「嫌だなんて言うなよな。だって、殺さなきゃならなくなるだろう?……、……、……滅茶苦茶に犯して、殺さなきゃならないだろ!愉しみだなぁ~!」
そうして下卑た笑いをさらに上げるサイサリスに、さすがの取り巻きたちも引きつった表情を浮かべる。
「おい。」
サイサリスから距離を取るように、我知らず後退っていたエンジエルを庇うように、ダイ・オフが間に入った。
「……、……、……」
エンジエルは、微かに震えるばかりで声も無い。
「あぁ~ん?何だ、お前ぇ。」
「デュースが言ってるぜ。下品な男だってな。俺もそう思う。」
思わず頷いてしまう手下たち。
「何だよ、手前ぇはよぉ!死にてぇのか?!それに誰だ?下品な男ってなぁ。」
そう言って、周りをきょろきょろ見回すサイサリス。目が合って、首を振る手下たち。
「お前ぇか?」
最後に、ダイ・オフに問い掛ける。
「おまけに、御頭も弱ぇと来てる。確かにこいつぁ、エンジエルちゃんが可哀想だな。判るぜ、デュース。」
サイサリスは、しばし無言で何やら思案していたが、ようやく言葉の意味を理解して、
「俺様の事きゃあ!」
「あぁ、デュース。俺も嫌いだ。」
「ぶっっっ!殺してやらるぁ!!」
腰の蛮刀を大上段に振り上げたサイサリスは、急に視界が下がったように感じた。
尻餅でも搗いたものか、いやそれよりももっと低く。それに、いきなり目の前に誰かが立ち塞がっていた。
その男は、背中を向けて仁王立ちしている……いいや、背中が無い。足だけだ。腰から上が無い。
「な……何だ、お前ぇ。いきなり俺様の前に立ちやがって。……それに、あいつはどこだ?」
「ひっ、ひぃぃぃ~~~!」
背後に手下共が悲鳴を上げて遠ざかって行く気配を感じ、振り返ろうとしたが体が動かない。
「な、何だこれ。どうなってんだ?」
目の前にある仁王立ちした下半身の向こう側で、かちゃりと何か音がした。目を凝らして見てみると、あの男が剣を鞘に収める音だった。
ダイ・オフは、得物を肩に担ぎ直し、
「しかも、弱ぇ。普通気付くだろ。手前ぇが斬られた事くらい。」
「……、……、……」
この男は、何を言っているんだ。斬られた?誰が?しかし暑い……いや熱い。腰の辺りが嫌に熱い。それに、この足。どこかで見た事があるような……
「あ、あり得ねぇ……そんなはず無ぇ……何でこの足、俺様と同じ格好してやがるんだ……俺様の……俺様の足ぃ~~~!!!」
ようやく理解が追い付いたサイサリスの斬られた腰から、立ち尽くす下半身の傷口から、一気に大量の血が噴き出す。
こうして野卑で矮小な小物盗賊は、自分を斬った相手の太刀筋すら見る事無く、胴を一刀両断され絶命した。
ダイ・オフの剣刃には、血の一滴すら付いていなかった。
見下げ果てた小物の死体を見下ろすダイ・オフの横を、ふらふらとエンジエルが歩いて行く。
エンジエルの目には嫌悪の対象は最早映っておらず、その虚ろな瞳はもうひとりの兄とも慕った、腹心の部下の死体を捉えていた。
その兄とも言える男の死体に縋り付く事も無く、ただ呆然と見下ろしながら、
「……Valhalossってね、ヘラデン・ギルドでマスターしてた、あたしの兄さんなの。」
独り言つように呟くその言葉を、蒼い瞳が静かに聞いていた。
「本当はジャッキーって名前なのに、Valhala loss、楽園を失う、なんておかしいでしょ?」
そこで片膝を突き、優しくゼフィランサスの体に触れる。
「ゼフィランサスは、いちの子分。あたしの、もうひとりの兄さんみたいなものよ。」
一度深く息を吐き、その背中に刺さったままだった短剣を引き抜く。
「……父さんは、父さんはここディアマンテ・ギルドのマスターで、ヘラデン・ギルドはここの支部だったの。クロイツ・ディアマンテなんて呼ばれてた。……あはっ、貴族でも無いのにおかしいでしょ。」
ひと呼吸置いてから立ち上がり、その勢いで振り返って、自分を真っ直ぐ見詰める蒼い瞳を、濡れた瞳で見詰め返す。そして、手にした短剣を投げ捨てて、
「サイサリスの奴っ!その父さんを殺したって……」
肩を震わし、奥歯を噛み締めながら、仇だったはずの男を見詰める事しか出来無い、まだ十代の少女であった。
そして、それを見詰める事しか出来無い、不器用な男たちであった。
「あたしはっ、あたしはもうひとりぼっちだ!」
全てに耐え兼ね、走り出すエンジエル。
帰る家すら喪った少女は、一体何処へ向かうのだろう……
森の木々が朝陽に照らされ、ようやく朝靄も晴れて来た。すでに薪は冷え、燻る煙も見えない。
広場の端の方、目立たぬ場所に真新しい盛り土があった。
そこには、一本の長剣が刺してある。それは、背後から斬られて抜く事が叶わなかった、そこで眠る男の腰の物だった。
博識なデュースも、故国よりすでに数か国流れ歩いたこの地の風習、宗教には明るくない。果たして、この地の弔いもこれで良いのかどうか。
故国にあっても、通常は棺に納めての土葬であるが、これが今出来る精一杯だ。
とは言え、ふたつに割れてそのまま野晒しの汚物とは、扱いが雲泥の差である。
近くで摘んだ野花ではあったが、花も手向けてある。見下ろす碧い瞳も、心なしか優しげに見えた。
そんな静かな時間は、鳥の羽ばたきで終わりを告げた。
来訪者は迷いなく、デュースの背後まで進み出る。
その背中を真っ直ぐ見詰める影は、エンジエルであった。
アリスと偽った時の街娘の格好では無く、少し厚手だが、露出の多いいつもの盗賊姿。外套を羽織っており、その背にある小さめのリュックは、ぱんぱんに膨れていた。
その姿は、すっかり旅装であった。
デュースは背を向けたまま、何も話さない。
「……あたしはAngelじゃ無い。あたしはあたし、Ang“I”elよ。」
そこでひとつ、深く息を吸って、
「兄の仇、ダイ・オフ!ヘラデン・ギルドマスター、ヴァルハロスの妹エンジエルが、お前の首を貰い受ける為に付いて行く!……付いて行くぞっ!!」
その決意の叫びに、鳥たちが再び羽ばたいて行く。その羽ばたきが去った後、デュースは少し微笑んだ。
「ふ……好きにすると良い。」
そして、傍らに置いた荷物を鞘に担ぎ、振り返らずに歩き出す。
それを見送ったエンジエルは、小走りに墓の前へ。膝を突くでも無く、手を合わせるでも無く、ただしばし見詰め続け、後、一度ぎゅっ、と目を瞑った。
心の中で、歳の離れたもうひとりの兄に別れを告げ、唯一残された仇と言う繋がりに縋り、天使は死神の後を追う。
この出逢いが運命の出逢いであった事を、まだふたりは、いや三人は、知る由も無いのであった。
老人はそこまで語ると、手にしたジョッキの底に溜まった、残りのワインを飲み干した。
「今日の、天使と死神の話はここまで。続きは、またの機会だ。」
つづく
あとがき
初めまして、若しくはお久しぶりです、千三屋きつねです。
ようやく2作目となる「Die off」の序章をお届けする事が出来ます。
私事ですが、年末年始に家族(猫)を立て続けに亡くし、PCも不調となり新調して、一人称から三人称へ変えての執筆にも苦戦し、とても時間が掛かってしまいました。
もうひとつ誤算だったのが、元となる戯曲版の存在です。
今作「Die off」は、20代の頃漫画用に設定を興し、PSのRPGツクールにてゲーム化して具体化、30の頃劇団活動をしている時に戯曲として文章化しました。
今回、小説版の執筆に当たり、細部を修正、再度煮詰める為にプロットを練り直しましたが、そこまでは元があるだけにすんなりでした。
しかし、いざ書き始めてみると、一々戯曲版を参照しながら書くから余計に時間が掛かってしまい、元があるからすぐ書き終わる、と言う目算が大外れ(^^;
先述の私事も重なり、執筆が遅々として進みませんでした。
「Die off」のベースは、日本ファルコムのシリアスシナリオRPG「ダイナソア」が大好きだったので、その影響を受けています。
主人公が寡黙な剣士である事、第一章の舞台ダイナス、及び街、城でのエピソードなどは、「ダイナソア」をオマージュしています。
もちろん、そのまんまな訳ではありませんけど。
多重人格の描写においては、後に読んだ「24人のビリー・ミリガン」の影響が強く、発想してからすでに何十年も経過しているからこそ、当時よりも多くの影響を受けた私と言うフィルターを通した物語になっているはずです。
文章の方は、「異世界なんて救ってやらねぇ」は中村うさぎを意識した、読んで楽しい一人称小説を目指しました。
「Die off」の方は、菊地秀行、と言うよりも、「吸血鬼ハンター」シリーズを意識した三人称小説を目指しています。
三人称にも不慣れな上、菊池秀幸の難しい言い回しなどを模倣しているので、今はまだ一行一行時間を掛けて書き進めている感じです。
ちゃんと「吸血鬼ハンター」の、おどろおどろしくもスタイリッシュで想像力を刺激する重厚な文章に、近付けているのか自信もありません。
これから何章も重ねて行って、いつか「吸血鬼ハンター」のような長く愛される独特な世界観を持つ物語になって行ければ。
それを目指して、精進し続けようと思います。
この後、第一章まではRPG化していた事もあり、プロットがすでに煮詰まっています。
ただ、第一章までは戯曲化もしてある為、多分また時間掛かります(^^;
色々と手探り状態での執筆でもありますので、気長にお待ち頂ければ幸いです。
読んで下さる方は少ないけれども、ひとりでも多くの方に、私が好きなようにこの物語を楽しんで頂けたら嬉しいです。
どうぞ、よろしくお願いします。
(※ちなみに、漫画用に興したデュースの設定画がこちら→http://www5f.biglobe.ne.jp/~Valhala/deuce_ver.1.0.htm)
2025年2月 千三屋きつね