表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

聖徳太子と四天王寺縁起

 大阪にある四天王寺がなぜ出来たかについて、四天王寺の縁起にこのような記述があります。


崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が仏教の受容をめぐって合戦が起こりました。

当時16歳のお太子さまは物部守屋討伐軍に従われました。

このときお太子さまは白膠木ぬるでの木で作った四天王像を頭に挿して、

この乱に勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立しその生涯をかけて衆生救済に務めることをお誓いなされました。


前も話しましたが、ここで問題としているのが

木で作った四天王像を頭に挿したという記述なのです。


よく見られるその時の聖徳太子の絵画にはこの場面はみえません。


つまり頭の周りに四天王像をおそらく、ひもか何かで固定して人々の前に

たったのだと思います。


そして、一本の矢を与えてそれで物部守屋を撃たせたのです。


これが何を意味しているかです。

四天王で囲まれたその中央にあるものが、聖徳太子と同一であるという教えなのです。


曼荼羅をご覧ください。その中央には仏が存在しており

自らがその仏になったという意味を表しています。

これは化身ともいえる行動です。


その矢は一撃にて高所で指揮を執っていた物部守屋を打ち倒し、物部軍は総崩れになり

劣勢であった蘇我軍は勝利することになったと伝えられています。


日本で仏教が受容された初期において、仏教(大乗仏教)がどのように捉えられてきたかが

わかる事例と思います。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ