7 マルファ
「初めまして、クトリさん。私はマルファ・ミュンヒハウゼン。以後お見知り置きを」
彼はそう言うと仰々しく一礼をした。
ここは街中の路地にある小さなバーだ。入り口が路地に面しておらず、人目に付きづらいので都合がいいのだろう。
「いやはや、先ほどはお見苦しいところをお見せしました。怯えさせてしまったかな?」
クトリは俯き、黙ったままだ。
「⋯⋯キルホフさんもお元気そうで何よりです。あなたの活躍は時々耳にしていましたよ」
そう言ってマルファは私の手を握る。私は無言でそれに応じる。
「そ・れ・と⋯⋯改めて、クトリちゃん、とお呼びすればいいのですかね?」
「⋯⋯っ!」
突然そう問いかけられ、驚いたのか、クトリは肩をビクッと震わせた。そしてメモ用紙に文字を書き連ねていくと私にそのメモを見せてきた。
『この人怖いです』
「あぁごめんなさい。怖がらせたのなら謝るよ」
マルファは私に差し出されたメモを覗き込むと、わざとらしく肩を落としながら言った。
メモの内容を見られてしまったクトリは、バツの悪そうな顔をしている。
この男実はこんな見てくれをしているが16歳という史上最年少で王立騎士団に入団を許されたとんでもない才覚の持ち主だ。
が、どういう訳か20の年で退団、その後はこの街で精神科医をしている異色な男。
こんなでも、私がここに赴任していた際に、家族の事故のことで自暴自棄になっていた自分を診てくれた恩がある。
「怖がらせたいたのなら謝らせて。そんなつもりはなかったんだ」
マルファは改めて椅子に座り直すと、今までとは打って変わって、真剣な面持ちで話し始めた。
「クトリちゃん、キミの事は大体キルホフさんから聞いてるよ。キミに何があったのか、どうして今の症状が出たのか。
⋯⋯そして僕はキミの事を治してあげたいんだ」
クトリはマルファの目をしっかりと見た後、こう書いた。
『よろしくお願いします』
「⋯⋯よし、それじゃあ始めよう。キルホフさん、悪いんだけど少しの間、席を外してもらってもいいですか? 」
私はその言葉に頷く。
マルファはそれを確認すると、クトリにいくつか質問をし始めた。
*
それから約30分後──外でベンチに腰掛け本を読んでいると横から肩を叩かれた。
見ると、そこにはマルファが立っていた。
「もう終わったのか?」
私がそう問いかけると、彼は頷いた。
「クトリちゃんには中で待ってもらってます」
そう言うと、マルファは私の横に腰掛け煙草をふかし始めた。
「それで、症状の方は? 治るのか?」
私は単刀直入にそう聞いた。
「えぇ、間違いなく治るでしょうね。根治はそう難しくはないと思います。ただ──」
「ただ?」
マルファは一息吐くと、こう言った。
「今のクトリちゃんの精神状態を正常に戻せるかどうか、これが問題です」
「⋯⋯どういうことだ? クトリの精神を治すのと失声症を治す事は同じ事じゃないのか?」
「確かに失声症は精神の異常からくるものではありますが、失声症そのものもは薬物療法なり、リハビリなどで治すことが可能です」
彼はそう言うと煙草の煙を吐き出した。
そして言葉を続ける。
「ですがそれと彼女を事件前の状態に戻す事はイコールではありません。彼女の心の傷は僕が思っていたより根深い」
マルファは煙草を消すと、ゆっくりと立ち上がり、私の目をしっかりと見つめこう聞いてきた。
「聞きたいことがあります。クトリちゃんには一体何があったのか──」
マルファがこの質問を通して私に聞き出そうとしている事は察せた。
私が彼に伝えた事以外に、何か別の要因がクトリをああさせたのではないかと、そう勘繰っているのだ。
私はマルファにあの黒のローブの男の事を伝えていない。
ロイがマリーネの死因に関する事を私に伝えたその晩に、彼は殺された。そこには触れてはいけない裏があるのは火を見るより明らかだった。
「⋯⋯特に何も。私がマルファに伝えたことが全てだ」
一瞬、沈黙が流れた。
その時間は恐ろしく長かった様に感じたが、ほんの2秒くらいだったのかもしれない。
彼は頷き、真面目な顔から一転、不気味なほど完成された笑顔を顔に貼り付けながらこう言った。
「そうですか! いやそれなならいいんです!」
パンッと手を鳴らすと、彼はこう続けた。
「それはそうと、クトリちゃんの失声症を治すために薬が必要ですが、今その原材料が手元にないのです」
わざとらしく大仰に身振り手振りを交えてさらに続ける。
「その材料とは、ずばりケルベロスの爪です!」
それを聞いて背筋が凍りついた。
「御存じかとは思いますが、ケルベロスと言えば別名地獄の番犬の異名を持つ魔物でしてね。その強さはさることながら、何より気性が恐ろしく荒っぽいのです。しかし私は生憎今後1ヶ月は診療の予定が埋まっている状態⋯⋯」
私の身体に嫌な汗が流れるのを感じた。
マルファが言いたい事は分かる、要はこのケルベロスと戦い、爪をもってこいという事だろう。
「察しがいいキルホフさんならもうこの後どうするべきか分かるでしょう?」
にっこりと笑うマルファは、手をこちらに差し出していた。
「⋯⋯クトリのためだ。仕方がない」
私はそう言うと、マルファの手を取り握手し、立ち上がった。
「それでは、必ず見つけてくださいね、キルホフさん」
そういった彼の表情は、先ほどまでとは打って変わって、こちらの心が冷え上がるほどの真顔だった。
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