5 クトリという名の少女
「ここは⋯⋯」
見慣れない天井だ。そう思い、私はゆっくりと上体を起こす。すると、私の横で椅子に腰掛けていたクトリと目が合った。
「クトリ、無事だったのか」
私がそう言うと、彼女は大粒の涙を零し始めた。
「あっ、うっ⋯⋯」
何か言いたそうに口を動かしているが、嗚咽のせいなのか、うまく喋れていないようだ。
私は彼女の背中をさすってやりつつ、落ち着くのを待った。
「あ、起きたのねキルホフさん!」
ガラガラっと扉が開かれると、看護婦らしき女性が活発な声で私の名前を呼びながら入ってきた。
「えっ。あぁ、はい」
私は一瞬状況が分からず戸惑ったが、すぐに状況を理解した。おそらくここは病院なのだろう。私は火事の現場から病院に運ばれ、治療を受けていたのだと。
「それにクトリちゃん、またここにいたのね! ここ1週間ずっとそうじゃない〜。貴女も病人なんだから安静にしてなきゃ」
クトリは無言で会釈すると、車椅子を自分で引きながら病室から出ていった。
そのクトリの態度に少し疑問を抱いていると、私が質問する前に、何かを察した看護婦の人が答えてくれた。
「クトリちゃんね⋯⋯」
先程までの明朗快活な雰囲気とは一転、真面目な面持ちでこう続けた。
「⋯⋯怪我の方は幸い大したことないんだけど、あの火事のショックで、声が出せなくなる、いわゆる失声症も見られるわ」
「失声症⋯⋯」
そんなことがあるのかと、私はクトリの消えた扉を見つめながらそう呟いた。
あの日、家族を失ってから、私は救える命は全て救うと誓った。鍛錬にも勤しんだ。
私は変われただろうか、あの時から。
目の前のロイを救えず、クトリにも心の傷を負わせてしまった私は⋯⋯。
「あんなに元気一杯な子だったんだけどなぇ⋯⋯まぁ火事でお店も、それにお爺ちゃんも失ったんだから無理もないけど⋯⋯」
「⋯⋯! ロイは火事で亡くなった訳ではー」
「⋯⋯ん? どうしました?」
「あ、いや⋯⋯何でもない」
私は口から出かけたその言葉を飲み込む。
あの事、特に黒いローブの男についてはあまり口外しない方がいい。
私の直感がそう訴えていた。
「まぁ今はロイさんの所の話じゃなくて、貴方の話よ」
そう言うと、彼女はこれまでの経緯を詳しく教えてくれた。
ここに担ぎ込まれてきた時は、失血で死んでもおかしくなかった事。
それから私が1週間は眠っていた事。
「それで、左腕の方は⋯⋯」
と、言いかけて看護婦は言い淀む。その視線の先には綺麗に包帯の巻かれた左腕があった。
「⋯⋯幸い切断には至らなかったけど、神経が傷んでいるわ。動かしづらくなるかも⋯⋯」
「そうか⋯⋯」
気まずい沈黙が流れる。
何か話をしないと、ロイの事を思い出す──あの時の事ばかりが頭をよぎって仕方がなかったのだ。
「まぁ命あっての物種よ、良かったじゃない!」
と言って彼女は私の肩を叩いた。
「それじゃあもうしばらく寝てなさい」
「あぁ、そうしておくよ」
彼女は扉を開けて、病室を出ていった。
あれから1ヶ月が経ち、退院の日がやってきた。
クトリも同じ日に退院で、未成年の身寄りのない人たちを預ける施設へと入る予定だ。
あれから毎日、クトリは私の病室にやってきて、何をする訳でもなくただじっとそばにいた。
「⋯⋯クトリ、私は今旅をしている。良かったら一緒に来るか?」
退院の1時間前、私はクトリにそう問いかけた。
「⋯⋯」
クトリは無言で私を見つめると、首を横に振った。そして何やらメモ用紙に書き始めるとそれを見せてきた。
『おじさんの邪魔になります』
筆談でそう言うのだった。
驚いた、文字が書けるのか。
きっとどこかで字を覚えたのだろう。
「邪魔なんて事はない。クトリさえ良ければ長旅の寂しさも無くなるし大歓迎だ」
そう言ってやると、彼女は静かに首を縦に振った。
あの事件以来、微かだが、初めて彼女が笑顔を見せた気がした。
「よし、そうと決まれば施設の人に断りを入れてこないとな」
私が立ち上がり、病室を出ようとすると、後ろからちょんとクトリにつつかれた。
『おじさん、行商人じゃなかったんですね』
「あぁ⋯⋯そ、そうだな」
差し出されたメモ用紙を見て、私は少し後ろめたい気持ちになるのだった。