4 遭遇
夢を見ていた。
彼女が私を呼んでいる。これは夢だ、分かっているのに、彼女の声が耳から離れなかった。
『あなた』
そんな優しい声を出さないでくれ⋯⋯
分かっているはずなのに、夢の中の彼女は一向に消えてはくれなかった。
『あなたは私たちを見捨てたの⋯⋯』
そんな⋯⋯! 違う⋯⋯! 見捨てたんじゃない!
『見捨てたの』
やめろ、やめてくれ。
そんなわけないんだ、絶対にそんなことはないんだ。
『貴方は自分の妻と娘を見捨てたのよ!』
悍ましい声が夢の中で反響して消えない。違う、私はただ⋯⋯君を⋯。
『あなたは結局口だけの男だったのよ!』
「やめてくれ!」
私は叫び、勢いよくベッドから飛び起きた。身体中から汗が吹き出しているのが分かるほど熱を持っていた。きっと酷い顔をしているだろうと思い顔を拭こうと手を伸ばすと、そこでようやく自分が泣いていたことに気づく。
「はぁ⋯⋯」
時計に目をやると、針は深夜の2時を指していた。
もう一度眠ろうと思ったが、目が冴えてしまっていて眠れそうにない。
仕方なくベッドから出て服を着替えた私は、水を飲もうと食堂に向かうことにした。
階段を降りている途中、外が騒がしいことに気がついた。
まだこの街に来たばかりで、外の事情には明るくないが、こんな時間に騒いでいるのも珍しい。
窓から外を覗いてみると、暗闇の中に松明の光が見え隠れしていた。
どうやら街の中央でなにかが行われているらしい。私は水を飲むという目的を忘れて外に出た。
宿を出てすぐに目に入ったのは遠くの方で燃え盛る炎と煙だった。
「火事か?」
私と同じく外に出ていた宿の店主に話しかけると、彼は頷いて肯定した。
「あぁ、そうみたいだ」
とうに眠気が覚めてしまっていたわたしは、人だかりを頼りに火事の発生場所へと向かっていた。
火元に近づくにつれ、見覚えのある街並みが目に入ってくる。
「これは⋯⋯」
そう、そこは今日滞在していた服屋のある通りだった。今まさに燃え盛っている店先のショーウィンドウは見る影もないが、確かにあの『銀の刺繍』と同じ外観の建物だ。
「なっ⋯⋯!」
考える間もなく体が動いていた。
「あっ、おいあんた危ねぇぞ!」
人混みを掻き分け、私は燃え盛る炎の中へと足を踏み入れた。
熱い、肌が焼けるように熱かったが構ってなどいられなかった。
「誰か! 中にいる人はいないか!」
声を張り上げて呼びかけるが、返事が帰ってくることはなかった。
2階に上がり、煙で視界が悪くなっている中、一つ一つ部屋の扉を開けていった。
「誰か! 頼む⋯⋯!」
3つ目の部屋を開けた時、わたしの予想に反し、そこに見えたのはロイでもその孫娘のクトリでもなく、黒のローブに身を包んだ男の背中だった。
「誰だ!?」
私の声に、そのローブの男はゆっくりとこちらを振り向いた。
「なっ⋯⋯!?」
一瞬思考が固まった。
男のローブは返り血に染まり、右手には血に染まったレイピアを持っていた。
「⋯⋯! ロ、ロイさん!」
男の後ろには、レイピアで貫かれたのだろうか、大量に出血し虫の息になっていたロイがいた。
「キル⋯⋯ホフ、マリーネの夫よ⋯⋯。孫を、クトリを⋯⋯頼んだぞ⋯⋯」
血を口から吐きながら、ロイはベットの方を指差した。
見ると、そこには力無くベットに肩を預け床に座り込むクトリがいた。
「それ以上喋るな!」
私は叫ぶようにそう言ってロイに駆け寄ろうとするが、男が立ち塞がった。
「⋯⋯っ、このっ!」
私は男の横を通り抜けようと、体勢を低くし突っ込んだが、男はレイピアを腰に収めると右腕を大きく振り上げ──私の目の前から消えた。
いや違う、あまりの速度にそう感じただけだ。次の瞬間には胸ぐらを掴まれていた私は、空中にその身を放り投げられていた。
「うっ⋯⋯!」
空中で一回転し、床に体を打ち付ける。鈍い痛みが全身を襲ったが、そんなことを気にしている暇はないとすぐに立ち上がり男の方を見た。すると男は既に眼前に迫っており──レイピアを振り下ろしていた。
(殺られるっ!)
そんな考えが頭をよぎるも、男が放った剣戟は私の体の僅か薄紙一枚を掠めた。
見ると、ロイが男の足元にしがみつき、
どうにか私への攻撃を防いでくれていた。
「⋯⋯」
それを見た男は、何の声を発することなく、剣を振り上げる。
「やめっ−」
私が言い切る前に、男のレイピアはロイの頭を貫いた。
勢いよく噴き出した血飛沫が、返り血となって私と近くにいたクトリの顔面に勢いよくかかる。
すでに茫然自失となっていたクトリは、何の表情の変化も見せない。
「あぁ⋯⋯」
次はお前だと、そう言わんばかりに男は私にレイピアを突きつけてきた。
死ぬのか? こんなところで?
ふと、視界の端にクトリが目に映る。
それと同時にロイの言葉が頭の中で響き渡る。
『クトリを⋯⋯頼んだぞ⋯⋯』
⋯⋯別に今日初めて会っただけの間柄だ。第一なんで俺はこんな火事の中店に突っ込んだんだ?
別に良かったじゃないか、見て見ぬふりをしていれば。あの時と、妻と娘の時のように、嫌なものには蓋をすれば。
「⋯⋯それは、ダメだ⋯⋯」
⋯⋯いや、違う、それは間違っていると直感的に分かってしまった。
あの時と今はもう違うんだ⋯⋯もうこれ以上後悔はしたくない。
見ててくれよマリーネ。
それは一瞬だった。
私は男のレイピアを蹴り上げ、一瞬狼狽した隙にロイが持っていたサーベルを、勢いそのまま振りかざした。
手応えはなかったが、私の一撃を避けた男は大きく後ろに下がっていた。
「クトリ!」
「⋯⋯!」
その隙を逃さず、私はクトリを抱きかかえ、そのまま窓へと走った。ロイが開けてくれたであろうその窓からは、まだ火が回っていない中庭が見える。
「絶対に助ける、 諦めるな!」
「⋯⋯」
クトリは何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだろう。ただ力無く私に身を任せていた。だがその瞳には僅かに生気が戻ったようにも見えた。
「捕まれ!」
2階とはいえ高所からの落下だったが不思議と恐怖はなかった。
クトリがいたので、まともな受け身は取れなかったが、池に落ちたのでその分衝撃は和らいだ。
急いで池から這い上がり、クトリも引き上げると、丁度男の方も私の後を追うように飛び降りてきたので咄嗟にサーベルを向け牽制する。
「クトリ! 下がってろ!」
着地した男は、一瞬たじろいだもののすぐに体勢を立て直し私とクトリの方へとレイピアを構え向かってきた。
(くそっ!)
私も迎撃態勢をとるが、既に向こうは間合いに入っている。
一撃でも食らえば致命傷だろう。
「お前は何だ? 何が目的でロイを殺した?」
冷静さを取り戻すため、私は男にこう聞いた。
「⋯⋯」
だが想像通り、返答は得られない。
男が後ろ足に力を入れるのがわかった。
来る⋯⋯!
一閃
その切っ先は見えてはなかったが、私はすんでのところで体を捻りそれを躱すことに成功した。
すると一瞬、ほんの一瞬だったが、男の脇腹が無防備になる。
すかさず私はそこに全体重を乗せ渾身の一撃を叩き込んだ。
「っ⋯⋯!」
手応えはあった。が、致命傷には至らなかったようで男はすぐに体勢を立て直し再び剣戟を放ってくる。
(まずい!)
避けきれないと踏み、サーベルで受け流そうとするも間に合わず、切っ先は左腕へと突き刺さる。しかし痛みなど感じている余裕はない──今目の前にいるこの男は私を本気で殺しにきているのだから。
もう一撃が来る前に、素早く男の腹部に蹴りを入れたが怯むことなく二撃目が放たれる──その時だった。
「おい、こっちに誰かいるぞ!」
火事騒ぎで集まっていた野次馬たちが、中庭の騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。そのうちの一人の声が私を救った。
「⋯⋯」
男はその声を聞くや否や、素早く踵を返しどこかへと消えていった。
(⋯⋯逃げたのか?)
いやそんなことはどうでもいい⋯⋯それよりも今はクトリだ⋯⋯!
私は刺された左腕を押さえながら、そのままクトリの側へと向かった。が──瞬間、緊張の糸が途切れ、左腕を激痛が襲う。
「くっ⋯⋯!」
これくらいの痛みは憲兵時代に幾度となく経験してきたので我慢できるはずだったのだが──思っていた以上に血を流し過ぎたらしい。体は言うことを聞いてくれず膝から崩れ落ちてしまう。
「クトリ⋯⋯大丈夫か?」
そんな私の様子を黙って見ていたクトリに声をかけると、彼女はコクっと頷くだけで何も答えてはくれなかった。
私の意識はそこで途切れた。