1 出発の日
旅に出ることにした。
「行ってくるよ、マリーネ、アン」
私は草原に佇む十字架の前で、そう告げた。
しかし、この挨拶もしばらくできなくなるだろうな。
私の国ピレオネから遠く西方にある国クトーリャにあるという、妻の生まれ故郷へ向かうのだから。
15年前の8月、今日のような心地よい風が吹いていた日だった。私の妻と娘は交通事故で逝った。
仕事で手一杯だった私は、妻と娘の死を悼む暇さえなかった。
……いや、違うか。
私はあの日、仕事を理由にして逃げたんだ。命を投げ打ってでも守ると誓った家族が唐突にいなくなってしまったという事実から目を背けていただけだった。その幼稚な私の心は、死から15年経って初めて事実に向き合う決心を固めたのだ。
或いは、40で仕事が定年になり、逃避する場所がなくなったが故の決心かもしれない。
事故にあったと知らされ、仕事を切り上げ病院に向かったが、ベットの上で顔を大きく腫らし、痣だらけけになり力なくうめき声をあげる妻と娘を見て、私は⋯⋯強い吐き気を覚え、すぐにその病院を後にしてしまった。
そしてその日から妻のマリーネと子のアンはゆっくりと、だが着実に弱っていった。
私はそれを忙しいからという理由で、まともに看取ることもできなかった。
まだ微かに意識はあり、話す言葉は十分に伝わったのに、掛けたい言葉はいくらでもあったはずなのに⋯⋯
そんな私が今更、妻の故郷の地へ行き、偲ぶ権利などないのかもしれない。
しかし、それでも行きたいと思った。
たとえそれが自己満足に過ぎないとしても。
「さて……そろそろ行こうかな……」
私は荷物を持ち立ち上がった。
するとその時、背後に気配を感じた。
振り返るとそこには、見覚えのない一人の女性が立っていた。
私よりひとまわりは若い女性で、毛の先まで全く乱れのない銀色の髪。若干の切れ目の真ん中にある瞳も同じ色をしている。
麦藁の帽子を被り、髪には青色の髪飾りがあった。
吹けば飛んでいってしまいそうな、儚い雰囲気に思わず妻を重ねてしまう。
「君は⋯⋯?」
私がそう聞くと女性は、こう私に問いかけてきた。
「⋯⋯ねぇ、マリーネは⋯⋯あの子は幸せだった?」
「⋯⋯え?」
思いもよらない言葉を投げかけられた私は戸惑った。
「えっと……どういう意味でしょうか?」
私の問いかけにも、こちらに顔を向けることなくただ黙っている彼女。
「それは分かりません。彼女に聞いてみないと⋯⋯」
私は言葉に詰まり、年甲斐もなく俯いてしまう。
ここで自信を持って幸せだったと言えない自分に、無性に腹が立つ。
⋯⋯彼女はマリーネとどのような関係にあったのだろうか。
思い返せば、私は妻のことを何も知らない気がする。
10年以上一緒に居たというのに、彼女のことについて知っていることはあまりにも少ないように思えた。
彼女がどんな人生を歩んできたのか、なぜこのような真面目以外取り柄のない凡夫に、あんなにも美しく素敵な彼女が結婚を承諾してくれたのか、ついぞ教えてくれることはなかった。
「そう⋯⋯分かったわ」
そう言うと彼女は立ち上がり、歩き始めた。私は慌てて声をかける。
「ま、待ってくれ⋯⋯君は一体誰なんだ?」
彼女は歩みを止め、こちらを振り返りただ優しく笑った。
すると、急に風が吹き荒れ、思わず目を閉じる。
私の胸元に麦わら帽が着地した感触があり、再び目を開けると、そこに先程まで目の前にいた女性の姿はなかった。
まるで夢でも見ていたのではないかと疑うほどに、跡形もなく消えてしまっていた。