タピオカ 5 年 11 月 6 日
結局、一つの言語(ソシュールの謂う langue)ってのは個々人の脳裏にある知識(個人言語とか idiolect というらしいが。parole はここから発せられる)の最も流通している部分を抽出したに過ぎないんだ。
日本語にしても北京語にしても英語にしても、個人の語彙は一致せず、大小がある。どうにか一致している部分で人はコミュニケートしてるんだ。
文字だって似てる。京大の先生ですら(「看做す」の)「做」を「日本語では用いられない漢字」と断言していたが、その人が日本語で用いないだけなんだ。
言語や文字を均質な体系だと看「做」してはならない。
「『日本(語?)の漢字』と『中国(語?)の漢字』は同じ体系か」って問題も、結局個人の脳裏でどうなっているかが問題なんだ。日本人は北京語を学ぶ時、基本的に漢字ドリルの類を用いない(用いる人もいるかも知れないが)。「骨」「直」「春」の相違なんかも、せいぜい個々に学ぶ。寧ろ日本や中国以外の人こそ、日本語と北京語を両方学ぼうとすると、両方の細かい相違に気付くんじゃなかろうか。
文字コードも何だかんだで妥協せねばならない。
ところで、Unicode は漢字を unify したとはいうが、この件に関しては「多少違う字体も『統一』する」という意識があって、結果揉めた。「同じ文字を同じ文字と認める」、即ち identify とは、やはり違ったらしい。identify なる手法を採れば、「机」「粉」のように、違う要因から一字で複数の「意味」を持った文字が「別の文字」扱いされ、見かけ上の重複符号化をされ兼ねないかも知れないが。――そりゃ、今の Unicode にも重複符号はごまんとあるが。「Ð」とか。
以上、私の渾身の文字論。解って貰えるだろうか。