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丘の上のムンク

作者: 豊田啓介

そいつはまさに空から突然、ふってわいたとしか言いようのないものだった。いつものようにタバコを吸おうとベランダに出た僕は、ふと何気なく見上げた目線の向こうで佇んでいた存在に、射ぬかれたように目がいった。

ん?なんだ、あれ!と思わず声に出してしまったほど、それは不思議で奇妙な光景だった。

うららかな朝の日差しが降り注ぐなか、春先のぼんやりとした上空に、そいつはぽっかりと覗いた穴底みたいに真っ黒な形でへばりついていた。ちょうど太陽と横並びになる感じで、そいつは僕から向かって左側に三十度ぐらいの位置にあった。大きさはほぼ太陽と同じぐらいの輪郭で、まるでコインの裏表のように、そいつはくっきりとした黒い円形を要していた。

皆既日食?なわけないか、現に横で太陽が燦々と輝いているわけだし。戸惑った僕はタバコに火をつけるのも忘れて、そいつをしばらく凝視するしかなかった。

これはまだ夢の続きを見ているんだろうか?僕は急に現実感が持てなくなり、シュールな絵画の世界に迷い込んだような気分に陥った。だがそうしているうちに、なんだかバカらしい気分にもなり、そいつは黒いアドバルーンかなにかだろうと、僕は都合よく自分に解釈しては、無くしかけた現実感を取り戻そうとしたのだった。

僕はタバコを吸うのをやめてベランダをあとにすると、彼女が寝ている部屋へ戻った。そこにはいつもの見馴れた世界があった。2Kの賃貸マンションの一室。彼女の部屋は五階建ての最上階だ。六畳の一室はベッドが三分の一を占め、他にドレッサーやら衣装ケースやら必要最小限の家具が整然とコンパクトに配置されていた。

僕はベッド脇に置かれていたミッキーマウスを型どった目覚まし時計にチラッと目をやった。デジタルの数字が十時十三分を表示していた。今朝の彼女はいつになくスヤスヤと、こんな時間帯まで寝入っていた。たいてい僕のほうがあとから起こされることが多いのに。疲れが溜まっているんだろうか。そう言えば、ここのところ仕事以外に雑用が多くてとかなんとか言ってたっけ。僕はそんな彼女の寝顔を立ったまま壁にもたれて、なんとなく遠目からしばらく眺めた。僕の前で化粧を落とし無防備に口を半開きにして寝入っている彼女の姿は、どこか愛らしかった。そして奇偶にもお互いがこうした関係に陥ってしまった事実が、あらためておかしくもあった。そんな風な思いがあれこれ浮かぶうちに、僕は急に思い出したみたいに、またさっきのことが気になって、その足で台所へ向かうと冷蔵庫からペットボトルに入ったスポーツドリンクを取り出し、もう一度ベランダへ出てみることにした。

スポーツドリンクを口飲みしながら、あの黒い物体はもうどこかへ飛び去ってしまっただろうか?と僕は考えつつ、はたしてベランダへ出てみると、そいつはやはり依然として太陽と並走するようにピッタリくっついていた。そして心もちさっきより両方とも高い位置に上昇していた。このいかにも奇妙な状況をすぐには理解する手立ては、いまの僕には持ち合わせていなかった。いや、というよりその後実際、誰にも理解できなかったのだ。僕はあきらめたように、またベランダをあとにした。

部屋に再度戻ってみると、彼女がちょうど起きたところで、部屋着に着替え中だった。濃い紫がかったブラジャーのホックを止めてる最中で、白く透けたような背中に、それは浮き立った印象を僕に与えた。仕事柄、普段は髪を短くうしろで束ねてる彼女だが、いまダラリとその長い髪がヘビのように首に絡まって、それがまた僕には妙に艶かしく、急にそそるものがあったのだ。ましてや昨夜は彼女が前日に生理が始まったとのことで(そいつを切り出されると、たいていの男は萎えてしまうもので)エッチできずじまいに終わり、なおさらだったのだ。


僕たちは付き合い始めて、ちょうど一年が経とうとしていた。そして今ではこんな形で土日を通じてほぼ毎週、彼女の部屋で二人して過ごす習慣がついてしまっていた。彼女は僕より四つ年上で、歯科衛生士としてちゃんと自立した生活を送っていた。僕はといえば、まだ大学二年の学生の身であった。

彼女との最初の出会いは、僕が中二の時まで遡る。その時彼女は高三で大学受験を目指していた。彼女を知ったきっかけは、彼女の弟と僕が同じ中学のクラスメイトで、それでいて彼とはけっこうウマがあったものだから、そのうちにお互いの自宅を交互に行来しあってたなかでの出会いだった。そんな僕と友人の互いの部屋を訪ねあうといった付き合いも、そこで何をするといった風でもなく、それぞれにゲームやパソコン、マンガ、DVDなどに興じては、安穏とただ時を過ごしていたのであった。なんのことはない要は僕たちはクラブに入るでもなく、いわゆる帰宅部ってやつにどっぷり浸かりながら中学生活を送ってしまっていたのである。

で、その友人の自宅で彼女と何度か出くわす機会に巡りあえて、自然と挨拶程度の言葉を僕は交わすようになったのだった。ハッキリ言って、彼女は素敵だったし(今でも)僕のタイプでもあった。そんなわけで、僕は友人宅で彼女と目が合う度に心臓をドギマギさせたのだった。また、ある時のこと、友人宅は3LDKのマンションで、そのリビング越しにベランダに干してあった、どう見ても若い女性のものとしか思えない下着が、風にそよいで揺れてるのを一瞬垣間見たりなんかすると、僕の妄想はもうどうしようもないくらいに爆発的に膨らむばかりだったのだ。こうしていつからか僕のなかで友人宅を訪ねる目的が、彼女目当てへと半分以上変わっていったのは自然の流れだった。当時中二の僕からすれば、彼女は断然大人っぽいお姉さんに見えたのは言うまでもなかった。だが、そんな色気づいた僕の思いも、突然の友人の家庭の事情とともにあっさり遠くへと片付けられてしまった。友人一家は住んでいたマンションを売り払うと、一戸建ての家を購入し、父方の実家がある隣県へと引っ越してしまったのである。

ところがそれから五年後、僕と彼女はまったく偶然にも、今度は患者と歯科衛生士といった立場で再び巡りあう機会を得たのだった。初めからすぐに彼女と気付いたわけではない。なぜなら僕には彼女=歯科衛生士といったイメージがすぐには結び付かなかったし、自分の地元周辺の歯科医院に彼女が勤めていたこともちょっと解せなかったからだ。

以前からチクチクと歯の痛みを抱え込んでいた僕はついに耐え切れなくなり、母親にどこか適当な歯医者はないかと訊ねたところ、ひと駅先の駅前に評判の歯医者があると聞いて訪ねたのがこの歯科医院だった。駅前ロータリーを挟んだ向こう側、こじんまりとした四階建てのビルの三階にその歯科医院はあった。

なかへ入ってみると、中年の男の先生以外は受付を含め五人の女性スタッフが働いていた。午後一番の予約を取っていたので、僕は問診票を書かされるとすぐに診察室へ呼ばれた。

診察室へ入って最初に気付いたのは彼女のほうだった。多少顔立ちは変わったが、見覚えのある僕の顔と名前がそこにあったのだ。僕はといえば、治療台の上で緊張してそれどころではない。何年ぶりの歯医者だろう、気の進まない日々がこの先しばらく続くと思うと憂鬱になった。診断はやはり虫歯、それもけっこうひどいものだった。

思ったより検査やら治療で初日から手間取る。ようやく治療を終えると、治療台の僕に一人の女性が近づいてきた。女性は僕の首に掛かっていた治療の際の前掛けをはずしてくれると、やおらしていたマスクをはずし、僕の名をクンづけで呼んだのだった。

突然のことで治療台の上でキョトンとしていた僕に、女性は自分の名を告げ当時のことを振り返った。そこで僕もようやく彼女だと知り得た。まったく思いもよらない出会い、それに彼女は以前よりも増して美しく僕には映った。それからは週に一回、二ヶ月に渡って僕の治療は続いたのだった。歯科医院に通う苦痛よりも、彼女とまた接することのできる喜びのほうが僕の心のなかで断然勝っていた。

とはいえ知りあいの歯科衛生士に、それも密かに思いを寄せる女性に自分の口の中を覗かれるというのは、それこそケツの穴を覗かれるに匹敵するほど嫌な思いを抱いたのも事実だった。そんな思いを胸に抱きつつ、いよいよ治療も最終段階に入った頃、最後に彼女が僕の歯石を除去する担当となった。この時僕はある決意をもって治療台に臨んでいた。

歯石除去専用のような別室の治療室に案内される。そこで僕は静かに治療台の上に横たわると、彼女に身を任せることとなる。パチンと音が鳴って治療台の照明が光り、彼女の澄んだ瞳だけが僕の視界に入った。彼女の顔がだんだん目の前に近づいてくる、まるでキスを求めるみたいに。こんなにも近くに彼女を感じたのは、その時が初めてだった。僕は思わず目を閉じた。

「はい、口を大きく開いて」と間もなく彼女の指先が僕の口の中へと絡んできた。湯葉のように薄い医療用手袋を通して彼女のヒンヤリと冷たい指先が、まず始めに僕の口元の右側をまさぐった。「じゃあ、始めますね。最初は右側から、少し痛いかもしれないけど」その説明に僕は一瞬身構えた。と同時に狭い室内に細かな機械音が響き渡った。

「痛くない?」と彼女がマスク越しにくぐもった声で訊ねる。

「あっ!はい」と開いた口のまま応えた僕の声は判然としない。

繰り返し彼女は僕の口の中を探索するように視線を送った。僕はといえば折に触れて目を開き、その度に彼女の瞳に吸い込まれていった。何と言っていいのか、痛いのに何故か幸せな不思議な気分だった。それからのち、彼女がまた僕の口の中を指でまさぐった。その行為に今度は唇だけでなく、僕の体は下半身にまで敏感に反応した。そしてその瞬間、僕は何を思ったのか衝動的に、彼女の指先を軽く包むように口に含んでいたのだった。すると、

「あっ!」と彼女は短い驚きの声をあげ、作業の手を止めた。僕は咄嗟に、

「すいません。ずっと口を開けてたものだから…、そのう、顎が疲れて」などとぎこちない言い訳でもって、狼狽しながらその場を取り繕った。一瞬、変な間が狭い室内に漂った。が、そのあと彼女は優しい瞳で僕に微笑みかけ、何事もなかったように振る舞ったのだ。

「はい、じゃ一度口をゆすいで」彼女はそう言い、そこでいったん仕切り直しを行うと、また続きの治療を淡々と進行させていった。

刻一刻、治療の終了が迫ってきていた。今日はやけに治療時間が短く感じられた。初めてこんなにも近くで彼女を感じたせいもあるし、何よりもこの日の僕は彼女に対してある決意を胸に秘めていて、治療中もずっとそのことが頭のなかでひっかかっていたのだ。おまけにその決意をどのタイミングで実行するのかも僕は迷っていた。そうこうするうちに、いよいよその時がきてしまったのだった。

「はい、これで一応治療は今日ですべて終了です」彼女はそう告げると、僕のうしろに回って治療用の前掛けを首からはずした。そして再び彼女が僕の前に現れた瞬間、僕はあらかじめ胸ポケットに用意していたメモ用紙をやおら取り出すと、目も合わさず彼女の前に突き出したのだった。

「あの、これ、僕のメルアドです。迷惑でなかったら返事ください」

僕は少し声を上ずらせ、彼女はというとまるで駅前で配る宣伝のチラシを受け取るみたいに、意味もなく無造作にそのメモ用紙を受け取った。それから僕は逃げるようにして彼女の脇をすり抜けていった。

翌日、ほとんど期待せずにいた僕の携帯電話に彼女からメールが届いた。そこから僕たちの付き合いが本格的に始まっていくことになる。そして最初から二人の関係はすべてにおいて、彼女に立ち位置の優位があった。実際に二人して会い始めると、なぜ彼女が僕の地元周辺の歯科医院に勤めるようになったのかもわかった。彼女によると以前から両親との間で折合いが悪かったらしく、早くから独立して離れたかったらしい。そこで、かつて慣れ親しんで知っている友人もいるこの街に舞い戻ってきたというわけだ。


部屋着に着替えた彼女は最後にダラリと垂れ下がったままの長い髪を、ヘアバンドを使って器用に後ろ手で束ねた。僕はかねてから彼女に限らずそうした女性の所作が好きで、子供の頃から慣れているとはいえ、いつも上手い具合に髪を束ねるもんだなぁと、つい見入ってしまうのだった。そんな様子を彼女の背後からずっと黙ってうかがっていると、気配を感じてか彼女は突然振り返ってみせた。

「いやぁね、ずっとそこで見てたの?」

軽い軽蔑の声の調子とは裏腹に彼女の目は笑っていた。僕もただ曖昧に含み笑いで頷いてみせただけだった。

「あ~あ、よく寝た」

誰に語りかける風でもなく彼女はそう呟いてみせると、その場で大きく伸びをした。そして、伸びた体を今度は収めながら彼女はチラッとミッキーマウスの置き時計を見やり、また言葉を続けた。

「十時半か、中途半端ね。でも、おなかも空いたし」

「じやぁ、今すぐ食べる?」と僕が間髪入れずに問いかけてみせると、

「うん、そうしよ。お昼はお昼でお腹空いた時に何かまた食べればいいじゃん」

さらりと彼女はそう言うと、早速狭い台所に立った。仕事と同様、彼女の手料理もてきぱきと手際がよかった。冷蔵庫の余り物を上手い具合にアレンジして、サッと食卓に並べることも度々あったのだ。

僕と彼女は小さなダイニングテーブルを挟んで、向き合って椅子に腰掛けた。フレンチトーストにツナサラダ、ベーコンエッグと煎り立てのブラックコーヒーが二人の間で香り立った。

「あのさぁ、今朝起きてね、いつものようにタバコ吸おうと思ってベランダに出たらさ、変なのが太陽の脇で一緒に並んで浮かんでいるのを見たんだよ。それがね、太陽と正反対に真っ黒で丸いやつなんだな。いまどうなってるかわからないけど、あれは不思議な光景だったな」

僕は食卓につくなり、早速ちょっと前に目にしたあの出来事を彼女の前で興味深く披露してみせた、この話に彼女も恐らく乗ってくるだろうと思って。

「ふうん、お日様みたいに丸くて、けど真っ黒な物体が、空にねぇ」

ところが彼女はそれに対してどこか話半分のような訝りの表情を見せ、そのまま僕の言葉を同じようにおうむ返ししてみせたのだった。

「いや!ウソじゃないよ、ホントだってば!」その時僕は多少ムキになって反論していた。

「うん、わかったわかった、ウソなんて言ってないじゃん。なにもそんなにムキにならなくても。じゃあさ、後で一緒に見に行ってみよ」と彼女はまるで駄々っ子をあやすように、今度は僕をなだめにかかったのだった。

その後、食卓はたいして話も弾まず、傍らにあったテレビから垂れ流されるくだらないバライティー番組だけが、妙に部屋の中で響いたのだった。

食後ほどなくして僕はタバコが吸いたくて、またベランダへと席を立った。それに合わせるかのように彼女も慌てて僕のあとについてきた。ベランダへ出ると、彼女は僕の右肩に手を添え、空を見上げては肩越しに問いかけた。

「ねぇ、いまお日様はどのあたり?」

「うーん、お昼近いからちょうどマンションの真上あたりかも。それにちょっと雲も出てきたし」

「じゃあすぐには見えないね」

「ああ、そうだね…、やっぱり俺寝ぼけてたのかな」

その時、マンションの下から甲高い子供らの声が突然こだました。それに交互するように今度は遠くで子供を叱りつける、けたたましい女の声が重なった。と同時に言葉にならない泣き叫ぶ子供の声が上がり、しばらく聞く者の耳を突き刺した。

「どっか知らないけど、最近しょっちゅう子供の泣き叫ぶ声が聞こえてくるのね。日曜日の朝からいやだわ」うっとしそうに彼女はそうボヤくと、ベランダの手すりに身を乗り出さんばかりにしてマンションの敷地内をグルっと見渡した。

「虐待?」と僕がボソッと呟くと、彼女も同じように感じていたのか、

「かも?」とわりと平然とした表情で僕の見方に賛同した。

いつの間にか雲行きは一段と怪しくなり、生暖かい風が彼女のほつれた前髪をクルクルと舞い上がらせていた。マンションの下はけっこう広い駐車スペースになっていて、しかも対面と側面に別の新築マンションが建ち並んでいたため、敷地内はちょうどコの字型に谷底のような様相を呈していた。そこから吹く風が時折マンションの壁に当たって渦を巻くと、下から舞い上がってくるのだった。

「なんか雨降りそう。さっきまであんなに天気よかったのにね」そう言ってから、まるで空模様と合わせるかのように彼女の表情も曇った。

「ああ、そうだね。いまにも降りそうだ。せっかくの休みなのに」と僕が言葉を返したさきから、ポツリと雨粒がベランダの手すりを持つ自分の手の甲に当たった。

結局、その日の午後からは一日中雨が降ったり止んだりのぐずついた空模様が続いた。そんなこともあって日曜日にも関わらず、彼女は気分的にも肉体的にも表へなど出る気にもなれず、僕にしてもそんな彼女を外へ連れ出す無理強いはしなかった。こうしてとりたてて何をするでもなくダラダラとした気分の午後を、二人して部屋の中でずっと過ごすことになった。

遅い昼食を冷凍食品をチンして済まし、夜は夜で宅配ピザを注文したりなどした。その間、ビデオ録画していた外国映画を鑑賞したり、互いに携帯のゲームに興じたり、時には僕は僕でテレビのスポーツ番組に目がいって、彼女は彼女で携帯から音楽を聴き取りながらベッドに横たわったりした。


夜十時をまわったところで僕は彼女のマンションをあとにした。彼女のマンションは勤めている歯科医院の最寄りの駅からさらに駅を三つ下ったところにあった。したがって彼女のマンションから僕が住んでいる実家までだと、駅の数でいえば四つ分の距離があった。

実家に帰る頃には雨はすっかり止んでいて、時々雲の切れ間からおぼろ気に月の光りが滲んでいた。毎週土曜日に彼女と待ち合わせ、その後そのまま彼女の部屋で一泊し、日曜日の夜に実家に帰るというのが大方のパターンだった。

日曜日の夜十時過ぎともなると、プラットホームの人影もまばらだった。急行の止まらないどこにでもある似たような駅前ロータリーから、商店街のアーケードを通り抜け、十分ほど歩いたところに自分の住む実家があった。道端の狭い古い住宅街で、整備されないままに路地が蜘蛛の巣状に入り組んで広がっていた。

二十年以上前に父親が中古で買ったささやかな二階建ての一軒家、その支払いもついこの間までかかっていた。

玄関を入ってすぐ脇のリビングからはいつものようにテレビの音が聞こえていたが、今夜は珍しく物音に気づいた母親が浮かぬ顔で僕の帰りを出迎えたのだった。

「お帰り」と浮かぬ顔同様、母のその声にしても心なしか沈んでいるように聞こえた。

「ああ、うん」とだけ応えた僕はその場では生返事を装ったものの、瞬間的に何か胸騒ぎを覚えるものがあった。

「ねぇ、後でちょっとアンタに話したいことがあるんだけど…」

「えっ、ああ…、そう。じゃ、先に風呂入ってそれからでもいい?」

「そうね、それでもいいわ。それじゃ後で」

「親父は?」とその時咄嗟に僕は、何故か父親のことを訊ねていた自分にさしたる意図はなかった。

「今夜はもう床に就いたわ」

「へえ、あ、そう」とだけ僕は短くその場は応えたものの、母から返ってきたその言葉は、僕にしてみれば多少意外なものだった。というのは父親がこんな時間帯から床に就くというのも珍しいことで、その点でも何か引っ掛かるものがあったのだ。

自室のある二階へ上がった僕は着替えを済ませると、再び風呂場のある一階へと向かった。途中、階段の手前で一度立ち止まった僕は、階段を挟んで向い側にあった見馴れた父親の寝室を、今日は何か違った目で一瞥し一階へと降りていった。


家のなかは一人息子であった自分を含め両親と家族三人暮らしで、他に父親が最近趣味で始めた熱帯魚がそこに加わった。一時は父方の祖母が一緒に同居していたこともあったが、僕が小学校に上がる前にその祖母は他界してしまった。それでも僕のなかで鮮明にその祖母との記憶は刻まれていた。

いわば、ごくありふれた平均的な家庭に僕は育った。ある中小企業の経理畑一筋の父親と、子育てしながら甲斐甲斐しくパートで生活費の一部を補ってきた母親らの姿がそこにあった。

彼らは何かにつけて息子の意見を尊重してきた。だから例えば高校、大学の進学先などについても、もめるというようなことはなかった。また、両親とも息子の普段の行動にいちいち詮索するようなところもなく、彼女とのいまみたいな付き合い方をこれといって咎めずに自由にさせてくれていた。


サッと風呂から上がった僕は寝る前の支度もそこそこに、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと母親が待つリビングへと向かった。リビングではテレビを前にして母親がソファーにちょこんと腰掛けていた。流れているニュースを見ているというよりは、ただ何となく眺めているといった風で、ボンヤリと彼女はそこに佇んでいた。

人が入ってきた気配に気づいたのか、母はハッとして我に返ったようだった。缶ビール片手に側で突っ立っていた僕を、母はどこか虚ろげな目で見上げた。

「話って、なに?」切出したのは僕のほうからだった。

「うん、まぁ、…それより、そんなところに突っ立ってないで、そこにお座んなさい」

促された僕は、母の横顔を見る形で傍らのシングルソファーに腰掛けた。さっきからテレビ画面を通じて騒がしいニュースレポーターの声が鳴り響いていた。母はテーブルの上のリモコンを取り上げると、どこかイラついた表情でぶっきらぼうにテレビの電源を切った。部屋の中が一瞬にして静まり返った。母は一呼吸置いてから、言葉を選ぶような硬い口振りで僕に語り始めた。

「実はね、あんたには今まで黙っていたけど、お父さん明日ね色々あって、精密検査受けなくちゃならなくなったの」

「えっ、…ああ、やっぱりそうなんだ、何かあるなと思った。家に戻った時から、今夜はどうも様子がおかしい気がしたんだ。そっか、それで実際いまどういう状況なの?親父の具合、それまでの経緯も知りたいし」

「そうね、そうよね、いつまでも隠しておくわけにもいかないし」

「隠す?なんだよ、それ。何で隠したりする必要があるんだ!家族で」

そんな思わずこぼした母の言葉に、僕は妙に敏感に反応してしまって、気持ちを抑えきれずにムキになって反論していた。

「ああ、そ、そうよね、あんたの言うとおりだわ。だけどね、だけど母さんこのことで、あんたにあんまり余計な心配や負担かけたくなかったのよ。だってあんたまだ学生の身だし、これから色々やることあるんだから落ち着くまでに」

と言いながら母の顔がだんだん不安と焦燥で、ブクブクと青ざめていくのが見てとれた。そんな母の姿を初めて見た僕は、今度は逆に自分がウロたえることになる。

「ごめん、ごめん、そうじゃなくて、そうなんだここは僕が落ち着かなくちゃ。それでそれでさ、とにかく親父はいまどう具合が悪いの?」

聞かれた母はそれでも両手で顔を覆いながら、前屈みの姿勢のまましばらくじっとしていた。僕のほうにしても掛ける言葉を失っていた。それからようやくして母は顔を上げると、腫れた目を手で擦りながらポツリポツリとまた話を再開した。

「あれはいつぐらいだったかしらねぇ、お父さんと夜二人で食事していた時だからたぶん日曜日には違いないわ。食事中突然ね、お父さん言ったのよ、ここんとこ変なんだって」

「変って?」とその時僕はすかさず聴き返していた。

「それが、この頃食事してると、たまに何か物が途中でつっかえる感じがあるんだってお父さん言うの。食べ物が上手く呑み込めない感じがあったみたいで。それでも一時期はそんなこと知らないうちに忘れるぐらい、普通の状態に戻ったこともあったんだけど、それからしばらくしてね、今度は前以上に食べ物が喉につっかえる状態が続いて、そのうち声がかすれてきたり体重も少しずつ減ってきたりしたのよ。あんまり様子がおかしいもんだから、それで…」

「それで、とうとう親父病院に?」

「そう。知ってるでしょ、あんたも、お父さんの病院嫌い。でも、そんなこと言ってられなくて。とりあえず最初はどこで診てもらったらいいのかわからなかったから、近くにある掛り付けの西村クリニックへ行ってみたの。そしたらあんた、このまま放っておくと良くないから、もっと設備の整った総合病院で精密検査受けなさいって言われたのよ、ガンの疑いがあるって。もうあたし気が動転しちゃって」

「ガン?」

「そう、食道ガンの疑いがあるって」

「食道ガン?…、それで明日検査することになったんだ」

「西村先生言うのよ。ガンって言ったって、日々治療法は進歩していってるから、ましてや初期段階であれば悲観することもないって」

「うん、そうだよ、心配ないって母さん。あの親父はそう簡単にくたばるもんか」

と言いながら僕はふいに、子供の頃夏休みに親父と二人で行ったプールでの、父親の肩幅広い背中を思い出していた。

「そうだね、あの人ほんと病気らしい病気しなかったもの。だから今回は尚更だわ。あんたもしっかりしておくれよ。もしものことがあったら、母さんあんただけが頼りなんだから」

「また泣く、心配すんなって」

と僕は口ではそう気を吐いたものの、突然の出来事に内心気持ちの整理がつかず、頭のなかは右往左往していた。

その夜、家のなかは三人がそれぞれに思うところがあって、悶々とした寝付きの悪い夜を過ごしていかなければならなかった。


自室に戻った僕は疎ましい静寂を嫌って、すぐにテレビのリモコンに手がいった。あれこれと深く考え込んでしまう余地を、作りたくない気分だったのだ。そうしてチャンネルをいじくっているうちに、僕はある画像を前に一瞬にして手が止まってしまった。画面に写し出された映像には、今朝自分が見た光景がそこにあったのだ。ただひとつ違う点は、それは海外から届いたニュースレポートだったのだ。

ニューヨーク市内の摩天楼の頂き、太陽の横にそいつはまさしく黒々と輝いていたのだった。その様子をまくし立てる女性レポーターの脇では、多くの通行人が同じ方角を向いて、手をかざし指さして空を見上げていた。続いて画面が切り替わり、今度は東京の上空に例の光景が写し出された。

僕はリモコンを手にしたまま、茫然とテレビの前でしばらく立ち尽くしてしまった。頭のなかは親父の件も重なって、ますます収拾がつかなくなっていた。ドロドロとした得体の知れない不安が体中に渦巻き、僕は目眩をおこしそうだった。

チェッ!なんて夜だ!僕はそう舌打ちすると、咄嗟にもう一度階下に降り、冷蔵庫から三本の缶ビールとつまみにチーズを取り出し、また自室へ 戻った。何も考えたくない、酒の力を借りて寝る算段だったのだ。


翌朝、目を覚ますと十時を過ぎていた。それほど飲んだわけでもないのに、起き上がるとキリキリとこめかみあたりが痛んだ。父と母はすでに家を出たあとだった。食卓の上には母からの書き置きのメモ用紙があった。

(お父さんからの伝言、先のことはわからんが、少なくとも大学卒業に関しては心配無用とのこと)

僕はメモ用紙を取り上げると、そいつをクシャと片手で握り潰し、傍らのゴミ箱に投げ捨てた。ガランとした台所に、カサッという乾いた音がした。

僕はかったるい気分で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しと、沈み込むようにして食卓の椅子に背もたれた。その時、捨てたメモ用紙の横にあった朝刊の大見出しがふと僕の目に止まった。

『謎の黒い物体、世界各地で目撃される』

記事によると、そいつはかなり高度な位置にあって、大きさも直径数百メートルはゆうにあるだろうと報じられていた。アメリカではこの段階でいち早く、ペンタゴンなどが動きを進めていて、空軍の偵察機による調査が開始されようとしていた。時間が経つにつれ、そいつの存在は不安を伴って世界各地で広がりを増し伝染していった。

そしてこの一件で、数年前から流行り出し、連日伝えられている新型ウィルスや大国による侵略戦争の報道は、しばし遠のくこととなってゆくのである。

僕は記事を読むのもそこそこに、猫の額ほどの庭先に立った。庭先には母親が日頃から、せっせと集めた鉢植えの花がところ狭しと並べられていた。その鉢植えのどの花にも、柔らかな陽光が降り注いでいた。

と、庭先を隔てた道端で二人の主婦らしき中年の女性らが、お互いに時々上空を見上げては、マスク越しではあるがどこかしら不安気な表情で立ち話をしているのが見えた。女性たちと合わせるように、僕の視線も自然と同じ方角に向いていった。

見ると、太陽に寄り添うようにヤツはまたしても僕の目に映ったが、それでも僕はそうした奇妙な状況に、いまだにリアリティーを持てないでいた。きっと誰もがそう感じていたに違いない。いったいぜんたい突然何が起こったのか、神の悪戯か、悪魔の仕業か、人々はまったく戸惑うばかりだったのだ。


その後、日を追うごとにヤツ(次第に僕のなかで一種の憎しみのようなものが、こう呼ばせていた)に関する報道が世界中のマスコミ各社で加熱していった。テレビ、インターネット、新聞、雑誌など各方面を通じて、ヤツに関する様々な憶測が飛んだ。連日のように報道特番や特集誌面が組まれ、みんながこぞってヤツの正体を暴こうとした。名の知れた物理学者や天文学者、気象学者など考えられるありとあらゆる専門家が、とっかえひっかえ呼び寄せられ誌面、画面を賑わせた。そのうちに、いかがわしい超常現象を唱える新教宗教の団体やヤツをネタに詐欺まがいの行為を企てようとした者まで現れてくる始末だった。

こうしてヤツに関する諸説が勝手にあちこちで出回ることとなる。ブラックホールの変形ではないかという者、小惑星説、UFO説、はたまた新手のテロ集団による仕業か、なかには第二のノストラダム終末論をぶちまける者まで出てきた。


一方、この問題は会期中であった日本の国会でも取り上げられ、ありきたりの野党の質問に、首相も防衛大臣も文部科学大臣も各国と連係を密にし、目下情報収集に努めていると、これも判で押したような答弁に終始した。やはり実際のところ、多くの国がこの件に関してはアメリカ頼みで、ペンタゴン、NASAなどを中心に無人偵察機、人工衛星等を駆使してヤツを追跡し探索、結果おぼろ気ではあるが、ヤツの輪郭が少しずつ浮かび上がってはきていた。

それによると、ヤツはどうやら霧のようなガス状の塊として空中に存在していて、したがってミサイル等によって破壊されるような代物ではないことが先ず第一に確認された。次に放射能に代表されるような有害物質は発していなかったが、どういった物質でヤツが成り立っているのかは依然つかめないままでいた。もしかすると、地球上に存在しない物質であるといった可能性もあった。

また、ヤツは(もしくはヤツらといった指摘も)変幻自在、神出鬼没といったかっこうで、目まぐるしく瞬時に消えたり現れたりしてあちこちで観測され、複数存在するのではないかといったことも考えられた。

しばらくの間、人々はある時はビルの谷間から、ある時は自宅のベランダから、またある時は静かな山の頂きから、船上から、灼熱の砂漠から、連日のように日に一度は空を見上げる習慣が身についてしまった。


ヤツが現れてから一ヶ月以上が経った。結局のところ、ヤツの実体は依然として何ひとつ解明できないままでいた。だが、その間人々の対応やメディアの関心は、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。

皆ヤツにとりあえず脅威がないことを知り、ヤツの姿を日々日常的に見慣れてくると、人々は生活のなかで風景のなかで、ヤツをごく自然な調和された一部の形として受け止め始めた、まるで以前からそうであったみたいに。昼間に太陽が輝くように、夜に月が照るように、ヤツも普通にそこにいるようになった。

もちろん、僕の生活のまわりでもヤツはよく現れる、少なくとも週に一回は必ず。また、時には上空低く、いつもより大きく見えることもあった。そして、頭上で丸く黒い塊を見つける度に、僕はいつも父親の病気のことを連想してしまうのだった。父はこの前の検査の結果、やはり初期の食道ガンと診断された。他に転移したところがなかったのが何よりだったが、入院、手術、そして安静がしばらく必要だった。


ヤツの話題は家庭や職場、学校や酒場でも一時ほどの勢いはなくなっていた。週に三回、僕が夜通っているバイト先でも例にもれなかった。そのバイト先は一般的には知られていなかったが、流通業界では大手の部類に入る会社だった。パートタイマー主体で男女を問わず、年齢もまちまちでそれぞれの職歴も身分も様々だった。全国にそういったセンターを展開し、ひとつのセンターでもゆうに百人以上のパートタイマーを抱えていた。

僕は夕方五時から夜十時まで、月火木の契約でそこに通っていた。他に早朝から来る人、昼過ぎから来る人などもいて、勤務時間にも幅があった。僕はそこで働きだして今月でちょうど丸一年が経とうとしていた。

バイト先は海を埋め立てた広大な工業団地のような所にあった。そこまで電車で乗り継ぎ最寄りの駅に着くと、送迎バスが出ていた。僕の場合、通勤にはざっと四五十分はかかった。電車通勤の他に自転車やバイク、車で来る人もけっこういた。そのうえ、輸送トラックの出入りの関係もあって、会社の敷地内は広々としたスペースが必要だった。その広々としたスペースいっぱいに、同じぐらいの規模で作業場となる三階建ての社屋があった。

会社は主に日用雑貨、医薬品を中心に、それこそありとあらゆる生活商品を取り扱っていた。メーカーと小売店の間に立つ、いわゆる中間の卸売り業者だった。社屋の一階はケース出荷と入庫、それに配送手配が中心で、二階は細々としたバラの商品を取り扱うフロアに、三階に社員食堂や更衣室、そして物流管理や総務等の事務手続き部門があった。

僕は二階のフロアで入庫の商品を、それぞれの指定されたラックと呼んでいた大きな商品棚に振り分ける担当にあたっていた。洗剤や電池など重い物もあれば、毛染めや化粧品など軽い物もあり、それこそ何千点にも及ぶ商品が、幅約百メートル四方はあろうかというフロアの隅々にまで広がっていた。

これら商品の振り分けは大方が男性パートの役割で、女性はといえばピッキングカートという特殊な台車を使用して、注文の品をそれぞれのラックから取り出しては、その商品のバーコードをスキャンし、カート上にセッティングしたオリコン(折り畳み式の専用カゴ)に詰め込んでゆくのが主だった。いわば女性パートは郊外の広々としたショッピングセンター内で、一日中ぐるぐるとフロアを歩き回っては、ショッピングカートのカゴの中に商品を次から次へと入れ込んでゆくといったようなものだったのだ。

バイト先は夜八時になると、休憩のチャイムが構内全体に響き渡る。十五分間の休憩。みんないっせいに作業の手を止め、ぞろぞろと三階の休憩室まで向かう。途中トイレに行く者や更衣室に立ち寄る者、またタバコを吸う人間は休憩室の一角に設けられたガラス張りの喫煙ルームへこもった。八人がけの長いテーブル席が十四脚、真ん中の通路を挟んで七つずつ半分に広い休憩室に整然と並んでいた。

曜日や時間帯により休憩の混雑具合は違っていた。夜は比較的のんびりとした雰囲気に包まれていた。たいがいが男と女に分かれていて、それぞれ大小のグループがあちらこちらに散らばっていた。が、なかには一人離れて本を読んだり、携帯電話を覗き込んだりしている者もいた。そしてそのうちに座る場所も、自然と定位置のようなものが出来上がってしまっていた。

僕は自分を含めたある六名のグループのなかに属していた。これら六名が何となくくっつくようになったきっかけは様々で、例えば同じ年に面接を受けたいわば同期の間柄だったり、またはバス通勤でよく顔を合わすうちにとか、何度か二人一組の作業を手掛けているうちにとか、色んなパターンが混じり合っていた。こうして親しくなった一人が他のところでまた親しくなった一人を、グループ内に連れ込んでくるといった具合に、いつの間にか仲間の数が増えていったのだった。

六名はそれこそ年齢も職歴も、いま置かれている立場もまったくまちまちだったが、それでもなぜか気の合うところが多かった。しいてひとつ共通項をあげるとすれば、みんなタバコを吸わない人たちばかりといったところか。

作業から解放され、束の間の休息に休憩室全体がパッとざわめく。ウイルス対策のための透明のパーティションが施された八人がけのテーブル席に、一人また一人と僕らグループ六名の男たちも順次腰を落ち着けていった。みんなマスクをし、間隔を取ったテーブル席内においても、座る位置が自然と出来上がってしまっていた。僕はいつも壁際の隅っこに陣取っていた。毎回六人全員が揃うわけではない。僕のように週三日の人間もいれば、フルタイムで契約している人もいてまちまちだからだ。今夜は六人全員が揃った日だった。


冨田さんは、グループのなかでも一番最初に席を陣取っていることが多い。ちょうど僕の向かい側の席が冨田さんの指定席になっていて、僕が席に着く頃にはすでに携帯電話を手にしては、何やら熱心に見ているというのが常だった。話によればギャンブル好きで、携帯電話で見ているのはいくつかの競馬サイトらしかった。昼間は自営で喫茶店を営んでいて、僕と同じぐらいの娘さんが一人いるとのことだった。近年、喫茶店もあまり振るわず、夕方からは奥さんとたまに娘さんも加わって切り盛りしているみたいだった。

テーブルの中央に西崎さんが、のっそりと大柄な体で席に滑り込んでくる。席に着くなり500ミリリットルのペットボトルに入った飲料水を、一気に半分ぐらいまで流し込んでは一息つくのだった。冬場でも薄着スタイルの汗っかきな人だった。四十代の時に勤めていた会社が倒産、いろいろあって奥さんとも別れ、いまは昼間ももうひとつのバイトを掛け持っていた。中央にいて賑やかにその日の話題をみんなに振りまくのも、この人が中心だった。

西崎さんの右隣にはほっそりとした木田さんが、西崎さんの陰に隠れるようにして静かに佇んでいた。僕から見て向かい側の席には西崎さんを真ん中に、冨田さんと木田さんが両脇に並んでいた。

木田さんに関しては勤めていた会社を早期退職したという話を聞いた。昼間はどうしているのかわからないけれど、二人の子供もすでに独立していて、退職金もあるし奥さんも同じようにパートに出ていて、年金をもらうまでの間、そうして食いつないでゆくといった風だった(僕が行っているバイト先は、基本的には七十歳まで契約可能だった)

木田さんはめったに自分から話を切り出すというようなことはなかった。うんうんといった仕草で人の話をじっくり聞いていることのほうが多かった。たまに話を振られると、低い穏やかな口調で短く応えるといった感じだった。いつも休憩時の始めには、ラップに包まれたおにぎりひとつと水筒に入った麦茶を用意持参して、おいしそうに頬張っていた。

そして最後に久保さんと今泉さんの二人が、休憩室内の自販機で買った飲料水を手に話をしもって同時に着席した。久保さんが僕の左隣に着き、その奥に今泉さんが腰掛けるといったいつものパターンだった。

久保さんは三十代後半の妻子持ち。均整のとれたガッチリとした体格が目をひいた。浅黒い顔で、笑うと白い歯が目立った。昼間はこの工場地帯近辺の別の会社で正社員として働いているが、最近はめっぽう残業が減ってきたため、夕方からここへ来だしたそうだ。西崎さんと席が対面で、この二人が僕らグループの中心的な役割を果たしていた。

今泉さんは僕の次に若い同じ二十代の自称フリーターということになっていた。スラッと背の高い色白の端正な顔立ちの持ち主で、服装や持ち物にしてもスタイリッシュなセンスの良さが光っていた。そのせいかどうか、女性パートのあいだでは受けがよく、特に若い女性のあいだでは人気が高かった。作業中であっても、気軽に女の人と話し込んでることも度々で、そうしたことからフロアの責任者(社内ではマネージャーと呼んでいる)から目をつけられている人物でもあったのだ。

グループのなかでも、今泉さんほどわかりにくい人物はいなかった。昼間は何をしてるのか、けっこう休むことも多く、何か資格を取ろうと励んでる風にも見えなかった。以前、西崎さんがボソッと僕に漏らしたことがあった。

今泉君って、家が資産家じゃあないのか?フリーターとか何とかいって、いいクルマ乗ってやがる。なぜこんなところに来てるのか、よくわからないんだよな。社会勉強のつもりかな。もしかして小説家とかそんな芸術的なこと目指してんのかな。その時僕は返事に窮し、そうですねとだけ言って曖昧にお茶を濁したのだった。

グループのなかの会話は、それこそ政治、経済、芸能などの世間話からお互いの私的なこと、その日の作業の進行具合、忙しさ、三階フロアに五人いるマネージャーへのそれぞれの評価、他のパートの噂や批判等多岐に及んだ。

西崎さんがいつものように、身振り手振りで話を切り出した。

「先週の日曜日だったか、朝っぱらから突然変な宗教団体の女が家を訪ねてきてな、なんだよと思って出てみたら、それがマスク越しだけど若くてけっこうイイ女っぽかったんだな」

「変な宗教団体?」とすかさず合いの手を入れたのが対面の久保さんだった。

「そうなんだよ。それがね、聞くと例の謎の黒い物体がらみでさ」

「ほう、例の。一時世間を大騒ぎさせたけど、ここんとこ落ち着いてきた感があるよね。俺も最近じゃあ随分見慣れて、あれも生活の一部として溶け込んじゃってる。で、その若いイイ女がどうした?」とまた久保さんが興味深そうに、さらに話の続きを促した。

「そりゃ、普通に布教活動に決まってるでしょ。朝からうっとうしいなぁと思いつつも、俺もなぁ、つい話に乗ってしまって」

「えへー、訪ねてきたのが若くてイイ女だったからじゃないですか?助平根性で、違います?西崎さん。でも、そういえばここのパートの何人かの女の人から、そんな話チラッと聞いたな」

と今度は横合いからニヤついた今泉さんがチャチャを入れた。

「バーカ!今泉君と一緒にすんな。まぁ、一概に否定はしないけどな」と言われた西崎さんも、頭を掻きながら苦笑い。

「なに?どういう団体?」と続ける久保さんの質問がますます熱を帯びてきた。すると、西崎さんはちょっと考えてから、

「いやぁ、何て言えばいいんだろ。要するに彼女らに言わせれば、この世の中にはびこる負の部分っていうか、悪の根源っていうか、そういうのは俺たち自身一人一人が抱えてるエゴ、我欲に起因してるってことなんだな。そしてだ、今回そういったものの集合体、象徴みたいなものがあの黒い物体として、突然我々の前に形となって現れたと彼女は語るわけ。まぁ、彼女らの言葉を借りれば、あれはある種の天のお告げというか…、だから、そのうなんだ、戦争とか差別とか貧困とかイジメとか、色々この世の中には無くならない負の部分があるだろ、そういうのはすべて、物欲しかり独占欲しかり性欲しかり食欲しかり、色んな我欲がもたらしてるというのが、彼女らの思想なわけで、なので、そこでそういった我欲にまみれた自身のなかの俗物性を体内から排除すべく、日々修行に励んでるんだとさ。また、そうした活動の輪を広げることによって、この世の中を幸福に導こうというのが彼女らの教義だそうだ」

「あのう、修行って、どんな修行なんすかね?」とこの時僕はちょっと好奇心も手伝って、初めて口を挟んでみた。

「そうだなぁ、まぁなんか、修行についても色々言ってたなぁ。瞑想したり、暗い部屋に何週間も籠ったり、どっかカルトっぽいところもあったけど、要はね、徹底的に己を捨てることから始めて、それでもって誰もが他人のためにみたいな、そういうことじゃないんだろうか。でね、驚いたのがそこの教祖さ、男なんだけどさ男じゃなくなったんだな」

「エッ!それ、どういうこと?」と真っ先に食いついてきたのが今泉さんだった。そして、他のみんなも急に色めきたった。それを見た西崎さん、みんなの視線が集まるなか一呼吸置くと、おもむろにまた話の続きを始めた。

「つまりはだな…、男のアソコというか…男のシンボルを、その教祖は捨てたんだな」

「エーッ!ってことは、そこの教祖はニューハーフ?」と今泉さんがさらにすっとんきょうな声を張り上げた。

「そういうこと。なんでも一定の子孫を授かった男は、その後において、性欲という悪しき俗物から解放されるべきというのが、教義上ベストなんだそうだ。まぁ、強制じゃないけどね。実際には海外やなんかに行って実行するしか方法はないんじゃないか、日本じゃ無理だろ。それともなにかな、不法に日本で男性器の摘出手術やってんのかな」

「この世の中すべてを女とニューハーフにしようってのかい」と久保さんが半ば呆れたような顔で突っ込みを入れた。

「競馬でいうとセン馬かぁ、なんだかねえ…、まっ、俺にはギャンブルという俗物以外興味ないけど」とここでようやく冨田さんが携帯電話から目を離すと、話に割って入ってきた。

常々ギャンブル(特に競馬)以外興味ないと言い切ってる冨田さん、以前そのことについて僕は訊ねたことがある。競馬ってそんなに魅力的なんですか?僕もちょっと興味はあるんですけどね。

すると冨田さん曰く、毎週末やってくるちょっとしたカーニバルなんだな、競馬って。エッ?と僕が問い返すと。

人間はいつか死ぬ、その間にドキドキワクワクするような期待感に、どんだけ巡り会える?もちろんギャンブルだから稼ぐことにこしたことはないが、なんか生きてるうちは、そういうことないとなぁ…、特にいまの世の中、と冨田さんにしては珍しく、しみじみとした面持ちで僕に語ってくれた。冨田さんはそれ以後、教団の話には乗ってこなかった。そして再び携帯電話の画面を覗き込んだ、そんな話どうでもいいみたいに。

「だけどさぁ、幸福を追求するってのも、ある種の欲望だろ?」と久保さんが話を広げる。

「そうなんだよな、みんなハッピーになりたくて、人類はこれまで知恵を絞ってきた。欲望という一種のエネルギーが、ある意味、科学技術をはじめ色んな分野で文明を発展させてきたんだ」と西崎さんが、かしこまった表情でそれに応えた。

「でもですよ、それをずっと追求し続けることが、人類にとって、果たしていいことばかりとは限りませんよ。むしろ現代じゃ、負の面のほうが目立ったりしている。快楽や快適は、反面、危険な副作用をはらんでいることもありますからね」とさっきまでとは打って変わって、今泉さんが真面目すかした顔で反論した。

「兼ね合いですか、な…」とここで木田さんが腕組みしたまま、難しい顔で一言発した。そのあとその場の空気が、一瞬エアポケットに入ったみたいに静まり返った。こんな時、たいてい西崎さんが会話の流れを引き戻す。

「話戻るけど、あの黒い物体って、やっぱり何かを暗示してるんだろうか?人畜無害っていうけど、たまにボンヤリあれ眺めてると、なんか俺の抱えてるモヤモヤ感っていうか、不安感っていうか、そんなもの映し出してるみたいに思えるんだよな。おかしな宗教団体が色々出てくるのも、わかる気がする」

「まったく同感ですな。我々はいったい、どこへ向かおうとしてるんだか…」木田さんが溜息まじりに、独り言のように呟いた。

明るい未来か…、破滅か…、

キーンコーンカーンコーン、最後の言葉は誰が言ったか、休憩終了のベルの音とともに、かき消されてしまった。一斉にみんなが立ち上がる、気だるい表情を浮かべながら──


天気予報が梅雨入りしたもようと伝えた。不順な天候が続いていた分、ヤツの姿を見る機会もめっきり減った。

その日はちょうど、梅雨の合間の晴天といった感じだった。と言っても湿気の多い生暖かい空気が、常に肌にまとわりついた。四六時中、じっとしていてもジワッと全身に汗が滲み出た。

僕はマンションの玄関ドアを半開きに固定しておいて、反対側の窓も開け放った。少しでも部屋のなかの風通しを、よくしたい気分だったのだ。彼女は嫌がったけど、それでも渋々僕の言い分を尊重し、自分は化粧品や生理用品の買出しがあると、外へ出かけていった。

彼女を見送ったあと、僕はトイレにたった。小のほうを用足ししてると、ふと何気なく見上げた天井の片隅に、小さな蜘蛛が巣をはっていた。いつの間に。蜘蛛は豆粒ほどの大きさで、全体に白っぽく色素がなかった。トイレには窓がなく、そのほとんどが暗闇の世界であれば、それも当然なのであろうか。

蜘蛛はいつまでも、じっとして動かない。僕という侵入者に対して、警戒し身構えているといった感じだった。僕はしばらくその蜘蛛を、観察し続けた。

いったいぜんたい、こんな限られた狭い暗闇の世界で、こいつは何を糧として生き延びるつもりなんだろうと、僕は不思議に思った。そう思うと、なんだかいじらしくもなるが、しかし現実はそうもいかない。いつか必ず彼女の目に触れ、彼女は卒倒するにちがいない。そして、きっと僕にこう言うのだ、早くそいつを始末して!

僕は丸めたトイレットペーパーを手にすると、便座の端に両足を乗せ立ち上がった。手を伸ばしそっと包み込むように、僕は巣もろとも蜘蛛を、丸めたトイレットペーパーの中に押し込んだのだった。

ポンと便器の中にそいつを放り込む。トイレットペーパーはみるみる水を吸い込んで沈んでいった。トイレの水洗レバーを回したところで、最後の儀式は終わったのだった。

と、その時玄関でチャイムの音が鳴った。トイレと玄関は目と鼻の先で、トイレのドアを開けた瞬間、僕は玄関先に観葉植物のように、静かに佇んでいた若い女と目が合った。

思いもしない突然のこの訪問者に、僕は一瞬後退りするくらい戸惑った。玄関を開けっ放しにしていたのも、いま思えば迂闊だったが、僕はこのマンションでこれまでセールスなど、突然の訪問者に見舞われたことがなかったので、安心しきっていた面もあったのだ。

僕と目が合った若い女は、うなずくように軽く会釈した。七分袖のシンプルなデザインの麻のワンピース、涼しげなライトグリーンの服をまとった女の体は小枝のように細い。彼女を中心に1メートル四方だけが温度差があるみたいに、実際、女はこのクソ暑い日にも関わらず、汗ひとつかいていなかった。

小顔なせいか、白いマスクが女の顔を目元から上以外全面に覆っているかのようだった。ストレートに背中まで伸びた長い黒髪、白い肌、そしてなかでも印象的だったのが女の瞳だった。

二重瞼の大きな瞳、まつ毛も長く、誰もが先ず最初にそこに惹かれそうだった。女はありきたりの表現を使えば、[清楚]という言葉がぴったりだった、まるで演出してるかのように。

「こんにちは。お休みのところ突然おじゃまして、すいません」女はいかにも恐縮したように、静かな口調でこう切り出した。しかし、その瞳はまっすぐ僕と対峙していた。

「よければ、この場で少しだけお時間を割いて頂いて、わたくしの話を聞いて頂ければ幸いです」

僕は最初、彼女の友人が訪ねてきたのかと思ったが、女の話ぶりからして、そうではないとすぐわかった。それに僕は彼女と付き合いだしてから、これまで一度も彼女の友人と呼ばれる人物が、ここに訪ねにきたこともなかったのだ。僕は探るような目付きで女に返答した。

「はぁ…、別に少しぐらいならかまいませんけど、何のご用でしょう?」

すると、女は少し安堵感を得たのか、やや口調が早まった。

「実はわたくしども、こういった活動を日頃から実践しておりまして」と女は言いながらそそくさと、手に持っていた花柄をあしらったトートバッグから一冊のパンフレットを、僕の目の前に差し出した。見れば、その表紙にはこう記されていたのだった。

『すべての欲望から解放されよ!神が汝を導く──

×××真理教団』

それを見た瞬間僕は、あっ!と声をあげそうになり、心のなかで呟いた。これはこの前、西崎さんが僕らに語ってた、例の宗教団体じゃあないのか。

僕はパンフレットから目を離すと、上目づかいに女の立ち姿を、今度はなめるようにして、じっくり眺めた。この場でさっさと女を追い払ってもよかったが、なぜか僕のなかで、この女に対する好奇心のほうが勝ってしまって、もう少し話を聞いてやろうという気にもなっていた。

二人のあいだに、ほんの僅かな沈黙が漂った。女はそれでも臆することなく、むしろ淡々とした様子で話をそのまま続けようとした。

「ご承知のとおり、いま世間を騒がしております例の、謎の黒い物体、わたくしどもは、あのものを神による人間への戒め、警告の使いと受け止めておりまして、いうまでもなく歴史を振り返れば人間は、絶えることなく不毛な争いごと、傲慢な行いを繰返し行ってきました。その原因となるものを最終的に突き詰めれば、それは各個人が背負っている限りない欲望といいましょうか、わたくしどもがいうところの[我欲]に他ならないと、そういう考えに至ったのです。その悪しき我欲さえも、これは神による仕業。そこで、わたくしどもは考えたのです。神は人間に欲望という名の試練を、あえて与えて下すったと。人間はその試練に立ち向かっていかなければならないのです…、どうです、わたくしどもと一緒に、新たな世界を切り開いていきませんか?」

とここまで一気に流れるように語った女は一息入れると、変に自信に溢れた目をしていた。ややあって、今度は僕がそれに対する反論の声を女に向けた。

「欲望は悪、ですか…、だとしたら、誰かを欲するのも何かを愛するのも幸福を求めるのも、みんな悪ということになるんじゃないかな…。でも、それって人としての、いわば本能でもあるわけだし…」

すると女は、どこか余裕めいた目で、すぐさま僕の反論に応じてきた、まるで、そんな質問は想定内みたいな表情で。

「いえ、そういうことではないんです。誰しも幸福を願うことは当たり前でしょうし、愛を求め合うことも自然なことです。ただ…、」と言ったところで女の話は急に途切れた、どこかもったいぶらせるように。それで仕方なく、

「ただ?」と僕のほうからじれて、話の先を促すかたちになった。

「ただ、幸せを欲するんではないんです、愛を求めるんではないんです。地上におけるすべてのものに、幸せを愛を与えて下さい。互いにそうしあうことによって、わたしたちはもっと高みへと望めるのです。幸せを与えることによって、結果的にあなたご自身も幸せになれる。恋愛もそう、例えばあなたご自身は彼女を愛してると言う、でもそれは彼女を愛してるという、あなたご自身を愛してるに過ぎないのです。相手に対して愛を欲するんではなく、相手に対して愛を与えて下さい」

その後も女は何かにとりつかれたように目を耀かせ、熱を帯びた口調で語り続けた。

悲しいかな、この世界は現実的には誰かの、または何かの犠牲の上に成り立ってしまってる(それは貧困であり差別であり)、もしくは成り立ち負えざるを得ないということ。

それらをわきまえたうえで、例えば食事=食欲などについても、できるだけ質素なものに徹し、自分たちは菜食主義であるということ。

暮らしぶりにしても、都会から逃れ、従来のように電気、ガスの恩恵に出来うる限り頼らず、日が暮れれば蝋燭を灯し静かな夜を迎え、日が昇れば洗濯板で衣服を洗うという、可能な限り自然に優しい生活に努めようと。

さらに、この前、西崎さんが言ってたような[修行]と呼ばれる日々の行いに関しても、女は熱弁を振るった。

一方、正直、女の話など僕にとっては、どうでもいいことだった。ただ、これほどまでにある種怪しげな新興宗教団体にのめり込んでゆく、この若い女の姿に、何かしら興味を持って眺めていただけのことだった。

こうしてボンヤリと女の話ぶりを眺めているうちに、僕はふと、この世界の有り様について、彼ら彼女らのほうが鋭敏な感性の持ち主であり、反面、僕らのほうが感性を麻痺させているのではないかと、変な疑念が頭をよぎったのだった。

と、あれこれ思うその時突然、ドーンと音が響いたような、体とともに僕の周りの視界が左右に大きくブレた。小さな悲鳴があがり、女が急にしゃがみ込む。

地震?僕はよろけながら、玄関先の壁際で身構えた。時間にして、数十秒は揺れた気がした。そのうち揺れは収まったが、しばらくは心のなかの余震は続いた。僕はゆっくり辺りを見回したが、部屋の中はさほど散乱した様子はなかった。

ある種の静けさが漂うなか、しゃがみ込んでいた女と視線が合ったその時だった、買い出しに行ってた彼女が、勢いよく玄関口に飛び込んできた。

「あぁ!もうビックリ、もう少しでエレベーターの中に閉じ込め…」と彼女が言ったところで、玄関脇でしゃがみ込んでいた女に気付いたのか、彼女は口を半開きにして急に声を失った。そこで三人が三人とも、それぞれを見合わす形となった。

「誰?あなた」短い沈黙を破って、彼女がいぶかし気にイラついた口調で女に訊ねた。

しゃがみ込んでいた女が、ヌクッと立ち上がった。さっきまで地震に怯えていた表情とはうって変わって、女はバッグの中から例のパンフレットを取り出すと、黙って彼女の前へ突き出した。それは幾分、彼女に対する挑発的な態度にも見て取れた。

「×××真理教?」さらに上ずった声の調子で、彼女がそう一言吐き捨てた。

「はい。お休みのところ突然おじゃまして、申し訳ありません。実はわたくしども…」

「ああ、もう、けっこうです!あたし、そういうの興味ないから。どうぞ、今すぐお引き取りください」と鋭い視線を女に浴びせながら、彼女はきっぱりとそう告げた。女同士、数秒間、不穏な視線が絡み合った。

すると、女がにわかに軽く一度うなずいた。そして、あの誰もが惹かれそうな大きな瞳で、もう一度彼女を直視すると

「ごめんなさい。今日はこの辺で失礼します。また機会があれば」とだけ言い残しサッと彼女の脇を通り去った。

買い出しの荷物を抱えたまま玄関口で突っ立っていた彼女が、少し唖然とした顔で去って行った女の後ろ姿を目で追った。

「ああいう類いの連中って、人の弱みや不安につけこむのよね。ほら、先の見えないこんなご時世だから。かわいそうに、あの女の人、完全にマインドコントロールされてるわ。女性は感情的だから、特にあの手の新興宗教にはまりやすいのよ。気をつけなさいよ、あなたも」

と彼女は後ろ手で玄関ドアを閉めながら僕の顔をチラッと見ると、そのまま僕の脇を通り過ぎて行った。

僕はそれには応じず、玄関口の隅っこに落ちていたミッキーマウスをデザインした靴べら入れを拾い上げた。半年ほど前、二人で東京ディズニーランドへ行った際に買った代物だった。


温暖化の影響をおもわせるような、この夏の異常な暑さだった。各地で干ばつの被害にあう所もあれば、逆に局地的に集中豪雨に見舞われる所も出たり、また地域によっては竜巻が多く発生するなど、不安定な気候が続いたのだった。


十月上旬、ようやく朝晩が過ごしやすく秋の気配が漂い始めた日曜の昼時、僕と彼女は、とある公園にいた。公園は彼女のマンションから歩いて二十分ほどの場所にあった。

天気もよく、久しぶりにお弁当作ってピクニックでもどう?と彼女が提案してきたので、僕らは散歩がてら公園に向かったのだった。

公園内は大きな池を中心にして、四季折々の樹木が広がっていた。この先、秋が深まれば紅葉が楽しめた。整備された遊歩道のそこかしこにベンチが設けられていて、若いカップルがじゃれあったり、老夫婦が木陰の下で昔を懐かしんだり、一人読書に耽っている人もいれば、熱心に公園内の風景をスケッチしてる人などいて、それぞれが思い思いの日曜を楽しんでいるようだった。

僕らは池に隣接した貸しボートの営業所がある中央広場まで足を運んだ。大きく開けた広場では、子供らの歓声が飛び交っていた。

僕らはちょうど都合よく、木陰の下の芝生に覆われた場所を見つけた。用意していたビニールシートをそこに敷き詰めると、僕はさっそく寝そべった。

ああ、気持ちいいと言いながら、僕は大きく伸びをした。そばで彼女がリュックから水筒と紙コップを取り出し、水筒に入っていた冷えた麦茶を紙コップに注いでいた。

飲む?と彼女。うん、と僕はそれに応えながら、勢いよく上半身を起こした。緩やかな風が、木々の緑を揺らしていた。暑さ寒さが一日のなかで、交互に入れ替り同居していた。木陰を流れる風は、ちょうどいい具合に僕らの体をくすぐった。

「気持ちいい陽気ね」と彼女はボンヤリ目の前の広場の光景を見やりながら言った。風がそよめく度に、彼女が身にまとった淡いベージュのパーカーに映った、木々の影もそよめいた。

見上げれば、青空高く、飛行機雲が鮮やかに、長々と白いチョークの線のように痕跡を残していた。そのなかにヤツもいて、今日は三つ、大小の黒い塊が乾いた空に点在していた。

僕らは彼女が用意した、おにぎりとちょっとしたおかずを広げ頬張った。もくもくとおにぎりを頬張りながら、僕らはしばらく会話もせず、秋の静かな風のなかに身を委ねた。時折どこかで、甲高い鳥のさえずりが聞こえた。

「あたしね…、近いうちに実家に帰るかもしれない」と唐突に彼女が前を向いたまま、僕には視線を合わせようとはせず、ポツリと漏らした。

僕はえっ!と声を発したきり、あとの言葉が続かなかった。不意討ちを食らったかっこうで、頭のなかが一気に真っ白になり、彼女の実家に帰るという言葉だけがどんどん膨らんで気が動転した。

「うちの母、以前から様子がおかしいの、病気なの」

「病気?」と僕は聞き返し、彼女が口にした事態の深刻さに、ようやく冷静さを取り戻しつつあった。

「うん、心の病気。今年の春先あたりから、ますますひどくなってきて、精神的に不安定なのよ。何をする気力もなくて、家の中はほったらかし、散らかし放題、一日中部屋に閉じこもったり、この頃は被害妄想みたいなことも言うのよ」

「それで、実家に?」

「うん。誰かがケアしないとね。まぁ、あたし一人が何もかも背負うわけじゃないけどね」

「心の病、か…」

「うん…、それに近頃、変な宗教に関わったりしてるらしいし。ほら、このあいだの女みたいに」

僕は印象的だったあの時の女の瞳と、その瞳の奥に隠された揺ぎない意志のようなものを思い起こしていた。食事を終えると、彼女はリュックから蜜柑を二つ取り出した。

「食べる?」

「うん」食べると蜜柑は、ほどよい酸味を帯びていた。

「空に浮かんでるあの黒い塊たち、世界中あちこちで観測されてて、数が増えてるみたいなこと、このあいだのニュースで言ってたわ」

僕も彼女と一緒になって空を見上げた。そいつはまるで青地のキャンパスの上に、汚れた黒いシミのようにくっついていた。

「この先、あの黒い塊たちがどんどん増えていって、いつか世界は真っ黒な闇の中に包まれてしまうのかしら」

「………」僕は何とも答えられなかった。

「以前、何かで知ったことがあるの。ずうっとずうっと遠い先、地球はいずれ太陽に飲み込まれてしまうって話、聞いたことない?」

「ううん」と僕。それから僕らはまた、しばらく黙り込んでしまった。

「あたしさ、子供の頃から、時々ふと思ってしまうことがあるの。世界がここにあるってことの不思議、あたしがここにいるってことの不思議さをね。人間の計り知れないところで世界は創られ、人間の計り知れない力で世界は動いている、そんな気がするわ」

「俺たち、これからどうなるん?離ればなれになってしまって」

「そんなこと…、そんなこと誰にもわかんない」

誰にもわかんない──、僕は小さく溜息をつき、その言葉を反芻した。


その日の夕暮れ、赤や黄色や紫の入り交じった、不安そうな雲が空を覆った。

明日は、雨かもしれない。






















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