桜と数式の季節に
社会に出たら結果がすべて。やる気や情熱なんかより、数字とデータでお前の実力を示せといわれる。父が常々口にしている言葉だ。
栗島頼太にとってそれは極めて自然な摂理であり、彼自身の中にもそれを善とする思考が形成されていった。一言で表すなら、数字とデータさえあればすべてのことは説明がつく、ということになる。
たった一つの例外を除いて──。
通学路の桜並木は満開を迎えていた。高校に入学して早一年。子供の頃より時の流れが早く感じられる。
教室に入ると、幼馴染の浅霧聖也が鞄を下ろし、鼻歌を歌いながら教科書を机の中にしまっているところだった。彼は陸上部の円盤投げが専門のため、頼太のようにソフトテニス用ラケットを毎日担いでこなくていい。聖也は頼太の顔を見ると、爽やかに微笑んだ。
「よっ、今日も元気に行こうぜ。元気さえあれば何だってでき──」
「ると思えるのは今だけだ。元気がないときに、どうすればいい結果を出せるのかを常に考えるべきだ。そうすれば応用が利くし、十年後にも役立つかもしれない」
「味気ないなあ。人付き合いもちゃんと大事にしたほうがいいぜ。人は、人と関わってかなきゃ生きてけないんだよ。有名なやつ、人という字は──」
「上から下へなぞると分岐する。最初は一緒に歩いていても、いつか別々の道を歩くことになるって意味だ」
「そんな解釈が……」
「ま、人という字に特別な意味を与えるか与えないかは人それぞれだ。聖也には特別に見えても、俺には単なる漢字の一つに過ぎない」
頼太は一時間目の現代社会のノートを机に置いた。そうこうしているうちに、クラスメイトの数も増えてきた。日直が昨日の日付をクリーナーで消し、書き直している。
「やっぱお前は変わってる……あ、そうそう。聞いたぜ、テニス部の怪事件」
「怪事件?」
「あれ? テニス部のくせに聞いてないのか」
「何のことだ。誰からもそんなことは──」そこまでいって、一つだけ思い当たる節があった。「もしかしてあれのことか。昨日の練習後、男テニのボールが一球だけなくなってたっていう。40分ぐらいみんなで探し回ったけど、結局見つからなかった。ナイター設備がグラウンドにしかないから、テニスコートまで明かりが届かなくて大変だったんだよな」
「いや、むしろそっちのほうを知らなかったわ。じゃなくて、ボールカゴの神隠しだよ。テニス部の部長さんがボールの入ったカゴを倉庫の前に出しっぱなしにしてて、ちょっと離れて戻ってくると、神隠しみたいにきれいさっぱりカゴが消えてたらしい。んで今朝改めて見に来たら、倉庫の前に再び置かれてあったとさ。ついでにボールが一球なくなった話は知らなかったけど。でもさ、すごくね? まだ四月なのに怪談話だぜ。俺たちをおどかそうと早めに幽霊が出て来てくれたんだよ、きっと。前向きでいい奴なんだろう。ぜひ友達になりたいね」
「幽霊はいないぞ」
「えー、つまんねえ奴。まあ頼太ならそういうわな」
「あたしは幽霊のせいだと思うな」
急に隣で声がした。頼太がそちらを向くと、テニスラケットを机横のフックに掛ける三星彩乃の姿があった。
その瞬間、頼太の胸が高鳴り、きゅっと縮こまる感覚があった。去年から、ありとあらゆる方程式、いや理屈をこね、どうして自分が三星彩乃を前にしたときだけこんな感情になるのかずっと探り続けてきた。未だに答えは見つかっていない。そのことを前に聖也に話したら「頼太が初恋っ!」と目を剥いて驚かれた。
初恋──。
不思議な感じがしたのを、よく覚えている。認めたくなかったが、確かに部活している最中、ふと気付けば彼女の姿を探してしまう自分がいた。彼女の何が自分にそんな感情を抱かせるのか。理由を探そうにも、明確な答えは見つからなかった。
ただ一つ考えたことはある。正確には聖也が提案してきたことなのだが──。
三星、と頼太が問うと、彼女は前髪をとかす手を止め、こちらを向いてきた。その仕草がまた頼太の心臓を跳ねさせた。しかし気のせいか、いつもより何となく彼女の元気がないように思えた。
「家から学校までどのくらい時間がかかってるんだ」
「は? 何それ、変な質問」
「いや……深い意味はないんだけど」
「頼太くんが意味のないことを、しかもあたしに訊いてくるなんて、今朝変な物でも食べた?」
「昨日までの賞味期限の食パン。でも消費期限じゃないから大丈夫だ」
「もう、ほんと冗談通じないんだから」三星は一瞬だけ視線を右上に向けた。「別に教えて減るものじゃないし、まいっか、教えてあげる。だいたい40分ぐらい」
「大体じゃなくて、正確に。さすがに秒数まで正確じゃなくていいけど、せめて分は明確に頼む」
さすがの三星も、この質問には違和感を覚えたらしい。
「そんなこと聞いてどうすんの?」
「目的はいずれ告げる。悪用するわけじゃないから教えてほしい」
少し考える素振りを見せたのち、彼女は小さく頷いた。
「わかった」ひとまず信用はしてもらえたようだ。三星は教室前の壁に掛けられてある黒い時計に目をやり、「ぴったり40分。今日もそんな感じだった。あたしこう見えて時間どおり正確に動きたいタイプだから」
「うん、最後の情報はいらなかったな」
「ちょ、ちょっと! 色々聞いてきたのそっちでしょ!」
「あともう少しだけ。通学は俺たちと同じ、自転車だよな」
「そうだよ」
「家から学校までの間に、信号機は一台でもあるか」
ぷっと三星は口元を押さえ、静かに笑った。「何それ? また変な質問。こんなド田舎に信号なんてないよ。渋滞なんてこの辺りで一回でも見たことある? あたしだけ都会に住んでるわけじゃないんだし」
「いや、単なる確認だ」付け加えるなら、高校周囲の地形は平地で、同じ速度で自転車を漕ぎ続けても全く身体への負担はない。一度走り出したら、次に止まるのは学校だ。たまにスーパーや病院があるくらいで、基本的には山と田んぼと住宅しかない。
「質問は以上?」
「うん、助かった」
「どういたしましてっていいたいけど、何の役に立つのやら」三星は苦笑する。
「彩乃ちゃんはテニス部の怪事件について、何か知らないの?」そう訊いたのは聖也だった。
「えっ、し、知らないよ。あたしそんなこと……」
なぜか動揺しているふうに見えたのは勘違いだろうかと頼太は思った。だって女子テニス部の彼女に、男子テニス部のことは関係ないのだから。
ひとまず三星への質問を終え、頼太は一人で考える。聖也も馬鹿な奴だ。
自分たちの目的はこうだ。じつは大半の生徒は学校に来るまでの間、通称『とんがり岩』という巨石の近くを自転車や徒歩で通り過ぎる。その岩は『恋愛成就の岩』と昔から呼ばれており、辺りのムードものどかでいいため、恋愛スポットとして人気が高い。岩のすぐ横にある桜が満開だと恋愛成就する、という噂が囁かれている。
そこで、通学時に三星が『とんがり岩』を通り過ぎるタイミングを予測し、鉢合わせになるシーンを意図的に生み出そうという作戦である。
無論、提案したのは聖也で、「思ってることをそこで洗いざらい話せばいい。普段はつっかえて上手くいえないようなことでも、『とんがり岩』の前でならするする言葉が出てくるって噂だぜ。まずはグッドトライ!」と明るい顔でいってきた。
自分の気持ちがよくわからないまま、結局彼の計画にまんまと乗せられてしまったわけで。だが問題は、どうやってそのシチュエーションを人為的に生み出すか、という一点に尽きる。そこで頼太は閃いた。平地で信号機もなく、まるで数学の教科書に載っていそうなほど理想的な地形で、生徒たちは毎朝、等速直線運動で学校に通っている。と見なせるのではないかと考えたのだ。
頼太の頭に浮かんだのは、たった一つの簡単な数式。
──x = vt。移動距離 = 速さ × 所要時間で表される式である。
そのために、さっき三星から自宅から学校までの所要時間と、足止めをくらう確率のある信号機の有無を問い質したのだ。
これなら極めて精度の高いシミュレーションができるのではないか、頼太は三星の話を聞きながらそんなことを考えていた。
放課後のホームルームが終わると、潮が引いていくように生徒たちが出ていき、クラスは再び静かになった。少し今後の打ち合わせをしてから部活に行こうと聖也と話していたのだが、教室に残っているのは二人だけではなかった。
一番前の席で、しょんぼりと肩を落としてため息ばかりついているのは、クラスでは地味な存在のメガネ男子こと、正木翼だった。頭を抱えているところを見るかぎり、何かに困っているのだろう。
告げ口する友達はいなさそうだが、二人だけの内緒話を聞かれるのは嫌なので、頼太は彼に話しかけてみることにした。聖也はトイレに行くといい、一度この場を離れる。
「あと何分くらいこの教室にいる?」
頼太が訊くと、びくっと身体を震わせ、正木は細い身体をこちらに向けてきた。驚いたときの振動で、ずれ落ちた眼鏡をさっと直す。
「僕……、犯人にされちゃうかもしれないんだ……」すでに涙目になっている。
「犯人?」
「通学路の途中にコンビニがあるでしょ。そこで今朝万引きが起きたらしくて、ちょうどその時間、僕も中にいたことが監視カメラで見つかって、それでさっき先生にめちゃくちゃ怪しい目で睨まれて……」
「その感じだと、まだ犯人は見つかってないようだな。その時間に他の客はいなかったのか」
「いたよ。でも、盗まれた商品の前でしばらく佇んでたのは僕だけで、しかもちょうどその位置が死角になってて、ますます僕が怪しいってことに」
「証拠もないのに疑われてる、ということか」
「僕は一体どうすれば……」
「なるほど」
頼太が立ち去ろうとすると、「待ってよ」と背中で声がした。「助けてくれないの?」
「やった証拠もなければやってない証拠もない。信じてくれ、はなしだ。俺は感情論が嫌いなんだ。でもまあ、盗まれたものぐらいは興味あるな」
「モバイルバッテリーだよ」
「お前、そんなものを通学の途中に見に行ってたのか」
「違う違う。僕が見てたのは、その付近にあるバランス栄養食のコーナー。昔からよく貧血で倒れることがあって、鉄分の豊富なやつを毎朝買って、それで登校してるんだ。新しい味が追加になってたから、今日はじっくり選んでたんだ。体調を整える目的だから先生には大目に見てもらえた。それで話を戻すけど、僕はどうしたらいいだろう……」
「どうにもならない。明確な証拠がない以上、グレーな状態がいつまでも続くだけだ」
「そんなのやだよお!」
「俺にいうなよ」
すると、廊下のほうで足音がした。聖也がトイレから戻ってきたようだ。
「ん? なんか廊下のほうまで正木の声がしたけど、なんかあったか?」
「何でもない」頼太が代わりに応えた。「解決策のないことをあれこれ議論したって時間の無駄だって話」
「ふうん、なんかよくわかんねえけど……」ちらりと正木のほうに目をやる聖也。
教室に正木を一人残し、頼太たちはグラウンドへと向かう。その道中、聖也がさっきのことを尋ねてきた。「あいつ何か困ってそうだったけど、ほんとによかったのか。力になれることがあれば、と思ったんだが」
「話は聞いたさ。そのうえでどうしようもないから、諦めろっていったんだ。解決策があるなら、いくら俺でも助言する。そこまで冷めた人間に見られても困るからな」
「お前の性格はよく知ってる。幼稚園からの付き合いだもんな」肩にぐるりと手を回してくるが、聖也にだけはボディタッチを許してしまう。
自分とは正反対の性格だが、一緒にいる意味は確かにあると頼太は思っている。互いに違うからこそ、新しい発見があったりする。たとえば頼太が三星彩乃に抱いている感情を、こいつは解き明かそうとしてくれている。理屈ではない不思議な答えを。
聖也と別れ、頼太はテニスコートへと歩を進める。詳しい相談は後日ということになった。急ぐ必要はない。だが、このもやもやとした気持ちの正体を早く知りたい焦りもあった。自分は恋に落ちたのか。百歩譲ってそれは認めるとして、なぜそんなことになってしまったか、明確な理由が知りたいと頼太は思った。
部室の前まで行くと、長谷川先輩が何やら気難しそうな顔で立ち、首を捻っているところだった。頼太に気付くと、よお、と気さくに声を掛けてきた。部長にしてイケメン、完全無欠の才色兼備。才色兼備という言葉は女性に対して使われるものだが、長谷川先輩に適用したとしても、おそらく四字熟語界の誰も苦言を呈さないだろう。
「昨日の怪奇現象、聞きましたよ」
頼太がいうと、長谷川先輩は表情を変えず、訳知り顔で話し始めた。
「先生からか?」
「いえ、同じクラスの奴からです」
ふうん、と部長は頷いた。「で、どこから話せばいい」
「昨日夕方に部活が終わって、全員で球拾いしたら一球だけ足りなかったですよね。それで内海先生が怒って、もっと大切に物を扱えって釘を刺して。そこまでは俺も現場にいたんで知ってます」
内海先生は男子テニス部の顧問である。
「ならその続きでいいな。なくなった一球は、じつは俺の自転車のカゴの中に入れられていた。解散後だったから証人はいないけど、もちろん犯人は俺じゃない。男テニのボールを誰かが昨日、どこかのタイミングで盗んで、俺の自転車カゴに入れたんだ。そうとしか考えられない」
「悪戯でしょうね」
「ああ。昨日は疲れてたのに、ほんとうんざりだった」
「それで、ボールはどうしたんですか。見つけてその後」
「めんどくさいけど戻しにきたさ。学校の物だし、そのまま持って帰るのも泥棒みたいで嫌だったから。それで倉庫の鍵とって開けて、ボールの入ったカゴを取り出して、そこに戻した。でもそのタイミングで急にお腹が鳴って、ああ、鳴ったのは腹痛のほう。グラウンドのトイレに駆け込んだわ。ああ、そうそう。最近流行ってる新型感染症に、腹痛の症状はないらしいから安心してくれ」
二、三か月前から妙な感染症が世界中に蔓延している。そのため、生徒の中には自主的にエタノール消毒液を持ち歩く者も多くいる。頼太もその一人だ。
「戻ってきたら、倉庫前に置いていたカゴが消えてたんですね?」
「よく知ってるな」
「そいつから聞きました」
「情報屋でも雇ってるのか? ──倉庫付近とか色々探したけど、結局見つからずじまいだった。そんで翌日、つまり今日だ。朝一で倉庫の前に来たら、なんと普通にカゴが置いてあったんだ。ボールの数も揃ってるし、不審な点は何もなかった。あれは一体何だったんだろうな。気味が悪い。今後はますますボールの管理が厳しくなりそうだ。二年も覚悟しとけよ」
「とんだ飛び火ですね」
「せめて犯人が誰なのかわかったらいいんだけどな。内海先生は俺たち男テニの誰かが悪戯でやったと思ってるらしい。俺も容疑者の一人ってわけ」
さらに部長の話だと、顧問は犯人探しや過度な追及は行わないようで、あくまで犯人の自主性に期待するという投げやりっぷりだった。
正木の件と一緒だ、と頼太は思う。誰かが意図的にやったことは確かだが、それを裏付ける証拠がない。そんなときは黙って通り過ぎるのが一番。だって対処のしようがないのだから。頼太はケースからラケットを取り出し、いつものようにコートへと足を踏み入れた。
†
その週の土曜日、頼太は聖也の家に来ていた。何度も遊びに来たことがある。といっても頼太の家から目と鼻の先にあり、500メートルほどしかないため、自転車を使わず歩いて行くこともある。
「待ってたぞ」聖也はガラスコップ二つにサイダーをなみなみと注ぎ入れた。片方のコップを頼太に渡すと同時に、彼はしてやったりという顔を向けてきた。「新たな情報を掴むことに成功した。褒めてくれ」
「三星に関する?」
「ああ。俺陸上やってるだろ。だから専用倉庫にはスピードガンの一つや二つぐらいあるわけ。短距離の友だちに使い方を教えてもらって、ばっちり計測できた」
「何を?」
「三星が自転車を漕ぐスピード。x = vtのうち、わかってるのは通学にかかる時間だ。三星の通学を把握するうえで、自転車を漕ぐ速さか、家から学校までの距離を知らなきゃいけない。さすがに家の場所を正確に教えてもらうのは気味悪いって思われる。だから、速度の計測で手を打っちゃいました!」聖也は嬉しそうに手を叩いた。
さすが聖也。頼太が数字しか信じないことを、ちゃんと知っている。
「時速何キロだった?」
「14 km/hだ」
「そうか」頼太は顎に手を当て考える。「通学時間が40分で、移動速度が14キロ。てことは三星の移動距離は、単純計算で9.3キロになるな」
「でもそれはおかしいんだ。ちょっとややこしい話だが、じつは昨日──」
どうやら聖也が部活後に通っている塾に三星の中学からの親友がいて、聖也は彼女と同じ教室で勉強しているらしい。砂川光穂という名前で、彼女は別の高校に進学したらしかった。三星とはすごく家の距離が近いらしいが、問題は次だ。
「昨日こっそり三星の漕ぐスピードを測ったっていったろ? その流れで、ついでに砂川の自転車漕ぐスピードも測っといた。何かの参考になるかなあと思って。俺んちの前まで呼んで、スピードガンで測ってみたんだ。一応家にも一台置いててさ」陸上を始めると聞いた聖也の父が、走者なら必要だろうと勝手に勘違いし、買ってきたものらしい。無論、円盤投げ専門の聖也にそのような装置は不要である。「結果は13 km/h。三星より少し遅いくらいだった」
そこまで聞き、頼太は聖也のいわんとすることを理解した。
「三星のいった40分という通学時間に、果たしてどれほどの信ぴょう性があるのか確かめられるってことか。うん、すごくいいアイデアだ」
「あと、砂川の通学時間もさりげなく聞いてみた。あいつも自転車らしいからな。そしたらぴったり7分と答えた。頭の中に一本の横線を思い浮かべてみてくれ」
「ほう」いわれた通り、頼太は一直線を想像する。
「左端に三星と砂川の家、二人の家はほぼ同一地点と見なすことにする。そこから1.5キロ右へ進んだところに砂川の通ってる第一高校がある。砂川の所要時間は6.9分。三星も毎朝、第一高校の前を通り過ぎてうちの高校まで通っていると思われる。それが地理的に最短ルートだからな。んで、三星の総移動距離が9.3キロなのを鑑みると、第一高校前を過ぎた三星は残る7.8キロの道のりを進むわけだ。ここまではいいな。そこで、万が一砂川がうちの高校の生徒だったらと仮定する。13 km/hで進んだ場合、第一高校からうちの高校までの所要時間は36分。第一高校までの7分と合わせると、約43分」
「うん、正確なシミュレーションだと思う」
「そこで、確認の意味で砂川にちらっと訊いてみたんだ。『40分以上かけて通学する羽目にならなくてよかったな。学校が家から近いし、お前恵まれてるぜ』って。そしたらきょとんとされて、『いや、30分ぐらいで普通に着くでしょ』って笑われた」
ということは、砂川という人を信じるなら、三星の供述には嘘が含まれていることになる。本来ならかかる時間は砂川より少し早い30分を切るか切らないかで済むのに、三星は43分かけて通学している計算になる。つまり、どこかに寄り道するなりして、10分程度時間を潰していないとおかしい。
「俺のいいたいことが伝わったようだな。では早速、彩乃ちゃんの秘密を探ろうじゃないか!」嬉しそうに宣言する聖也。やっぱり彼は頭がいいと頼太は思った。
「第一高校から俺たちの学校までの距離を測るんだな」
「そゆこと。サイクルコンピューターで正確な距離を測定すれば万事解決!」
計測した距離と三星のスピードをもとに、第一高校から自分たちの高校までかかる時間を算出し、そこから彼女の通学路における全体の走行距離を求めるのが目的である。第一高校までの距離はすでに1.5キロであるとわかっているので、そこからの距離の情報が欲しいのだ。三星がどこにも寄り道せずに10分の誤差が生じているのなら、彼女の通学距離あるいは自転車を漕ぐ速さを間違えている可能性が高い。漕ぐ速さは聖也がスピードガンで正確に測ってくれたので、原因は通学距離の誤認と考え、今の会話に至っているわけだ。
「それで、距離はいつ測る?」
「今からに決まってるだろ、相棒! 善は急げっていうし」
「善というか……見方によっては俺たちは斜め四十五度の変態ってところだな」
「ストーカーじゃないんだし、もっと推理ゲームを楽しもうぜ!」
「聖也、お前やけに楽しそうだな」
「まさか頼太が恋に落ちるとは思いもしなかったからね。そのサポートをするのが楽しいんだよ。告白して、その結果も早く知りたいし」
「おせっかいにも程がある……」なんだかんだ、いつも聖也のペースに上手く乗せられているような気がする。
聖也の家を出て、第一高校に向けて出発する。空は申し分ないほどに晴れ渡り、どうぞ計測してくださいと神様に告げられているようだった。聖也のスピードに合わせながら桜並木を駆け抜け、やがて住宅街を抜けると、のどかな田園風景が広がる。
見晴らしのよい一本道が続き、少し山側に入ると山頂の神社へ登る階段が見えてくる。一段一段が険しく、老人の腰を折る急勾配っぷりである。そのため参拝者のほとんどは若い世代、究極は少年たちで、絶好の遊びスポットになっている。
「俺たちも昔よく遊んだよなあ」自転車を止め、神社を見上げる聖也が懐かしそうにいった。そして嬉しそうに頼太のほうを向いてくる。「久しぶりに参拝して行こうぜ。最近あんまり行ってなかったし」
「何を祈るんだ」
「お前の恋愛祈願に決まってるじゃないか」
「また余計なことを……」
結局参拝することになり、階段を上がった。桜吹雪を浴びながら、幼稚園から小学生くらいの子たちが楽しげに走り回っている。
山頂にも見事なソメイヨシノが開花していた。
「いつ見てもここの桜は変わらないな。また弁当食べながら花見しようぜ」
「悪くないな」
賽銭箱の前に立ち、頼太たちは手を合わせる。
桜を見上げていると、胸に花びらが舞い降りてきた。淡いピンクのそれを拾い、「毎年律儀に咲かせて散っていく。その繰り返しが俺たちに思い出をくれるのか」
「おっ、柄にもない台詞を──」
「うるせい、ほら、もう行くぞ」
「そう照れるなって、相棒」
昔から桜が好きだった。屁理屈なしで美しいと思えるから。変なことをいってしまったのも、きっと桜の悪戯に違いない。
二人で山を下る。大して強い風でもないのに涼しく感じるのは、木陰から見上げる桜が微かに揺れ動いているからだろう。
やがて第一高校前に着くと、いよいよ計測を始める。閑散としたグラウンドは、週明けの生徒たちを待ち侘びているのだろう。小学校と違い、遊具一つないので余計物寂しく映るのかもしれない。
「メーターは壊れてないか、ちゃんと今のうちに確認しとけよ」聖也がいった。
「大丈夫だ。そんなヘマはしない。準備は抜かりなくやった」サイクルコンピューターには数字がきちんと表示されている。
「おっけ。じゃあ行こう」
初手から一気に飛ばす聖也。
「おい、待てって!」
頼太もその後を追う。こんなに全力でペダルを漕ぐのは久しぶりで、それが何だか新鮮な気分だった。足裏に力を込めて加速したとき、一陣の風が吹く。周囲のソメイヨシノがそれに合わせるように、一斉に騒ぎ始めた。桜吹雪が舞い、一瞬だけ視界が桜色に染まった。
測定結果は──5.5キロだった。三星の家から第一高校までが1.5キロ。そこから頼太たちの高校までが5.5キロ。足し合わせてぴったり7キロ。しかし、この時点で矛盾が発生する。三星から聞いて逆算した9.3キロから大きく外れているではないか。多少の誤差は生じるとしても、2.3キロもずれるのは明らかにおかしい。道には道路工事をしている形跡もなく、三星にとって通学時の障害はなかったはずである。
「考えられることは二つだ」冷蔵庫にしまっていたサイダーで喉を潤わせてから頼太はいった。聖也は自分のベッドで横たわりながら聞き耳を立てている。「三星が10分間どこかで何かをしているのは確実だろう。その理由として考えられるのは、通学途中にどこか寄り道した、一時的に速度を緩める区間があった、あえて遠回りする要因が道路工事以外にあった、朝家を出る時間を俺たちに偽った」
「うん、同感。どれも可能性がある」
「要因が多すぎて、絞るのが難しいな」カーペットの上で頼太は寝転んだ。その拍子に聖也の数学の教科書が手に当たり、何となく手に取ってみる。さすがにx = vtの式は簡単すぎて目次に載っていなかった。シンプルだが便利な式だ。この法則があるから三星の供述の穴に気が付けたのだ。
「火曜と木曜に塾あるから、もうちょい砂川に探り入れるわ」聖也は起き上がり、頼太のほうを見て悪戯な笑みを寄こす。「そんなしょげんなって。諦めたら試合終了!」
「何の試合なんだかなあ」起き上がるのが面倒なので、そのまま天井にできた大きな染みを、頭を空っぽにして眺めていることにした。
週がすっかり明けて水曜日。いつもより少し早めに登校した頼太は、すでに席に着いている聖也のもとに近寄った。もちろん三星はまだ姿を現していない。あえてその時間を狙ったからだ。
「聞いて喜べ! 新たな情報をゲットした!」意気揚々と聖也がいった。「やっぱ砂川のやつ簡単に口滑らせたわ」
「聞こう」頼太の好奇心がかつてないほどに刺激される。
「じつは、三星と砂川は毎朝一緒に登校してるらしい。第一高校までのルートが一緒だから、そこまでは並走してるそうだ。俺たちも互いに近いところに住んでるくせに、時間合わせて一緒に行ったことは一度もないもんな」
「なんか……あれだよな」あれ、という感覚は具体的にはわからないのだが。
「話をまとめると──」聖也は机の中から薄いノートと電卓を取り出した。表紙には『頼太の初恋物語』と手書きされている。
「おいっ!」頼太はすぐにページをめくり、表紙が周りに見えないようにした。「何考えてんだ……誤解されるだろ」
「ほんとのことじゃん」
「お前は……」完全に遊ばれているのは、聖也の得意げな顔を見るより明らかだ。
ノートに目を落とすと、そこには聖也と議論してきたあれこれが理路整然と書かれており、調べた情報のすべてが記載されてあった。
「彩乃ちゃんは第一高校まで砂川と一緒に通学している。いいかえると、自宅から距離1.5キロメートル地点まで、並走したことになる。三星は砂川のスピードに合わせて走ってくれるらしい。つまり二人で13 km/hで第一高校まで行った計算になる。所要時間は……6.9分。そこから一人になった三星は、元の自分のスピード14 km/hで走った可能性が高い。残る5.5キロを14 km/hで走った場合、かかる時間はおよそ23.6分。合計30分ちょっとだ」
待てよ、と頼太は疑問に思った。さっき聖也がいったことを踏まえると、奇妙な点が残ることに気付いた。
「その合計時間が40分にならなきゃおかしいだろ? これじゃあ、まだ空白の10分間を全然埋めきれてない」
聖也の立てたシミュレーションは一見すると正しいように思えるが、数字が一致しないということは、どこかで自分たちの計算が狂っていることになる。
「問題はそこだ」聖也は神妙な面持ちで腕を組む。「きっと別の要因がある。学校に来るまでの間、やっぱりどこかに立ち寄ってるのかなあ」
と、そのとき、教室の前の扉から噂の三星彩乃が現れ、何やらむっとした顔で頼太たちのほうに近づいてきた。
「ちょっと、聖也!」
「うん? 俺?」
「そうよ、あんた。光穂から聞いたんだけど。塾の帰りに光穂を自分ちに誘ったらしいじゃない。どういうつもり? この前頼太くんがしてきた変な質問も、もしかしてそのことに関係してるとか」
光穂とは、砂川の下の名前である。三星は勘が鋭い。だが、まさかx = vtの式を使い彼女の通学路を丸裸にしようと企んでいるとは夢にも思っていないだろう。
頼太はふと閃いた。話題をはぐらかすついでに一つ訊いておきたいことがあった。鼓動の早まりを感じつつ、なぜか三星の顔は直視できないので、頬の辺りを横目に見つめて問いかける。
「今朝の『あっぱれ列島』見たか。海外から入ってきた、新手のウイルスが広がりつつあるっていうやつの続報──」
一か八か話題を逸らすと、意外にも彼女は追及してこなかった。ただ一言、「それなら一応、あたしもアルコール消毒液を持ち歩くようにしてる。てか、そもそもなんだけどさ、何その番組? あたし、聞いたことないよ」といわれたので頼太が補足すると、へえ、と三星は反応した。「前の『朝からゲンキッ』終わっちゃったんだ。今はその番組に変わったわけね。前にもいったけど、朝は時間きっちりに出るから」
ふーん、と後は勘ぐられないように適当にウイルスの話を続けた。もちろんそんな話を三星としたいわけではない。真の目的は、彼女が本当に時間どおり家を出ているのかについて訊くことにあった。仕掛けた結果、彼女は番組改編で『あっぱれ列島』が打ち切りになったことを知らなかった。少し遅れて登校すれば気付いた可能性はあるが、知らないということは、本当に時間に正確らしい。
聖也の顔を見ると、上手くいったじゃないかという意味ありげな視線をちらりと寄こしてきた。すると調子に乗ってか、「なあ、三星って彼氏いるの?」と訊いた。
「ちょっ……」頼太は思わず喉の奥から声にならない声が出かかる。
「いないよ」
なぜか頼太はほっと一息つきたくなったが、次の三星の言葉で胸の中に竜巻が発生したような気分になる。
「去年まで付き合ってた人はいる。けど別れた。なんかじめじめして納豆みたいな奴だったから。第一高校の人だけどね。あたしはもっと、さらさらした人が好きなの」
彼氏がいたと聞き、頼太はカカオ百パーセントのチョコを口に突っ込まれたような感覚を味わった。
「あはは、面白い表現。納豆みたいな彼氏とか、逆に会ってみたいかも」
「でも最近困ってるんだ。通学路で待ち伏せされるから。まあ、あたしも人のこといえないか……」後半は独り言のつもりらしく、声が小さかった。
「待ち伏せ?」頼太は思わず訊いてしまった。
「うん」と三星は軽く頷き、聖也と目を合わせる。「光穂と同じ塾で仲いいんでしょ。だったら、あたしが光穂と一緒に通学してること、聞いてるんじゃないの」
「まあ、聞いたような気もするけど」さりげなく聖也がいう。
「仲がいいのもそうだけど、本当は元カレの待ち伏せが面倒だから一緒に通学してもらってるんだ。そのせいで遠回りしなくちゃいけないんだから。7分ぐらい無駄にしてるんだよ! もう! 考えただけであいつ腹立つ!」
今の発言で三星の通学状況が理解できた。そんな経緯があったとは……。砂川という人も遠慮して聖也にはいわなかったのだろう。
「立派なストーカーじゃないか。警察にチクれよ」頼太は本気でそう思った。
「何かされたら容赦なくそうさせてもらうけど、別になんもしてこないんだよね。写真撮られてるわけでもないし、未練がましく睨んでくるだけ。こっちも大袈裟にしたくないし、まあいいかって感じ。考えること自体めんどくさいし、あいつのために自分の時間を使いたくないからさ。頼太くんぐらいさらっとした男だったらよかったのに」
それこそ、さらっと三星は頼太にとって重要な一言を放った。『頼太くんぐらいさらっとした男だったらよかったのに』──これまでにないほど頼太は自分の胸が熱くなる感覚を覚えた。自分は喜んでいるのだろうか。
「7分ってまた正確な時間だね」そういったのは聖也だ。頼太の心境を察してか、重要な情報をみすみす逃すまいと助けてくれたらしい。
「好きな人と一緒にいる時間ならそんな細かく覚えてないけど、なにせ大っ嫌いな奴に奪われた時間だからさ。そりゃもう秒単位で覚えてやってるぐらい。将来どこかで返済してもらわなきゃ。時間返さないと殺すぞって」
「なかなか強烈……」聖也が苦笑する。
三星に元カレがいることがずっと頼太の頭を独占しているが、それと同じくらい気になることがあった。
聖也も折り返して訊いてくれたが、三星がストーカー回避のために遠回りした時間は7分だとわかった。ならば、10分のうち残りの3分は一体どこで何をしているのだろうか。
「どうしたの? あたしの顔になんか付いてる?」三星は自分の頬を軽く擦った。
「いいや。何でもない」
逃げるようにして視線を別のほうへ向けると、正木と目が合ってしまったので慌てて逸らす。そういえば万引き容疑は晴れたのだろうか。少し気になったが、すぐにその感情は消え失せ、また三星のことを考えてしまうのだった。
七限まである地獄の曜日を耐え、ようやく身体を動かせる時間がやってきた。陸上部の練習開始が少し遅れるということで、テニス部の部室前で聖也と談笑していた。三星に関することを静かに話していると、部長の長谷川先輩が近づいてきた。
「今日のボール当番、頼太じゃなかったっけ」
「あっ、すみません。忘れてました。すぐにカゴ出します──暇なら聖也も手伝ってくれると助かる」
「親友の頼みとあらばしょうがない。いいぜ。長谷川先輩でしたっけ、めちゃくちゃイケメンって周囲からいわれません?」
きょとんとした顔で長谷川先輩は聖也の顔を見つめる。
「お前、かわいい奴だな」茶化すように長谷川先輩はいった。「今からでもテニス部に入り直さないか」
「ありがたいけど遠慮しときます。先輩と同じ部活じゃあ、ちっとも恋愛できそうにありませんし」
「調子いいな!」容姿を褒められ、長谷川先輩は嬉しそうにする。「でも最近は彼女いないんだ。ていうか告白すらされてないわ。中学の頃は自分でいうのもあれだけど、今よりもっと注目されてた」
それはあなたが多くの女子にとって雲の上の存在だからです、と頼太は心の中だけで呟いてみる。
長谷川先輩から鍵を受け取ると、二人でグラウンド近くの倉庫に向かった。頼太が開錠して戸を横に引こうとするも、立て付けが悪くなっているせいか、なかなか思うように動いてくれない。
「くそっ、また開かなくなってる。学校もいい加減直してくれよ、これぐらい」
「公立だからお金ないんだろう」文句をいうより手を動かす聖也がぐっと力を込めると、気を緩めたように素直に扉は開いた。「ふう、確かに固かったわ」
「サンキュ」頼太はいい、倉庫から二つのボールカゴを取り出す。その拍子にふと、細長い物体が視界に入ったので拾い上げると、油性のマジックペンだった。「誰かの落とし物かな」
「名前書いてるぞ」
聖也にそういわれ、くるりと本体を回転させると、『あやの』と白いテープの上に黒い字で名前が書かれてあった。いうまでもなく、頼太は『あやの』というフレーズにびくっと背中に電気が走るような感覚に陥った。あやの……彩乃……三星彩乃……。これは彼女の所有物ではないだろうか。
そう思って聖也の顔を見ると、いつになく険しい顔をしていた。
「聖也?」
しばし考える仕草をした後、彼はおもむろにこう告げた。
「これはもしかすると……最悪のシナリオかもしれない」
「最悪のシナリオって?」想像はつかないが、何か悪いことが起きるといわれて平気でいられる人も少ない。
「もしこのペンが彩乃ちゃんのものだったとしたら──いや、これ以上は今の段階ではいわないでおく。明日、たぶんすべてが明らかになる」
ペンのキャップを開け、聖也は自分の掌に何か書き込む仕草をする。
「一体何してるんだ」
「どのくらいインク残ってんのかなあと思って──何だこれ、かっすかすじゃん。ほとんど残ってない」
聖也の行動に深い意味があるのかどうか、頼太にはまるで想像がつかなかった。
†
翌日、ほとんど眠れぬまま朝を迎えた頼太は、いつもより早い時間に家を飛び出してしまった。聖也からはいつも通りに来ればいいといわれたが、逸る気持ちを抑えきれず、学校に向かうことにした。
探偵気取りなのか、勿体ぶっている様子が鼻についたが、真実を知れるのならそれでいい。完全に三星の通学を把握できれば、『とんがり岩』でばったり出会うという演出を故意に作り出すことができる。それが自分たちの最終目標。だが聖也のいった感じだと、どうもその目標が脅かされるのではないかと不安になる。三星のペンが倉庫の中に落ちていたから、一体なんだというのだ。
聖也と合流し、教室で散々焦らされているうちに三星が到着する時間になった。彼女は今日も規則正しくいつもの時間に教室に入ってきた。
「おはよっ」と笑顔で声を掛けられる。
「あのさ、これ──」昨日拾ったマジックペンを頼太が差し出すと、彼女の顔からさっと表情が消えた。
「……これ、どこに落ちてたの」その口ぶりから、マジックペンはどうやら彼女のものらしかった。
「部室倉庫の中」
「そう……」儚げにペンを見つめる三星。「ありがと。探してたんだよね」
どういたしまして、といおうとしたとき、聖也が横から口を挟んできた。
「この前起きたテニスボールの神隠し、じつは彩乃ちゃんが犯人なんじゃない?」
すると三星は目を剥き、明らかに狼狽する様子を示した。
「な、なんであたしなの? 変なこといわないでくれる!」
「別に変なことをいったつもりはないんだけどさ」にやりと笑い、聖也は立ち上がる。「じゃあ逆に訊くけど、どうしてあの場所にペンが落ちてたんだろう。考えられることは二つだ。一つは倉庫内あるいは倉庫の備品にペンを使う用事があった、そしてもう一つがペンを使ったのは倉庫とは関係ないまったく別の用事。さあ、どっちだ」
「どうでもいいじゃん、そんなこと」冷静に彼女は応えた。
「学校で油性ペンを使う場面って限られるんじゃないかな。たとえば新しい教科書や文房具を手に入れて、そこに名前を書くなら頷ける。でも彩乃ちゃん、持ち物に名前を書く習慣ないでしょ」
「そこまで見られてたの、あたし……」
「洞察力と推理力には自信があるんだ」照れたふうに聖也は後頭部を掻いた。
「でも、だったらそれがどうしたっていうの。倉庫内でペンを使ったから、あたしがボールカゴ事件の犯人になる? 訳わかんないんだけど」
三星のいうことは最もだ。今のところ、聖也の発言は論理的ではない。
「一番目の可能性ってことは認める?」
「……まあ、それはね」
「じゃあどうして嘘をついたんだ。やましいことがなければ隠す必要なんてなかったと思うけど」
「早くこの話を終わらせたかったの。何で朝からこんな容疑者扱いされなきゃいけないわけ? ほんとムカつく」
「一番目だった場合──」構わず聖也は続ける。「倉庫に関連したものにペンを使う用事があったことを、彩乃ちゃんは隠したかったことになる」そこまでいうと、聖也は親指と人差し指で輪っかを作った。
「何?」不機嫌そうに三星は訊いた。
「テニスボールだよ。軟式用のテニスボールに油性ペンで何かを書いたんだ」
三星に、はっと息を呑む気配があった。図星のようだ。しかし黙って聞いているだけで反論する気配はない。
そんな彼女の意志を察してか、躊躇なく聖也は続ける。「頼太から聞いたんだけど、男テニのボールが一球なくなったらしいね。俺の推理だと、ボールを盗んだのは彩乃ちゃんだ。なぜなら、そのボールに油性ペンで何かを書く用事があったから」
彩乃は負けを認めているようで、軽く俯き、わずかに頬を赤らめている。さっきまでの憤る様子とは違い、恥ずかしそうに見える。
「そのなくなったボールは男テニの部長の長谷川さんの自転車カゴに入れられていたらしいね。事実だけを並べて整理してみると、彩乃ちゃんは男テニのボールの一球に何かメッセージを油性ペンで書き、そのボールを長谷川さんの自転車カゴに入れた。さあ、その理由は何だろう」
「長谷川先輩が好きだったの! 悪い? ボールに『好き』って書いて……」聖也を睨みつける三星。
「ごめん。悪いとかそういうことじゃなくて、単に俺は事件の真相を知りたかっただけでして……」
頼太は頭が真っ白になった。三星は長谷川さんのことが好きだった……その事実がなぜ自分の胸をこれほどまでに締め付けるのか。いや、別に気にしていない。どうでもいい情報。そういい聞かせるほど、どんどん惨めな気持ちになっていく。
「まあでも……」三星の表情が幾分か穏やかさを取り戻し、薄い笑みが浮かぶ。「ばれちゃったものは仕方ないか。あたしだってもう子どもじゃないし。聖也くんの話、最後まで聞かせてよ。間違ってたら鼻で笑ってやるから」
「いいよ! 望むところっ!」悪くなりかけた空気を一蹴するがごとく、聖也の声には張りがあった。「じゃあ遠慮なく続けさせてもらおう。彩乃ちゃんが男テニのボールをいつ自分の懐にしまったかはわからない。けど、ボールに長谷川さんへの想いを記し、それを自転車カゴにわざと仕組んだのは確定だ。あの日、女テニの練習が男テニより早く終わったんじゃない」
うん、と三星は告げる。
それを受け、聖也は続ける。「これは俺の推測だけど、男テニの練習が終わる前にボールを一球盗んでおくことで、男テニの練習終了時刻を遅らせることも目的だったんじゃない? なぜそんなことをしたかというと、二つのメリットがあるから。一つは、前に頼太から聞いたけど、四十分ぐらいボールを探し回ったんだっけ。それだけ探せば日も暮れて辺りは薄暗くなる。暗いほうが告白しやすい気もするし。そして二つが、長谷川さんの行動を操れる点にある」
「行動を操る?」頼太は思わず首を傾げた。
「自分の自転車カゴに、探してたボールが入ってるのを見つけた長谷川さんは、その足ですぐに倉庫に向かったはずだ」
「ちょっと待った」三星が手で制する。「先輩が先に告白に気付いたら、しばらく呆然と自転車置き場に立って、誰がこんなことしたんだろうって考えるのが普通じゃない? なのにどうして先輩が先に告白文を見なかったって断言できるの」
「答えは簡単だよ。インクがほとんど残ってなかったし、辺りは薄暗かったし。薄暗い中で、めちゃくちゃ薄く書かれた二文字に気付く確率はいかほどのものか」
「『好き』の二文字を上向きにしてたら、いくらなんでも最初に気付くと思うけど」負けじと三星も抵抗する。
「それはない。だってそんなことしたら、万が一長谷川さんの自転車カゴのそばを通った人に見られる心配があるから。わざわざボールに書いて相手の出方を待つくらい慎重な彩乃ちゃんが、急にそんな大胆なことをするとは思えない」
「あんたやるね。でもそうだとしたら、あたしは何のためにボールに『好き』って書いたの」
「そりゃもちろん想いを告げるためだよ。倉庫に向かう長谷川さんの後を追いかけて、ナイター設備のおかげで比較的明るい倉庫前で声を掛けるつもりだった。正直、ここから先は最初はわからなかった。けど、倉庫の中にさっきのマジックペンが落ちてたことで、彩乃ちゃんの行動を読むことができた──前に長谷川先輩と話したんだけどさ、こんなこといってた。今彼女はいないし、最近は告白すらされてないって。もちろんその会話はテニスボールの神隠しの後で先輩から聞いた内容だ。つまり、彩乃ちゃんは先輩に想いを告げられなかったということになる」
「ほんと何なの、その推理力。進路希望で探偵学部にでも行ったらどう?」
「あったらぜひ行きたいね。続きを話すと、たぶん彩乃ちゃんは躊躇したんだろう。本人を前にしてやっぱり足がすくんじゃった的な?」聖也は一呼吸置いた。「当初の予定はこうだったんじゃない。倉庫前で長谷川先輩に声を掛けて、ボールをよく見てくださいって。でもそれをする勇気が出なくて、結局長谷川さんは何も気付かぬまま、ボールを倉庫の中のカゴにしまった。ちょうどそのタイミングで先輩は腹痛に見舞われ、グラウンドのトイレに駆け込んだ。それをチャンスと捉えた彩乃ちゃんは一目散に倉庫に駆け込み、やっぱりボールに書いた『好き』の二文字を消したくなった。でも皮肉なことに、真っ暗な倉庫では自分が『好き』だと書いたボールをすぐに判別することができず、慌ててカゴごと倉庫の外に出して、戻ってきた長谷川さんと鉢合わせにならない場所まで移動した。そのとき倉庫の中にマジックペンを落としてしまったんだろう。たぶん一回目に侵入してボールに文字を書いたときから、ペンをずっとポケットにしまってたんじゃないかな」
「ダウト!」三星がトランプゲームの途中にいうような台詞を吐いた。「いくら薄い字とはいえ、油性マジックだよね。そんな簡単にインクを消せるわけない」
「油性マジックはエタノールで消える。エタノール、彩乃ちゃん持ってるでしょ」
まさか、と頼太は思った。「アルコール消毒液!」
「その通り」聖也は大きく頷く。「倉庫からボールカゴを持ち出した彩乃ちゃんは、先輩に見えないところでアルコール消毒液を取り出し、ボールに書かれた文字を拭き取ったんだ。あとはボールカゴを倉庫に戻せばよかったんだけど、トイレから長谷川さんが戻ってきて、カゴが消えていることに気付き、倉庫周辺を捜索し始めた。そのせいで返すタイミングを逃し、黙って息を潜めるしかなかった。やがて諦めた長谷川さんは倉庫の鍵を閉めて帰宅してしまった。返しそびれた彩乃ちゃんは、仕方なく倉庫の前にボールカゴを置いておくことにした。これでテニスボールの神隠しの謎が解明できたってわけ。ボールの個数も元通り。どうかな?」
しばしの沈黙後、三星は呆然とした顔つきで聖也の目を見つめる。
「ぜーんぶ、ばれちゃった……」可笑しそうに三星は笑い声を上げた。「まあ別にいいんだけど。あんたたちにバレる程度のこと、どうってことないし。でもいいふらさないでよ! いったら動脈ぶち切るから」
殺すよりも一段強いワードを浴びせられ、頼太の内臓は縮み上がった。
「じつは毎朝、先輩と鉢合わせにならないかなって、通学路の途中で待ち伏せしてたんだよね。あ、でも数分だからどこぞのキモい奴と一緒にしないでよ。結局一回も会えなかったんだけど……先輩、ほんと時間にルーズで行動読めなくてさ」
「それが残る3分の謎だったか」聖也がぽつりといった。
「何? 3分って?」三星が訝しそうに問う。
「いや、ただの独り言。気にしないでくれ。ひとまず解決したってことで!」
「なんかもやもやする」三星はやはり疑っているようだ。
しかし今の頼太にとっては、今さっき聖也のいったことが頭から離れずにいた。三星が通学路で3分間、長谷川先輩との鉢合わせを狙って待機していたという事実──。
これまでのことを踏まえると、三星彩乃の通学路は次のようになる。本来なら30分で着くところを40分かけて彼女は通学している。その謎の10分間は、元カレの待ち伏せを回避するためと、片思いする先輩を待ち伏せするために使われていたのだ。
元々は『とんがり岩』でばったり三星と出くわすために彼女の通学路の詳細を調べていたのに、これでは何と皮肉な結末だろうか。
わかったことは、自分は三星の意中の相手ではないこと……これこそが聖也のいっていた最悪のシナリオに相違なかった。
それからというもの、三星のことを忘れようと試みるも、逆に夢の中にまで出てくるという始末だった。もうわかっているつもりだった。自分は完全に三星に惚れている、と。そして自分は失恋したのだ、と。
虚無感に襲われ家でテレビをつけると、美味そうなグルメ番組がやっていた。頼太も『食』には興味がある。観ていれば少しは気も晴れるだろうかと期待したが、どんなに分厚い高級ステーキを旬な芸能人が食べていようが、何も思うことはなく、食欲も湧いてこず、そもそも内容自体が頭に入ってこなかった。しかし『三ツ星レストラン』というワードにはびくりと身体が反応し、そのままリモコンで電源を落としてしまった。
「何やってんだ、俺は……」頭を掻きむしり、風呂にも入らずそのまま枕の中に顔をうずめた。
そして翌朝のこと。教室に入ると、すでに席に着いている聖也が「おっす」と軽く手を挙げてきた。「少しは痛みも引いたか」
「よくわかんない感情が、よくわかんないまま消えたって感じだ」いいながら頼太は虚しさを覚えた。自分の感情を偽るほど辛いことはない。
「それならよかった。まだまだ引きずってんのかなあと。同じクラスだし、忘れようにも忘れらないだろうと思ってさ」
「その話はもういい。すべて終わったことだ」ふと、頼太はあることを聖也に訊いてみたくなった。
それは今まで彼に対して抱いていた、軽い不信感だ。「あのさ、聖也と俺の家ってちょうど500メートルほど離れてるよな」
「そうだけど……自分でいっといて、また話を掘り返す気か?」聖也は苦笑する。
「聖也は6.5キロの距離を13 km/hで走っている。速度は、前に一緒に距離の測定に行ったとき知った。いつも通学にかかっている時間は35分」
聖也はすっと頼太から視線を逸らし、平静を取り繕っているように見えた。
「そ、それが……?」
「おかしいぞ。計算したら30分だ。この空白の5分間、どこで何をしてるんだ」
「あちゃー、ばれたかあ」照れたように困ったように、わざとらしく額に手やる。「まあ相手が頼太だから教えるわ。先生にチクんなよ。じつは、毎朝コンビニ寄って、ジュースと漫画を物色してるんだ。うちの学校、そういうのに厳しいだろ。だからちょっと、こそこそやってたわけでして……あっ、でもこの間変な奴見かけたんだよ」
「変な奴?」
うん、と聖也は改まって小さく顎を引く。「モバイルバッテリー片手に持ちながら辺りをキョロキョロしてる挙動不審な奴。頭がぼっさぼさの怖いおっさんだった。正木が近くのカロリーメイト的なコーナーにいた気がするな」
†
「浅霧くん、ほんとありがとっ。君は命の恩人だよ」眼鏡の正木は、聖也に向かって深々とお辞儀した。
職員室前。担任の先生に聖也が不審な人物を見かけたことを告げた後である。担任は安堵したように「最初から君が犯人だとは思ってなかったよ。信頼は、普段の態度の積み重ねでもある」といい、ほっと胸を撫で下ろした様子だった。
「お安い御用よ」聖也はぽんと自分の胸を叩いた。「でも礼なら頼太にいってやれ。こいつが俺の通学路に気付かなきゃ、俺が正木を助けることはできなかったから」
テニスボールの神隠しの翌日、頼太が正木と二人で話していたとき、聖也はトイレに発っていた。だから今まで正木の置かれた状況を知らずにいたのである。
「そうだったんだ。ありがとう、栗島くんも」
「礼には及ばないけど……冤罪にならなくてよかったな」結果オーライといえど、初めから救う気だったわけではないから少し心が痛む。
「僕あんまり友達いなくてさ……何だかすごく今、新鮮な気分なんだよ。これからも、一緒に喋ったりしてくれるかな」気恥ずかしそうに彼はいった。
「改めてよろしくな」自然と出た言葉だった。
「ありがとう!」
放課後になり、頼太たちはいつものように下駄箱で靴を履き替えグラウンドに出た。この日の空は五月晴れで、絶好のテニス日和だった。大量に汗を流せば嫌なことも忘れられると、去り際に聖也がいい残していった。
頼太が一人でテニスコートに向かっていると、向こうからラケットケースを肩に掛けた団体がこちらに向かってくるところだった。やけにはしゃいでいる。長谷川先輩たち、テニス部のメンバーである。
「あ、頼太。今日の部活休みになった」長谷川先輩がいった。「内海先生が出張で、今日は休みにしちゃっていいっていわれたから、遠慮なくそうさせてもらった。ここんところ結構きつきつだったし、たまには休憩もしないと」
「そうだったんですか……」三星のこともあり、頼太はどういう顔をすればいいのかわからなかった。変に意識しないほうがいいだろう。
「明日はいつも通りやるから、遅れずに来いよ」
はい、と応えたのち、頼太は引き返して自転車置き場へと向かった。久々に早く家に帰れるが、帰ったところで一人で考える時間が増えるだけである。
学校を出て風に吹かれながら走っていると、映画やアニメでよく見る主人公になったような気分を味わえた。周りには田畑とコンビニぐらいしかないが、目と心には優しい緑の風景が広がっている。この、時間がゆっくりと過ぎていくような気楽さが頼太は好きだった。
と、そのとき、「頼太くん!」とどこかで高い声がした。振り向いてみて驚いた。後ろから三星が迫ってきている。一気に鼓動が早まる。どうしてこんな時間に彼女が。部活はどうしたのだろう。頼太が動揺していると、いつの間にか彼女が横についていた。
「男テニも休みでしょ。うちの顧問も出張。もしかしたら、部活絡みのことかもしれないね。あっ、そうそう、正木くんから聞いたよ。冤罪を救ってあげたんだって」
「う、うん……まあな。けど、証言してくれたのは聖也のやつだ」
「見直した。いいことしたんだから、ちゃんとこっち見て話しなさいよ」
「前見ないと危ないだろ」
「ほんと融通利かないね。数字とかデータがこの世のすべてじゃないんだよ。それだけじゃ表せないことが、きっと一杯ある」
「たとえば?」がちがちに震える声で、何とか懸命に話を繋げる。
「匂い、とか?」
「なんだそれ」思わず吹き出してしまった。「確かにそうかもな。匂いって数式では表現できない。あとさ、味とかもそうじゃない?」
「あ、ほんとだ!」
互いに笑い合う。他愛もないというには少しトリッキーな気もするが、今自分は三星と二人きりで下校し、話をして盛り上がっている。もう死んでもいいぐらい幸せな気分だった。頼太の視界に入っているのは三星だけだ。彼女の笑顔を見ていると、胸がきゅっと縮み、たまらなく幸せな気分になる。しかし……。
「長谷川先輩のこと、どうするの? まだ諦めてない感じ?」
三星はふと空を見上げ、やがてゆっくりと首を横に振った。
「諦めた。長谷川先輩には同じ三年生に好きな人がいるって聞いたし。あんなイケメンだし、女子の情報網は頼太くんが思ってるより凄くてさ、なんかそれ聞いて醒めちゃったんだ。たぶん、恋愛映画みたいなのに憧れてたのかもしれない、あたし。うん、たぶんそうなんだろうなって思う。告白が成功しても、付き合ったことに満足しちゃって、なんかそれ以上幸せな気分にはなれないのかなって、思ったんだ」
「へえ」と何でもないように返答するが、頼太の心の中ではダンスユニットが無限湧きして踊り狂っている。
「あっ」といきなり声を漏らし、三星が急に自転車を止めた。それを見た頼太も少し遅れてから停止する。
「どうした?」
「ううん、何でもない。ニュースアプリが速報出すといつも振動するんだよね。自転車乗ってるときに震えると、いつもLINEが来たって勘違いしちゃうんだ。通知オフってどうするんだろう」
「貸してみ」頼太は三星からスマホを受け取ると、設定の画面からさらに詳細設定へと進み、青くマーキングされている自動通知の設定を切った。「これでオッケー」
「あ、そんなのできるんだ。ありがと!」嬉しそうに彼女はスマホを受け取った。「『新型ウイルス 脅威ではない』っていう見出しみたいね。毒性も弱くて感染力も低いから、世界がパニックになることはないって、WHOがいったらしいよ。なあんだ、消毒液とかいらなかったじゃん。買って損した」
「想像したくもないな、パンデミックになった世界なんて──」ふと辺りの景色に目をやると、頼太は今の自分が立っている場所に、思わず息を呑んだ。そこは『とんがり岩』の真ん前だった。
満開の桜──。
『恋愛成就の岩』と書かれた看板が立て掛けられているのを、じっと三星が見つめる。
「素敵だね。あたしたちの町にこんな場所があるなんて」
「そういうの信じるタイプなのか」
「さっきもいったけど、信じることで救われる人もいるの。たとえそれが偶然だったとしても、信じた結果、自分の行動に変化が起きたおかげで、成果が出たって見方もできるでしょ」
「確かにいえてる。三星のいうとおりだ」頼太は自分の身長の二倍はあろうかという『とんがり岩』を静かに見上げた。
「でしょー」と嬉しそうな表情を浮かべる三星。
「あのな、その……三星に話したいことがあるんだけど──ちょっとだけ、いいかな」頼太は口から心臓を吐き出しそうになりながら、やっとの思いで告げた。
「別にいいよ、あたしは。特に予定ないし」
「今はどんな季節だ」
「はあ?」
「いやだから、その、どんな季節かなって」
「晴れてて気持ちのいい五月のとある日、だと思うけど。頼太くんは違うの?」
「うん。俺は少し違うかな」
「どんな季節なの?」
「話すと少し長くなるけど──」頼太は意を決し、続けた。「桜と数式の季節かな……っていっても伝わらないな」
「全然わかんない。けどなんか面白そう。数式って何? 詳しく聞かせて」
うん、と頼太は確かに頷き、今度こそしっかりと三星彩乃の顔を正面から見つめた。
その刹那、春の風がさっと駆け抜け、頭上で無数の花びらが躍った。