41話『感情の衝突』
感傷に浸りつつ、時間だけが流れていく。
教室というありふれた空間の中で、一つしかない思い出を甦らせる。
佳奈も同じことをしているのだろう。
隣で神妙な面持ちながら、俺たちが出会った奇跡の椅子に腰掛ける。
この椅子、この座席が全ての物語をスタートさせたのだ。
そう思うと、感謝しつつも恨みたくなるな。
お前のせいで俺の人生は大忙しだと。
お前のせいで人が……って、これは俺も川瀬も悪いのでやめておこう。
何にしろ、コイツのせいで俺は悲しい思いもし、苦しい思いもし、後悔もした。
同時に、嬉しい思いも、楽しい思いも、幸せな思いも体験した。
あれ、結果的に他の男とセックスをしたというストーリー以外は悪くなかったのかもしれない。
それがとんでもなく質量の大きな重りになっているのだが。
「けーちゃん。最後に行きたいところがあるんだ!」
ガタッと音を立てて立ち上がった。
俺は佳奈の方へ視線を向ける。
そして、ピシッと真っ直ぐに窓の外を指さした。
「ま、そりゃそうだよな」
これだけ思い出の場所を巡ったのに、あそこへ行かないのはおかしい。
この教室よりも思い出に残っている場所。
印象深く、忘れようとしても忘れられない場所である。
「もしも俺たちが出会ってなかったらどうなってたんだろうな……」
ポツリと言葉を漏らす。
俺はどういう人生を送っていたのだろうか。
少なくとも、川瀬と関わることも無く、長谷川という人物に対しても陽キャだなという感情しか抱かなかったはずだ。
そもそも卒業するまで存在を知らなかった可能性も大いにある。
実際に今まで知らなかったのだから。
今までが幸せなだけであって、彼女のいない生活ってのが、俺にとっては日常だったのだ。
長いことぬるま湯に浸かっていたせいで脳が勘違いしているが、彼女のいる生活こそが非日常である。
つまり、別れたことで日常へと歩みを戻しただけと言えるだろう。
「出会ってないことなんて無いよ」
「断言するんだ」
「うん、出会いたくて出会ったんだもん」
「おー、そりゃ怖い」
なんかもう深く追及しない方が良い気がしてきた。
これ以上は俺が生きて帰れない気がする。
「それよりも出発だよ! もう外も暗いからね」
佳奈はそう言うと、教室の扉に手をかけて、ジェスチャーしてみせる。
俺も重い腰を上げて、佳奈の元へ歩き、廊下へと出る。
この思い出の場所を残し、次なる思い出の場所。
話の転換部分へと。
◇
やってきたのは何の変哲もない公園。
世間一般的に見ればそうだろう。
だが、俺からしたら……いや、俺たちからしたらここは『ただの公園』という言葉だけでは片付けられない特別な場所となっている。
一つは、別れたあと。
家を飛び出した佳奈を探している時に見つけた公園であるということ。
あのことも印象としては大きい。
しかし、これ以上にでかい理由もある。
俺たちの関係がここから正式にスタートしたのだ。
そう、俺が佳奈へ告白をした場所である。
心臓をバクバクにさせながら、告白をした思い出の場所。
絶対に忘れることの出来ない場所とはそういうことである。
たとえ、記憶から抹消しようとしても奥底から蘇ってくるものだ。
「けーちゃん、覚えてる?」
佳奈はベンチに腰掛け、微笑みながら首を傾げる。
何を……とは言わない。
抽象的な言葉であるが、告白のことだろうと意図も容易く推測できてしまう。
「あぁ、覚えてるよ」
俺は頷く。
告白のことを思い出すのはどこか恥ずかしさがある。
あれでも、当時は本気だったのだ。
本気でやったことを思い出すのだから、恥ずかしさが付き纏うのは当然のことだ。
暗くて、佳奈の顔がちゃんと見えないのが不幸中の幸いだろう。
表情は分かる。
ただ、微細な変化には気づかない。
きっと、あっちも俺の顔は見えていないはず。
俺が今、赤面していることにも気付いていないだろう。
もしも、気付いているのなら、触れて欲しい。
顔赤くしているなって思われるだけなのが一番恥ずかしい。
とりあえず心を落ち着かせるために、一呼吸する。
こういう時の深呼吸ほど、心が落ち着く行為はない。
「私もちゃんと覚えてるよ」
ポンっと胸を叩く。
小さく控えめながらも、しっかりと形の整った胸が揺れる。
「けーちゃんったら、手震わせながら『僕とお付き合いしてください』って、頭下げてたもんね」
佳奈は「ふふ」と楽しそうに笑う。
馬鹿にするような口調では無い。
当時のことを思い出し、懐かしさにうっとりとしているような感じだ。
「やめろ、恥ずかしいんだから」
「えー、恥ずかしいの?」
首を傾げる佳奈はゆっくりと公園内を歩き、街灯の下まで移動する。
無数の虫が街灯の明かりに集まっているのだが、お構いないという感じだ。
この辺りに住んでいるだけあって、佳奈からしたらなんてことの無い普通の風景。
日常だから、気にならないのだろう。
ま、俺もすげぇ気になるってわけじゃないしな。
あー、虫がいるなぁ程度。
「あれでも本気で告白したんだから恥ずかしいに決まってるだろ」
俺も佳奈が移動したところまで、歩き苦笑しつつ本音を口にする。
「私はあの時嬉しかったよ」
佳奈は頬を触りながら、蕩けるような笑顔を見せる。
その表情を見て、可愛いなと思ってしまった。
そもそも佳奈の顔はかなり整っている。
所謂美少女というやつだ。
そんな彼女が、ちょっと気恥しそうに誤魔化すような笑顔を見せる。
可愛いなと思ってしまうのは至極真っ当。
性格とか、ここまでの経緯とか、現状の関係とか全部取っ払って思いっきり抱きしめたくなるくらいの可愛さだ。
ま、しないんだけどね。
取り返しのつかないことはしない。
それが俺のモットー。
佳奈はそれだけ言うと黙る。
瞳をキラキラ輝かせて、俺の事を一直線に見つめるだけ。
妙な熱視線に俺の方が思わずやられてしまいそうになるほどだ。
「……っと、そうか」
間を繋ぐために、なんとか捻り出した言葉。
言葉に意味はもちろん無いし、感情だってこもっていない。
ただ、言葉という形で表に出しただけ。
「私はけーちゃんのことが好きだから。過去も今も」
視線を逸らすことなく、しっかりとはっきりと言葉を紡ぐ。
確固たる意思を感じる。
「きっと未来も。そしてその先も」
佳奈は空を見つめる。
輝きを放つ星々。
一際目立つ北極星。
ずっと北の空で輝き続けている。
北極星を見つめているわけじゃないのだろう。
しかし、視線は北極星へ向けられているように見えてしまう。
気のせいだとは思うのだが……。
「だからね、将来の私のために今日だけは……」
佳奈はそこまで口にして、突然首を横に振る。
風に混じる小さなため息がこちらまで聞こえてきた。
「違うね。今日も……かな」
アハハと照れるように頬を触る。
いつの間にか視線は俺へと向けられていた。
「でも、今日で最後だから」
声を振り絞る。
震えが感じられ、今にも彼女の中にある何かが決壊しそうだ。
何がかは分からない。
涙かもしれないし、感情かもしれない。
「……」
俺は何も口にしない。
ただ、佳奈のことを見つめるだけ。
それ以上のことも、それ以下のこともしない。
「けーちゃん。最後のわがまま聞いてくれるかな?」
佳奈はうねうねと体を捻らせた後に、小さな笑みを零す。
笑っただけではない。
どこか覚悟を決めたような強さがあるのだが、同時に弱さも垣間見える。
「わがまま……?」
俺は首を傾げる。
「そう、わがまま」
佳奈は頷き、優しい口調で話を続ける。
表情は変わらない、優しく微笑むだけ。
外の暗さとは全くマッチしておらず、不気味さだけが残ってしまう。
「けーちゃん」
佳奈は俺の肩を掴む。
両手で掴み、熱視線を送る。
「は、はいっ」
声を上ずらせてしまった。
小さく頷き、何も無かったように振る舞う。
恥ずかしさから頬が火照る。
決して、佳奈に顔を近付けられたから顔が熱くなったのではなく、声を上擦ってしまったことが原因だ。
「私けーちゃんが好き」
脳内が蕩けそうな声を耳元で囁く。
それだけ言い終えると、佳奈は俺の肩から手をそっと離し、二歩後ろへ下がる。
しかし、視線は俺の元へ引き続き残る。
「けーちゃんが好き」
先程に比べると離れたところでまた同じ言葉を繰り返した。
俺が何も反応しなかったから、もう一度口にしたのだろう。
なにか反応しなければと思い、頷く。
「……うん」
好意を持たれているのは知っている。
何度も言われてきた。
自意識過剰なんじゃないか……とかそのレベルじゃない。
なんなら明言してたし、佳奈の好意に関しては今更驚くようなものじゃない。
しかし、いつもの雰囲気とは違う。
場所のせいもあるのだろう。
何にしろ、まるで告白のようなシチュエーション。
だからこそ、どういう反応を示すのが正解なのか分からないのだ。
素直に受け取るべきなのか、それとも茶化して無かったことにするべきなのか。
素直に受け取ったとして、自分の胸の中にある想いを誤魔化すことなく吐露すべきなのか、素直に受けとりつつも答えはあやふやにすべきなのか。
何も無かったことにして逃げるべきなのかもしれない。
とにかく……だ。
四方八方から選択肢が迫ってきて、答えを悩み、結局辿り着けず、呆然としてしまう。
悩んでいることに気付いたのか、我慢できなくなったのか分からない。
佳奈は自身の前髪を撫でつつ、口を開いた。
「けーちゃん。好きです。大好きです。今も昔もずっと、ずっと」
佳奈は服の裾をギュッと掴む。
掴んだ部分はしわくちゃになり、下着が若干見えている。
佳奈はそんなことお構い無しという感じで、手をそのままに変わらず俺へ視線を向ける。
目を逸らすという行為を知らないのではと思わせるほどの熱視線。
「だからね、けーちゃん。もう一度付き合いませんか。もう一度やり直しませんか。
至らないところが私にはあったよ。
経緯はともあれ、彼氏に隠して違う男とエッチしちゃうようなダメな女だよ。
でもね、怖かったの。言い訳になるのは分かってるけれど……」
掴んでいた裾を離す。
「私はっ!」
佳奈は叫ぶ。
震わせた声で。
「学習するから。同じことは絶対に繰り返さないから。
けーちゃんに隠し事はしない。
困ったり、悩んだりしたら自分で抱え込まずに相談するから。
私はけーちゃんが好きだから」
潤った目。
今にも涙が零れ落ちそうだ。
「大好きだからっ!」
シャウトする。
さっきの声よりも大きく。
佳奈は手を震わせている。
捨てられた子犬のような視線。
風で草木が音を立てる。
沈黙の中、俺は佳奈を見つめる。
佳奈も俺を見つめる。
お互いに視線を逸らさず、真っ直ぐに。
答えはどうすれば良いのだろうか。
ここまで純粋さが伝わってくる告白だと思いが揺れる。
もう、良いか。
妥協が頭に過ぎる。
そして、俺が口を開こうとすると、佳奈は近寄り、俺の唇に指を優しく置いて、口を止めた。
「義務感で付き合われるのは嫌。わがままでごめんね。
でも、付き合うなら元の形が良いの。
私が壊したから言える立場じゃないのはわかってるんだけどね……」
と言うと、佳奈は指を離す。
そして、また二歩下がり、元の場所へと戻る。
「ふぅ」
俺は大きく息を吸う。
佳奈は自分の心の中にある想いをぶつけてくれたのだろう。
それならば、俺だって自分の胸の中にある素直な気持ちをぶつけるのが誠意だと思う。
義務感とか、責任感とか、同情とか。
そういう気持ちで自分を偽り続けるというのは、佳奈に対しても偽り続けるのと同義であろう。
あまりにも不誠実であり、俺のエゴでしかない。
だからしっかりと言葉にする。
「ごめんなさい。佳奈とは付き合えない」
深々と頭を下げる。
「良いよ、頭上げて」
佳奈は優しく俺の頭に手を置く。
温かさが俺の頭にじんわりと伝わる。
地面にはポツリと一粒の水滴が落ち、砂が水を吸収する。
雨は降っていない。
代わりに、佳奈の方から鼻をすする音が聞こえてくる。
それはもう鮮明に。
顔を上げると、佳奈は泣いていた。
笑いながら泣いていた。
下手くそな笑顔と涙がそこにはあった。
「あれ、あれ……。おかしいな、泣かないって決めてたのに。
どんな答えでも受け止めるって覚悟してたのに」
佳奈は喋れば喋るほど、目から涙を流す。
涙腺が決壊したのか、手で涙を拭っても、零れ落ちてしまう。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
力が抜けたのか、フッと座り込んだ。
汚れるとか多分考えていない。
体育座りのように座り込み、そのまま膝に顔を埋める。
嗚咽だけがこの空間に響き渡る。
肩を震わせ、顔を見せない佳奈。
どうすれば良いのか分からず、呆然とその様子を見つめる俺。
あまりにもこういう経験がない俺にとって、最善策は分からない。
優しく抱き締めれば良いの?
それとも、頭でも撫でれば良いのか?
思ってもいない慰めの言葉を掛ければ良いのか?
いいや、どれも違う。
少なくとも俺はそう判断した。
振ったのは俺だ。
俺が彼女の思いをへし折った。
それなのに、優しい言葉をかけたり、抱きしめたり……。
言葉と行動があまりにも矛盾している。
そうか、じゃあやることは一つしかない。
俺は胸元をギュッと掴み、しゃがんで佳奈の耳元に顔を持ってくる。
「俺はまだ佳奈を信じきれていない。
別に佳奈が悪いわけじゃない。それは分かってる。
分かってるんだけどさ、どうしても体が拒否反応を起こしちゃうんだ。
えーっと、トラウマって言うのかな、こういうのって」
佳奈は顔を膝に埋めたまま、頷く。
「だから、正直付き合うとかそういうのはまだ無理……なんだ。
その、ごめん。
でもさ、好きって言葉は嬉しかったし、気持ちが揺れたのも本当だ」
あまりにも都合が良い。
それは俺も重々承知だ。
「もう一回さ、友達にならないか?
友達としてさ、ゼロから関係を構築していこうよ。
その……どうかな?」
断られてもしかたない。
キープしていると思われるかもしれない。
それほど虫の良い話だってことは俺だって理解している。
佳奈はゆっくりと顔を上げる。
もう顔はくしゃくしゃで、可愛さはどこにもない。
泣きじゃくった子供のような顔。
目も真っ赤で、若干の疲労も感じとれる。
「友達にならなってくれるの……?」
震わせた声で、ゆっくりと言葉を紡ぐように放つ。
「あぁ。友達ならむしろ俺からお願いしたい」
「本当に?」
「本当だ」
佳奈は突然立ち上がった。
ボーッと彼女のことを見つめていると、佳奈は手を出す。
「あ……」
しばらく彼女のことを見つめていると、佳奈は慌てたように服で手を拭う。
そして、再度手を出す。
「私と友達になってくれませんか?」
俺も立ち上がり、佳奈が差し出した手を握る。
そして、佳奈を見つめる。
「こちらこそよろしくお願いします。友達になってください」
少しだけ表情が晴れる。
涙の乾いた後が顔に残っているが、それをどうでも良いと思わせてくれるような自然な笑み。
「友達なら……。好きなままでも良いよね?」
手を離した佳奈は首を傾げる。
「俺が応えられるかどうかは知らないけどな」
「大丈夫、その時が来るまではずっと想ってるだけだから」
これが正解だったのかは分からない。
総合的に見たらここが間違いの始まりなのかもしれない。
だが、今の俺にはこれ以上の道は作れない。
きっと、これが正解なのだ……と。
自分自身に言い聞かせて、歩くことが今の俺に出来ることである。
もしもこれが間違っているのなら、これを正しい道へと俺が変えれば良い。
そう、だから歩き続ける。
友達という佳奈との新たな関係で。




