33話『苦渋の決断』
静まり返る家の中。
何回目だろうか。
もうこの静けさに慣れてしまった自分がいる。
「どっちも本音ですよ」
川瀬の圧に屈することなく、佳奈は言葉を紡ぐ。
淀むことない言葉。
「嘘」
川瀬は断言する。
佳奈は眉間に皺を寄せる。
二人の空間から弾き出された俺。
なぜ川瀬が嘘だと断言したのかも分からなければ、なぜ佳奈が眉間に皺を寄せたのかも分からない。
今の状況で俺が理解出来ているのは、一触即発の雰囲気であることだけ。
俺はこういう雰囲気を世間一般的になんて言うのかを知っている。
修羅場。
これには福岡県もビックリな修羅である。
「貴方は慧斗を言い訳にしているわ」
「けーちゃんを言い訳?」
首を傾げる。
「ずっと私は貴方に違和感を覚えていたの」
と、語り始める。
「あの男のことが実はまだ好きなんじゃないかとか。そもそも暴力そのものが嘘なんじゃないかとか。慧斗を陥れようとしているんじゃないかとか。とにかく色んなことを考えたわ」
「そうですか」
佳奈は感情を隠し、何とも言えない反応を見せる。
怒っているのか、悲しんでいるのかさえ分からない反応だ。
「でも、全部間違っていたわ」
「間違っていた。ですか?」
「ええ、そうよ」
重々しく頷く。
佳奈ではなく俺の方へと視線を向ける。
無言で見つめてきた。
しばらく見つめ合い、川瀬はスっと佳奈の方へ視線を戻した。
どういう意味があったのだろうか。
何かアイコンタクトで伝えたがっていたようにも思えるが、俺には分からなかった。
「貴方は自分の保身に走りすぎていたのよ。浮気がバレる前の話もそうだし、あの男との関係がバレてからもそう。ずーっと、保身に走っていたの」
「……」
保身。
確かに言われてみればそうかもしれない。
長谷川と関係を持ったのも、自分を守るため。
長谷川との関係がバレてからも、色々言っていたが、まとめると私は可哀想な子、同情して? というような言葉ばかりだったように思える。
「本当に慧斗のことを思うのなら、出るところに出るべきだと思うわよ。でも、貴方はしないし、したがらない。結局は自分のことだけを考えているんじゃないかしら」
「私はそんなこと……」
佳奈は途中まで威勢よく口走るが、すぐに勢いは失われ、何を言っているのかさえ聞こえなくなるほど声量は小さくなる。
「あるわね」
勝ち誇ったような言葉を奪う。
「自分を守るという行為そのものは人間の本能だと思うもの。そこを責めるつもりはあまりないわ。あまりね」
大切なことなので、二回言いました。
そんな感じで強調させる。
「なら、何なんですか」
佳奈は図星を突かれて、不機嫌になり口を尖らせる。
一方、川瀬は特に表情を変えることなくゆっくりと口を開く。
「でもね、自分の保身に慧斗を利用するのは違うと思うわ。私はそこがどうしても許せないの」
「けーちゃんを利用しようとなんてしてない!」
佳奈は我慢出来なくなったのか、ドンッと机を叩く。
そして立ち上がる。
振動で揺れるグラスに入った水。
零れなくて良かったと安堵する。
しかし、そんなことを気にしているのは俺だけらしく、佳奈と川瀬はいがみ合う。
漫画であれば、バチバチという効果音が付与されそうなほど、お互いに怖さがある。
「ふーん」
興奮状態にある佳奈に対して、川瀬はまだ冷静さは残っていそうだ。
ただ、睨みつけるだけ。
言葉にもさほど感情は籠っていない。
わざとかもしれないが。
「すみません。取り乱しました」
佳奈は冷静な川瀬をみて、大きく深呼吸をし、ゆっくりと座った。
「良いのよ、気にしないで」
大人な対応を見せる川瀬をどこかカッコイイと思ってしまう。
「慧斗を楽にさせたいとは思わないわけ?」
一つ間を空けてから、川瀬はポツリと訊ねる。
「思います」
佳奈はそう言いながら頷き、グラスに入った水を呷る。
「そう……」
と、言いつつも納得いかないような視線。
信じていないんだなってのが瞬時に分かる。
蚊帳の外な俺が分かるんだから、当事者である佳奈は俺以上にひしひしと感じているのだろう。
「少なくとも私は、慧斗のことを考えるのであれば警察に行くべきだと思うわ。社会的にもうどうしようも無くするべきだと思うの」
「でも……」
「取り巻きから嫌がらせを受ける……だったわね」
「そうですよ。なんで、正しいことをして、私が不利益を――」
「やはり、自分本位ね」
川瀬は佳奈の言葉を遮る。
そして、何事も無かったかのように水を呷る。
あまりの冷淡な言葉に佳奈はポカンと口を開ける。
すぐに口を閉じるが、落ち着かなかったのか、グラスに手を伸ばした。
「分かったわ」
川瀬は一人で頷く。
「そもそも元からこうするべきだったのよね。説得しようとか考えてた私が間違いだったわ」
淡々と呟く。
静かな空間だからこそ聞こえているが、かなり小さな声だ。
本人は独り言でも言っているつもりなのだろう。
なんなら、声に出ていることにさえ気付いていないのかもしれない。
ちょっと可愛いな。
不純なことを考えていると、川瀬は佳奈を凝視する。
「最後にもう一度だけ、確認するわ」
「何ですか?」
佳奈は警戒するように身構える。
「貴方、長谷川潤一のこと嫌いなのよね?」
「嫌いですよ」
「そう。ちなみに慧斗のことは?」
「好きですよ。まだ好きです。もしも、けーちゃんが許してくれるのならば、私は付き合いたい」
やめてほしい。
ちょっと、揺らいでしまう。
顔は良いのだ。
そんな可愛い女の子に、「私は付き合いたい」と言われたら、良いかな……って、思ってしまう。
だが、その瞬間に脳裏に焼き付いたあの映像がフラッシュバックしてきて、想いは消える。
「そう、その言葉を聞けて良かったわ」
悪巧みをするように笑みを浮かべる。
「慧斗、この前使ってたボイスレコーダーはまだ持っているかしら?」
「え、あ……。えーっと、ボイスレコーダーですか?」
油断していたところで話を振られてしまい、俺はキョドりにキョドってしまう。
恥ずかしくなり、コホンとわざとらしい咳払いをする。
そして、立ち上がり、「ちょっと待っててください」と声をかけて、ボイスレコーダーを取りに寝室へと向かった。
壁一枚挟んだ向こうはリビングだ。
リビングで何か話していれば、ここまで聞こえてくる。
それほどに薄い壁だ。
しかし、寝室は静まり返っている。
このまま、このふかるかなベッドに飛び込んでそのまま眠ってしまおうか。
あの嫌な空間から逃げてしまおうか。
と、思うが川瀬のことを考えると到底できない。
怒られたくないからね。
仕方ない。
しばらく使っていなかったボイスレコーダーを取り出して、リビングへと持っていく。
「お待たせしました」
と、言いながら川瀬へ手渡す。
「ありがとう」
川瀬は受け取ると、ボイスレコーダーを操作し始めた。
ふーん、とか言いながら操作する。
とあるボタンを押した瞬間に、ボイスレコーダーからは音声が流れ始めた。
「佳奈好きだよ」
「潤一さん、ここだと近所の人にバレちゃうのでやめませんか?」
「佳奈ー」
と、いう頭の痛くなる音声である。
どうやら気分を害したのは俺だけじゃなかったらしく、音声を流した張本人である川瀬もこの声の主である佳奈も顔を歪める。
誰も幸せにならない悪魔の音声ファイルだ。
川瀬は途中でボイスレコーダーを止める。
今まで流れていた重々しい空気は一瞬で吹き飛ぶ。
良くも悪くも破壊力が抜群だ。
「なんで流したんですか」
「違うのよ、勝手に流れたの」
「ボタン押したらそりゃ流れますよ。まるで機械に意志があった様な言い方はダメですよ。機械は僕たちが操作しないと動かないんですから」
もしかしたらこの人機械に弱いんじゃないか?
現代っ子だから、スマホとかは容易に扱えるけどパソコンとかは使えないパターンの人間だろ。
「けーちゃん、なんで消してないの?」
もう一人ダメージを負った子が、苦笑しながら質問を投げる。
「証拠だからな」
「そっか」
納得したのか、うんと頷く。
「でも……。私の前で流すのはやめて欲しいかな」
佳奈はアハハと頬を掻く。
頬はちょっぴり紅潮していた。
恥ずかしいのだろう。
「だそうですよ、川瀬さん」
「私に言われても」
なんか不機嫌になっている。
とりあえず、話を逸らそう。
「で、川瀬さん。なんでボイスレコーダーなんです?」
脱線してしまった話を元に戻した。
このままでも良かったが、後日またあの重々しい空気が再来するとか考えるだけで反吐が出そうになるからね。
嫌なことは早めにやっておくに越したことはない。
ほら、夏休みの宿題最後まで貯めると、時折、「夏休みの宿題やんなきゃ……」っていうナイーブな気持ちが襲いかかってくるでしょ。
あれと同じで、「あぁ、いつかあの空気をまた味わなきゃいけないのか」って思いながら日常生活を送るのはかなり精神的に負担がある。
だから、こうやって元の線路に話を走らせるのだ。
「そうだった」
川瀬は佳奈を見つめる。
「もしも、本気で慧斗のことが好きで、本気であの男のことが嫌いならば……。このボイスレコーダーで暴言を浴びせられて、暴力を振るわれるところを録音してきなさい」
と、言って川瀬はボイスレコーダーを佳奈に手渡す。
まるで自分の物のように扱っているが、忘れちゃいけない。
あれは俺のボイスレコーダーである。
「先に言っておくわね。貴方が録音したものは、証拠として警察に突きつけるつもりよ」
「それじゃあ……」
「貴方は取り巻きに嫌がらせを受ける……わね。それはその通りよ」
もしかして、川瀬は佳奈に嫌がらせを受けさせたいのだろうか。
「私に大学をやめろと言うんですか?」
「そこまでは言ってないわよ。そもそも貴方は慧斗のことを何も考えていないわ」
「考えてます」
「考えているのなら、貴方を信用して良いのかどうか迷っている慧斗の心くらい早く察してあげなさい」
「……」
佳奈は黙る。
ま、確かに信じて良いのかどうかは散々迷ったし、なんならまだ答えは出ていない。
だが、人に言葉として出されると、気恥ずかしくなるというか、遠慮したくなってしまう。
「貴方の手で、あのクソ男を地獄に叩き落としなさい。叩き落としたあとにくる二次災害を慧斗と手を組んで解決すれば良いじゃない。目先のことから逃げているだけじゃ、そのうちまた失いたくないものを失うわよ」
「失いたくないものを失う……」
「貴方はゴミクズ男とその取り巻きの被害から逃げようとした結果、大事にしていた慧斗を失うことになった。時には逃げることも大切よ。でも、時には戦うことも大切なの」
佳奈へ力説しているが、俺にも突き刺さる。
範囲攻撃すぎませんかね。
「本気で慧斗が好きで、生きている価値すら存在しない酸素の無駄使い男が嫌いで未練もないのなら……戦いなさい。やらないのなら、慧斗から離れなさい」
「……」
「やるのか、やらないのか。どうするの?」
無言の佳奈に、川瀬は圧力をかける。
それに負けた佳奈はゆっくりと口を開く。
「分かりました。やります……」
覚悟を決めた目。
「けーちゃん。もしも、私が周りから嫌われて、取り巻き達に嫌がらせをされるようになっても……。その、助けてください」
懇願。
瞳を潤ませる。
佳奈は今どんな心境なのかは分からない。
だが、断る理由はなかったので素直に頷く。
俺が出来ることは信用すること。
ただ、それだけ。
「けーちゃん。ありがとう」
ニコッと微笑む佳奈。
手に持っているボイスレコーダーをギュッと握りしめる。
その際にボタンを押してしまったのか、音声が再生され、佳奈が慌てて止めた。
顔を真っ赤にする佳奈を可愛いと思ってしまった。
これは不可抗力だ。
◇
佳奈が帰宅した。
川瀬も同時に帰宅だしたのだが、踵を返して戻ってきた。
「なんですか」
「あら、帰ってきてちゃ悪い?」
「別に悪いとは言ってません」
俺はそう言いながら、リビングへと再度上げる。
「で、どうしたんですか。忘れ物でもしました?」
「してないわよ。いや、忘れ物……と言うべきかしら」
「その意味深な言い回しなんなんですか」
「からかっただけよ」
川瀬はふふと笑い、俺の向かいに座る。
「正直どうなるか分からないわ。はっきり言って、あの子が本気で言ってるのか、誤魔化しているだけなのか見抜けなかった」
「そうですか」
「だから、もしかしたらあのボイスレコーダーは帰ってこないかもしれない」
「良いですよ、ボイスレコーダーくらい」
「あの子も帰ってこないかもしれないわよ」
「それも良いですよ。元々切ったものですから」
捨てたものが戻ってきて、それがまたどこかへ行くかもしれない……という状況。
本来なら悲しまなきゃいけないのかもしれないが、悲しさは一切ない。
それはそれで運命。
そう思えてしまうから。
「そう、良かった。ずっと気にしながら喋っていたのよ」
ホッとしたような表情を見せる。
だから、慎重に一歩一歩確実に踏むような形で話を進めていたのか。
あまりにも牛歩で、何度も聞いたわ、みたいな話が飛び交っていた部分もあり、少し謎だったが今解決した。
「僕はそれよりも……」
川瀬は俺の言葉に首を傾げる。
安心しきって、油断しているその表情は美しい。
この可愛さは国宝級。
今すぐ、重要文化財に登録すべきだ。
「なによ」
ずっと、黙っている俺に催促する。
「俺にも佳奈に質問させて欲しかったなーって」
「あ、ごめん。忘れてた」
川瀬はニコッと屈託のない笑顔を見せる。
あー、『誘われてつい……。ほんの遊び心だったの』の意味知りたかったなぁ。
佳奈が俺側に居ることを信じて待つことにしよう。
きっと、帰ってきてくれるはずだ。
ボイスレコーダーを持って。
後は……そうだな。
その可愛い顔に免じて許してやろう。




