26話『栗原邸』
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一部追筆
嵐が過ぎ去った。
俺の脳内を荒らすだけ、荒らして帰って行った。
佳奈が帰宅してから数分が経過する。
しかし、俺は未だに混乱している。
どうするのが正解で、どうするのが間違いなのか。
全く分からない。
閑散とした部屋の中。
ポツリと座る俺。
さっきの佳奈の悲壮感は異常だった。
まるで今から死ぬんじゃないかという勢い。
……。
本当に死ぬつもりなんじゃないだろうな?
徐々に不安が募る。
次来る連絡が「死にました」とかは勘弁して欲しい。
杞憂だったらそれで良いが、杞憂じゃなかったらと考えると居てもたってもいられない。
元々は好きだった相手だ。
そんな彼女が死ぬのはいくら関係性が壊れたからとはいえ、受け入れ難いものである。
嫌いだと思っているが、実はどこかで愛情を持っているのかもしれない。
俺は重たい腰をあげ、ショルダーバッグを手に取る。
そして、玄関を開けて、真っ暗になっていた外へと繰り出した。
ちゃんと鍵を閉めて……。
ハァ、ハァと息を切らしながら走る。
ただでさえ運動不足な人間が、慣れないペースで走るのはかなり疲れる。
まだ走り始めて一分なのに、もう太腿が痛み始める。
更に脛も痛い。
歩いてしまおうか。
そんな悪魔の囁きが聞こえてくるが、俺は首をぶんぶんと横に振って、前を見つめる。
一刻も早く、佳奈の家へと向かわなければならない。
死なれては困るからだ。
今の辛さなんて、佳奈が死んでしまうことに比べてみれば屁でもない。
きっと、佳奈が死ねば後悔をし、その後悔をしばらく引き摺るはずだ。
なぜ信じなかったのかとか、なぜ受け入れなかったのかとか、なぜ許さなかったのかとか。
そして、なぜ声をかけに行かなかったのか……と。
信じることや、受け入れることや、許すこと。
正直これは今の俺には難しい。
まだ疑ってしまう心がどうしてもある。
だが、声をかけに行くことはできる。
これは信用しているとか、していないとかじゃない。
ぶっちゃけ、自己満だ。
だが、その自己満くらい良いだろう。
俺はそれ以上のことをされてきたのだから。
結局二十分近く走っただろう。
持久走を毛嫌いしていた俺にとってはとんでもない偉業である。
中学や高校の知り合いにこのことを話せば、「明日は雪でも降るのかな」と言われるだろう。
そのくらい長い距離を走るのは苦手だった。
でも、走りきって、今目の前には良くも悪くも特徴のない普通の一軒家が建っている。
住宅街の中にある本当に普通の一軒家。
表札には栗原と書かれている。
佳奈の家だ。
俺は膝に手を置いて、ハァ、ハァと酸素を体内に取り込む。
肩で息をするとはまさにこの事だ。
今にも倒れそうなほど疲れているが、グッと堪える。
輪郭を伝う汗を拭って、大きく深呼吸をし、身体を無理矢理落ち着かせる。
全く呼吸は整わないが、ここで時間をロスするわけにもいかないので、インターホンを押した。
ドンドンドンという足音が一軒家から響いてくる。
『はーい』
と、インターホン越しに聞こえてくる声。
「お久しぶりです。敷田です」
『けーちゃん! 久しぶりじゃない』
佳奈を大人っぽくした声。
名乗らなくともその声の主が誰なのか理解出来た。
「佳奈ママ。お久しぶりです」
佳奈と仲良かった時は良く顔を出していた。
佳奈の母親にも、父親にも、弟にもしっかりと認知されている。
かなり良くしてもらっていた。
別れた時、一言今までの感謝を伝えるべきなのだろうかと迷ったくらいにはお世話になった。
『突然どうしたの?』
「あー、いや。佳奈居るかなって」
『……? 居ないわよ。ちょっとまっててね』
と、同時にインターホンはプツという音ともに切れた。
そしてすぐに玄関の扉が開かれる。
「さ、上がって」
ガっと勢い良く扉を開けた佳奈の母親はそのまま俺を半強制的に招き入れる。
可愛かった時の佳奈をそのまま大人にしたような容姿。
誰がどう見ても、佳奈の母親だと理解出来る。
佳奈の年齢を考えればそこそこの年齢なはずだ。
しかし、歳を感じさせない美しさを保っている。
そんな母親に連れられて、リビングへと上がる。
「さ、座って」
と、流れるように座らせられた。
こういう所が何だか、世間一般的な母親って感じで安心感を覚える。
やはり、綺麗なお母さんってちょっと緊張しちゃうんだよね。
で、母親らしいところを見ると、母親なんだなと安堵できる。
ただ、今日に限ってはこんな呑気なことをしている場合じゃない。
ここに来たのもちゃんと目的がある。
「あの……」
意を決して口を開くが、目の前には佳奈ママはいなかった。
あれ、と首を傾げ、口元に手を当てつつ、辺りをキョロキョロと見渡す。
どこにもいない。
もしかして、今の今まで幻覚を見ていたのか……と変なことを考えていると、ケーキを持ってリビングへと帰ってきた。
「ごめんね、こんなものしかなくて」
と、机上に置かれたショートケーキ。
「いえいえ。大丈夫ですよ。そんなに気を遣わなくても」
「ふふ、そんなかしこまらなくても良いのよ。それにこのケーキは元々佳奈のものだから」
「尚更貰えないですよ」
勝手に佳奈のケーキを食べたら、どうなるのか。
考えただけで、ゾッとしてしまう。
しかし、佳奈ママの善意を無駄にする訳にもいかない。
天秤にかけた結果、美味しく頂くことにする。
佳奈ママにも、このショートケーキにも罪はないからね。
出されたのなら美味しくいただく。
何もおかしいことじゃない。
「じゃあ、いただきます」
「ふふ、ぜひ」
佳奈ママは楽しそうに微笑むと、俺の向かいに座った。
「けーちゃん、佳奈と別れちゃったって本当なの?」
唐突の質問に思わずむせてしまう。
コホコホと席をし、胸の辺りを何度か叩く。
そして、小さく深呼吸をする。
「はい。別れました」
理由は口にしない。
なんなら俺が悪者になっても良い。
あまり、相手の母親に向かって、貴方の娘さんは浮気をしたんですよ! 浮気をしたから僕は貴方の娘さんを捨てました! と言いたくはない。
全く俺は悪くないのだが、なんだか心のない人間みたいで嫌になる。
「そうなんだね。佳奈が言うには私が悪いって言ってたけれど、そこの所どうなの?」
不思議そうに訊ねてくる。
この感じだと、浮気には言及していないらしい。
ま、当然か。
自分の親に私浮気して別れた……とは言えないよな。
「ハハ。そこは秘密で」
俺が悪くなれば良いのか、それとも佳奈の話に乗っかって真実を話すべきなのか。
いまいち正解がわからず、適当に誤魔化した。
「でも、あの子も馬鹿なことしたわね。こんなに良い相手は中々居ないのに」
「ありがとうございます」
「お世辞だと思ってるでしょう? 私は本気よ?」
「大丈夫ですよ、伝わってるので」
ニコッと微笑む。
これまでの反応から、そう思われているのは流石に理解している。
「今からでもやり直して欲しいくらいだもの」
「いやー、ちょっとそれは――」
流れるように喋ってしまった。
途中でそのことに気付き、口を止めるがもう遅い。
「やっぱりあの子なにかしたのね……」
「あー、えー……。アハハ」
もう笑ってその場をやり過ごすしか無かった。
頬を掻きつつ、笑う。
そうだ、話を逸らそう。
「それよりも佳奈と連絡取れます?」
連絡先を削除してしまったので、彼女の携帯に電話をかけることすら出来ない。
別れた時、衝動的に連絡先を全て削除してしまったのはちょっとやり過ぎたかなと思う節はある。
ま、ぶっちゃけ後悔している。
「え? ちょっとまっててね」
佳奈ママはスマホを触り、耳に当てる。
コール音がこちらまで聞こえてくるが、繋がらないらしい。
留守電へ移行してしまう。
「ん、あの子何してるの」
不思議そうに首を傾げ、スマホを見つめる佳奈ママ。
「いやー、その……」
言おうかどうか迷った。
迷ったが、もう佳奈が原因だってのはバレてしまったわけだし、土下座の部分からなら話しても良いかと判断し、詳しく説明した。
もちろん、何か思い詰めていて命を絶つんじゃないかと焦ったことも同時に伝えた。
佳奈ママは口元に手を当てて、うーんと唸る。
「あら、佳奈と一旦会ってたのね」
なんだと言わんばかりの表情を浮かべる。
「はい」
俺はコクリと頷く。
「見ての通りもう生気が無いの。けーちゃんと別れてからずっとあんな感じなのよ。ご飯はまともに食べないし、お風呂、トイレ、ご飯以外はずっと部屋に引き篭っているような感じよ。大学にも行ってないみたいだし……」
確かに言われてみれば、大学で佳奈と一切顔を合わせていなかった。
あっちも気まずくて、俺と顔を合わせないようにしているのかと思っていたが、そもそも大学行っていないなんてパターンがあるのか。
驚きつつも、そうなのかと簡単に納得することが出来た。
「あの子が何をしたのか分からないけれど」
そう前置きをする佳奈ママ。
俺はコクリと無言で頷く。
「けーちゃんはあの子にとって初めての彼氏だったのよ」
「らしいですね。言われた時は驚きました」
あんな可愛い顔して、彼氏いない歴イコール年齢だったらしい。
告白こそされるが、どいつもこいつも下心が見え見えで付き合いたいと思えなかったんだとか。
贅沢な話だ。
で、俺は下心が見えなかったらしい。
告白した時の記憶はいまいち覚えていないが、少なからず下心はあったと思う。
ま、覚えてないくらい気持ちは小さかったのかもしれない。
「家に帰るといつもけーちゃんの話をしてきたのよ」
「ハハハ、そうなんですね」
「親から見ても、相当好きなんだなってのが伝わってきていたわ」
でも、佳奈は浮気をしていた。
……、佳奈の言っていたことは本当なんじゃないかと、薄々感じてしまう。
仮に本当だったとしてもわ体を許してしまったあとのことを、しょうがないと片付けるつもりはないが。
佳奈ママの発言と佳奈自身の発言に交錯は見られない。
好きだけど、バレるのは怖い。
断るのも怖い。
だから、体を許す。
でも、想いは長谷川に向いてない。
理屈自体は何もおかしくない。
「佳奈がけーちゃんにどんな無礼をしたのか分からないけれど、もし叶うのならば許してあげて欲しいの」
佳奈ママは頭を下げる。
「とりあえず、頭上げてください。ね?」
頭を下げる佳奈ママに頭を上げるよう声をかける。
頭を上げたところで俺はさらに喋る。
「でも、すみません。やっばり許せないので……」
「そう……。あの子ったら、けーちゃんに何したのよ」
じろりと俺の事を見つめる。
「けーちゃん。きっと、けーちゃんことだから佳奈の事を思って黙っているんでしょう?」
お見通しだと言わんばかりに訊ねてくる。
俺は反応に困り、どうするか迷いつつも結局頷いてしまった。
「なら教えてちょうだい。あの子に私がらガツンと言わなくちゃ」
今まで見た事のない怒りのオーラ。
「多分信じられないと思いますけど……」
と、前置きをしつつ、ちゃんと全てを話した。
浮気相手とそういうことを俺の家でしていたってのは隠そうと思ったが、ここまで来たら全部暴露しちゃえと思い、何も考えずに無心で淡々と出来事を佳奈ママへと話した。
顔が徐々に青ざめていく。
そりゃそうだ。
頑張って育ててきた娘が浮気なんてしている……と言われたらそうもなる。
このままだと佳奈が一方的に悪くなってしまう。
いや、悪いんだけどさ。
でも、佳奈が百悪いのかと言われると、佳奈以上に悪い人物がいる訳で、佳奈の言い分もしっかりと伝えた。
「……。聞いてないわ」
聞き終えた佳奈ママはショックなのを隠そうともせずに、ポソりと呟く。
浮気していたという情報から続けて、娘が強姦されているのかもしれないという事実。
佳奈ママはスマホを慌てて、触り耳につける。
誰かに電話かけているらしい。
さっきとは違いワンコールで相手は出た。
それと同時に叫ぶ。
「パパ! 今すぐ帰ってきて! 今すぐに!」
と、一方的に告げると電話を切った。
「けーちゃんももうちょっとまっててね。パパにも話してもらえると嬉しいわ」
冷静を装っているが、顔色は変えられない。
「佳奈は探さなくて……」
「大丈夫よ。あの子は自分から命を絶つようなことは絶対にしないわ。そんな勇気ないもの」
自殺する勇気なんてないと思われているらしい。
普通だったら絶対に納得しないのだが、佳奈ママが言うとなると話は別で妙に説得力がある。
「そ、そうなんですね」
探しに行かなくちゃ……。
その思いもあるが、佳奈ママが言うなら大丈夫なのだろうという気持ちもある。
俺は佳奈ママを信じて、そして佳奈を信じて、この場に居座ることにした。
どうせ、引き止められるからね。
居座ろうが、今から佳奈を探しに行こうが、結果は変わらない。
そんなことを思いながら、最後の一口のショートケーキを食べた。
甘いはずのショートケーキなのに、不思議と味は全く感じなかった。




