25話『暗闇に溶け込む来訪者』
家のアパートの目の前までやってくる。
二十分ほど歩いただろうか。
普段こんなに歩かないので、かなり良い運動である。
たまにはこうやって歩くのも良いもんだ。
梅雨も明け始め、若干の暑さにやられて、汗が額から垂れる。
もう夕方だってのに、暑い。
こりゃ今年は相当の猛暑になりそうな予感。
勘弁して欲しい。
夏へ一歩近づいているんだと、感じさせられる。
扉の前までやってくる。
ここに来て、謎の違和感を覚えた。
なんというべきか。
言葉で表現するのは非常に難しいのだが、こう……入っちゃいけないと本能がそう叫んでいる。
小さく息を吐く。
色々と落ち着いたから、今まで気を使っていなかったことに気を使い始めたのだろう。
ちょっと前まで本当に様々な方面へ気を使っていた。
心身ともに疲労は限界を迎えていたのだろう。
リソースは有限。
割いていなかった所にリソースを割いているから、しょうもない違和感を覚えただけだと思う。
例えば……ほら、玄関の扉ってこんなに汚かったんだとか。
雨のせいか、水垢が凄いことになっている。
今度掃除しよう。
俺は何も無いと自分に言い聞かせつつ、鍵を解錠しようとする。
この違和感が違和感ではなく、謎へと昇格した。
鍵がそもそもかかっていなかったのだ。
鍵を施錠し忘れたのだろうか。
はたまた、空き巣が鍵穴をぶっ壊して、侵入し、金になりそうなものを持っていったのか。
ま、俺の家には金目のものは特にないし、そこまで痛手じゃない。
学生のアパートに侵入するアホな空き巣はいないだろうから、違うだろう。
うーん、となるとやはり、鍵をかけ忘れたっていう説が濃厚になってくる。
ついにそこまでボケてしまったかと悲しくなる。
とりあえず免許は返納した方が良さそうだ。
ついでに病院で診断書でも貰って、ぬくぬくと生きていくことにしよう。
「はぁ」
無意味に出してしまった鍵をポケットにしまう。
で、扉を開けて中へ入る。
その瞬間に俺は動きを止めた。
玄関に見知らぬ靴があるのだ。
絶句だ。
あまりの衝撃に言葉が出てこない。
まだ、荒らされたあとの方が良かった。
空き巣とバッティングしてしまったのだろうか。
このままだと俺殺されちゃうのかな。
強盗から、強盗殺人に昇格させられるかな?
「……」
叫ぼうかと思うが、怯えて声が出ない。
足も手も震える。
人間って本当に恐怖を覚えると何も出来なくなる。
俺は靴を脱ぎ、一歩、また一歩とリビングへと向かう。
抜き足差し足忍び足。
息も潜める。
まるでこっちが泥棒しているみたいでなんだか解せない。
そんなことを考えつつ、リビングに到着する。
静かな空間が広がるだけ。
カーテンが閉められており、暗いので部屋が荒れているのか、否かも分からない。
元々荒れているだろうと言われてしまうと返事に困ってしまうが……。
俺は意を決して、電気を点けることにする。
電気のスイッチを手探りで探す。
普段から無意識に手を伸ばしているところなので、暗くてもある程度の位置は分かる。
ボコっとした部分を見つけ、後は上から二つ目のスイッチを押す。
手の感覚を頼りに、上から二つ目のスイッチを判断して、押した。
パッと照明により明かりが照らされる。
目の前で土下座をする一人の女性。
白いブラウスに、黒いちょっとブカッとした感じのパンツ。
これからの季節に合いそうな服装だ。
見ているこちらも爽やかな気持ちになれる。
服装だけなら。
「……」
俺は黙って、土下座をし続ける彼女を見つめる。
目に入った瞬間にフツフツと沸いてくる。
今すぐその頭を蹴っ飛ばしてやろうかと思ってしまうが、こんな所で豚箱行きは笑えないので堪える。
コイツのせいで今以上に人生を狂わせられるのは勘弁だ。
今でさえ十分に苦労していると言うのに。
俺は何も言わないし、土下座をし続ける彼女も俺の言葉を待っているからか、頭を床に押し付けたまま何も口にしない。
一切顔を上げないので、どういう表情をしているのかも不明だ。
考えられないし、考えたくもない。
色々問い詰めたいことはある。
だが、ここで素直に話を聞いたら俺の負けだと思う。
多分、怒りをぶつけようがなんだろうが、居るものだと認識した瞬間に俺の負け。
だから、居ないものとして取り扱った方が良いのだろう。
俺はひとまずトイレへ向かい、ゆっくりと考えることにした。
あそこで土下座をしていたのは間違いなく、佳奈だ。
混乱しつつも、嫌悪感だけはしっかりと分かる。
本当に嫌いなんだなと改めて感じさせられた。
一旦冷静になろう。
そもそも、佳奈が俺の家で土下座なんて有り得るのか?
いいや、有り得ない。
する理由が分からない。
きっとこれは夢なんだ。
こういう結論に至る。
夢であることを願いつつ、頬をムニッと引っ張った。
「いって……」
しっかりと痛みが走る。
夢ではなく現実だと思い知らされた。
非常に悲しい。
彼女のことを無視し続けたとしよう。
あっちはあっちで引き下がれなくなり、しばらく居座るのではないだろうか。
不幸中の幸いというべきか。
俺には今、時間的余裕がある。
勝ちとか負けとかそういう目先の感情じゃなく、未来を見据えて、声をかけておくべきなのだろう。
警察へ通報するぞという脅しも所々混じえつつ。
何がどうなっているのかという部分も気になるし。
俺はトイレを流し、リビングへ戻ったのだった。
リビングへ戻る。
当然のように頭を床へ接着させている佳奈。
少し前まで好きだった女性が、目の前で土下座をしている図。
はっきりいって心苦しい。
「……。何してんだ」
やっとの思いで声を振り絞る。
体が拒否反応を起こし、今にも吐きそうになる。
「けいち……。敷田くん。本当にごめんなさい」
佳奈はまるで叫ぶように謝罪する。
あまりの声のデカさにビクッと身体を震わせた。
「ちょっ、とりあえず声のボリュームは気をつけろ。近所迷惑だろうが」
壁ドンとかされた暁には怖くて眠れなくなってしまう。
ご近所トラブルには気を付けなければならない。
「ご、ごめん」
「はぁ。とりあえず、顔上げてくれ」
「で、でも……」
佳奈は顔を上げない。
「めんどくせぇーから顔上げてくれ。事情話さずに、ずっとこうしているようなら警察に電話するからな」
俺の言葉に屈した佳奈はゆっくりと顔を上げた。
視界に飛び込んできた佳奈の顔は俺の知っているものじゃなかった。
疲弊しきっているのか、目の下に隈を作り、貧相な顔つきに見えてしまう。
まるで別人だ。
色んな感情が入り交じっているのが、伝わってくる。
不安、恐怖、焦燥、苦渋、後悔、そして絶望。
あらゆる負の感情が彼女の周りには付き纏っている。
オーラなどを見る能力の無い素人でさえ、それを感じ取ってしまうほどだ。
何かの拍子に涙腺が崩壊して、泣き出しそうな瞳。
真っ赤な目がそう物語っている。
額も真っ赤だ。
どれだけの時間、頭を床に付けていたらそうなるのか。
一生そのまんまなんじゃないかというくらい真っ赤である。
「……。ちょっと待ってろ」
好きだった人の行く末がこれ……か、と。
浮気をしていた、とんでもない屑。
俺を裏切った最低な人間。
でも、その前に好きだった人間だった。
恋愛感情を持っていた。
そんな人間が、こんな居た堪れない姿になっていると、手を差し伸べたくなってしまう。
俺は水をコップに注ぎ、彼女へ渡す。
虐待された挙句捨てられた子犬のように怯えながらコップを受け取る。
「とりあえず、飲んで落ち着け」
佳奈はグビっと呷る。
飲みきると、ふぅと小さく息を漏らした。
「ま、何があったのかは知らないがゆっくりと話してくれ」
俺は佳奈の向かいに座り、耳を傾けることにした。
自分でも驚くくらいに冷静だった。
理由は分からない。
自分を不幸へ陥れた人物が、蓋を開けてみれば俺よりも不幸になっていたからだろうか。
この冷静さが少し怖かった。
佳奈はゆっくりと口を開き、何があったのかを説明し始めた。
この説明はとてつもなく壮大なもので、どれだけ喋っても話が終わらない。
それでも俺はコクリ、コクリと頷き相槌を打つ。
茶々を入れられるような話でも無いし、この後に予定が詰まっている訳でもない。
だから、彼女が満足いくまで俺は好きなように話をさせた。
二時間ほどして、やっと一段落ついた。
話をまとめるとこういうことらしい。
長谷川との体の関係は俺にバレる一ヶ月くらい前からあったらしい。
俺たちが付き合ってすぐの頃に、長谷川に目を付けられたらしい。
そして、口説かれる度に「私には彼氏が居るので」と言ったり、「彼氏以外とそういう関係になるつもりは無いので」とひたすらに断っていたのだという。
長いこと続き、半年以上経過しても、長谷川は全く引く様子が無かったらしい。
で、とあるタイミングで飲みに誘われたのだという。
いつも断ってばかりだからという気持ちになり、話に乗ってしまったらしい。
自分のキャパ以上のお酒を飲まされて、フラフラになり、意識がはっきりとした時には見知らぬベッドの上。
隣に裸の長谷川。
で、自分も裸になっていて、床には使用済みのゴムが乱雑に置かれていたらしい。
ヤってしまったという事実が出来てから、これをバラされたくないという思いで長谷川の言葉にも乗っかってしまうようになってしまったのだという。
最初は適当に作った戯言だと思っていた。
俺に許しを乞うために。
だが、泣きじゃくりながらも、声を震わせながらも、淡々と語っていくその様子はどうも嘘を吐いているように見えなかった。
じゃあ、信じられるのかと言われるとこれもまた微妙。
なぜ、当日にそのことを言わなかったのかという疑問が残るからだ。
「つまり、長谷川にレイプされて半ば脅しみたいな感じで体を許した……と」
二時間の内容を簡潔にまとめる。
佳奈はコクリと頷いた。
涙、鼻水、唾液。
顔から出せる液という液を垂らしている佳奈。
俺は彼女にティッシュを差し出す。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
そう謝罪しつつ、汚くなった机や顔をティッシュで拭いていく。
「ま、言い分はわかった」
佳奈は鼻をすする。
徐々に落ち着きを取り戻す。
「今日来たのは許して欲しかったわけじゃないし、同情して欲しかった訳でもないから」
泣き止んだ佳奈は、潤いを持った真っ赤な瞳で俺の事をじっと見つめる。
「だって私のしたことは絶対に許されることじゃないから。例えそれがどんな理由であっても」
しばらく俺の事を見つめていた佳奈は視線を外へと逸らす。
「そのことを隠してしまった時点で悪いのは私なの」
「……」
かける言葉が見つからない。
仮にこの事が真実だったとしよう。
長谷川にレイプされた。
このことを伝えるのはなかなか難しいと思う。
恥ずかしいことだろうし、怒られるかもしれないという気持ちもあっただろう。
誰かに相談したくても出来ずに、隠してしまった。
真実であれば、彼女だって被害者だ。
俺が責め立てるのは違うと思う。
ただ、全て作り話っていう可能性もある。
はっきり言って現状、佳奈への信用度は地の果てまで落ちている。
嘘なんじゃないかと疑っている部分ももちろんある。
だから、そうなんだ、と素直に受け止めることもしない。
あくまでも程よい距離感を保つ。
その結果、どんな言葉を口にするべきなのか分からなくなる。
「はい」
佳奈はポンっと机の上に鍵を置く。
「合鍵」
そういえば、貸しっぱなしだったな。
すっかり忘れていた。
あの時はそれどころじゃなかった。
俺も動揺していて、切羽詰まっていた。
許せない、早く俺の前から消えてくれ。
そう切に願っていた。
合鍵の存在なんて頭の片隅にすら無かったのだ。
忘れて当然だ。
「おう」
俺は合鍵を受け取る。
「信じて欲しいわけじゃない……けど、本当のことも知って欲しかったの。だから、今日お話した」
震え、所々声が上ずっている。
「私のエゴだね」
佳奈はそれだけ言うと、悲壮感を漂わせる、見ているこっちが苦しくなるような笑みを作る。
そして、立ち上がり、とぼとぼと虚しさだけを背負い、玄関へと歩く。
「それじゃあね。これが本当のさようならだよ」
こちらへ振り向いた佳奈は、足を止め、そう口にする。
座ったままの俺に向かって。
廊下は暗くて、表情がイマイチ掴めない。
「けーちゃん。最後のワガママ聞いて欲しいんだ」
立ち尽くしたまま、言葉を続ける。
俺は今、どういう行動をするのが正解なのか分からない。
彼女の元へ行くべきなのか、それともここでジッと話を聞いているべきなのか。
そんなことを悩んでいると、佳奈は続けて喋る。
「私がしたことは許されることじゃないけれど、私自身悪い事をしたって心から思ってるの。ごめんなさい。そして、今までありがとう。けーちゃんと居る日々は幸せでとても楽しかったよ」
最後に見せた笑顔にはいつもの佳奈の片鱗があった。
俺の言葉を待つことなく、彼女は玄関の扉を開けて、俺目の前から姿を消した。
俺は感情を見失った。
これからどんな想いを佳奈へ抱けば良いのか。
あんなことを言われたあとに笑顔を見せられたら、恨むに恨めない。
ポカンと口を開けたまま、しばらく座り続けた。




