56・東京上空・・・そして
「東京!?……私、戻ったの!?」
どう見ても日本の東京の、それも私が住んで居た町並みが眼下に広がっています。
私が居ない間に地球が滅んでいたりしていませんでした。
過去に戻ったという事もなさそうです。
私が異世界に行く直前の同じ時代の風景に見えますし、何より私の住んでいた家だって視界に入っているのですから。
「私の無事を知らせないと……」
ここから家までは、だいたい三百メートルくらいでしょうか。そんなに離れてはいないかもしれません。
昼間ならママだけは家に居るはずです。すぐにでも私が生きている事を教えてあげたい。
私はこの現実世界の時間でどれくらい消えていたのか分からないですけど、……早く帰らなきゃ――
「ん~~~!」
空中に浮いた体をジタバタさせても、移動する事が出来ませんでした。
そもそも何故私は空に浮かんでいるのでしょう。
「あそこに行きたいだけなの! 何とかして!」
誰に言うともなく叫んでも、この状況をどうにかしてくれる人物が現れたりする事もなく、移動する事も下に降りる事もできないもどかしさに憤りさえ感じてしまいます。
あれだけ戻りたいと願った現実世界がここにあるというのに。すぐ目と鼻の先に私が住んでいた家さえ見えているというのに。
あそこに私を待っている家族が居るかもしれないのに!
さんざんジタバタしていた私ですが、やがて――気付いてしまいました。
これだけもがいているのに、全く疲れないという事に。
「そんな……」
空に浮いている事もそうですが、疲労感も感じない体に現実味が薄れて行きます。
「私は……戻ってきたんじゃないの? 帰ってきたんじゃ……ないの?」
涙が一粒、こぼれ落ちました。
両手で顔を抑えた後は、次から次へと涙が溢れてきて、もう止まりませんでした。
「ひどい……こんな……景色見せておいて、……家に帰れないなんて……なんの仕打ちよ……」
絶望に打ちのめされかけた瞬間、ゆっくりと下降する感覚を体に感じて、わずかに芽生えた希望に目を見開き下を見つめた先は――
「なん……なの?」
――足元の下、地面があるはずのそこには、暗黒が広がっていました。
そんなもの、さっきまでは無かったはずです。私が気付かなかっただけでしょうか。
そして、私の今居る場所を理解しました。
下降して徐々に見えなくなる私の家からの位置関係で、ここが何処なのか分かりました。
「お店があった場所!」
私が勤めていたコンビニがあった場所に違いありません。
けれども建物は見えず、ただ暗黒が広がっているだけの空間に向かって吸い寄せられるように、私の意思とは無関係に降りて行っているのです。
その意味を考えて戦慄しました。
「やだ! 嫌だ嫌だ嫌だよ! 戻りたくない!」
久しぶりに見た現実世界を目の当たりにして、私はもう恐ろしい魔物が跋扈するような異世界になんか戻りたいとは思えませんでした。
あの暗黒に入り込んだら、そうなるとしか思えなかったのです。
どうせならいっそ、……あの黒い空間に入ったらいっそ――この世界に戻れないなら……!
「殺してしまえばいい! 私を殺して!」
いつか魔王アランが言ったように、自分を殺せと願いました。
いいえ、あれはついさっきの事だったでしょうか。
足が黒い部分に触れた瞬間、一気に体が引っ張られて私は漆黒の闇に潜りました。
そして――
「サオリ! 何を呆けているのですか? 早くそこの魔王に蘇生魔法を……」
立ち尽くして涙を止めどなく流し続ける私を見て、カーマイルが絶句しました。
目の前には血の気を失って、胸に大穴を空けて横たわる魔王アラン。
「どうした? サオリ。蘇生出来るのならそんなに泣く事もないだろう? 自分の手で刺した事がそんなにショックだったのかい?」
ランドルフが心配そうに私の顔を窺っています。
「こーな?」
ラフィーまで「どうしたの?」という顔をして……ああ、……。
「戻って……しまった」
流れる涙をそのままに、私はショルダーバッグから羽根ペンとノートを取り出し、腰に縛った小さなインク壺を外して手に持ちました。
魔王アランの傍で膝をつき、無言でノートを開き蘇生魔法の記述のあるページにアランの名前を記入すると、ノートを中心に魔法円が展開されます。
これでアランの蘇生は叶う。――はずでした。
「何も……起きませんね」
私の隣でカーマイルが呟きます。
アランの遺体を皆で囲んで、しばらく見守っていましたが、何も変化がありませんでした。
私はと言えば、膝を地面に付いたまま両手で顔を隠し、ずっと泣いていました。
ランドルフが私の肩に手を置いて、優しく訊いてきます。
「何か、あったのかい?」
「私のアラン様を返して!」
「うわっ」
突然叫びだした私の声に、ランドルフも驚いています。
(フォレス!?)
さっきまで感じ取れていなかったフォレスの意識が、私の中に戻っていました。
そして表に出てきたのです。
「サオリ様、ごらんの通り魔王は倒しました。蘇生はどうなったのでしょう? 失敗なのですか? アラン様は? 私のアラン様は戻らないのですか!?」
(フォレス……ごめんなさい。……ごめんなさい)
取り乱していたフォレスも、今の私の状態から何かを感じ取ったようです。
「サオリ様、どうなさったのですか? 先程一瞬だけサオリ様の意識が感じ取れませんでした。まるで消えてしまったかのように。……それに、この気持ちは……アラン様とは別の事で悲しんでいらっしゃる!?」
流石に一心同体というだけあって、私の心を読んだフォレスが気に掛けるアランの事は置いて心配してくれています。
けれども何も答える事が出来ない私は、只々フォレスの意識の後ろで泣いているだけでした。
フォレスの様子から、私が現実世界に飛んでいた間の事は何も知らないようなので、あの出来事はやはり私だけ、それも私の意識だけが飛ばされたものだったのでしょう。
それとも私は、夢でも見ていたのでしょうか。
とても……とてもリアルな夢を。
「本当にどうしたのですか? サオリは」
カーマイルにさえ、心配そうにされてしまいました。
「大丈夫……だから……それよりも、アランをどうにかしないと」
(サオリ様、何があったのかは存じませんが、アラン様の事、くれぐれもよろしくお願い致します)
何かを察して、フォレスは意識の奥に引っ込みました。
「分かったわ、フォレス。……何とか、するから……」
とは言えどうすればいいのか分からないのが現状です。
アランは目覚めてくれません。
周りを見渡せばアランの取り巻きである二人の天使フォウとニナ、そして大魔法使いのサーラも私を心配そうな、というよりも希望を託すような顔で見ています。
困った私は、カーマイルに救いを求めるように視線を送りました。
私を見つめ返して頷いた、カーマイルの決断は早いものでした。
「魔王を神様――ジダルジータ様の元へ運びましょう」