107・二十八号
「いやいや、死んじゃうなら止めようよ……」
九日目に死が訪れると聞いて、それが明日だと気付きました。
今夜のうちに、このサキュバスに会いに来て正解でした。
人間と魔族の死生観の違いなのか、サレンの旦那が死んでも構わないと思っているような言動のサキュバスに、危険なものを感じます。
「ところで、あなたのお名前は?」
「二十八号……デス」
「二十八号? 何それ囚人じゃないわよね」
「ワタシに名はありません。よ、よろしければ、……ま、魔王サマが付けてくだされば、こ、光栄この上ナク……」
「名前かぁ……」
「ひぃ! も、申し訳ありません! ワタシ如きが思い上がりまシタ! 死をもって償わせて――」
「それはもういいから……じゃあ、サキュバスだから、さっきゅんで」
「……さっきゅん」
あれ? 反応が止まってしまいました。
あまりにも安直なネーミングに、落胆させてしまったのでしょうか。
正座した状態で俯いてしまい、体を震わせています。
「気に入らなかった?」
「ま、魔王サマ……ワタシ、ワタシ、……感動で涙が止まりまセン!」
顔を上げたその目からは、大粒の涙が零れ落ち、号泣していました。
「き、気に入ってくれたのなら、良かったわ」
「ワタシ、ワタシ、これまで生きてきて、これほど嬉しい事は無いデス! 初めて、名前を貰いました。……それも魔王サマから! ワタシはさっきゅん、ワタシの名前はさっきゅんデス!」
私の足下でひたすら泣き喚くさっきゅんを見ていると、もうちょっと真面目に名前を考えてあげれば良かったと、すこし申し訳なく思えてきました。
「ところで、あの人間の事なんだけど、手を引いてくれるかな?」
「ハイ。すべては魔王サマの仰せの通りに……」
「では、さっきゅんにはここを引き払ってもらって、サレンのご主人には私から言って諦めてもらうから、それで良い?」
「あっ……」
さっきゅんは突然、何か大事な事を思い出したのか頭を抱え、私の言葉に返事が出来なくなりました。
「ノルマが……明日までにあと一人分の精をママの所に、届けなければならないのでシタ」
「ノルマ? さっきゅんってば会社員みたい」
「かいしゃいん? とにかく明日、ママの所に戻る時にあと一人分を届けなければならないのですが、あのニンゲンをアテにしていたので他を探さなくてはなりまセン」
ママというのは、言葉そのものの意味のママなのでしょうか。
魔族の事はよく分からないので、素直に聞いてみました。
「ママって、さっきゅんのママって事でいいのよね? 母親?」
「ははおや? ママはママです。とにかくあと一人分届けなきゃなのデス」
要領を得ませんが、とりあえずそれは後回しにしてもらいましょう。
「とにかく、あの男の事は諦めてね。さっきゅんのノルマについては……どうしようかな、私からママに説明して怒られないようにしてあげようか?」
「ま、魔王サマがママに!? あのママに!? そ、それは大丈夫なんでしょうか、いえ、魔王サマなら……」
「……?」
魔族が魔王に従うのは不変の真理のように思っていましたが、目の前のさっきゅんは悩んでいます。
さっきゅんのママとはいったいどのような存在なのか、私にも会ってみない事には分かりません。
前の神、ジダルジータの世界を引き継いだとは言え、すべての設定を理解しているわけでは無いのです。
さっきゅんが魔王に会わせる事を躊躇うママという存在に、興味も湧きました。
「ちょっとママに会わせてくれる? 明日、例の男と会ってくるから、その後、……夜にまた来るわ」
「は、はい。魔王サマ。では、その時までワタシはここで待機しておりますデス」
私はコンビニ裏の自宅へと戻りました。
「とりあえず明日、サレンのご主人に会いに行きましょう」
そう、サレンとフォウに伝えると、サレンを客室に案内して私も自室で睡眠を取る事にしました。
◇ ◇ ◇
「サレン! 待っていたよ、昨夜はどうしたんだい? 帰って来てなかったようだが」
翌朝、サレンと一緒に王都にある自宅へ訪問すると、サレンの旦那は一睡もせずに待っていたようです。
目の下に隈を作り少し憔悴した様子ですが、もしかしたらそれはサキュバスに昨晩、精を吸い取られたせいかも知れません。
「一人で居ると不安でしたので、こちらのサオリ様のお宅にお邪魔していました」
「そ、そうだったのか。……ところでその、サオリ様は、……サレンの新しい友人かい?」
昨晩、私に見逃してくれと『お願い』ポーズを取っていたこの旦那は、私があの状況を理解していると分かっているはずです。
その私がここに居るという事で、自分が責められるのでは、と警戒しているようです。
「はじめまして、では無いですね。昨晩お目にかかっていますし。実は私はあなたと同じ回復魔法術士なのですよ。で、おせっかいかとは思いましたが、あの例の女性は私が完治させましたので、これ以上の治療は必要無くなった事をご報告に上がった次第です」
「……」
そういう事にしておけと、暗に言っているわけですが、ちゃんと理解出来たでしょうか。
サキュバスの虜にされていた場合、自ら縁を切るという事は、選択出来ないかも知れませんが。
「そ、そうでしたか! それはお疲れ様でございました! では、僕はもうあの女性とは関わらない事にいたします」
「それが賢明でしょう」
どうやらサキュバスのスキル、『魅了』は解除されているようです。
サレンと不仲になる事も望んでいるわけではないようなので、サレンにその気がない限り、問題は収束する事でしょう。
そもそも今日も会っていたら、死んでしまっていたはずなので、この旦那は命拾いしたという事です。
「あなたもお疲れ様でした。あんまり仕事に精を出し過ぎて体を壊さないようにして下さいね」
「ありがとう、サレン。気を付けるよ」
皮肉にも聞こえるサレンの言葉に、分かっているのか、いないのか――
とりあえずこの旦那も、しばらくは大人しくしている事でしょう。
「じゃあサレン、私の役目はここまでね。何かあったらまた連絡ちょうだい」
「あ、ありがとうございました。サオリ様。またお店にも寄らせていただきます」
ひとまずこっちは片付いたという事で、私は自宅へと戻り、夜になるのを待ちました。
サキュバスは夜行性なのです。
◇ ◇ ◇
「おまたせ。さぁ案内してちょうだい」
「魔王サマ! またお会い出来て光栄デス!」
「昨日ぶりじゃないの」
森の廃教会へと再びやって来た私は、さっきゅんと一緒にママのいる場所へと転移しました。
てっきり魔族領だとばかり思っていたのですが、そこは魔族領とは真逆の方向で、しかも王都からさほど離れても居ない場所にありました。
よく考えたら空を飛べるサキュバスとは言え、一日でここから魔族領へと移動する事は出来ないので、当たり前と言えば当たり前の事でした。
「ここにあなたのママが居るのね?」
「は、はいデス」
王都から南に少し行った所にある洞窟の入り口に、私たちは立っていました。
ここならコンビニからだって、たいして離れていません。
けれども私はこの場所に、こんな洞窟がある事も知りませんでした。
そして――
この先に居るママという者の存在が、私にとってもこの世界にとっても、非常に重要な存在であったという事など、全くもって知らない事だったのでした。