106・九日目のサキュバス
「サキュバスって、……私はそんなもの創造していないから、前の神様の創造物ね」
私は前の神、ジダルジータの世界を引き継ぐ形でこの世界に居ます。
彼が遺したものたちは、そのまま在り続けているのです。
「サオリ様、……では、では、……あの人は、悪魔に憑りつかれたという事なのでしょうか?」
「そうね、被害者だったとも言えるわね。……でも何故サキュバスは獣人に変身していたのかしら」
フォウに視線を向けると、「おそらく……」と前置きをしてから、彼女なりの見解を聞かせてくれました。
「サオリ様、サキュバスは狙った相手の嗜好を夢に見せて、精を吸い尽い取る事を生業としています。なのでこの場合、あの男の性癖に合わせたと考えるのが妥当かと思われます」
つまり、サレンの旦那は獣人フェチだった、……というのでしょうか。
「そこら辺、サレンに心当たりは無いの?」
「えっ? えっと、……あの、……昨年の誕生日プレゼントが、獣耳のカチューシャだった事くらいしか……」
「それね! 夜のアイテムとしてそのカチューシャを着用するように、強要された事は無かった?」
「い、いいえ。……私の趣味とはいささか違うと思ったので、一度も着けた事はないのです」
「それね! サレンがご主人の趣味を否定してしまったので、サキュバスに付け入る隙を与えてしまったのだわ」
私の推測は、当たらずとも遠からず、と言ってもいいのではないでしょうか。
自分の欲求が通らずに悶々としていた所に、サキュバスが好みの姿ですり寄って来たら、余程の堅物でない限り陥落してしまうのではないでしょうか。
サキュバスが誘惑を得意とする生物なのだとしたら、なおさらです。
「フォウ、サキュバスに捕食された者たちはどうなるの? サキュバスを倒せば済む話? 依存症とかになったりはしないのかしら」
「申し訳ありません。わたくしはそこまで詳しくは……」
「仕方ないわね、……ちょっとそのサキュバスに会ってみるかな」
この場合サレンの旦那がこの先、欲望を抑えられるかどうかが鍵だと思います。
サキュバスとの情事に溺れて、サキュバス無しでは生きられない体になってしまっていては、サレンが不憫です。
ただ、私が視た結末では、既にサキュバスの影は無かったので、そこまで心配する必要は無い事だとも思いますが……。
サキュバスは私が創造した魔物ではないので、その習性や特質は誰かに聞かないと分かりません。
「サキュバスの事は、サキュバス本人に聞けばいいわね」
「一人で行かれるのですか?」
フォウが一緒に行きたそうにしていますが、私はそれを断りました。
「フォウはサレンと一緒に待ってて。魔族と会うのに天使が一緒だとちょっと、ね」
デビを見ていれば分かりますが、魔族にとって天使は天敵なのです。
「かしこまりました」
私は遠く離れた場所を走査して映像として認識できるスキル、『千里眼』でサキュバスの居所を探します。
あの森に検討を付けて走査した所、森の奥にある廃墟を住処としている事が、すぐに分かりました。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわね。サレンも大人しく待っていてね」
「は、はい……」
「お気をつけて、サオリ様」
◇ ◇ ◇
転移先の森の中、私の目の前には朽ちた教会が、闇夜の静寂に溶け込むように、ひっそりと佇んでいました。
「こんな場所に、教会なんて……」
明らかに不気味なものを見て、不気味と感じない今の私の心が、少し、――恨めしく思えます。
あのサキュバスはここに居るようですが、サレンの旦那をたぶらかしている間の、一時的な巣なのでしょうか。
私は迷う事なく、廃教会の中に入りました。
「以前の私だったらこんな場所、怖くて絶対に近寄らなかっただろうに」
こういう事を積み重ねていると、私は『人間』というものから、少しずつかけ離れて行ってしまうような気がして、――でも、それが怖いと思えるうちはまだ、私は『人間』で居られてるのかなと、自分で慰めるしかなくて、――「あっ」
前方の祭壇の方から、一本の矢がもの凄い速さで飛来して、私のお腹の辺りで弾かれました。
「いきなり攻撃してきた……」
実は私は魔王因子が無くなった今も、魔王のスキルはそのまま使えるようになっているのです。
私を狙った矢から身を守ったのは、魔王の固有スキル、『絶対防御』です。
物理攻撃、魔法攻撃、精神攻撃などの種類も関係なしに、すべての攻撃を跳ね返します。
そして魔王関連で言えば、こういう事も出来ます。
私があるスキルを発動すると――
「し、失礼いたしましたーっ! 魔王サマ!」
――次の瞬間、フォウから聞いていた通りの容姿のサキュバスが祭壇の奥から飛び出して来て、手にしていた弓矢を投げ捨てて私の足元に平伏していました。
私はただ、魔王のオーラを身に纏っただけです。
とは言え、この世界には魔王が存在するという事はもう無いので、私は魔王になれるわけではありません。
魔王のオーラさえもスキルとして身に付けていた私は、同じものを出す事が出来る、というだけなのです。
もし私の職業を見る事が出来る者が居たら、それはやはり『神』となっている事が確認出来るでしょう。
だからこれは、――偽りの魔王。
「ワタシは、魔王様に向けて矢を射るなどと、……取り返しのつかない事をしてしまいました。……不忠の虫けらとなったワタシめに、どうか死をもって償わせて下サイ」
言葉尻が何故か外国人のようなイントネーションのサキュバスは、その場に投げ捨てていた矢を掴むと、躊躇いも無く自分の首筋に、その矢じりを突き刺しました。
「あっ、ちょっと」
止める間もありませんでした。
矢じりに毒でも塗ってあったのか、見る見るうちにその顔は青ざめ、口から血泡を吹いて今にも息絶えそうになっています。
「もう、話くらいさせてよ」
私は右手で無造作に首に刺さっている矢を引き抜くと、左手を患部に向けて無詠唱の回復魔法を施しました。
回復魔法――私はこの魔法の使い手がとても少ないという事の理由を、自分で魔法を使えるようになって、ようやく理解出来ました。
実は回復魔法というのは、ただ単に傷を塞いでいるというだけではないのです。
傷を負った箇所の異物や細菌や毒などを魔力感知によって探り、除去した上で、失われた細胞を再生するという、複数の魔法を同時に実行する複雑な魔法だったのです。
これらを無詠唱で瞬時に出来てしまうサーラや天使のニナは、この世界の中でもやはり、特別な存在だったのだとあらためて思います。
天使と言えども回復魔法を使えるのは、ニナだけですし、ね。
そしてこのスキルや魔法属性と言ったものは、創造主の神でも操作出来ない部分なので、天分としか言えないのです。
「……!? ……ま、おう……サマ?」
「もう、治ったでしょ? ちょっとお話しましょう」
デビといい、このサキュバスといい、魔族たちの魔王に対する崇拝や信仰は、呆れる程に絶対的なものでした。
唯一絶対神として崇められる存在を、勇者に討伐させるためだけに生み出した神ジダルジータの罪は、重いのではないのでしょうか。
「あなた最近、人間の男に付きまとっているわね?」
「ニンゲン……先程森に入って来たのは、魔王様だったのですね。オーラを隠されていたので分かりませんでシタ」
「悪いけど、あの男から手を引いてくれないかしら? その場限りの関係では無く連日会っていたのは、最後には精を絞りつくして殺すつもりだったの?」
サキュバスが、一人の人間にこだわる理由が分かりません。
私のイメージでは、不特定多数の眠った人間に一夜限りの夢を見せて、気付かれないうちに精を奪う事が本来の在り方のような気もします。
サキュバスは既に完治した首筋を触りながら、少し脅えた視線を私に向け、ゆっくりと口を開きます。
「ワタシは、別の場所で魔獣に襲われて傷ついた体を、ここの廃墟で癒していたのデス。そしてこの森の薬草を採取しに来たあるニンゲンに偶然出会い、助けてもらったのデス」
「それがあの男だった、と?」
「はい。あのニンゲンは自分は医者だと言っていました。回復魔法を使って三日掛かりでワタシを治してくれたのデス」
付きっきりではなく通いだったとは言え、完治に三日も掛かったというのは、……これがサーラや天使ニナと、一般の回復術師との違い、と言った所でしょうか。
まぁ、光属性の天使が使う回復魔法は、魔族には毒にしかならないのですけれどね。
「三日目の晩に、ワタシはお礼のつもりでそのニンゲンの欲望を叶えまシタ。ワタシのスキルであのニンゲンの夢を覗いた所、獣人と情事に耽りたいと常々思っていた事が分かったのデス」
「なるほどね……」
「獣人の姿になったワタシとの情事をとても気に入ったらしく、毎日この森に通うようになってもう今日で八日目になりマス」
「そんなに毎日精を絞ってしまって、あの男は大丈夫なの?」
サキュバスは少し考えるような仕草をした後、私に相談を持ち掛けてきました。
「ワタシはあのニンゲンを殺す気はありません。だけど、求められる限りはそれに応えてあげたいのデス。どうすればいいのでしょうカ?」
「どうすれば、とは?」
「ワタシたちサキュバスは、一人のニンゲンに対して連続して搾精する事はありませン。精液と一緒に魔力も同時に吸い取るので、いずれ枯渇して死んでしまうからデス」
「――!?」
なんとサキュバスの能力とは――
『エナジードレイン』のR-18版でした。
そしてこのサキュバスは、もっとも重要な事を口にしました。
「一人のニンゲンに対して続けて搾精した場合、だいたい九日目に死が訪れマス。ワタシはあのニンゲンが望むのナラ、それでも良いのかと思っていたのですが、本当はどうしたらいいのでしょう? 魔王サマ」




