007話 九条透と黛京香Ⅱ
広い自室で、俺はゲーム用のパソコンを使ってネトゲに興じていた。
今流行りのMMORPGだ。このゲームでは重厚なファンタジー世界を堪能することができる。
「透様、日本を足がかりに、世界を変えられるのではなかったのですか?」
背後から、清楚なメイド服を着込んだ京香が責めるように尋ねてくる。
「今は他に救わなきゃいけない世界があるんだよ」
パソコンの画面の中では、俺の操作するキャラが剣を振ってドラゴンを倒している。
「それに資料はもう片付けてあるだろ」
俺のもう一つの机の上には、仕事を終えた証拠が膨大な資料として存在していた。
「ところで透様、あそこの隅にある書物の山はなんですか?」
京香が指をさして尋ねた部屋の隅には、俺が学び終えた学術本が大量に積まれていた。
「ああ、あの本の内容はすべて脳内に記憶してあるから、捨てておいてくれ」
これだから自覚のない努力家は、といった具合に京香が深くため息を吐いた。それに伴って、清楚なメイド服が包んでいる大きな胸が揺れる。
……まったく、重力に逆らった反抗的な生意気ロケットおっぱいだぜ。
将来は、京香の大きなおっぱいが垂れないように両手で支える仕事に就きたいです。
「そういうことでしたら、この書物、すべて捨ててしまってもよろしいですか? しかし保存しておけば急事の際に確認できるのでは?」
「別にいいよ。今どきネットで調べられる。欲しいならその本は京香さんにあげるよ」
俺の言葉を聞いてなお、京香は少し納得のいかない様子だった。
「必要ないものを持ち続けていると、新しいものを取り入れるときに邪魔になるんだ。いらなくなったものは躊躇なく処分する、それが俺の考えだよ」
「それは物ではなく、人であってもでしょうか?」
「大丈夫だ、京香さんだけは見捨てない。だから、京香さんも俺を裏切らないでくれ」
その言葉を皮切りに、しばらくの静寂が訪れ、俺が椅子に座ってゲームをするためにキーボードを叩く音のみがこの空間を支配する。
「あ、そうだ。京香さん、今……何か欲しいものはありますか?」
「いえ、特に何もいりません。透様のお側にいられれば、私は幸せですから。強いて言えば、透様――あなたが欲しいです」
「……へ?」
「やはり、一介の使用人では、ご主人様の一番にはなれないのでしょうか?」
音もなく俺の背後に回った京香が両手を首に回して、はむっと俺の耳たぶを咥える。
「ふぅ~~~。透様ぁ、もっと私に構ってください♪」
「ひゃあっ! ぁんっ……急に息を吹きかけるな! あと耳元で喋るなぁ!」
「ふふっ、申し訳ございません。おふざけがすぎました。それにしても、可愛い悲鳴でしたね。ちょっと興奮してしまいましたよ」
そう言って、京香は朗らかに笑いながら踊るように距離を取る。
「ところで透様。私はあなたに告げなければならないことがあります」
「な、なんだよ?」
「明日から三日間ほど、私は九条邸を留守にします」
「それは二週間前にも聞いたよ」
確か軍の演習の手伝いだったか、自身の戦闘感を鈍らせないための短期集中鍛錬だったか、里に帰っての秘密特訓だったか、その他いろいろのどれかだ。
「私が不在の間、透様は規則正しい生活を送ることができるでしょうか? いや、できないに決まっています!」
「……なぜ反語?」
「ただでさえ、透様はされることが多いのですから、時間が空いたときにしっかり休んでいただかなくては困ります」
京香が俺に説教をする中、チャットのフレンドリストからメッセージが届いた。
トードー【ルートさん、今から少しどうですか?】
この『ルート』というのは、俺のネトゲ内でのプレイヤーネームだ。透をカタカナにしてトール。それを逆さにして『ルート』。そして、この『トードー』という人物が、俺のネット内での最も友好の深い人物であり、その付き合いは半年以上に渡る。
MMORPGを始めてすぐに、俺は『トードー』と出会い、『トードー』もこのゲームを始めたばかりということで意気投合し、知り合いとなった。
驚いたことに『トードー』はゲームやアニメに漫画だけでなく、政治や経済、数学に自然科学や物理などにも異常に詳しく、ゲーム以外のことでも会話が弾んだ。
その経緯から、俺は『トードー』のことをかなり頭が良い人物だと踏んでいる。
「今からどう? ねぇ……」
パソコンの画面には、23時59分と表示されている。……よし、まだいけるな。
「透様……まさか、今からゲームを続けるつもりじゃありませんよね?」
一段と低い声を放つ京香のほうを見ると、折れたシャーペンの芯でも見ているような目を俺に向けていた。……おい、それが仮にも主に向ける目か?
「あなたには睡眠時間が不足しています! そんなことだから背が伸びないのですよ」
「……ぐっ、お前もか!」
詩乃に続いて京香まで。今日の俺は背が低いことを馬鹿にされる日なのだろうか。
「今日は身体測定でしたよね? それで、何センチだったのですか?」
「…………164センチ」
「伸びたのは1センチですか……。ふっ、このままでは希望はありませんね。ちなみに私は165センチです。まぁ、小さい透様も可愛くて好きですけど」
「鼻で笑うな! というか、京香のほうが1センチ大きいだと!?」
薄々気づいていたが、まさか背の高さで負けているとは思いたくもなかった。
「背を少しでも伸ばそうという意思があるのなら、午後十時から午前二時の間の睡眠は欠かせません。こうしている間にも、その時間は過ぎているのですよ」
京香がパソコンのディスプレイを指す。そこには0時01分と表示されていた。
「……わ、わかったよ。京香さんの言うことを聞けばいいんだろ」
俺もまだ背を伸ばすことを諦めてはいない。ここは京香の言うことに従おう。
ルート【悪い、今日はちょっと用事があって無理だ。すまない】
トードー【わかりました】
トードー【明日少々話したいことがあるので時間を空けておいてくれませんか?】
ルート【了解。明日の夜は空けておくよ】
少し逡巡したのち、俺はそのメッセージを返すと、パソコンの電源を落とした。
「これでいいのか?」
「はい。それでは、今日はお疲れの様でしたのでゆっくりと休んでください」
そう言って、京香は背を向けた。俺は、そのときふと気になったことを京香に問う。
「なぁ、京香さん。今日の身体測定で日頃の鍛錬の成果か、体重が五十九キロまで増えたんだけど……京香さんって何キロ?」
その不用意な発言が京香の癇に障ったらしく、鋭い眼光で睨み付けられた。
「その質問は、主としての命令ですか? そうだと言うのでしたら、答えますけど」
いつもと同じ笑顔のはずなのに、妖しく光る双眸だけが怖い。完全に目がイってる。
「い、いや、別に、体を鍛えている者として、参考までに訊いてみただけっていうか、答えたくないなら答えなくていいっていうか」
なんでこの俺が、使用人相手にビビらなければならないのだろう。
京香は詩乃と違って胸もあり、筋肉もしっかりついている。おそらく本当に重いのだろう。京香の場合、おっぱいだけで二キロ以上はあるだろうし……
「興味本位で女性に体重を訊くのは、あまりいいことではありませんよ」
京香が暗い笑みを浮かべて俺に顔を近づける。
「あと、透様はこれからも日々鍛錬を怠らないことです。今の体重から1キロでも減った場合……殺しちゃいますよ♪」
耳元でかなり物騒な脅しをかけられた。それも、俺の身体に染み込ませるようにゆっくりと口元を動かして。そして、京香は何もなかったかのように扉に向かい、
「では、透様。おやすみなさいませ」
満面の笑みで扉を閉めた。……怖い! 本当に怖い!
もう二度と京香に体重の話をふることはやめよう。
「でも、あと1キロでも俺の体重が減ったらってことは、京香の体重はごじゅうは――」
思考の途中で扉が開き、隙間から感情を失った京香の顔が半分覗いた。
瞳孔が開き、光を失った暗い瞳がこちらを凝視している。
「変な詮索をした場合も殺しますから。その後はホルマリン漬けにして大切に飾ります♪」
「………………はい、ごめんなさい」
再び音を立てて扉が閉まる。
「もう、考えるのはやめよう」
その後、俺は明日の学校の準備をして、寝る前に積まれた漫画の山から一冊抜いて読もうとした。しかし、その途中で京香の言葉を思い出し、
「仕方ない、今日は寝るか」
大人しく布団を被り床に就いた。俺はどんなに疲れていても安眠することができない。
夜に一人で眠ろうとすると、頭の中にいる蟲が煩く騒ぎ、気が狂いそうになるのだ。
愛に飢え友情を欲し救いを求める弱い自分と、孤独と戦い精神を鋭く研ぎ澄ませる強い自分が脳内で共存していて、互いのアイデンティティーを奪い取ろうと鬩ぎ合う。
もしかしたら、俺はもう狂っているのかもしれない。
次回は京香視点のちょっとエッチな話です(笑)