006話 九条透と九条宗司
その後、九条邸に帰宅した俺は、自室の風呂に入って汗を流した。
そして父さんと九条グループの業務連絡をするために、食事をする部屋へと向かう。
俺と父さんは打ち合わせのために、たびたび夕食を一緒にとる。
だが、この食事をしながらの対話というのは『ランチョン・テクニック』という立派な心理操作の一つである。これは食事中に相手と交渉をするという手法で、そのときに聞いた話や一緒にいた人間のことを、美味しいものを食べるという心地よい感情に結びつけることで、相手に好感を与えさせる『連合の原理』というものだ。
一階にある食事室に着くと、すでに父さんは椅子に座っていた。
端整な顔立ちをした中肉中背の男。自宅にいるというのにきっちりとした服装をしており、顔には黒いサングラスをかけている。俺と接するときはいつもそうだ。
整った身だしなみからは、俺なんかとは馴れあいなどしないという強い意思を感じる。透過度の低いサングラスは、俺の『洞視眼』対策だろう。
父さんの周りでは、九条邸の使用人たちが着々と食事の準備をこなしていた。
俺は縦に長い長方形のテーブルを挟んで、父さんの対面の席に座る。
その際に、同伴していた京香が椅子を下げて俺をスムーズに座らせた。
「京香、下がれ」
「かしこまりました。失礼いたします」
自然と冷たい声が出た。今からする会話に、彼女を参加させることはできない。
俺と父さん、九条透と九条宗司。二人だけの対話なのだ。
食事を運び終わった使用人たちも、父さんの合図で皆一様にこの部屋から出ていった。
「いただきます」
俺も父さんも、しばらくは無言で食事を進める。
「……ん? これはクルミのトリュフチョコレートか?」
俺は半分くらい夕食を食べ終えた辺りで、その横に置かれたデザートの存在に気付く。
「確か、クルミの花言葉は、知性、謀略、知恵、野心。なぁ、父さん、これってまるで九条家の人間を表しているみたいじゃないか?」
「どうだろうな。私は花言葉なんて知らん。そんなものを覚えて何か得があるのか?」
「いや、俺はただ、花が好きなんだ。美しく咲いて、儚く散っていく花が」
「……そうか。ところで透、お前に任せた仕事はどうなっている?」
「それなら大方片付けたよ。今日のうちに見直して資料として出しておくから」
「わかった」
手短なやりとりのあと、再び静かな空間に食器がこすれる音だけが鳴る。
「我が九条グループは、年々その勢力を拡大してきている。それは、お前の『能力』によるところも大きい。よくやっているよ、お前は」
父さんからかけられる上辺だけの褒め言葉。
「これからも頑張ってくれ」
頑張れ……か。無責任な言葉だ。しかし、それでも俺はそんな父さんに笑顔を向ける。
「ありがとう。九条グループにとって、今が重要な時期なのは分かっている。俺もできる限り父さんの力になるよ」
俺の張りぼての笑顔に、父さんは気づいているのだろうか?
それはない。なぜなら、父さんが興味を持っているのは俺じゃないからだ。
「ついては、お前に二週間後の社交界に参加してもらう。今まで以上の超大物が来るそうだ。準備は入念にしておけ」
……またか。しかし、そろそろ俺の野望を叶える足がかりとして利用できるだけの力を持ったやつと会える可能性が高い。社交界に参加する人間の大抵は、積んだ経験を生かすことのできない生きる価値のない老害だが、ごく稀にいる切れ者は相当厄介になる。
「お前の『能力』が必要だ。頼んだぞ」
父さんにとって、必要なのは俺の『能力』であって、俺自身ではない。
俺のことなど、せいぜい自分の役に立つ道具としか見ていないだろう。
――だが、それは俺も同じことだ。
九条宗司――お前は俺の目的を果たすための、駒の一つにすぎない。
「……わかったよ。そっちは俺に任せてくれ」
短い話し合いが終わると、俺は早々に食事を済ませてSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を飲み、その場を後にした。