幕間Ⅲ 黛京香 Vampire
白麗院の最終攻防から五時間が経過したころ。
ロングスカートを穿いて、頭には純白のカチューシャをつけたセミショートの髪を持つ、メイドのような風体をした女性が、朝日が昇る前の崩れ落ちた校舎を眺めていた。
彼女の名は黛京香。そして彼女が命を捧げた主の名は九条透。
実は、彼女はおよそ一時間前にもこの場所に来て、この惨状を目にして把握している。
三日前。京香は九条邸を出て、秘境とも言える電波の通じない里へと帰郷していた。
そして、彼女が帰ってきて目にした惨状は、九条邸の崩壊と炎上の跡、どこにも見つからない主の姿。急いで彼女は透の影を求めて白麗院へと向かった。
しかし時すでに遅し。京香が白麗院に辿り着いたときには校舎は半壊し、警察が事件の後処理をしていた。京香はテロリストに囚われていた生徒の中から必死に透の姿を探したが、結局彼の姿を最後まで見つけることができなかった。
だから、彼女は一度白麗院を後にし、九条邸の裏にある森へと向かったのだ。
そこはいざというとき、自分の身に何かあったときに訪れてほしいと、過去に透から言われていた場所だった。目印となる大きな岩を人外の怪力でどかし、少し大きめの箱を空けると、中から一冊の分厚いマニュアル本のようなものが出てきた。
その本には、黛京香の主である九条透が、自身の身に何かあったときの対策方法がびっしりと何パターンも想定され、京香が取るべき行動が書き記されていた。
本当に几帳面なのだか、神経質なのだか、心配性なのだか。京香は主の記した本を大切にめくっていく。そしてあるページに差し掛かったとき、その双眸は大きく見開かれた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【第××項・九条邸に異常が発生、もしくは崩壊し、その場に俺がいない場合。そしてさらに姫宮詩乃の家にも白麗院にも俺の姿が見当たらず、生死の確認が取れない場合。
――――俺、『九条透』は死んだことと見なす。
これにより、現時点で『黛京香』は『九条透』の使用人兼ボディーガードから解任。その結果、二人の主従関係も破棄されるものとする。さらに、俺と昔交わした約束の数々も反故にして構わない。『黛京香』は今日から完全に自由の身となるのだ。
退職金を×××の××に隠してあるので、それを回収したのち、今後は闇の世界から足を洗い、光の世界で幸せになってほしい。そう生きてくれることを、俺は強く望む。
本当は、俺が京香も幸せにしてやりたかったけど、それは無理そうだ。すまない。
そして最後にもう一つ。俺の行方を捜したり、俺を殺したやつに復讐しようなどとは決して考えないこと。これは命令だ。お前は自分のことだけ考えて、前に進めばいい。
その先の未来にある、幸せを掴んでくれ。
京香さん、今まで俺に付き合ってくれてありがとう。貴女が側にいてくれたから、俺はここまで頑張ることができました。さようなら、どうか幸せに生きてください】
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
京香はその本のページを勢いよく引き裂いた。
「あっ、ああぁあ! 透様……あなたはいつか、こうなることを予期していたのですね。本当にあなたは、手を回すのが早いお方だ。……透様、透様、透様、透様ッ!」
開いた口から覗く、鋭く尖った二本の牙が輝き、妖艶な長い舌から一筋の涎が垂れる。
そして、その怒り狂った両目は、本来青目の部分が真っ赤に染まっていた。
背中からはメイド服を突き破って、蝙蝠のような二つの黒い翼が生えている。
赤い瞳に黒き翼。鋭く尖った銀色の牙。その姿は、まさに『亜人』。
伝説上の生き物である――『吸血鬼』の象徴。
透は一つだけミスを犯していた。京香に自分のことを探すな、復讐をするなと書いたのは、京香を自分の従者から解任すると書いた後の文だ。
つまり、文の最初で自由の身となった京香がどのような行動を取ろうが、透にそれを誓約で抑え付けることはできない。少なくとも京香は、勝手に都合よくそう読み取った。
「透様、私の透様……私だけの透様。私は透様の身を守る盾となり、透様の夢を叶える剣になると約束した。私は我が主に身も心もすべて捧げたのだ。私のすべては透様のモノ。透様に尽くし、透様のためだけに生きる」
京香の歪な独占欲が闇に渦巻いていく。これが彼女にとっての愛の形だった。
「……できない。透様を見捨てて私だけ幸せになるなんて。そこに私の幸せはない」
京香は透を深く愛している。狂おしいほどに愛しすぎてしまっている。彼を取り戻せるのなら、自分のすべてを失っても構わない。その覚悟が彼女にはあった。
「私の身も心も、すべては透様のもの。そして透様の身も心も、それはすべて私のもの。私たちは二人で一つ、一心同体なのよ。透様には私が、私には透様が必要なの」
それは契約。彼女が己の魂に誓った永遠の理。誰にもその契りを引き裂くことはできない。どんな手段を用いてでも、取り戻してみせる。
「透様は誰にも渡さない。透様は私のモノだ。返せ、返せ、返せッ!」
今、彼女は崩壊した白麗院を、鬼のような形相で鋭く睨み付けている。
その顔は、彼女の本性を剥き出しにしていた。
おそらくあれは、何者かの戦いの跡。そしてその何者かに、京香の大切な主が含まれていた可能性は高い。校舎の崩落は、透の手によるものに違いないと京香は確信している。
「透様……相手が誰であろうと、私はあなたを絶対に取り返しますから。待っていてくださいね、必ず、必ず迎えに行きますから。私の透様を……私だけの……」
京香は唇を噛み締め、豊かな胸元から一枚の写真を取り出した。そこには透が京香の膝の上で、他の誰にも見せないであろう安らかな寝顔で映っている。透のその顔を見ることができるのは、京香だけの特権であった。この写真は彼女の大切な宝物の一つだ。
「――取り戻す。だって、透様を幸せにできるのは、私しかいないから……」
邪悪な笑みを浮かべ、京香は止めどもなく溢れ出る『吸血鬼』の衝動に身を焦がす。
「透様には幸せになってもらいたいと思っている。これは本心だ。でも、その役は……透様を幸せにするのは、私でありたい。他の人にそれを奪われるのは、我慢できない」
赤黒いブラックバカラ――通称、黒薔薇を崩れ落ちた白麗院に捧げた。
「ブラックバカラの花言葉は、憎しみ、恨み、あなたを呪う、束縛、永遠の死、永遠の愛、そして――あなたのすべてはあくまで私だけのもの」
京香の血のように赤い瞳が、激しい嫉妬と憤りに燃える。どんなことをしてでも、必ず透を取り戻してみせると強く誓った。己の身と心と魂に刻み込むように。
その端正な顔を歪な独占欲に深く染めて。
「私は透様の一番になりたい。胸が苦しいの。壊したいほど――あなたのことが好き」
白い肌に深く食い込んだ爪の跡がいつまでも消えない。
木の下には埋められずに済んだのかしら……?




