001話 九条透と黛京香
……ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ――
目覚まし時計のアラーム音で目が覚める。
「……クソ、もう朝か。……早いな」
枕元にある電波時計を見ると、時刻は午前七時を示していた。
昨日、俺が寝たのは深夜の三時。睡眠時間は四時間といったところか。
上半身を起こして、ぼうっと部屋を見渡す。相変わらず高校生の自室にしては無駄に広い部屋だ。机の上に置かれたパソコンにはディスプレイが三画面もあり、見る者にこだわりを感じさせる。部屋の隅を見れば、ごちゃごちゃといろんな物が積まれていた。
それはゲームや漫画にラノベ。俗に言う、オタクが好むとされているもの。
「あとで片付けないと。京香さんに怒られる」
昨日も夜中まで深夜アニメを見ていたら、いつの間にか午前の三時になっていた。
無駄に大きいキングサイズのベッドから降りて、シンプルなデザインのパジャマを脱ぎ、白いワイシャツを羽織って、黒い制服のズボンを穿く。
今日は俺が通っている、私立白麗院学院の始業式だ。『院』が二回続いて言いにくく、生徒たちは『白麗院』と縮めて呼んでいる。
俺はそこの高校二年生へと学年が上がり、後輩ができるわけだ。
だが、どの部活にも所属していない俺にとって、それはあまり関係のないことだった。
部屋の隅にある洗面台に行き、顔を洗って寝癖を直す。ゴージャスなことに、この部屋には小さな洗面台だけでなく、ユニットバスとトイレまであった。それも、トイレ及び洗面台を浴室内に設置できるタイプの三点ユニットではなく、それぞれが分かれている。
俺の父――九条宗司は、国内有数の企業体『九条グループ』の現会長だ。
父さんは日本経済界の上層部におり、今もその勢力を伸ばし続けている。
俺は、その九条宗司の長男というわけだ。そのせいで社交界にも参加させられている。
男にしては長い髪を整えながら、俺は洗面台の前にある鏡を覗き込んだ。
自分で言うのもなんだが、ある程度整った顔立ちをしていると思う。よく女と間違えられるのは不服だけど。父さんと母さんも外見だけは良いから遺伝だろう。
欠点といえば、少し背が低いことだ。……実は結構気にしている。
目にかかる長さの青みがかった黒髪に空虚な黒目。目元にも濃い隈ができている。
鏡の中の自分と目が合う。その瞳に光はなく、腐った海のように濁っている。
俺が自身の左目に意識を集中させると――左の瞳の色が、黒から紫へと変化した。
右目は黒色のまま、左目だけが妖しく紫水晶のような輝きを放っている。
――七年前。あの少女に出会ってから、俺の『能力』はオン・オフの切り替えができるようになった。そして、その『能力』自体も少し変化している。
左目に意識を集中させることで、左目のみ瞳の色が変わり、俺の左目と目を合わせた者の思考を俺は読むことができる。以前は出ていた蜘蛛の巣状の不気味な模様も消えた。
目の色が変わることに昔は気持ち悪さを感じていたが、アニメや漫画を好きになった今では結構気に入っている。その目の名を、俺は『洞視眼』と呼んでいる。
なぜ右目は『能力』が機能しなくなったのかは分からないが、無差別に人の思考を読むのではなく、対象をピンポイントに定めるせいか、以前よりも対象の思考を深く読むことができるようになった。最初はもうこんな力など使うことはないと思っていたのだが――
――コンコンと部屋の扉を叩く音が、俺の思考を遮った。
「……誰だ?」
「京香です。入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
俺の返答を受けて、声の主が扉を開いて部屋に入ってくる。
「おはようございます、透様」
優雅な佇まいで一礼して姿を見せたのは、清楚なメイド服に身を包んだ一人の女性。
艶やかで匂い立つような美しい色気がある。
黒のロングスカートに真っ白いエプロン。頭には純白のカチューシャを乗せている。
長い睫毛に細い眉。大きな瞳に桜色の唇。左目の下にある泣きぼくろがなんとも言えない妖艶さを醸し出していた。艶のある烏羽色の黒髪はセミショートでサイドが後ろ髪より長く、シャギーの入った肩にかかる横髪の隙間から、形の良い小さな耳が見える。首回りには布製の白いフリルが付いた黒いチョーカーをしており、それがまた良く似合っていた。
腰に伸びたラインはきゅっとくびれていて、長いスカートの下に隠されているが豊満なお尻は肉感的で、グラマーな大人の女性を想起させられる。
自然とメイド服の上からでも分かるほど大きな胸の膨らみに目が行くが、その身体が厳しい鍛錬によって鍛え上げられていることを、俺は知っていた。
「透様、能力を使用しておられるのですか?」
俺の目が紫色に変化していることに、京香が目ざとく気付いた。
京香の綺麗な青い瞳と目が合い、俺の頭に京香の思考が直接流れ込んでくる。
《今日も透様は可愛いなぁ。それにしても、朝から能力を使われるなんて……少し心配です。長時間使用しては、また以前みたいに頭痛を起こしてしまいますよ。……あ! 今日は始業式だから、能力が通常通りに機能するか確認をしているのか……でも――》
自分の思考が筒抜けになっているというのに、京香からはそのことに対する嫌悪感が一切なかった。京香は俺の『洞視眼』のことを知る、数少ない人間なのだ。
黛京香。歳は俺より一つ上。今年十八歳になる。本来なら高校三年生だ。
しかし高校には通っていない。嫌いな食べ物はニンニク。苦手なものは陽の光。
京香は俺に仕えてくれている専属メイドで、彼女の父はフリーの傭兵をしており、彼女が幼い頃から世界を飛び回っていたそうだ。京香は八歳まで母と暮らしていたが、その母が病で死んでしまい、それからは父と一緒に世界を旅していた。
京香が産まれる前から傭兵だった京香の父は、病気の妻の医療費を稼ぐために多くの戦場に参戦していたのだが、そのせいで妻と娘に寂しい思いをさせてしまったと妻が死んでから気付き、そのことを嘆いた。京香は父と一緒に行動する中で、同年代の子供が絶対に経験することのないことを体験し、幅広い戦闘知識を身に付けたらしい。
中学生になってからは普通に学校へと通い始めるが、京香はその生活に物足りず、片っ端から世界にある、あらゆる戦闘術を極めていった。
中学三年生になった頃、京香は傭兵稼業を続けていた父の死を知り、天涯孤独となる。
京香は住み込みで働けて、それでいて女子中学生でも雇ってくれる、さらには自分の力を生かせる職場を求めた。その一つがボディーガードだ。その際、俺の父さんが探していた九条家のボディーガード候補リストに入り、京香のデータが俺の目に留まった。普通なら書類審査で落とすところを、俺は京香の若さと美しい容姿に惹かれ、身寄りがないことに同情しつつ、面白半分で実技試験、すなわち戦闘力を見てみることにした。
そこで京香は圧倒的な戦闘力を示して見せた。こいつがいれば大の男数十人に囲まれても安心できる。そう思わせるだけの凄まじい実力を彼女は持っていた。
最初は九条家のボディーガードだったが、やがては俺専属のボディーガードとなり、その後も紆余曲折を経て、今では俺の専属ボディーガード兼専属メイドとなっている。
この九条邸で俺が信じられる人間は、黛京香しかいない。
彼女は人を愛し抱擁し、清濁併せ呑む器の大きな心を持っている。だから京香がボディーガードだけでなく、メイドの仕事もしてくれることは非常にありがたかった。
「……すまない。京香さんには、この力を使わない約束だったな」
左目に手を当て、集中させていた意識を拡散させる。
横目で睨むように鏡を見ると、俺の左目は元の濁った薄汚い黒色に戻っていた。
「いえ、別に私は透様に知られてやましい感情などありませんので」
「ふっ、そうは言っても、他人に自分の頭の中を覗かれるのは、気持ち悪いだろう?」
自嘲ぎみに笑う俺に、京香はゆっくりと頭を下げた。
「お気遣い感謝致します。しかし、私にはそのお気遣いよりも、透様に信用されているということがなによりの幸せなのです」
その言葉は少しおおげさに聞こえるかもしれないが、決してそうではない。
なぜなら、俺が心を許している人間は、この世界でたったの二人しかいないからだ。
「では、朝食の準備をしますので少々お待ちください」
京香は一度部屋を出て、朝食の乗ったサービスワゴンを押しながら再び入ってくる。
テーブルの上に、京香がテキパキと朝食を整えていく。その作業を眺めながら、俺は制服のブレザーを羽織り、背中まで伸びる後ろ髪を紫色の紐でくくった。
京香が朝食と一緒に持ってきた新聞を読みながら、俺は朝の食事を軽く済ます。その間ずっと、京香は静かに部屋の隅に佇んでいた。これがいつもの朝の風景だ。
京香と出会ってから、もう二年以上の月日を共にしていた。
朝食を食べ終わると、学校に行く準備を素早く済まして部屋を後にする。
「いつもより少し早いですね」
長い廊下を歩く俺の後ろから、京香が話しかけてきた。
「今日は始業式だしな。それに初日から遅れるとあいつがうるさいし」
「姫宮さんですか?」
「そうだよ。俺に世話をやいてくるのは、あいつと京香さん以外いないからね」
あいつの話をすると、京香はいつも不機嫌になる。口調に変化はないが少しだけ表情がこわばるのだ。それも付き合いの長い俺ぐらいしか気づかない些細な変化だが。
広々としたロビーを抜けて玄関で靴を履きながら、今度は俺が京香に問う。
「父さんは?」
「昨日からお帰りになっていませんね」
「……そうか」
別に珍しいことではない。普段から朝食も一緒にとることはないのだから。