チェシャ猫曰く、「行くアテ、あります~?」
しかしもちろん、周囲が霞むように白い霧で覆われると、否応なく貴時も異変に気付く。
未だに声に出して要望をガンガン述べていたのだが、尋常ではない有様に気付き、「うっ」と声が洩れた。
「き、霧がっ。しかも、なんだこの濃い霧!」
足を止めて叫んだ直後、「いや、これはある意味、予定通りなのだ」とようやく思い出した。あまりにも胡散臭い唐突さだったので、とっさに思い出さなかったのである。
「そうだ……上手く望む世界と繋がった場合、橋は濃い霧で覆われるって澄人が言ってたよな。なら、これでいいんだ……うん、これでいい……なんの問題もない」
自分に言い聞かせながら、ビクビクと歩く。
なにしろ、半端なく濃い霧で、眼前に手をかざしてもよく見えないほどなのだ。
足元も見えなくなっていて、雲の上を歩いているような不安感があった。
それでも、貴時は「引き返そう」とは金輪際思わなかった。
両親が離婚前で帰る家があるならともかく、今や、慣れ親しんだ元の日常にはどのみち戻れない。
どれほど怖じ気づこうが、先へ進むしかないのだ。
(大丈夫だ……俺は大丈夫。試みは上手く行ってる……現に、霧も出てるし)
心の中で言い聞かせつつ、どんどん先を急ぐ。
やがて、深夜だったはずなのに、なぜか周囲が明るくなり……そして、踏みしめる足元の感触が、明らかに変化した。
どう考えても、今歩いている場所は、鉄製の橋じゃないような気がする。
この感触はどう考えてもアスファルトとか、そういう安定したものの上で――
貴時の脳内がグルグルしている最中、今度はまた、呆れるほどのスピードで濃霧が晴れていき……そして、不意に周囲の景色が明らかになった。
「うおっ。い、いつの間にか昼間にっ」
貴時が愕然として叫んだ途端、背後から声が掛けられた。
「はぁい、お一人様、ごあんな~い!」
……ふいに昼間になっているのは置いて、いきなり声がかけられ、貴時が驚かなかったといえば嘘になる。
どころか、跳び上がるほどたまげた。
「だだだっ、誰だっ」
喚いて振り向くと、女の子が立っていて、二度びっくりである。
しかもこの子、どう見ても普通の子ではない……メイド服を着ている、という部分はまだわかる。ふわふわしたピンクヘアなのも、まあギリギリわかる……ここは秋葉原であり、メイド喫茶の勧誘員を務める女の子は、だいたい歩道の隅にメイド服着て立っている。
ピンクのウィッグをしてるケースだって、ないとは言えまい。
しかし……それ以前に、この子は人間ではなかった。
頭の上にピンと立った猫耳がついていて、しかも尻尾までふわふわ動かしているとなると、もはやホモサピエンスとは言えないはずだ。
「ね、猫耳がっ」
「うんうん。なんと、尻尾も生えてますぜ、お客さんっ」
にぱっと笑ったメイドさんは、笑顔で頷き、わざわざ白い尻尾を振ってくれた。
どうでもいいが、なんというハイテンション!
「ここへ来た人って、あたしを見た途端、みんなだいたい、同じこと言うんだぁ~。さすがのチェシャ猫も慣れちゃいましたぁ!」
「チェシャ猫っ。不思議の国のアリスに出てくる、あのチェシャ猫?」
「迷い込んだ人のうち、日本人はだいたい、そう言うのねぇ。でも、残念ながらあたしが元いた世界では、そんな物語はないのでした、残念! チェシャ猫は、あたしの本名にちなんだ通称ですよ~。はい、それよりお客さん、ご自分の意志でこの幻想の秋葉原へ?」
「え、そ、そりゃまあ……自分の意志だけど?」
答えつつ、貴時はようやく周囲を見渡すだけの余裕が生まれた。
今、自分が立っている場所には、見覚えがある。
ヨドバシカメラのでっかい建物も向こうに見えるくらいで、間違いなく秋葉原駅のそばにある空き地である。
地図には「秋葉原川跡」と載ってるが、日頃、よくホームレスな人達が、すぱすぱタバコ吸って休憩してたりする。最近、工事が入って綺麗になった。
「いやでも……なんか違うな……こんなに歩行者少なくないし……それに駅が古ぼけてるし、この隣にあったメイド喫茶がない!」
……代わりに、得体の知れない同人誌ショップがあるっ。
看板に「秋葉原初の、メイドのみに特化した同人誌のみを厳選っ」とあるが、そんな狭い範囲を攻めて、売れるのだろうか……。
「――じゃなくてっ」
呆然としていた貴時は、ようやく我に返った。
「こ、ここって――」
「さぁて、お仕事お仕事っと!」
貴時と同時に、チェシャ猫がチビた鉛筆をナメた。
いつの間にか大判のメモ帳を出して、なにやらメモっている。
「お客さん、行くアテあります~?」
「うっ」
……異世界に着いたばかりで、行くアテなんてあるはずない。