それは、お金が招いた友情の結末。
文学フリマ短編小説賞が執筆のきっかけになればと、筆を執った次第です。
一週間くらいで書き上げられると思っていたのに、まさか、一か月近くかかるとは……
金曜日の朝のこと、登校をした俺を待っていたのは、1枚の1000円札だった。
昇降口で下履きから上履きに履き替えようとした時のことだ。上履きを靴箱から取り出し、それを地面へ置くと声が掛けられた。
「古谷くん。これを受け取って」
上履きと下履きとを持ち替えようと前屈みになった体を起こしてから振り向く。
靴は下に置いたままだ。片づけるためにまた屈まないとならないのは面倒だと思いながら、振り返った先には、クラスメイトの加藤くんがいた。両手で握った1000円札を胸の前で差し出している。本当は手放したくないのだろう、肘を直角以上に曲げているため肩と手の距離が近い。
クラスが同じなだけで、まともに話もしたことがない加藤くんがいったい何だろう。悪戯か。だとしたら質が悪いのだけど。
「お母さんに渡すように言われたから、はい。」
俺の反応がないことで不安に駆られたのか、両手を突き出した。俺の目の高さにまで1000円札を上げる。俺は視界が遮られる程に近くに差し出されたことに顔をしかめた。肘が完全に伸びきっているため、顔に当たらないようにする配慮なのか手首が上に曲げられていた。
俺には、どうして1000円札が差し出されているのかがわからなかった。唖然として何の反応もできない俺だったが、加藤くんの次の言葉で理解をする。
「これだけなんだけど。昨日のお礼だから、受け取って」
昨日と言われてすぐに思いついたのは、カツアゲの現場だった。
それは、昨日の放課後の出来事だ。たまたま通りかかった渡り廊下で加藤くんが、壁に寄り掛かる隣のクラスの奴らにお金を渡していた。相手は3人だ。おそらくは、カツアゲの場面だったのだろう。ほとんどの生徒が部活に勤しんでいる中でこいつらは何をやっているんだと思ったものだ。そして、部活に遅れる口実ができたとばかりに声を掛けたのだった。
「こいつがくれるって言うから貰ってただけだ、お前には関係ないだろ。」
と、かなり自分勝手な言い訳をしていた。こういった分別のない奴らを俺はどうしても許せなかった。でも、相手は3人。喧嘩をしても勝ち目はないだろう。幸いにも、3人の生徒は一様に壁に寄り掛かるようにして立っている。加藤くんだけを連れて逃げることはできそうだった。
俺は、カツアゲをしている生徒に渡されそうになっているお金をひったくると、加藤くんの手を引いて逃げた。俺たちを追ってくる様子はなかったが、加藤くんがすぐに下校できるようと昇降口までやってくる。
「あの……」
「早く、帰ったほうが良いよ。さっきの奴らが来る前にさ」
加藤くんが何かを言うために口を開くが、俺は無視をした。少しでも早く帰ったほうが良いと思ったからだ。加藤くんの靴箱から、下履きを取り出す。
「部活の方には、帰ったって言っておくよ」
だから、早く帰るようにと促すと背中を押した。加藤くんの所属する剣道部と俺の所属するバスケ部は、どちらも体育館で練習をしている。加藤くんは、申し訳ない様子で何度か振り返りながら歩く。何度も早く帰るようにと強めに念を押してから、部活へと向かった。
改めて、1000円札を突き出す加藤くんを見る。お礼が欲しくてやったわけじゃないんだけど。
「古谷くん。お母さんがどうしても渡せっていうんだ。」
必死に訴える加藤くんの手を両手で包むように握る。受け取ると思ったのか、加藤くんの表情は、嬉しそうなものへと変わる。ごめん、違うんだ。俺は、握った手を押し返す。軽く突き飛ばすように距離を取ってから靴を拾い、靴箱へしまう。
「そんなことのためにしたわけじゃないから」
加藤くんに向き直った俺は、しっかりと目を見て告げる。それから、教室へ向かうために歩き出した。
教室へ向かう間も、加藤くんは1000円札を握ったまま付いて来た。何度も受け取ってとか、お母さんに言われたとか、しつこく言われたが全部、無視をした。教室に着くと加藤くんも自分の席へと向かったようだった。
だから、諦めたと思っていたのだが、加藤くんは、授業の合間の休み時間に隙を見ては話しかけてきた。お礼を受け取れと言うのだ。始めは、受け取れないと断っていたが、午前の授業が終わるころには、逃げるようになっていた。
「いつの間に加藤と仲良くなったんだ」
と、友人に言われてしまうくらいにはしつこかった。休み時間の度に加藤くんとの追いかけっこしていたため、気が付くと、俺は授業中にどうやって逃げるかを考えるようになり、その日の授業は上の空だった。 そのため、何度も注意される羽目になり、加藤くんに対して少しづつ怒りが湧いていた。
気が付けば放課後。俺は、加藤くんに声を掛けられる前に部活へと向かう。バスケ部の俺と剣道部の彼は、練習場所が体育館のため完全に避けることはできない。でも、部活中に声を掛けられることはないだろうと思っていた。
実際に声を掛けてくることはなかったが、視線を感じて振り返ると、必ず、加藤くんと目が合うのだった。
「加藤くん」
部活を終えて、帰ろうとしていた所を呼び止められた。俺を呼び止めたのは加藤くんだった。下校時間ぎりぎりまで練習をするバスケ部に対して、剣道部は下校時間の30分前には下校してしまう。だから、とっくに帰ったと思っていた。加藤くんは、1000円札を持っている。
「どうしても、お金を受け取って欲しいんだ」
「何度も言っただろ。いらないんだよ」
1000円札を差し出そうとする加藤くんの手をつかんで押し返そうとする。今度ばかりは、加藤くんも力を入れて押し返してくる。
「お母さんが渡せっていうんだ。お願いだから、受け取って」
お母さんに怒られちゃうと、加藤くんが今までより強く力を込めてきた。また、お母さんか。一日で溜まった怒りが急に大きくなった。母親に言われたことしかできないのかよ。
「何かあれば、金か。金で解決するのか」
気が付けば、棘のある荒々しい声を発していた。それだけではない。つかんでいた加藤くんの腕を引っ張る。近づいてきたところで、力一杯に押し返した。引っ張られて少し体勢の崩れていた加藤くんは、踏ん張ることができなかったのだろう。押された勢いで尻餅を着いた。
「そんなんだから、カツアゲされるんだろう」
加藤くんが倒れるのを尻目に見ながら、俺は帰ろうと歩いた。帰り道、突き飛ばしたのはやりすぎだったかも、と思ったが全部、しつこく付きまとう加藤くんが悪かったのだと思うことにした。
翌日。
希望した生徒だけが参加する土曜の課外授業が半日行われる。どこかの有名な塾の元講師による授業が行われる。その塾のことも、講師のことも、課外授業をする以上のことを俺は知らなかった。
「勉強ができない奴は、バスケも上手くならない」
と言う、バスケ部顧問の意向によって、俺たちバスケ部は、強制的に参加させられていた。文武両立を目指すらしい。その割には、学校が決めた部活時間の規定の域を大幅に過ぎた活動が行われている。
土曜日まで学校で授業などという苦行を乗り切った俺は、バスケ部の仲間と昼飯を食べようと話をしていた。この日は、顧問の都合で部活が休みになったのだ。
校門の前で、部活仲間が来るのを独りで待っていると、1台の黒い車が俺の近くに止まった。課外授業を受けた誰かの迎えだろう。
「古谷くん」
車の方を気にしながらも、仲間を待っていた俺に、声が掛けられた。車の方からだ。車の窓が開けられて中から加藤くんが手を振っている。加藤くんを見て、嫌な予感がした俺は校舎へと戻ろうとした。
「古谷くん。ちょっと待ってよ」
加藤くんが降りてきて俺の腕をつかんだ。振りほどいて逃げようかと考えていると、車の運転席からサングラスを掛けた男が降りてきた。成人男性の平均よりやや高い身長の男は、見ただけで鍛えられたとわかる引き締まった肉体の持ち主だった。
「僕のお母さん」
「はぁ?」
馬鹿にしているかと言いかけたが何とか飲み込んだ。どう見ても男にしか見えない。お母さん。父親の間違いだろう。俺は、呆気に取られてしまった。
「息子からあなたに迷惑をかけたと聞いたので、直接、誤りに来たの」
加藤くん曰く、「お母さん」が、男としか思えないような低くしわがれた声で話す。絶対に「お父さん」だろ、と心の中でだけつぶやいた。突然、加藤くんの母親が現れたことで動揺していた俺は、気が付いたら1000円札を手渡されていた。加藤くんの母親は俺の手を握っている。
「ごめんなさいね」
俺の手を放すと1歩下がってから加藤くんの母親は微笑んだ。手元を見ると1000円札が3枚も握らされていた。車へと戻る母子を見ながら我に返った。握った3枚の1000円札を返すために車に近づく。母子を乗せた車は、俺のことなど気にしていないと言う様にあっさりと発進した。
「おう、待たせたな」
車の去った方向をじっと見つめていると部活仲間がやってきた。仕方がない。次に会った時だ。明後日の月曜日に返せばいいと考えた俺は、3枚の1000円札をポケットへしまった。
加藤くん母子に渡された1000円札のことを気にしながらも、部活仲間とファミレスへと訪れた俺は、やるかたない思いを断ち切るように楽しい時間を過ごした。
しかし、帰ろうという頃になって、俺は財布を忘れたことに気が付いた。普段は、デイパックの外ポケットに収めている財布が入っていなかった。課外授業の合間にジュースを買った覚えがあるから持っているはずだと思い出す。学校に忘れたらしい。心当たりはある。課外授業の始業にぎりぎり間に合わなかったために机の中に入れたはずだ。財布は、後で取りに行けばいいだけだ。問題は支払いをどうするかだった。
そこで、俺は3枚の1000円札を持っていることを思い出す。この1000円札に手を付けることに抵抗があったが、お金を払わないわけにはいかない。
多少の罪悪感を感じながら俺は加藤くん母子に渡された1000円札を使ってしまった。
忘れ物をしたからと、部活仲間と別れ学校へと向かう。学校へたどり着くまでの間に加藤くん母子に渡された1000円札を使ってしまったことに罪悪感が段々と高まっていき、激しい後悔に苛まされる。
学校で財布を見つけた時、1000円札を使ってしまった後悔が自責の念にとらわれ負い目へと変わった。誰かにお金を借りればよかったと思い至ったのだ。
「お金、返すから」
週明けの月曜日。加藤にあった俺は、1000円札を返そうと声を掛ける。
「お礼だから」
と、受け取ってもらえなかった。しかし、1000円札を使ってしまい、何かの枷が外れた俺は、幸いとばかりに加藤に1000円札を返すことをあきらめてしまう。
それからは、簡単だった。加藤は、なにかがある度にお礼だと言って1000円札を渡してくるようになった。
たとえば、球技大会。クラスを挙げて優勝に向けて練習をしていた時、加藤の投げたボールが顔面に当たり、鼻血が出る。すると、次の日には、お詫びだと言って1000円札を持ってきた。
この他に、テストの勉強を一緒にしたり、課外活動のグループに誘ったりしただけで、お礼だと言って1000円札を渡してきた。
そして、極めつけの出来事が体育祭の時に起こる。
それは、体育祭のメインイベントと言っても過言ではない騎馬戦での出来事だった。4人1組で騎馬を作るために俺と加藤とクラスメイト2人が組んでいた。俺は騎手として上に乗り、加藤は馬の後ろ、右側を担っていた。
騎馬の上に乗る俺は、相手の騎馬の騎手と組み合っていた。その時、いきなりバランスが崩れた。下で支えていたいたはずの馬が1人抜けたのだ。右の肩から地面に叩きつけられた俺は、騎馬の方を見上げる。加藤が馬の組から1人、外れたところにいた。服で手のひらを拭っている。
「加藤。お前、何やってるんだよ」
起き上がりながら怒鳴る。肩の痛みがあったが怒りの方が上回っていた。
「手が汚れたから拭こうと思って」
加藤は、当たり前のように言う。ふざけるな怪我だけじゃ済まないかもしれないのにこいつは何を考えているのだ。
「加藤、ふざけるなよ。これじゃ、いつものお詫びは2倍だな」
怒りに任せてとんでもないことを言っていた。理性より怒りの感情の方が勝っていたため俺は気にも留めない。右肩を動かして確認をするが、たいしたことはない様だ。
「大丈夫か」
クラスメイトが心配をして声を掛けてくる。問題無いと答えながら、俺はクラスメイトとともに自陣へと戻った。加藤に言った2倍という言葉が俺の中で反芻する。加藤から1000円札をもらうことに慣れてしまった俺は、自責も後悔もなく金額が高くなるかもしれないことに、ただ、期待をしていた。
体育祭から数日後。
放課後の生徒が部活へと向かう時間に、俺と加藤は昇降口にいた。本当にいつもの2倍の1000円札を加藤は持ってきた。よっしゃ、何に使おうかな。
「体育際の時は、ごめんね」
加藤が謝る。そして、いつものようにお詫びだと1000円札を渡してくる。違うのは、2枚の1000円札があるということ。謝る加藤は俺の意識の外にいる。俺は、強く言ったらもっと金額が増すのではないかと考えていた。
「骨折してたかもしれないのにそれだけかよ」
実際に何ともなかった。骨折はしていないし、脱臼や内出血による青痣もない。あくまでも可能性の話だが、可能性がなかったわけではない。この時、俺は1000円札のやり取りに完全にマヒしていた。
「ごめんね。明朝、持ってくるから」
「あしたじゃなくて、今すぐ欲しいんだけど」
今日はこれだけしかないと2枚の1000円札をアピールする加藤に、イラついた俺は、加藤の胸倉をつかみかかった。加藤を殴るとかではなく、ただの脅しのつもりだったのだ。
「おい、何をやっている」
俺が加藤の胸倉をつかんだ瞬間に、声が掛けられる。そこにいたのは、若い国語教師だった。30代の彼は、どこにでもある熱血教師の学園ドラマにあこがれて教師を目指したらしい。誰かが通りかかるなどと思ってもいなかった俺は焦った。加藤がくれると言うから貰っているだけなのに、外から見ると俺がカツアゲをしているように見えるだろう。
「こいつがくれるって言うから貰ってただけで、別にカツアゲをしていたわけじゃ……」
この場を何とか切り抜けるために言葉を発した。これではまるで加藤と初めて話した時のカツアゲをしていた生徒たちと同じだと思い至るまで時間はいらなかった。これまで、当たり前のように1000円札を受け取っていたことが急に恥ずかしいことのように思われる。俺は、後悔に支配されていた。
「そうか、お前にも言い分があるんだな。どう見ても、カツアゲにしか見えんが」
若い国語教師は、俺たちの近くに歩み寄ると、加藤の胸倉をつかんでいた俺の手を解く。鋭い目が俺に向けられていた。終わったと思った。教師に見つかったのだ、たとえ、俺に罪過がなかったとしても処罰は免れないだろう。
「初犯みたいだからチャンスをやる。こいつは受け取るなよ。見過ごせなくなるからな」
若い国語教師は、俺と加藤の距離を広げるように間に入る。後悔と自責の念に包まれた俺は、自然と言葉を発していた。
「……すみません」
俺は、若い国語教師の顔を見ることができずにうつむく。肩に手が置かれた。目の前にいる国語教師のものだろう。気づけば俺は泣いていた。反省と名前を付けたら安くなってしまいそうな自分の感情に戸惑いながらも、俺は静かに涙を流した。
「よし。それじゃ、今日はいいから、帰りなさい」
この若い教師に促された俺は、靴を下履きに履き替えると外へ向かって歩く。少し後ろから足音が聞こえる。ほら、君も、と加藤が促されていた。
「君たち、何部だ?今日は、帰ったと顧問の先生に伝えておくから」
俺の背中に、国語教師の声が届く。しかし、俺は答えることも振り向くこともできなかった。
確認のために自分で読んでみたら、15分ほどで読み終えた。
執筆にかかった時間を考えると、なんだかやるせない気分になりました。
でも、フツーのことだよなぁ………