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短編

侵入

作者: nab42

 蝶番の甲高い音が聞こえた。

 音よ、出るな。お前が出てしまうと女が起きてしまうではないか。

 そう思いながらドアを開け、僅かに開けたその隙間から部屋の中へ忍び込む。右手に持っていた鞄を床に置き、徐々に開いていってしまうドアを抑えさせる。

 部屋の薄い橙色の明かりが、ドアの隙間から流れ出て、廊下の闇を照らした。だが、その光は弱々しいものだった。深海に引きずられる哀れな肉片のように、すっと力を失う。廊下の闇は次々にそれを捕食する。

 俺は女に近づく。ぐっすりと寝ている。最近は眠れない日々が続いていたようだ。ナイトテーブルには睡眠導入剤と、飲みかけの水が入ったコップがあった。

 俺はコップを手に取り、その水を飲んだ。そして、その水を口内で二回、三回と回し味わう。そして女を見ながらゆっくりと喉へと通す。食道を通り、胃に落ちる。少しずつ、少しずつ欲が満たされていく。同じ時間に欲はさらに、さらに大きくなる。

 コップのどの縁を使って、女はこの水を飲んだのだろうか。まぁいい。

 俺は舌で、コップの縁、それの内側と外側を入念に舐めた。唾が自然に出てくる。女の唇と舌、口内、歯並び、それら想像しながら、俺はそれを飲み込んだ。

 コップをナイトテーブルに置く。ゆっくりと慎重に。

 女が寝返りを打った。どきりとして、俺はナイトテーブルに隠れる。

 女は起きなかった。

 俺はほっとして、ナイトテーブルの影から出た。

 それにしてもナイトテーブルに隠れるなんて。隠れたって、女が起きてしまえば見つかるに決まっているのに。

 俺は女を見た。女は壁の方を向いている。黒よりも黒い髪が光を反射させている。美しい。俺はそっと近づき、小さく、本当に小さく、丁寧に髪の香りを吸引した。

 美しい。そう思った。これは美しい香りだ。間違いない。誰が否定してもこれは美しい香りだ。いや、誰が否定するのだ。これこそ最上級の香りだ。シャンプーだけではない、頭皮だけではない。この女の香りが混ざっている。バニラ。いや、チョコレート。いや、リンゴ。いや、なんだろうこれは。神。そう神。いや、愛。愛の香りか。

 俺は髪を触る。全身が蕩けそうになる。

 はぁ。なんということだ。

 心臓が動く。跳ねる。俺はそれを確認し、ベッドの上へそっと上がる。

 女の横顔が見える。肌が見える。耳が見える。瞑った瞳が見える。整えられた眉毛が見える。柔らかな流線の鼻が見える。潤った唇が見える。

 不思議な顔だ。昼間はただの主婦のようだが、夜は見違えるほど女らしく、艶めかしい。ああ、今すぐにでも俺の気持ちを知ってもらいたい。そう今すぐにでもだ。

 女を起こさないように、布団を少しだけめくる。

 白いパジャマに包まれている体の凹凸が、俺の心を抱きしめる。

 俺は頭を布団に入れた。そして――。

 いやいやいや。まだだ。まだ止しておこう。もっと、もっと熟してもらわないとこの女を本当に愛すことはできない。楽しみはまだあとだ。

 俺は頭を布団から出した。

 ダブルベッドの一方。そこにはいるはずの人物がいなかった。

 いつも、そこで寝ているこの女の夫。今日はたしか出張だった。もしかしたら不倫をしているのかもしれない。まぁ、そうだとしたら俺は嬉しい。女から離れてしまえ。離れろ。こいつは俺の女だぞ。永遠に帰ってこなくてもいいんだ。

 俺はベッドから降り、部屋を見まわした。部屋の隅には一人掛けの小さな椅子と、鏡台があった。いつも女が化粧をしているところだ。ブラシやつげ櫛が入った道具箱がその上にいつも置いてあるのだが……。

 俺は一つ見かけないものを、発見した。それはウサギやクマが可愛く描いてあるノートだった。

これはなんだろう。

 そう思い、俺はノートを手に取った。そして、表紙をめくった。

 暗闇とぼんやりとした明かりを持つ中途半端な部屋で、そこに書かれているものを読むのは苦しく、難しいことだった。だが、俺は目の焦点や光の調節をどうにか合わせ、それが何なのかを見極めた。そして見極めた途端、落胆した。それは子供の成長日記だった。

 俺が愛する女は忌々しいあの子供を愛しているのだ。なんて愚かなことだろう。あんな子供のどこに愛すべきところがあるのだろうか。

 昨日の日記にも書いているではないか。「もっと男らしくなってほしい」と。そう。あいつは全然男らしくない。

 昨日起きたこと。それは幼稚園で女の子に泣かされたこと。滑り台から落ちて泣いたこと。転んで泣いたこと。その度に母を呼んだこと。

 なんて女々しいやつなのだ。そして、母の顔を見ると、途端に笑顔になりあの豊満な胸に飛び込むのだ。いやらしく、なんて汚い。卑しい。汚らわしい。

 そして、あいつは弱いものに強い。空き地に落ちていたブロックを起こし、その下に寝ていたダンゴムシを拾い、それを川に投げるのだ。ダンゴムシの可哀そうなこと。なんて命の無駄なのだ。

 俺は思わずため息をした。ため息にはこれまで彼が殺した全てのものに対する謝罪を含ませた。どうか許してくれと。そして、いつかこの子供の命を俺が奪ってやると。その宣言も同時に吐いた。

 俺はノートを持ってドアへと向かった。そして、床に置いていた鞄にそれを入れた。

 こんなもの俺の女には必要ない。

 俺はもう一度寝室を見まわす。寝室へとやって来たのは、女の寝姿を確認するためだけではない。女のものを奪うためだ。

 首を回していると、クローゼットが視界にちらりと入った。だが、俺はそれを無視する。

 女のパンツや、ブラジャーなどいらん。いざとなればいつでも手に入る。その前に下着に食いつくなど、意味が分からん。なぜあんなものに興奮する輩がいるのだ。パンチラやスカートめくりというのも意味が分からん。あんなもの。どうせ誰のものを見たって興奮するのだろう? そんなやつらは腐っている。何が愛なのか、何が恋なのか、その差さえも分かっていない。そう、俺はそんなやつとは違う。もっと、もっとだ。愛している女の、心からの匂いがついたものではないと、見、触り、嗅ぎ、奪う意味がない。

 鏡台とは反対側にあった、木製の箪笥が俺の視界に入った。そして、その上に乗っていた人形が気になった。

 あれだ。あれがいい。たしか、あれは女が実家から持ってきたものだ。聞いたところによると、子供の頃から所持していたものらしい。

 俺は腕を伸ばし、人形を取った。ピンクの水玉模様のハットを被り、白い服を着せられている。目は黒々としていて、鼻はつんと立っている。肌は肌色の布でつくられていて、わずかにざらざらとする。

 俺は匂いを嗅いだ。少しだが女と同じ匂いがする。ほんの少し。俺にしか分からない、嗅ぎ分けられないくらいの微かな、そして、今の女よりも少し幼い女の香り。素晴らしい。三月から五月にかけての成長の香気だ。

 これだ、これを持ち去ろう。これはいい。本当にいいものだ。

 俺はすぐにドアへと向かった。そして、すでにノートの入っている鞄に人形を入れた。

 そのせいで鞄は満杯になった。ノートの端が少し飛び出ている。

 俺は立ち上がると、少し開いたドアに手を置いて、暗闇による光の捕食を止めさせる。その時、蝶番は少しも音を出さなかった。

 女が起きることはない。そのことに俺は安心した。

 俺は一階へと続く階段に意識を向かわせた。

 一階からは何の音もしなかった。台所から冷蔵庫の音が聞こえるか、いや聞こえないか。そのくらいだった。泥棒や侵入者が動き回る気配はなかった。

 今日もこの家は安全だ。

 俺は廊下を進み、寝室の隣にある子供部屋のドアをゆっくり開けた。寝室と違い、少しの明かりもなく、真っ暗だ。

 だが、暗闇に慣れた俺の目は、部屋にある物の位置を正確に確認した。

 部屋に入り、寝ている女を起こさないように注意してドアを閉める。

 そして、女の物が二つも入っている小さな鞄を机の上に置いた。

 明日、女はどう思うだろうか。きっと大切なもの二つがなくなったと驚き悲しむだろう。そして、その二つが自分の息子の部屋から見つかる。ああ、なんてことだ。君の気持すごく分かる。ごめんよ。でも、俺は君を愛したいんだ。誰にも取られたくないんだ。

 君は息子を叱る。息子は「自分は何もしていない」と本当の嘘を吐きながら女々しく泣く。俺はそれを息子の内側から見ている。

 ああ、あと何年だ。あと何年。あと何年すれば、この息子は熟すのだ。君を喜ばせることができる体が備わり、愛の一部を放出できるものを持つのだ。ああ、堪らない。待ち遠しい。待っていられない。

 俺は吐き場所のない欲望と期待、そして興奮を胸にベッドに入った。今はまだ何も為さないものが上を向く。

 朝になれば俺は息子と入れ替わる。息子が寝れば俺は彼に侵入し、罠をしかける。わけが分からないまま母や父に叱られ、彼の心は病んでいく。そうすればいつの日か、女が愛する愚かな息子はいなくなり、女は俺を愛すようになるだろう。



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