第3話 声だけのはずだった
ノートPCが届いた日は、思っていたよりそわそわした。
箱を開けて薄い本体を持ち上げ、机の上に置く。起動して初期設定を済ませる。アカウントを作る。配信アプリを入れる。そこまではいい。そこまではただの作業だ。通販で買った家電を箱から出して設定しているのと大差ない。
問題はその先だった。
配信開始ボタンが、ある。
当たり前だが、ある。
押せば始まるらしい。誰かが入ってきて聞く。コメントもする。たぶん。理屈では分かる。アプリなんだからそういうものだろう。でも、自分がその「始める側」に回ると妙に現実感がなかった。
「……たかが雑談だろ」
自分に言い聞かせる。
ゲーム実況でもない。歌うわけでもない。特技披露でもない。ただ、ちょっと誰かと話したいから、声だけで雑談配信をやってみる。それだけの話だ。
それだけの話なのに、始める前の感じが妙に会議に似ていた。
まだ誰も何も言っていないのに勝手に身構えて、始まった瞬間にどうでもいいところで噛みそうになる感じ。会社員時代、オンライン会議に入る前の数分がだいたいこれだった。
「会話するだけだぞ、俺」
もう一度言う。
大丈夫だろう。たぶん。
配信名を入れる。初回なので、ひねる余裕はない。雑談、初めてです、そんな感じの無難な文にした。アイコンもまだ設定していないので初期のままだ。どうせ最初はほとんど誰も来ないだろうと思うと、そこに力を入れる気にもならない。
マイク設定を確認する。音量を上げ下げする。イヤホンも挿す。顔出しはしない。そこは最初から決めていた。というか、そこまでやる気はない。今日はあくまで会話の練習だ。声だけで十分である。
深呼吸する。
開始ボタンを見る。
また深呼吸する。
「……やるか」
押した。
配信が始まる。
始まったはいいが、始まったから何だという感じでもあった。画面はついた。配信中の表示も出ている。コメント欄もある。でも当然、最初は何もない。静かだ。部屋の静けさが、そのまま画面に移動しただけみたいだった。
「えーと……こんばんは?」
言ってみる。
自分の声が少し遅れて返ってくる。妙な感じだ。音がちゃんと入っているのは分かったが、それ以外はよく分からない。
視聴者数の表示は一人。
それが自分なのか、誰かなのかも分からない。
「初めてなんで、たぶんいろいろ怪しいですけど……まあ、少し喋れたらいいなと思って始めました」
このくらい言えばいいだろうか。いや、もっと何かあるのか。こういう時、配信慣れしてる人は何を話すんだろう。いらっしゃいませとか言うのか。雑談枠ですとか言うのか。分からない。
分からないまま画面の端をいじっていて、ふと違和感を覚えた。
何か、画面が明るい。
コメント欄を見て納得した。
【顔出てる】
【映ってるよ】
【声だけじゃない】
【カメラついてる】
「は?」
思わず変な声が出た。
画面を見直す。
小窓の中に、自分の顔がいた。
「え、ちょっと待て。なんで?」
慌てて設定を開く。カメラオン。しれっとオン。
なんでだ。いや分かる。たぶん俺がやった。設定を触った流れで、そのまま入ったに決まっている。
「うわ、最悪。いや最悪ではないけど、予定と違う」
【草】
【設定そのまま触ったな】
【慣れてない感すごい】
【そのままでもよくない?】
コメントが少し増えている。
妙に落ち着いていた。
もっとこう、「男が顔出してるぞ」みたいにざわつくのかと思ったが、実際は拍子抜けするくらい穏やかだった。もちろん珍しがってはいるのだろうが、事故扱いされつつ、そのまま様子見されている感じだ。
「いや、声だけの予定だったんですけど」
【今知ったの面白い】
【初配信っぽくていい】
【隠すほどではない顔してる】
「最後のやつ、評価に困るな……」
言ってから、少しだけ空気が緩んだ気がした。
コメントが返ってくる。
また返す。
たったそれだけなのに、さっきまで一人で構えていた感じが少しずつ抜けていく。
【初配信?】
「初配信です」
【何歳?】
「二十歳……らしいです」
【らしい?】
「ちょっと事情が複雑で」
そこは曖昧に笑ってごまかした。
本当のことを言っても通じる気がしない。三十五歳会社員だった俺が、起きたら二十歳の男になっていました、なんて話を、初配信の三分で出すわけにもいかない。
【その声でその顔なんだ】
【思ったより落ち着いてる】
【初なのに静かでいいね】
「静かなのは、たぶん慣れてないだけです」
でも、その返しにすぐコメントがつく。
【それでいい】
【むしろその感じがいい】
【無理にテンション高くないのいいね】
そう言われると少し気が抜ける。
雑談配信というものは、もっと何か喋り続けなければいけないのかと思っていた。芸人みたいにずっと面白いことを言うとか、配信者っぽくテンポよく回すとか、そういうものが必要なのだと勝手に身構えていた。
でも、そうでもないらしい。
コメントが来る。読む。返す。その間に少し間が空く。また何か来る。返す。
それで会話になっていた。
不思議なものだ。
視線は画面の文字に向いているのに、ちゃんと人と話している感じがする。
【趣味ある?】
「趣味……」
少し詰まる。
趣味と聞かれて、すぐにこれですと出せるものが今の俺にあったか。前の人生では、あったはずだ。ゲームもやったし、動画も見たし、アニメも見た。でも最後の方はどれも、追いつけなくなるものになっていた気がする。
「昔はいろいろ見たりやったりしてたんですけど。最近は忙しいとそれどころじゃなくなるじゃないですか」
【二十歳のコメントじゃなくて草】
【人生二周目感ある】
【言い方が少し疲れてる】
【見た目若いのに中身落ち着きすぎ】
「否定しにくいな……」
笑う。
自然に笑った。
その瞬間に、自分でも少し驚いた。
初めての配信で、顔も事故で出ていて、見知らぬ相手に見られているのに、不思議と嫌ではなかった。むしろ返事があるのが妙に楽しい。
【彼女いる?】
「急にそこ聞く?」
【初対面だと聞きやすいし】
【顔出しだと気になる】
【いなさそう】
「最後の決めつけは何なんだ」
【じゃあ、いる?】
「……いません」
【素直】
【好感度】
【今の間は何】
【盛ろうか迷った?】
「盛っても意味ないだろ、ここで」
コメント欄が少し流れる。
その流れを見ているだけで、自分の部屋に一人でいる感じが少し薄くなる。
気づけば、最初の緊張はだいぶ消えていた。
もちろん会話が完璧に回っているわけではない。沈黙もある。コメントが止まる時間もある。そのたびに何か喋った方がいいのかと考えるが、焦って変なことを言うより少し待った方がましな気もした。
だからそのまま待つ。
待つと、誰かがまた書き込む。
【仕事してるの?】
その質問に、少しだけ間が空いた。
「してないです」
【学生?】
「いや、それもたぶん違います」
【たぶんって何】
【設定がふわふわしてる】
【でも生活感ある】
「生活感はあるのか……」
【ある】
【なんかちゃんと暮らしてそう】
【配信慣れしてないのに、部屋の空気だけ生活してる】
「褒められてるのか分からないな」
けれど、その言葉は少し残った。
ちゃんと暮らしてそう。
それはたぶん、今の俺に一番近いのかもしれない。何かを頑張っているわけではないし、まだ配信者でもない。でも一応、生きてはいる。生活はしている。画面越しに見えるのがそれなら、それでもいいのかもしれなかった。
気づけば、一時間近く経っていた。
最初は十分も持たないと思っていた。何なら開始前は、五分でやめてもいいと思っていた。なのに、話して、返して、また話しているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。
「……そろそろ、終わります」
【おつ】
【初にしてはよかった】
【またやって】
【次も来る】
【顔出し事故込みで面白かった】
「そこ込みにしないでほしいな」
最後の最後まで、事故は事故のままだった。
まあいいかと思う。今からなかったことにもできないし、思ったほど困るものでもなかった。
「ありがとうございました。来てくれた人は……まあ、ありがとうございました。また、たぶんやります」
挨拶として正しいのかは分からない。分からないが、今の俺としては精一杯だった。
終了ボタンを押す。
画面が静かになる。
部屋も、また静かになった。
さっきまで文字が流れていたせいか、誰かが向こうにいた感触だけは残っている。
配信画面の記録を見る。
同時視聴は十人前後。
「十人か」
多いのか少ないのかは分からない。
ただ、ゼロじゃなかった。
誰も来ないかもしれないと思っていた場所に、ちゃんと人がいた。入ってきて、見て、喋って、返してくれた。たったそれだけのことなのに、思っていたよりずっと効いた。
机にもたれながら、少しだけ笑う。
「……これ、普通に楽しかったな」
部屋はまだ静かだった。
でもさっきまでとは違う。
画面越しでも、ちゃんと会話になる。
それが分かっただけで、ノートPCを買った意味は十分あった気がした。
もう一度、配信アプリを開く。
終了した枠の記録が残っている。コメント欄も、視聴数も、開始時刻も、終了時刻も、全部数字になっている。小さい。かなり小さい。けれど、ゼロではない。
誰かが、画面越しに確かに俺を見ていた。
そう思うと、次もやってみるか、という気持ちが自然に出てきた。
たぶんこれなら、もう少し続けられる。
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