第2話 理想の怠惰は、三日で終わる
初日は、かなりよかった。
目覚ましが鳴らない朝というだけで、ここまで人は機嫌よくなれるのかと思った。いや、昨日も鳴っていないのだが、あれは状況確認で終わったのでノーカウントだ。今日が本番である。
何しろ、起きなくていい。
この一点が強い。
目が覚めてもそのまま布団の中で転がっていられるし、二度寝しても誰にも怒られない。起きる理由がないというのは、こんなに自由なのかとちょっと感動した。三十五歳会社員だった頃の俺に教えてやりたい。たぶん泣く。
腹が減ったので起きる。
冷蔵庫を開ける。昨日見た通り、中身は生きるのに困らないセットだった。パックご飯、卵、飲み物、簡単な惣菜。とりあえず適当に食べる。味は普通だ。でも、朝から会社へ行く前に流し込む飯と違って、ちゃんと椅子に座って食っていいだけでだいぶうまい。
食べたあと、スマホを見る。
動画アプリを開く。適当に流す。通販サイトも見る。ニュースも少しだけ見る。時間を気にしなくていいせいか、どれも妙に長く見てしまう。途中で眠くなったので、そのままベッドに戻って昼寝した。
最高だった。
昼寝から起きてもまだ誰からも何も言われない。チャットも来ない。電話も鳴らない。今日中にやらなければならないことが何一つない。
「これだよな……」
思わず口に出た。
たぶん昨日までの俺がずっと欲しかったのは、こういう日だ。寝たいだけ寝て、食いたい時に食って、だらだらして、少し眠くなったらまた寝る。何の生産性もない。だからこそいい。
夕方になってもその感想は変わらなかった。
窓の外を見て、暗くなってきたなと思う。だから何だという話でもない。夜になったからといって、明日の労働が近づいてくるわけでもないのだ。
風呂に入って、また少し動画を見る。ベッドに寝転がって天井を見る。
静かだ。
でも初日は、この静かさも悪くなかった。むしろ、平日の夜に部屋へ帰ってきた時みたいな疲れた静かさではなく、最初から何も始まっていない静かさだった。
それはそれで、新鮮だった。
翌日も、かなりよかった。
起きる。二度寝する。起きる。腹が減る。冷蔵庫を開ける。食う。スマホを見る。寝る。
理想の怠惰って、たぶんこういうやつだ。
動画を流しながら、途中で通販サイトに飛ぶ。生活用品や服を眺める。男性生活サポートだの支援ポータルだのの通知も来ていたが、まだ大きく困ることはない。とりあえず読めばいいだけだし、読まなくても今日すぐ死ぬわけではない。
外に出ることも、少しだけ考えた。
コンビニくらいなら行けるだろうか、と。
でも、そのためには外出ガイドを読んで、推奨時間帯を確認して、必要なら同行サービスを見て――と、何となく手順が多そうだったのでやめた。
「今日はいいか」
今日はいい。今日は。
だって部屋の中だけでどうにかなっている。配送枠もあるし、通販もあるし、冷蔵庫にも最低限のものは入っている。生きるだけなら、本当に困らない。
実際、その日も困らなかった。
昼過ぎにまた眠くなって寝た。夕方に起きた。何か食って、動画を見て、まただらだらした。
かなりいい生活だと思う。
思うのだが、夜になったあたりで少しだけ時間の感覚が変になってきた。
今日やったことを思い返す。
寝た。食った。見た。寝た。
「……まあ、そうなるか」
悪くはない。
悪くはないのだが、なんとなく、同じ色の時間がべたっと伸びている感じがした。
三日目の朝、目が覚めて最初に思ったのは、また今日も昨日と同じか、だった。
そこではじめて、ちょっと嫌な感じがした。
起きる。飯を食う。動画を見る。横になる。たぶん今日もそうなる。何なら、その次の日も同じだ。
いい生活のはずなのに、三日目にして輪郭が見えた。
見えた瞬間に、ちょっと飽きた。
「早くないか?」
自分でも思う。
理想の怠惰、短命すぎるだろ。
もっとこう、二週間とか一か月とか持ってもよくないか。昨日までの俺は、働きたくない気持ちに関してはかなり本気だったはずだぞ。
それでも、部屋の中を見回した時に少しだけ圧を感じた。
広くはない。狭すぎるわけでもない。必要なものはある。整っている。でも整いすぎてもいる。
ベッド、テーブル、棚、キッチン。動く範囲が決まっている。生活導線が綺麗すぎる。たぶん、ここで何日も何日も同じことをしていたら、部屋の中の往復がそのまま一日になる。
動画アプリを開く。おすすめが流れてくる。面白そうなものもある。あるのだが、三本見たあたりで、もう次を選ぶのが面倒になる。
スマホを置く。天井を見る。
静かだ。
そこでようやく、足りないものが何となく分かった。
人の声がない。
いや、動画の中にはある。ニュースにもある。配信にもある。そういう意味ではずっと流れている。
でも、それじゃない。
こっちに向いた声がない。
自分に返ってくる会話がない。
「……ああ、これか」
少しだけ腑に落ちた。
俺はたぶん、何もしないことが嫌なんじゃない。働きたいわけでももちろんない。そこは誤解されたくない。できれば今後も働かずに済むなら、その方がいい。
ただ、何もせず、誰とも話さず、同じ部屋で時間だけが過ぎていくのは、思ったより長く保たないらしい。
働きたくないと、何もしなくていいは、たぶん少し違う。
そこを混同していたのかもしれない。
その日から数日は、だいたい似たような感じで過ぎた。
食う。寝る。動画を見る。通販サイトを眺める。たまに支援ポータルを確認する。また寝る。
生活は困らない。本当に困らない。そこはすごい。制度としてかなり完成していると思う。文句を言う筋合いもない。
でも、満たされるかと言われると少し違った。
時間が余っているのに、やることがない。
自由なのに、広がっていかない。
その感じが、思ったよりじわじわ来る。
一週間くらい経ったところで、俺はようやく認めた。
「俺、ニート向いてないな……」
働きたいわけじゃない。そこは本当に違う。
ただ、何もしないことに才能がない。
会社員をやっていた頃は、休みさえあれば何とかなると思っていた。休めれば回復するし、休めれば気分も戻るし、休めればまた耐えられると、そういう考えでいた。
実際、休みは大事だ。
でも、休みだけあってもダメらしい。
何もない日が延々続くと、それはそれで、時間の方がこちらに圧をかけてくる。
変な話だった。
労働から逃げたい気持ちは本物だったのに、逃げ切った先で困るとは思っていなかった。
じゃあ、何が足りないんだろうと考える。
仕事ではない。外出でもない。いや、外に出た方が少しは気分が変わるのかもしれないが、今すぐそこへ行きたい感じでもなかった。
もう少し手前だ。
もっと軽いもの。
もっと小さいもの。
しばらく考えて、たぶん会話だな、と思った。
誰かと少し話す。返事が返ってくる。しょうもないことでもいい。自分が何か言って、向こうが反応する。そのくらいのやり取りが、今の生活には妙に足りていない気がした。
そこで初めて、配信アプリの存在を思い出した。
ホーム画面に入っていたやつだ。
開いてみる。雑談配信、ゲーム配信、作業配信。いろいろある。顔出ししているやつもいれば、声だけのやつもいる。コメントが流れて、配信者が返して、またコメントが流れる。
これ、会話じゃないか。
いや、厳密には少し違うのかもしれないが、今の俺にはかなり近く見えた。
稼ぐとか、有名になるとか、そういうことはまだ考えなかった。そこまで大げさな話ではない。もっと単純で、もっと情けない理由だ。
ちょっと誰かと話したい。
それだけだった。
「……これでいいのか?」
自分に聞いてみるが、他にもっと立派な理由もない。
じゃあ、これでいいか。
必要そうなものを考える。
スマホだけでもできなくはなさそうだが、どうせなら少しはまともにやりたい。画面も見たいし、コメントも拾いたい。そうなるとノートPCくらいはあった方がよさそうだった。
通販サイトを開く。
価格を見る。今の口座なら問題なく買える。すぐ買える。
「会話するためだけに買うの、ちょっと面白いな」
でも、そのくらいの理由の方が今はちょうどいい気もした。
俺はしばらく画面を眺めてから、ノートPCを注文した。
注文完了の表示が出る。
たったそれだけなのに、さっきまでより少しだけ部屋が狭くなくなった気がした。
気のせいだろうけど。
ベッドに寝転がってスマホを置く。
ノートPCが届いたら、やることがある。
そう思ったら、今日はもうそれで十分だった。
たくさんの評価、ブックマーク本当にありがとうございます。
皆様のおかげでモチベーションがとてもあがります!!!




